新たな決断 ― アダム司教の同意
ルフェーブル大司教は言っている。
「1970年11月になるやいなや、私は翌年1971年10月の新学年度について考え、さらに霊性学年度を終了した神学生たちを何処へ下宿させるかを決定しなければなりませんでした。原則としてその場所としては、フリブールに見つけた借受けか購入した建物、あるいは新築の建物になるはずでした!ですから私たちは家探しと、建築物訪問や土地見学に取り掛かったのです。」
「その間に、フリブール大学の講義はもはや満足のいくものではなくなっていました。生徒たちは動揺し始めていました。ですからフィリップ神父が正しかった事が間もなく証明されるようでした。なぜなら彼は初めから私にこう言っていたからです:「近いうちに、大司教様ご自身が講義を行なわなければならなくなるでしょう」と。」
「ところで、私がエコンに行った時、若者たちが本物で簡素な教育や、さらに反抗ではなく平和な環境で、このヴァレーの田舎で、人々は依然として深く天主を敬っているこの地に暮らすことから如何に大きな恩恵を受けていたかを見るのは喜ばしい事でありました。だからこそ、私は思ったのです:《何故ここに神学校を設置しないのか?》と。」
「それから、私はジュルネ枢機卿様を初め、マミ司教様、そして私の同僚たちと協議しました。ジュルネ枢機卿は断定的な意見でした:「フリブール大学は大半の神学生たちにとって不適切ですし、神学校の規律など奨励していません。もし選択の自由がおありなら、大司教様、躊躇してはいけません。あの大学には資格取得のために少数の神学生を送るだけにしてください。」
マミ司教は。独立した神学校からどのような善がもたらされ得るか理解したのですが、その設置は困難だろうと考えました。話の終わりに臨んで、私の同僚たちは満場一致で、あらゆる点で正統かつ堅固な司祭養成を提供するために、神学校はエコンに創立されるべきであるという結論にたどり着いたのです。」
1970年11月16日の『エコン日誌』には、聖ヨゼフのノヴェナが終わってから“畑の聖母聖堂への訪問”の後に、大司教がエコンに神学校を建設する事を決定したと書き留められている。
あとはアダム司教による認可が残っていた。1970年12月26日、ロヴェ弁護士(Maître Lovey)は大司教とゴットリープ神父をシオンの司教館まで車で送り、彼らが司教館の中にいる間は車内に残った。「《エコンに神学校を創設する》認可を頂く事は、霊性学の一学年度のために《エコンの家屋を使用する》認可をもらうより少しばかり難しかった」と大司教は言った。それにもかかわらず、ついにシオンの司教は譲歩した:「前回お話しした時に、大司教様はエコンを小神学校として使うことが出来るかどうかお聞きになりましたので、私は承諾しました。ですがあなたが神学校としての使用許可を頼まれた時、私はこの司教区には神学校が既に三校もあると言って反対しました。ところで今年になって、私の神学校はフリブールにありますし、カプチン会は自分たちの神学校を閉鎖してしまいました。ですからもはや私には何の不服も御座いません。」
一体どのような形でネストール・アダム司教は自分の許可を与えたのか? 私たちには分からない。ルフェーブル大司教はこの許可が“はっきりとした(explicit)”ものであったと言っている、
「それから私は、彼に書面による認可をお願いしました。しかし彼は微笑んでこう言うのです。『あなたは司教たる者の言葉を疑うのですか?』
そういうわけで書面によるものは一切持ち合わせていません。今となってはそのことを後悔しています。なぜならば、2,3年してからこの司教は、自分が認可を与えたのは一年間の霊性学年度創設の為であって、神学校創設のためではないとあえて言明したからです!その結果として、ロヴェ弁護士はアダム司教に抗議して下さいました。それは、アダム司教の認可を得て私たちがどれ程満足していたかを彼が良く覚えていたからです。私たち2名がそれについて証言できます。」
一体何が現実なのか? アダム司教の後継者アンリ・シュヴェリ(Henri Schwery)司教は、後に自分の前任者であるアダム司教から一度ならず何度か「ルフェーブル大司教は私を担いだのだ!」と聞かされている。シュヴェリ司教は栽治権問題のことだと考えた。これはおそらくこの認可についてのことだろう。大司教がアダム司教からこの認可を無理やり取り付けたので、だからこそアダム司教は仕方なく口先だけで譲歩した。シオン教区の前司教総代理だったモンシニョール・カミーユ・グランは、ある日シュヴェリ司教に序言した。「本当に気をつけてください!アダム司教様は幾度か騙されたのです。あの老師ルフェーブルはあなたがおっしゃる事をどうやって利用するか心得ているのです。」
この問題について私たちは次のように説明する事が出来ると考える。ネストール・アダムはこの固い決心をした訪問者の提案については控えめだった。そして彼はある種の異議を唱えることから始めた。
「エコンですか? あの場所は適切に選択されているのですか?聖ベルナルド参事会は会の生徒たちをそこに試験的に移動させたのですが、数年後には諦めたのですよ。その上、有能な教職員を見つけるのは容易ではないでしょう。フリブールの方がずっと良いと思います。」
大司教は、自分が学業にとってフリブールの喧騒よりはるかに好ましい場所だったエコンの静けさを好んでいると返答する事に何の苦労もしなかった。さらに彼はエコンで生活する事に同意してくれる教授陣の発掘をしたことを伝えた。この議論に飽き飽きしたシオンの司教は譲歩しなければならなかったのだが、この問題をいい加減に扱う事になった。
「大司教様、それなら何の異議もございません。」
言ってしまえば、これは不明瞭ではあるに違いないが、(表面的には)“はっきりとした”認可なのである。
あの“司教たる者の言葉”は、書面においては何も明らかにすることのない、この控えめさと都合のよい曖昧さとに限定されていたのだ。そういう訳で、その後アダム司教は、じっくり考え抜かれた、実証的な、書面などによる認可を絶対に与えなかったのだと主張し得たのである。
これ以上のよい出来事などなく、ルフェーブル大司教は満足して(神学校創立の)職務を継続した。この時から事態が急進したのである。1971年2月3日、建築家のアミ・ドラロワ(Ami Delaloye)氏が依頼を受けた。1971年2月15日、彼は神学生たちの部屋を備えた最初の建物となる「聖ピオ十世の棟」の設計図と、150万スイス・フランと記された建築見積書を渡しに来た。大司教は何も言わずに聞いていた。「借金をせずに建築を開始するには、少なくともこの三分の一は必要だ。資金を持ち合わせていないなら先に進まないぞ。」と心の中では考えていたのである。
ところでちょうどその時、フリブールからの電話が入り、ある後援者-アドリアン・ブレッソル(Adrien Bressolles)司教-が今しがた大金を彼の口座に振り込んでくれたとの知らせを受けた。摂理的にも、それはこの建築を開始させるには正に必要な金額だったのだ!
4月28日、ドラロワ氏の事務所で、建築予定表が組まれた。そこで大司教は、建築の専門家、聖霊修道会司祭のシャルル・ベルクラス(Charles Berclaz)神父によって手伝ってもらう事になった。ベルクラス神父は証言して言っている。
「私は霊的なやり方、この建築予定地の会合に、彼が見事にもたらした敬虔さに見とれてしまいました。大司教様は会合を祈りで始めるものですから、そこに来た人たちの殆どは多かれ少なかれ無料で奉仕してくれたのです。」
その通りだ。ある親しい建築業者たちは気前よく報酬を放棄し、資材納入業者に値下げを働きかけたほどだった。大司教と、彼のブラザー・ミシェル 、そしてマルセル・ペドゥローニたちは、“タピ・シオン(シオン絨毯社 Tapis Sion)”製の絨毯を注文しに北フランスに向かった。マルセルが値段を交渉した。大司教は後日「私たちの家が余りにも快適になり過ぎないよう大奮闘しました」と語っている。ドラロワはよくこう言っていた。「しかし大司教様、あなたの神学生たちはこれもそれも必要ですよ!」 そして大司教は度々こう切り返していた:「神学生たちには、物からの離脱の必要です。」
1971年4月29日、エコン日誌への記載にはアダム司教の訪問について書かれている。この教区の司教である彼は、神学校初の建物の着工を見ることが出来た。6月6日、土地所有者たち、フリブールのアルベルティーヌムの修道院長メルル(Merhle)神父、フリブール委員会、聖ベルナルド修道会の参事会員ド・ソオ(de Soos)、ジュール・モネ(Jule Monet)氏-彼はリッド(Riddes)の地方自治体の長である-、さらにエピネ神父らの面前で、ルフェーブル大司教は礎石を祝別した。ついに聖ペトロと聖パウロの祝日の前日である6月28日に、大司教は聖ピオ十世会にとっては初の叙階式を行ない、聖ピオ十世会会員であるピーター・モーガン神父を誕生させる。彼は間もなく聖ピオ十世会支部修道院設立の為イギリスに出発した。
ポール・オラニエ神父に関して言えば、彼はリヴィエール、バリエル両神父によって指導されるグロレ(Grolley)での新学年度に先駆けた黙想会の後で、10月17日に、大司教から叙階されるだろう。この黙想会には38名の神学生が参加し、その内5名はフリブール時代からの神学生だった。司祭叙階の司教ミサがリッドの小教区教会で行なわれた。この教会の主任司祭は、これからは聖伝が教会の中でその権利を取りもどすべきだと決意した。叙階式後の食事がエコンの納屋の中であり、ポール・オラニエ神父がルフェーブル大司教の前で、来賓らに向かって手短に語った。
「私たちは何処までも大司教様に従います!」
そこで大司教はこの発言を訂正した。
「私たちはカトリック教会に従うのですよ!何らかの独自の思想を私が持つことを天主がお許しになりませんように!」
しかしながら、エコンの収容能力は十分とは言えず、ある神学生たちはエコンの発電所長のギ・フェレー(Guy Fellay)氏から借り受けた建物に親切にも一時的に泊めてもらっていた。
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