アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちは「
第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?」で、「人間は天主によって「天主の似姿」に従って原初の義において創造された」というカトリックの真理を、聖伝によれば「人間は、至福直感によって天主の永遠の至福の命を得ることができる存在として創られた」という意味に理解していましたが、
第二バチカン公会議は「人間が自由であること、自由な選択によって行動すること」と理解していることを見ました。
従って「自律独立ということは天主の特徴である」というカトリックの真理を、カトリック聖伝によれば「天主の似姿にふさわしい人間の尊厳は、正しく自由を使うことによってのみ維持される」と理解してきましたが、
第二バチカン公会議は「どのような選択であれ、人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動すること」と理解していることを見ました。
更にこの「自由」について考察を深めていきたいと思います。 以下、箇条書きにしてみたいと思います。
【3】良心と人間の行為の自由
カトリック聖伝によれば、キリスト教の道徳秩序については、理性と啓示とによりキリスト教信者は教えられる。
キリスト教の道徳秩序は、キリスト教信徒たちを導き、個人の良心という手段によって彼らの行動についての実践的な判断をするようにさせる。
キリスト教の信徒の良心がふさわしく良く養成されるなら、選択の時に判断しなければならないことと天主の御旨に一致することとを見出させる。
(創世記3:7-10、創世記4:12以下、詩篇25:1-7、知恵の書12:18、ヨブ27:6、マルコ9:44-48、ローマ2:15、ローマ13:5、ローマ14:20-23、コリント前8:7-12、ティモテオ前1:5、ティモテオ前3:9、使徒行録24:16、ピオ十二世ラジオ・メッセージ1952年3月23日、ピオ十二世訓話1952年4月18日)
天主の御旨は、キリストの教えと教会の教導権により、聖霊の照らしを受けて、私たちに対して明らかにされるのであるから、良心は天主とキリストと教会との前駆者として確立される。
(ピオ十二世ラジオ・メッセージ1952年3月23日、ピオ十二世訓話1952年4月18日)
カトリック聖伝によれば、従って良心を正しく養成するために注意深く気をつけなければならない。正しい良心が形成されなければ、正しい生活もありえない。
良心が、賢明・真面目・誠実・真実へと形成されるためには、たとえそれが誠実なものであっても各々の好きなようにやりたいように信念に従ってなされてはならない。すなわち、良心は、現実に天主によって立てられた規律に従っていなければならない。
「超自然は自然を完成させる」が、超自然のレベルまで高められて、天主に従属することによって、良心は、キリストの御旨と教えと生活とによって明らかに示された天主の御旨を私たちに示してくれる。
従って、カトリックの聖伝によれば、良心の形成において、人間は自律的ではなくあくまでも天主の御旨に従属する。天主の御旨が人間の自由気ままな自分の思い通りに従うのではなく、人間が天主に従わなければならない。
(
グレゴリオ十六世回勅『ミラーリ・ヴォス』1832年8月15日、ピオ九世訓話『マクシマ・クイーデム』1862年6月9日、
ピオ九世『シラブス』排斥命題15、
レオ十三世回勅『リベルタス』1888年6月20日)
良心の形成のための基準は客観的な道徳秩序であり、純粋に主観的な思い込み・確信ではないということは、確立された基本原理としてどのようなときでも、つまり間違って形成された良心の場合にでも、守らなければならない。間違った良心の命令が、客観的な道徳秩序を変えることは無い。
地上に存在するあらゆるものは、天主に秩序づけられなければならない。天主に対する愛は、第一の、そして最大のおきてであり、天主の栄光ために、天主は被造物である人間を望まれた。
従って、あらゆる社会制度の起源、および究極の目的は、その創造主である天主であり、天主を究極の最高の共通善として追求することにこと、これに服従することにこそ、真の幸福がある。
従って、個人的良心の権利と自由と尊厳を口実に、この客観的秩序から人間を免除させることはできない。(ピオ十二世ラジオ・メッセージ1952年3月23日、ピオ十二世訓話1952年4月18日、
グレゴリオ十六世回勅『ミラーリ・ヴォス』1832年8月15日、ピオ九世訓話『マクシマ・クイーデム』1862年6月9日)
人間の本性においても、ペルソナとしての人間においても、天主と客観的秩序からから自律独立するような権利も、そのような自由も、そのような尊厳も、まったく存在していない。たとえ複数の人間が誤った原理やイデオロギーに導かれてこの反対を叫んだとしても存在しない。
(イノチェンテ十一世 Errores varii de re morali, 排斥命題4、1679年3月4日、DS2104)
天主の子供たちの真の自由と創造されたペルソナの真の尊厳は、天主への自由な従属・依存に存する。
従って私たちが「聖名の尊まれんことを」と祈るとき、天主の本性や実体に何かが加えられることではなく、天主の外的栄光がいや増さんことを祈る。すなわち、天国の諸天使諸聖人のように彼らに習って、私たちが言葉と行いとをもって天主に従属することである。
(
トレント公会議の公教要理)
第二バチカン公会議によれば、人間の良心こそ最高の法であって、人間は何もしなくとも自然と自分の内からの良心の声に聞き従うので、そのために人間は自由であれば十分である。
[現代世界憲章] 16(良心の尊厳)
良心は人間の最奥であり聖所であって、そこでは人間はただひとり神とともにあり、神の声が人間の深奥で響く。良心は感嘆すべき方法で、神と隣人に対する愛の中に成就する法をわからせる。良心に対する忠実によって、キリスト者は他の人々と結ばれて、ともに真理を追求し、個人生活と社会生活の中に生じる多くの道徳問題を真理に従って解決するよう努力しなければならない。正しい良心が力をもてば、それだけ個人と団体は盲目的選択から遠ざかり、客観的倫理基準に従うようになる。打ち勝つことのできない無知によって、良心が誤りを犯すこともまれではないが、良心がその尊厳を失うわけではない。ただしこのことは、真と善の追求を怠り、罪の習慣によって、しだいに良心がほとんど盲目になってしまった人にあてはめることはできない。
第二バチカン公会議によれば、キリスト者がキリストから啓示を受けた内容は、天主の御旨や天主の神秘ではなく、人間の神秘である。「超自然は自然を完成させる」が、キリストの啓示は人間の自由の尊厳であり、すべては人間に秩序付けられなければならず、人間は何にも従属する必要は無い。天主が聖とされるように祈るということは、すなわち、人間が聖とされることである。
[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。
[現代世界憲章] 12(神の像である人間)
地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならないということについて、信ずる者も信じない者も、ほとんど意見が一致している。
[現代世界憲章] 24(人間の召命の共同体性格)
神と隣人と[ソノママ]に対する愛は第一の、そして最大のおきてである。
そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物である人間。
25(人間と社会の相互依存)
あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間であり、また人間(ペルソナ)でなければならない。
カトリック教会のカテキズムによる「主の祈り」
Ⅰ み名が聖とされますように
2807 「聖とする」ということの用語は、ここでは、他動形の意味にとってはなりません。もし(〝他動形の意味にとるとすれば、神だけがものを聖とし、聖化させるという意味になります)。むしろ、評価を示す意味にとるべきです。すなわち、これは、聖なるものとして認め、聖なる方法でとりあつかうという意味です。そのために礼拝の時に、この願いは、時によって一つの賛美、一つの感謝の意味にとられます。
しかし、イエズスはこの願いを願望として教えてくださいます。すなわち、神と人間とどちらにも関係のある願い、望み、期待としてです。
わたしたちの父にむける最初の願いからわたしたちはおん父の神性の内密な奥義と、わたしたち人性の救いのドラマによって浸透されています。み名が聖とされますようにと 願うことで、わたしたちは神のご計画にまきこまれます。そのご計画は、「あらかじめ神が・・・たてておられた慈悲ぶかい計画であって、愛によって【人間を】ご自分のみ前に聖なるもの、汚れないものとするためです」。
2808 救いのご計画の決定的なときに、神は、そのみ名をお示しになりますが、それは、みわざを行うことをもってです。しかしこのみわざが、わたしたちのために、そしてわたしたちのうちに実現されるのは、そのみ名が、わたしたちから、そして、わたしたちのうちに聖とされるという条件によってのみです。
2809 神の神性は、神の永遠の奥義の、近づくことのできない中心です。創造された世界と歴史の中で、この奥義について示されることは、聖書から〝み栄え〝、神の威厳の発光と呼ばれています。
神は、「ご自分にかたどって、ご自分に似せて」(創世の書1・26)人間をお創りになるとき、人間に「栄光」の冠(詩篇8・6)をお与えになったのですが、人間はかえって罪を犯すことで、「神の栄光」(ローマ3・10)復元するために、ご自分のみ名を示したり、与えたりして、ご自分の聖性をお示しになっています。
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天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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