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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 16.6.3.様々な顔ぶれではあるが結束した教授陣

2010年03月21日 | ルフェーブル大司教の伝記
様々な顔ぶれではあるが結束した教授陣

 エコンに住む教授たちのうちには、例えばベルト神父のような教授がいたが、すぐにドン・エドゥアール・ギユー(Dom Edouard Guillou)神父が神学校に合流して来た。パリにある、源の聖母(Notre Dame de la Source)修道院から来たベネディクト会士である彼は、ヌヴェル・ド・クレチアンテ(Nouvelles de Chretienté)誌 の典礼関係の編集長であった。愉快でお茶目な声でこの典礼学者の修道士は、「新しい典礼」の逸脱を多様な厳しい格言を引き合いに出している。彼曰く「典礼とは教訓ではなく、教えるための手段でもない。」「ミサとは、ベラベラと話すものではない。」しかし、まさにもう一方の極端に走ろうとしている神学生たちに対して警告した。「典礼法規形式主義こそが、どんな改革でも受け入れさせてしまった。」ドン・ギユーはドン・ゲランジェの本当の弟子であったので師匠であるドン・ゲランジェの格言を何度も繰り返した。「典礼とは、力強さと荘厳さとのその最高の段階にある聖伝である。」

 もちろん、ドン・ギユーは、ローマ典礼擁護の為に「典礼博士(ドン・ゲランジェ)」の戦いの光によって、パウロ六世による数々の典礼改革に対する鋭い批判を行った。「カトリック教義と慣習を弱めることで、異端者たちを引き寄せようとするあまりにもありがちな盲目な希望」をプロスペール・ゲランジェはすでに告発していなかっただろうか?彼は「反典礼的な異端」が持つ様々な特徴を特定しながら、あらかじめ新しいミサを非難していなかっただろうか?彼が特に注目した点として、「天主崇拝の為の祭式文における聖伝に対する嫌悪」と、「巧妙に朗読箇所を選び出し」、新しい教義を普及させるために「都合良く削った抜粋箇所」を引用することによって、“聖伝の声を黙らせること”を狙って“聖書朗読によってカトリック教会式の祭式文を入れ替える”というやり方がある。従って、“典礼とは、諸刃の剣であり、カトリック教会の手中にあれば人々を救うことができ、異端の手中に落ちれば、霊魂たちを情け容赦なく滅ぼしてしまう。 ”

 もうひとつ特に実用的な価値を持つ科目は護教学だった。この科目は若き跣足カルメル会士ドミニク・ド・ラ・プレル(Dominique de La Presle)神父により、教会論と合わせて教えられた。彼は議論の学問的な手法に神学生たちを綿密に教えた。ドミニク神父は、大イルミナティら によって予言され計画されたエキュメニズムにある秘法的で悪魔的な起源を解き明かした。教会史はブルジュ(Bourges)の大神学校から来たクリスチャン・ドュムラン(Christan Dumoulin)神父が担当した。彼はその論理的精密さと驚くほど愉快な演出能力で知られた教師であった。

 熱い学問というものがあるのなら、それは社会倫理学、又は広義の意味で政治学である。これは熱狂的なオラニエ神父の流儀で教えられた。彼が忠実に従ったのはルフェーブル大司教の指示である。

「政治において私たちは、自分個人の考えを持つことは許されますが、その為にはその考えがカトリック教会の教義と一致していることが条件となります。しかし神学校は、特定な政治形態のどれにもつながっていません。そこでは、私たちはもっと上に立たなければなりません。倫理学によって教授される一般的な政治学の諸原理のみがあるのです。民主主義は、無統制と独裁制の狭間で往ったり来たりするからこそ相変わらず危険です。しかし、私たちは気をつけなければなりません!私たちは、カルリスタ(Carlistas)とホアン・カルロス(Juan-Carlos)と分裂後に崩壊したバルセロナの“海賊神学校(pirate seminary)”のようであってはなりません! 」

 従って、もしもオラニエ神父がシャルル・モラス(Charles Maurras)の“自然政治学”を引き合いに出すのをためらわなかったとしたなら、それは自由民主主義の礎となったジャン・ジャック・ルソーの“社会契約説”に対して成された教皇による非難宣告の理由とモラスの思想が合致していたからである。しかしながら、この好戦的な司祭(オラニエ神父)は、ルフェーブル大司教推薦の、反自由主義者でカトリック著者を出来るだけ読むことを勧めた。例えば、ピー枢機卿や、ルイ・ヴェイヨ(Louis Veuillot)、そしてエマニュエル・バルビエ(Emmanuel Barbier)神父とその著書『リベラル・カトリック主義の歴史』、フェリックス・サルダ・イ・サルバニ(Felix Sarda y Salvany)神父著『自由主義は罪である』、さらにモンシニョール・アンリ・ドラシュス(Henri Delassus)の著書などである。彼は神学生たちに言明している。

「もし読まないなら、この危機について皆さんは何も理解しませんし、むしろそれに譲歩してしまいますよ!」

 優れた教授たちにせよ、謙虚な新米教授たちにせよ、さらに彼らがエコンに住んでいようといまいと、これら全ての構成員は、この教授陣がかなり様々な顔ぶれを持ち、時折その顔ぶれも非常に対照的であるのだが、カトリック教義を伝えるという本質において常に一致していた。ルフェーブル大司教は各々の教授が持っている才能を慎重かつ思いやり深く活用した。学年度初めにした自分の希望と意向を伝えた後、彼は口を出さず、神学校教授陣を信頼した。

 他にも数人の教授らが時々やって来て、彼ら自身の貢献をした。こうしてゲラール・デ・ロリエ神父が来てマリア神学の講義を行った。彼は地下鉄の乗車券の裏に自分の講義の草案を走り書きしていた。しかしその内容ときたら、並みの生徒の理解能力を依然として凌いでいた。またファイ(Faÿ)教授の数々の講演は、カバラと密教的セクトから、フリー・メーソンとその今日の役割まで、人文主義やプロテスタント改革者たち、フランス百科全集 、さらにフランス革命を通って反教会の連続した時代に関する壮大で歴史的な全体像を示してくれた。足を引きずって歩くこの威厳ある病に苦しむ教授の生き生きとした雄弁は、この小さな“しなびれたドミニコ会士”( ゲラール・デ・ロリエ神父)の、抽象の関係的形而上学の微妙な思弁と奇妙にもうまく連れ添った。

 これが英雄的な初期数年間のエコンであった。しかしもし御摂理がその門戸にバリエル神父を導かなかったとしたなら、エコンは今日のエコンではなかっただろう!

聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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