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聖ピオ十世会総長のフェレー司教講話:教会の状況及び聖ピオ十世会とローマとの関係(1)

2009年03月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2008年2月17日に聖ピオ十世会総長のベルナール・フェレー司教様が、聖ピオ十世会アメリカ管区の聖イグナチオ黙想の家(コネチカット州)でなさった講話をご紹介いたします。


教会の状況及びローマとの関係


 皆さんは多くのご質問や話題にご興味があることだと思います。特に、教会の状況及び私たちとローマとの関係についてはとりわけそうであることでしょう。そこで私は今回、これらのことを取り上げてお話してみたいと思います。してみたい、と申し上げるのは、何故なら状況は単純ではないからです。

 教会の状況と状態はますます複雑で多岐にわたってきています。モートゥー・プロプリオ、つまり、2007年7月7日のベネディクト十六世教皇の自発教書の発表以前、私たちは幾つかの原理原則を守るために闘ってきました。この点については、モートゥー・プロプリオの前後では同じで何も変わってはいません。しかし、モートゥー・プロプリオは、決定的に、多くの人々をして状況は今ではもう同じではないと考えさせるようにしました。そこで、モートゥー・プロプリオ以前と以後とで変わったことと変わらなかったこととを考察することにしましょう。


背景: 第二バチカン公会議

 モートゥー・プロプリオ(2007年7月7日のベネディクト十六世教皇の自発教書)の価値をもっとよく理解するために、過去を返り見て、自発教書がどのような状況で発表されたかに注目しなければなりません。

 簡単に言うと、第二バチカン公会議は教会の血液の中に多くの観念を導入する事件でした。

 公会議の開かれるまでは、大学及び神学校でひそかに培養されていた新しい観念に、教導権は対立して戦い、断罪して来ました。

 しかし公会議はそのような観念を、特にこれに付いてきた精神を「合法化」してしまいました。
 それにしたがってその観念は、公式的に教会の血液の中に入って来たのです。
 これが危機の中でも一番有害な側面です。

 公会議に参加した人々の中で一番重要な人々名前は、公会議の開かれる約十年前に異端説などで断罪された事がある司祭及び高位聖職者たちの名前なのです。これを知ると、本当にびっくりします。

 1950年に、教皇ピオ十二世は現代の誤謬に関する回勅である Humani Generis を発表しました。指摘された誤謬の中には自然的秩序と超自然的秩序の間を混同する間違いがありました。主張者の名前は言及されませんでしたが、この回勅の直前に一イエズス会司祭は『超自然』という題の本を出版しました。この本の中では、自然的秩序と超自然的秩序との二つの秩序が混同されています。彼は 1950年に、フランスのリヨンでの教職を辞めさせられ、彼の本は禁書処分にされました。

 彼の名前は、アンリ・ド・リュバック (Henri de Lubac) といいます。 ド・リュバックは、第二バチカン公会議の時、極めて強い影響力を発揮した人と考えられています。 教皇ベネディクト十六世は、彼のことを自分に対してインスピレーションを与えて影響を及ぼした人物だと言っています。公会議が開かれる直前に異端説のために解任されたこの男は、公会議後に自分の神学のおかげで枢機卿になったのです。

 1952年には、後に公会議の最中にド・リュバックと似たような影響を与えたドミニコ会司祭が、『教会の真の改革と偽りの改革』という本を書きました。その本も禁書処分を受け断罪されました。この本の著者であるイヴ・コンガール (Yves Congar) 神父は追放され、教える事をやめなければなりませんでした。

 コンガール神父は後日、教皇自身によって第二バチカン公会議の顧問として呼び出されました。そのときにはコンガール自身の方がびっくりし、「私は断罪されたが、彼らが私を指名するのか?」と言うほどの驚きであった。当時、彼でさえも健全な反応を見せたのです。

 1954年には、或るアメリカ人司祭がアメリカで特に流行っている理論を弁護する文を書いてくれという頼みを受けました。これは政教分離に関するものでした。これはジョン・カートニー・マーレイ (John Courtney Murray) 神父で、彼も異端断罪を受けたのですが、彼の思想は公会議で「信教の自由」という名前で、一部よみがえりました。

 また他の有名なイエズス会士であるカール・ラーナー(Karl Rahner) 神父も、公会議の時にはあまりにも大きい影響を与えていたので、 Rahner locutus est、causa finita (ラーナーが話し、一件落着。本来なら「ローマが話し、一件落着」という)という新しい表現を作るほどでした。

 しかし、1960年代にはラーナーは、事前にローマの検邪聖省に提出検査を受けなければ、いかなる本を発行することが許されなった程、検邪聖省の要注意危険人物として考えられていました

 このことはローマが彼を危険人物だとして目を離さなかったということを意味します。ドイツの宰相であるアデナウアー (Adenauer) の仲裁で、彼に対する監視が終わりました。

 私たちはベネディクト会員 (OSB) で、エキュメニズムの父と考えられている、ドン・ランベール・ボドワン (Dom Lambert Beauduin) にも言及することができます。 彼は公会議の前に世を去りました。

 しかし、とても明らかなことは、第二バチカン公会議の時それこそこの上なく大きい影響を与えたその人々が、教皇ピオ十二世時代には教会の排斥され断罪と叱責を受けていたという事実です。

 典礼学者であると同時に新しいミサを作った者である有名なブニーニ (Bugnini) は教皇ヨハネ二十三世の統治下でさえも、自分の近代主義ゆえにローマで教える職務を強制的に退職させられました。彼は後に、教皇パウロ六世の呼び出しを受けて、とりわけ新しいミサなどを創りました。

 このことは、教会の中で、まったく非正常的な何かが起こったということを見せてくれます。

 私は、本当に、司教様たちの大部分は伝統的な考え方を持っていながら公会議に参加しながら、どうしてそのように態度を一変することができたのか、解き明かすことができません。
 公会議の準備中にローマに送付された質問表などを見ると、自分の羊の群れの救霊を望む司教たちの真実な心遣いを表明しています。それから五年後、それらはまったく変わってしまって、エキュメニズム、信教の自由及び司教団体主義などの新しい考えで満ちるようになってしまったのです。

 この世の中に対する態度が変わってしまいました。
 第二バチカン公会議までは、この世は、この世は救霊の敵であると思われていました。これは福音と一致する考えです。私たちの主は、天国に行く道は険しいと説教なさった一方、世の中は快楽と安楽な生活の幅広い道であると説教しました。公会議以後、すべてのキリスト者の生活はとても易しくなりました。

 公会議文献の中に、このことを厳密にそう書いてあると見つけるか否かにかかわらず、公会議文章はこの精神が入って来ることができるよう、多くの門戸を開いたままにしてあります。

 公会議は、極めて曖昧です。言い換えると、カトリックの色眼鏡をかけて見れば、公会議をカトリック的に解釈することができます。しかし他のいろいろな色眼鏡をかけて見ると、まったく違って解釈することができるようになるのです。

 これは曖昧な言葉の表現による問題です。皆さんは、公会議に明確・明快で正確な文言を期待しています。しかし、いくつかの明らかで明白な誤謬がいくつかあるほかにも、私たちは公会議文書に多くの曖昧な言い方及び多義的に解釈されることができる用語を見いだすのです。
(つづく)

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