Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか

2009年03月28日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは自由について考察してきました。

 ジョージ・オーウェルの「1884年」流にいうと自由とは「2+2=4」であると言うことができるのが本当の自由であるけれども、

 現代のリベラルな思想家らは「2+2=5、あるいは10」ということが自由だと勘違いしているようです。


 さて、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?【1】人間の尊厳としての自由、および【2】人間の思想の自由では、次のことを見ました。


カトリックの真理「人間は天主によって「天主の似姿」に従って原初の義において創造された」を、

聖伝は「人間は、至福直感によって天主の永遠の至福の命を得ることができる存在として創られた」と理解。

第二バチカン公会議は「人間が自由であること、自由な選択によって行動すること、自然を支配すること」と理解。


また、

カトリックの真理「自律独立ということは天主の特徴である」を

カトリック聖伝は「天主の似姿にふさわしい人間の尊厳は、正しく自由を使うことによってのみ維持される」と理解

第二バチカン公会議は「どのような選択であれ、人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動すること」と理解。

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従って、人間の尊厳とは人間の自由な選択にある。この世界の支配にある。
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「自由主義」「活動主義」へ。



 さらに、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?その2【3】良心と人間の行為の自由では、次のことを見ました。

カトリックの真理「人間は良心によって行動を判断する」を
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カトリックの聖伝は「良心の形成のための基準は、客観的な道徳秩序であり、天主に秩序づけられて、天主を究極の最高の共通善として追求することにこと、これに服従することにこそ、真の幸福がある」と理解
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第二バチカン公会議は「人間は良心の声に聞き従うので自由であれば十分であり、地上に存在するあらゆるものの中心および頂点、あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間であり、人間に秩序づけられなければならない」と理解。


 つまり、

カトリックの真理「自由意志があって初めて功徳を積むことができる」を
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カトリックの聖伝は「客観的に正しいことに服従しこれを選ぶことによって功徳を積む」と理解
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第二バチカン公会議は「人間を頂点にして正しいことが何かを作り上げ秩序付けることによって功徳を積む」と理解。


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従って、良心の自由という名前で人間は好きなことを何でもすることができる。
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「不道徳」へ。


 さらに、


カトリックの真理「天主は完全であり、何も天主の本性や実体に何かが加えられることはない」を
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カトリックの聖伝は「天主の外的栄光はいや増すことができるが、内的栄光は変わらない」と理解
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第二バチカン公会議は「天主の外的栄光はいや増さない、全ての被造物は人間の栄光のためだけにある」と理解。

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従って、人間は全ての中心である。
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人間中心主義へ。



 さらに、

カトリックの真理「人間となった天主は、真の天主であり真の人間。御托身は私たち人間のためであった」を
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カトリックの聖伝は「私たち人間のため、私たちの救いのため propter nostram salutem」と理解
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第二バチカン公会議は「純粋に人間としての人間のため、人間に人間を啓示するため」と理解。

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従って、キリストは人間をもっと人間とするために人間となった。
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人間中心主義へ。



 では、私たちの視点を人間から、天主と人間との関係に動かしてみることにしましょう。

(2)第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったかを考えて見ます。以下、箇条書きにして見ます。

(2)人間と天主との新しい関係について

 真の宗教は三位一体の天主を礼拝するが、これは私たちの主イエズス・キリストを通してなされる。私たちの主イエズス・キリストは、天主と人間とを結ぶ唯一の仲介者である。私たちの主イエズス・キリストのいけにえだけが唯一、天主聖父に嘉されるふさわしい礼拝である。この真理における私たちの主イエズス・キリストの礼拝と宗教を実践するために、全ての人々は私たちの主イエズス・キリストの啓示を信じなければならない。

 そこで、
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か、
【2】第二バチカン公会議によれば新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」)とは何か、
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、
【4】第二バチカン公会議によれば、三位一体の天主と人間との関係はどうなるのか、
 を見てみよう。



【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か、

【啓示とは何か】

 カトリックの聖伝によると、啓示は人間の言葉によってなされた。天主からの啓示は人間の言葉で表現されている。言葉で表現された信仰箇条とカトリック教理つまり人間の言葉による諸命題は、無限の天主の神秘を全てくまなく語りつくすことはできないが、しかし私たちの霊魂の救いのために天主の神秘を知りそれを信じるのに十分なものである。


 第二バチカン公会議によると、人間の言葉で表現された信仰箇条とカトリック教理は、無限の天主の神秘を語ることはできないので、天主に関する神秘のことは単なる言葉ではなく、体験によって伝えられる。言葉ではなく、天主のみことばであるキリストによって私たちに現われる。
 従って、第二バチカン公会議によれば、キリストは「天主の神秘を意味する効果的なしるし」すなわち「秘跡」である。


【聖伝とは何か】

 カトリックの聖伝によると、カトリック教会は、命題という手段で信仰の内容を表現し宣言するが、一度宣言した教義の意味は、いつどこでも同一の意味、同一の見解で、同質の内容で理解しなければならない。過去の教えを現代の教えで否定することはできない。

「天主が啓示した教理は,哲学的作り事や人間の知能が完成したものではなく,キリストの花嫁(教会)に与えられた天主の遺産であり,これを忠実に守り,誤ることなく解釈しなければならない。聖にして母なる教会が一度宣言した教義の意味を永久に保存しなければならない。よりよく理解するためという口実のもとに,その意味から離れてはならない(*3043)。「時代と世紀の流れとともに,各自とすべての人々の,また個人と全教会との,理解と知識と英知とが増し,また急激に発展するように。しかし,ただその正しい道において,すなわち、同一の教義,同一の意味,同一の見解において」【注:レランのヴィンセンチウス,Commonitorium primum,c.23(PL50,668A)】。 」(第一バチカン公会議 DS3020


 第二バチカン公会議によれば、啓示が人間の言葉による命題ではなされないならば、啓示の伝達すなわち「聖伝」も人間の言葉による命題ではなされない。新しい「聖伝」すなわち新聖伝とは、天主の神秘が現存している「教会」における、天主との親密な交わりの「秘跡」の延長である。また、教会も、キリストにおける「秘跡」である。

[教会憲章] 1(序文)教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である

 従って、第二バチカン公会議によれば、新聖伝とは今でも続いている啓示であり、使徒ヨハネの死を持って啓示が閉じられたわけではないし、諸命題によって説教されるわけでもなく、使徒とその後継者に依存するわけでもない。

 新聖伝は「生ける聖伝」と呼ばれ、文化的にも歴史的にも条件から影響を受け、主観的に、フィーリング的にますます深められ、自覚され、意識を変え、気づいていかなければならない。従って、「生ける聖伝」は絶えず変化しなければならない。


 8(聖伝について)
 この使徒たちから出る聖伝は、教会において聖霊の援助によって進歩する。実際、伝えられた事物やことばの理解は、それを心の中で思いめぐらす(ルカ 2·19 および 51参照) 信者たちの黙想と研究によって、あるいは霊的なことがらについての体験の深い理解によって、あるいはまた、司教職の継承とともに真理の確かなたまもの(カリスマ)を受けた人たちの宣教などによって、深くなる。要するに、教会は、自分に神のことばが成就するまで、時代の推移に伴って、絶えず、神的真理の充満を目ざして進むのである。


【信仰とは何か】

 第二バチカン公会議によれば、信仰を知的理解する前に、まず信仰体験がある。全ての諸宗教の「信仰」は、神との親密な交わりを可能とさせる。「信仰」とは天主の神秘を体験することであり、天主の神秘との親密な交わりに入らせ、天主の神秘の「秘跡(しるし)」の意味を解釈させる。信仰箇条や信仰の命題は、この信仰体験の後に来る。

『カトリック教会の教え』では「信仰において人は事実体験をする」(『カトリック教会の教え』34ページ)と言う。

「イエスが求める信仰とは、時として考えられがちな、知性による承認といったことではなく、神のたまものに対するまったき信頼とひたすらな姿勢です。」(『カトリック教会の教え』75ページ)

 キリストの復活とは何か、という問いには、「主との出会い」(『カトリック教会の教え』93ページ)であり、「単なる死者の蘇生などを意味しているのではなく、死んだイエスが新たな形で人々と出会ったこと」(『カトリック教会の教え』93ページ)、「この出会いを通して、神のいのちによって自分が変えられる経験」(『カトリック教会の教え』93ページ)である。

 「キリストの死と復活にあずかる過越の秘義は、わたしたちにとって一回限りのことではありません。日々の労苦や犠牲を通してわたしたちは小さな死を体験し、それと同時に神のいのちにあずかる小さな復活を体験するのです。」(『カトリック教会の教え』99ページ)

 「【聖体によって】ともに主キリストのからだにあずかることによってもたらされるいつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、未来の栄光の保証が与えられる復活の祝宴でもあります。・・・聖体拝領(コムニオ)は、その聖体が食されて神の力が働き、そこに復活したキリストが現存し、人がキリストと出会うことができる、という恵みの現実を現しています。」(『カトリック教会の教え』209ページ)

 「教会においてわたしたちは復活したキリストと出会うことができるのです。」(『カトリック教会の教え』167ページ)

 「イエスご自身には、ただの人間、道徳の師、宗教家というだけではすまない何かが感じられ」(『カトリック教会の教え』99ページ)、私たちの主の行動やお言葉から何か神々しいものを感じ取り、体験することを教えた。

 「典礼を単なる義務の対象、遵守すべき儀式ではなく、いつもわたしたちとともにいてくださる神との交わり、『ともに生きる喜び』を体験し分かつ場にしていかなければなりません」(第一回福音宣教推進全国会議課題発表に際しての司教団メッセージ)

 聖書も、その意味で、信仰の体験を言葉で表したもので天主の神秘を追体験させる救いの「秘跡」となる。

 新しいミサ典書では、「教会の教導職によって告げられる限りにおいての聖書」でもなく、キリストが(教会の教導職を代表する)役務者が教えるという行為の中に現存するのでもなく、仲介者を抜きにキリストご自身が現存することになっている。

「聖書が教会で朗読される時には、神ご自身がその民に語られ、キリストは、ご自身のことばのうちに現存して、福音が告げられる」(ローマ・ミサ典書総則9番)。

「聖書朗読による神のことばは、すべての時代のすべての人に向けられ、すべての人が理解できるものである」(ローマ・ミサ典書総則9番)。



 では、
【2】第二バチカン公会議によれば新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」)とは何か、
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、
【4】第二バチカン公会議によれば、三位一体の天主と人間との関係はどうなるのか、
 などについては、後ほど考察することにします。

天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
 聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
 聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【関連記事】


絶対的な悪は罪であってエイズではない。【私たちはベネディクト十六世に感謝します】

2009年03月28日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ベネディクト十六世教皇様はアフリカ歴訪中に「コンドーム配布はエイズ(AIDS)対策の解決策ではない」と発言したそうです。不特定多数との性交渉を助長するとの理由から「コンドームを配ることではエイズ問題は克服できない」と語ったとのことです。

 それに対して、フランスやイタリアでは教皇様の攻撃が行われているそうです。たとえば、ローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)の発言を愚弄するコンドームのパッケージにデザインが、25日、パリ(Paris)に登場したとのことです。

 あるいはイタリアの市民グループは27日までに、抗議のため法王庁(バチカン)にコンドームを郵送するようインターネットで呼び掛けたそうです。

(日本のマスメディアが、安倍首相や麻生首相などに対して叩きまくった、叩きまくっているのを思い出します。)

 私たちは、立ち上がって、カトリック教会が言うべきことを言ったベネディクト十六世に拍手と声援と感謝をお送りいたします。貞潔を説教することは教皇様のなんと優れた名誉でありましょうか。

 こうすることで私たちもバッシングを受けるかもしれません。私たちは教皇様と連帯してそれを受けるつもりです。

 聖伝のミサが決して廃止されていない事実を発表し、聖ピオ十世会の司教たちの破門は無効だと宣言させた教皇様を見て、教会をますますリベラルに改革しようと思っている人たちは、教会が聖伝の方にゆっくりと方向を転換しつつあるということに危機感を持っているようです。

 教皇ヨハネパウロ二世が鋭く指摘したようにコンドームは堕胎と安楽死と共に「死の文化」を飾る装飾の一つ、霊的死の道具です。

 教皇ヨハネ・パウロ2世が説教したように、教会にはエイズに対してキリスト教的貞潔という美徳しか薬がありません。貞潔を説教することは教皇様のなんと優れた名誉でありましょうか。

 カトリック教会には、「夫婦の相互の忠実」ということ、また「天主に聖別された童貞性の聖性」ということのほかには、社会の如何なる模範もありません。


 以前、1996年にフランス司教団は、エイズとコンドームに関して出した宣言の中で、コンドームという本質的に非道徳的な手段が「必要」だと述べました。以下の文章は、それに対して出した聖ピオ10世会の宣言です

ベネディクト十六世を支持してここに再掲いたします。

+ + +


 エイズとコンドームに関するフランス司教団 (Commission sociale de l'Episcopat fran1cais, Sida, la societe en question) の破廉恥な宣言に対し力強く対抗し、聖ピオ十世司会兄弟会は、カトリック教会の変わることのできない不変な教えを支持しつつ次のようにその教えの必要な諸点を列挙する。

1.「主は、ソドマとゴモラの上に、主から出る硫黄と火の雨を降らせた。その町と、その谷と、町の住民と、その地の木々は滅ぼしつくされた。」という創世記(19:24-25)の中にある天主様の御言葉によれば、天主様からの天罰であると明らかな病や天災が存在する。

 ソドマの住民の罪は同性愛だったと誰もが知っている。(創世記19:4ー5)

 エイズはその肉体的頽廃と道徳的頽廃のうちに果たされるのでこのような天罰の一つである。なぜなら、聖パウロによれば「男もまた女との自然の関係を捨てて互いに情欲を燃やし男は男と汚らわしいことを行ってその迷いに値する報いを身に受けた。」(ローマ1:27)とあり、互いに汚らわしいことを行うというのは肉体的・道徳的頽廃の何ものでもなく、それこそが聖パウロの言う同性愛の第一の天罰である。

2.予言者イザヤを通した天主の御言葉によれば、天主すなわち私たちの主はたとえいかに忌まわしい多くの罪を犯したとしても悔悛するならどんな人をも打ち捨てることはない。

「主の御言葉を聞け、ソドマのかしらびとよ、天主のみ教えを聞け、ゴモラの民よ!・・・おまえたちの手からは血が滴っている。荒い、清め、私の前で悪の行いを取り除き、不義を止め、・・・さあ、来るが良い、話し合おう、と主は仰せられる。罪がたとい真紅でも、雪のように白くなり、緋のようであっても羊毛のようになる。」(イザヤ1;10ー18)

 私たちの主イエズス・キリストも同じことを言い給う。「義人ではなく罪人を招いて悔い改めさせるために私は来た(ルカ5:32)」

 カトリック教会はエイズに冒された自分の子らに対して憐れみ深い母である。

3.絶対的な悪は罪であってエイズではない。

 その他の多くの病と同じく、エイズは罪、原罪と人々の犯す自罪を罰する罰の一つである。「一人の人間(アダム)によって罪がこの世に入り、罪によって死が入った」(ローマ5:12)、と聖パウロは教えている。本当の悪は罪だ。つまり天主の掟に意図して背くことである。これこそが絶対的な悪だ。その他の多くの悪はこの根元的な悪の結果、実りである。そこから人間はたった一つの自発的な罪を犯して天主に背くよりはむしろ死を選ぶべきである。

 またエイズのような病気について言えばこれはこの病を大きな心を持って神秘的ではあるが常に聖なる天主のみ旨の現れとして、イエズス・キリストの十字架と一致して受け入れる人々にとっては、償い、聖寵、救いの源となる。

4.「私たちは善を引き出すために悪をして良いのか」(ローマ3:8)。より少ない悪を「黙認(tolerer)」する事はできるが、より少ないものでも悪は積極的に「する(faire)」ことはできない。これが教会の教えだ。

 中にはこう言うのもいる。「コンドームを使うのは悪である、ところでパートナーにエイズを移すのはそれよりも更に大きな悪だ。従ってより大きな悪を避けるためにより小さい悪をするのは合法的だ!」と。

 しかしそれは間違いである。コンドームは姦淫の罪にオナニスム(オナンの犯した罪、創世記38章)の罪を加える。なぜなら、肉欲行為の自然な完結を空しくさせ、同性愛という既に自然に反する罪に追加の奇形を加えるだけだからだ。従ってコンドームのために病気が移らないようになったとしても、罪は重くなる。

 ところで、たとえそこから何らかの善が出てくるとしてもそのために如何なる罪をも積極的にすることは許されていない。コンドームを使う人は「黙認」するだけではなく更に本質的に罪深い行為を「して」いる。その罪はいわゆる公共の利益のためと言われるものの如何なる理由を持ってきても正当化することは出来ない。この世全てを救うためであったとしても、またそれが小罪に過ぎなかったとしてもより小さい悪をすることは全く許されない。なぜなら、「私たちは善を引き出すために悪をして良いものか」!

5.コンドームは「必要」では決してない!その反対にだれもの良心上にも禁止されている。

 コンドームは姦淫と同性愛という本当の災いを制限するどころか、この地上での如何なる罰を被ることなしに安心してコンドームを使ってそれら本当の災いを広めることしかしない。天主が同性愛の罪を罰するためにお選びになったその天罰が新しい罪の機会になるとは、人の心も何と頑なになったことか!永遠の滅びという罰を人が避けるようにと送られたこの世的な災いが、今度は人を確実に地獄へと引きずり落とすことになるとは!「エイズ防止のコンドーム」という宣伝は、教会とカトリック道徳に反対する敵どもによって合奏された創造物である。それは、不道徳を促進させ、青少年が頽廃の道に進み、絶望と最後には永遠の滅びに落ち込むためである。

 コンドームは霊的死の道具である。教皇ヨハネパウロ二世が鋭く指摘したようにコンドームは堕胎と安楽死と共に「死の文化」を飾る装飾の一つである。

6.教皇ヨハネ・パウロ2世が説教したように、教会にはエイズに対してキリスト教的貞潔という美徳しか薬がない。これを説教することはこの教皇の名誉である。そしてこの真理をフランスの司教達は曇らしている。このことは彼らの恥である。

 教会は悔悛する罪人達に憐れみ深く、健康な子供達に美徳を引き出させる。キリストが十字架の上で流されたいとも貴き御血は、同時に、罪に落ちた霊魂たちを生き返らせる浴槽であり、「童貞たちを生み出す血」である。

 教会は夫婦の相互の忠実と天主に聖別された童貞性の聖性というこのほかには社会の如何なる模範も持ち合わせていない。

この明確な言葉遣いをあえてしようとしないので、

フランスの司教団は低俗さと混乱の暗闇に落ち込み

教会を裏切り、この世を欺いている。

 キリストがこの世を救いに来たのは、甘ったるいキリスト教と美徳の代用品を提供するためではなかった。人間の悪意のいかなる人工物も、人間をしてキリストなしで済ますようにすることはできないだろう。なぜならキリストこそがこの世の唯一の救い主であるからだ。個人個人にとっても社会にとっても「救いは主以外の者によっては得られない(使徒4:12)。」

1996年2月13日

聖ピオ十世司祭兄弟会
報道部担当ベルナール・ティシエ・ドゥ・マルレ
(Bernard TISSIER de MALLERAIS)
補佐司教


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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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