Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2017年9月30日 聖ヒエロニモによる「守護の天使」についてのカトリック教会の教え

2018年02月01日 | お説教・霊的講話
2017年9月30日(土)教会博士証聖者司祭聖ヒエロニモのミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は2017年9月30日、聖ヒエロニモの祝日のミサを行なっています。教会博士、司祭、そして証聖者聖ヒエロニモです。

今日このミサの後には、この前の続きの公教要理があります。今日は衆議所について、あるいはできれば会堂、ユダヤの会堂とは何か、皆さんと一緒に学んでみたいと思います。

それから簡単な休憩を挟んで、15時からファチマの聖母のグレゴリオ聖歌の会があります。今日は皆さんのしもべがその会に参加する事ができるので、非常に楽しみにしています。

レネー神父様が10月15日主日にいらっしゃいますので、その聖歌の準備を皆さんと一緒にしようと思っています。ぜひ皆さん一緒に歌の練習をなさって下さい。

今回は音楽のプロの聖歌隊の方のなさるというよりは、むしろその歌の意味とか、そのどんなメッセージが含まれているのか、という事を主に黙想しながら、歌の練習をしたいと思っています。



“In medio ecclesiae aperuit os ejus,et implevit eum Dominus spiritu sapientiae et intellectus.”
「主は教会の中で彼の口を開き、彼を知恵で満たした。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖ヒエロニモの祝日で、私たちは皆さんの内の何名かは聖マリア大聖堂、ローマの大聖堂に行って、聖ヒエロニモの聖遺物がお墓があるそのまぐさ桶のすぐ近くに参りました。

聖ヒエロニモは教皇ダマソから命令を受けて、聖ダマソから命令を受けて、聖書をラテン語に翻訳する為に、聖書の研究の為に、その翻訳の為にベトレヘムで自分の居を備えて、そこで日夜、朝昼夜と聖書を勉強しながら訳しながら、一生を翻訳と聖書の解説に、その解釈と黙想に使いました。非常に頭の良い、恵まれた、主からの知恵と特別な恵みと知恵に満たされた聖人で、多くの影響をカトリック教会は受けています。その当時の生きていた聖アウグスティヌスも、その聖ヒエロニモを非常に尊敬していました。

聖ヒエロニモについて私たちは色々黙想する事ができますが、今日提案するのは、聖ヒエロニモがマテオの福音の18章の中でこう解説している時に、守護の天使について詳しい話を書き残しています。そしてこの聖ヒエロニモの権威ある証言はもちろん、教会の伝統聖伝をそのまま表明しているその教えは、カトリック教会の守護の天使に関する教えとして私たちに伝えられています。そして聖ヒエロニモの教えを聖トマス・アクィナスが非常にうまくまとめているので、私たちも聖ヒエロニモに従って今日はその記念日ですから、守護の天使について聖ヒエロニモの話を聞く事を提案します。

ちょうど昨日は大天使聖ミカエル、日本の守護の天使、そして10月2日明後日は守護の天使の祝日なので、聖ヒエロニモの話を聞くのはとてもふさわしい事だと思うのです。

では今回2点、聖ヒエロニモによれば、守護の天使というのは一体何で私たちに付けられたのか?不必要じゃないか?いや、必要なのだ。

また、守護の天使というのは一体どれだけ、どのような守護の天使が一体いつから、どうやって私たちに与えられているのか?という事を少し見て、

最後に私たちは、そこからどのような遷善の決心を立てなければならないかを黙想する事にします。

聖ヒエロニモの言った事を聖トマス・アクィナスがうまくまとめているので、それに従う事を許して下さい。

まず第1点は、守護の天使というのは私たちに与えられているのですけれども、それは聖書の、旧約の聖書から、あるいは詩編から、あるいは新約のイエズス様の言葉から分かるのですけれども、でもある人は守護の天使の事を全く忘れていたり、現代の人や、あるいは「守護の天使などいらないんじゃないか」と言う人もいます。

なぜかというと、「保護者がいるというのは小さな子供とか、まだ理性も分からないような赤ちゃんとか、あるいは体が弱い人とかで、でも人間はちゃんと天主様から理性が与えられていて、何が善であるか何が悪であるか分かるし、ちゃんと自分で行動する事ができるようにできているので、天使などはいらないんじゃないか」とか、あるいは「人間には天主様が直接守って下さるから、何で天使が必要なのか、余分じゃないか」とか、あるいは「天使がもしもいたとしたら、何で人間は天使が付いているにもかかわらず、永遠の滅びを受けてしまうのか。」そういう多くの人が地獄に落ちているという事を私たちは知っているので、「守護の天使というのはいないのではないか」という疑問を出す人がいます。

すると、「そうではない。守護の天使というのは私たちに必ず必要なのだ。なぜかというと、私たちは永遠の命の為に善を求めなければならない、善を愛さなければならない。でも残念ながら私たちは、情欲の為に、あるいはその強烈な感情の為に、動物的な感情の為に、その善への愛というものがかき乱されてしまう、あるいは見えなくなってしまう時があり得るし、また確かに、善というものが何かという事は理論では知っていても、具体的にそれをするという時になると、そこから外れてしまう危険性がある。だから私たちがその時に助けられるように、どうしても天主様は、守護の天使をも私たちに送って下さっている。」

「私たちが善を求める、善を愛する為には2つがある」と。これは聖トマス・アクィナスによると。

「1つは、私たちが善をするようにと傾いている、いつもそのように習慣付いている、いつもそうするのが好きだ、善をするのに慣れている。これは『善徳』と言われていて、徳である。」

「もう1つは、私たちが善を行う為に一番良い道を探す事ができる、という事である。この善をする為に一番良い道を見つける事ができるというのは、『賢明』である」と、2つを分けます。

善を良い事をするのが好きだという「習慣」と、良い事をどうやったら見い出す事ができるかという「賢明」の2つです。

「ところで、『良い事をするのが好きだ』というのは、それは天主様から直接に超自然の徳を与えられたり、あるいは聖霊の賜を与えられたりして助けられているけれども、『善の道を見い出す』というのは、これは天使によって委ねられている。天使が、『さぁ、この道を行ったらどうか』と私たちのガイドとして、道案内をしてくれるものが与えられている。」

「ですから、天主様が確かに私たちを守ってくれているけれども、更に守護の天使さえも与えられて、私たちの道が逸れないように天主様はして下さったのだ。もしも私たちが多くの人が地獄に落ちてしまっている事を知っていたとしても、だから天使たちが私たちに与えられていないとは限らない、その事の証明にはならない。なぜかというと私たちには『善を選ぶ』という本能が与えられて、『善が好きだ』というようなものが与えられているにもかかわらず、それを聞かないで『NO!』と言う事ができるのであるし、それと同じように、天使が私たちに特別に、『こうしたら良い』という事を目に見えない形で気付かせてくれたとしても、それを私たちが拒む事ができるから。そして多くの人々がそれを無視しているから。だから聖書の言う通り、私たちには天使が与えられているのだ。」

話はもっと進みます。「では天使が与えられているのは、一体どのような天使がどれだけ与えられているのか?」

「私たち一人一人に、一位の天使が与えられている。しかも、」聖ヒエロニモによれば、「洗礼を受けた時ではなくて、生まれた時から既に一位の天使が与えられている」と教えています。「そして確かにこれは正しい。なぜかというと、洗礼を受けた時には超自然の天主の賜が与えられ、あるいは御聖体が与えられるけれども、生まれた時にお母さんの胎内の外に出た時からは、天主様は私たちに特別の守護者を与えて下さる、保護者を与えて下さる。たとえまだ理性を使う事ができなかったとしても、生まれたその瞬間から、守護の天使が与えられる。」

「そして人間は『永遠』というものに向けられて創られているので、天主様の御摂理の中のその最も究極的な目的の為に向かっているので、他の永遠へと向かっていない者には与えられていないものが、永遠へと向かうように与えられている、守護の天使が与えられる。」

「更にそれだけでなく、その守護の天使というのは、9つの階級の一番下の天使が与えられるけれども、しかしもしも人間がグループを作った場合には、その団体にも守護の天使が与えられる。全ての人間に、例え洗礼を受けていなくても未信者であっても、あるいは反キリストであっても、あるいはイエズス様御自身も人間として、アダムとエヴァでも罪を犯す前から、守護の天使が与えられている」と教えています。

ではそれらは見て、私たちはどのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

「私たちを創造して下さった天主様は、私たちが永遠の命に導かれるように全てを整えて、全てを準備して下さった。その為にあれも、これも、あれも、あれもして下さった。私たちをはるかに超える、知性も意思も力も能力もはるかにすぐれた天使が一位、私たち一人一人の為に与えられている、私たちの団体の為にも与えられている。何とかして天国に導こうと、天主様のみならず、守護の天使たちも一生懸命応援して下さって、お祈りしてくれて守ってくれている。たとえ私たちの目には見えなくても、私たちには特別の保護者がいる、擁護者がいる」という事を教会は教えています。

何というお恵み、何というプレゼントを私たちは、一人一人が生まれた時から頂いている事でしょうか。それにもかかわらず私たちは、守護の天使の事を知ってはいてもあまり気にせず、あるいは祈りもせず、あるいはこの主から天主様から頂いたお恵みを感謝もせずに、私たちはあたかも私たちだけでしかないように、動物のように、野獣のように生活しているのではないでしょうか。

今日は聖ヒエロニモの祝日、特に守護の天使たちも私たちをいつも守ってくれている、私たち一人一人に与えられている、という事を感謝致しましょう。そしてそのような事を教えてくれる教会の博士たちに感謝致しましょう。願わくは守護の天使が、あるいは日本の守護の天使が、私たち一人一人を導いて天国へと引導して下さいますように、天使たちの元后であるマリア様に特にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させる 三、使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ

2018年02月01日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
三、使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること

三、使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ


 ここにいっている事業とは、“真に使徒的”と呼ばれるにあたいする事業であるべきことは、もちろんである。なぜなら、こんにち、この名称にあたいしないカトリック事業が、あちこちにあるからだ。ある種の事業は、うまく信心の仮面をつけて、うわべだけはりっぱな使徒的事業のようにみえるが、そのじつ、経営者がもくろんでいるのは、正直いって、なんだろうか。――世間からの称賛である。世間の人から、名事業家として、慈善家として、社会事業家として、名声をうたわれたいのである。それで事業の成功のためには、どんな手段でも、最も不正な手段さえも、必要とあらば平気で用いる。

 ここにいま一つの事業がある。
 前者にくらべて、たしかに“使徒的”である。したがって、尊敬にもあたいする。ほんとうの善をねらっている。目的も、手段も、ともにりっぱで、非難の余地はない。
 だが、事業にたずさわっている人たちが、ごく薄っぺらな信仰しかもっていない。内的生活が、人びとの霊魂に、どれほど強い、深い影響力を及ぼすかについての確信が、ごくうすく弱いため、かれらの超人的努力にもかかわらず、事業の成果はほとんどゼロにひとしい。
 使徒的事業は、いったい、どんなものでなければならないのか。――それをハッキリ理解するためには、同じ使徒的事業に異彩をはなっている、一人の人物の登場をおねがいして、口ずから、かれの体験談をきくのが一番早道だ。
 筆者は、司祭職の初めごろ、直接その人からうけたまわった教訓を、左に書きしるしてみたいと思う。

 そのころ、筆者は、青年のための事業を、はじめてみたいと思っていた。そのために、パリのカトリック諸事業を視察したり、フランスの諸都市にあるカトリック青年会をおとずれたり、また、バル・デ・ボア(Val-des-Bois)にある事業を見学したりしたのち、マルセイユに行った。そこには、聖徳のほまれ高いアルマン師(abbé Allemand)と、尊敬すべき教会参事チモン・ダビド師(chanoine Timon-David)が、共同で経営している、青年のための事業があったからである。
 チモン・ダビド師の体験談に、青年司祭の筆者は、どれほど感動しながら耳をそばだてたことだろう。かれは筆者に、こういうのだった。

 「……音楽とか、映画とか、演劇とか、ハイキングとか、スポーツとか――こんなものが、みんないけないとは、けっして申しません。わたし自身にしてからが、事業をはじめたころ、こういうものがどうしても必要である、なくてはならぬものである、とさえ思っていたんですからね。だがしかし、よく考えてみますと、こんなものは、他にもっとすぐれてよいものがないときに限って使われる、いわば道楽みたいなものである、ということがわかってきたんです。
 事業をだんだん進めていくうち、わたしの目的も手段も、いっそう超自然化されていきました。なぜなら、わたしは、むろん少しずつですが、すべて人間的なもののうえの土台をすえた事業は、しょせん廃滅の運命をせおっているということ、内的生活によって、天主と人をたがいに近づけ、密接に一致させることをねらっている事業だけが、天主に祝福されるということ、このようなことを、いっそうハッキリ理解するようになったからです。
 ラッパや、太鼓や、サクソホンのような楽器は、ずっと以前から、物置にしまいこみ、演劇なんかもやらなくなりましたが、事業のほうは以前にもまして、ぐんぐん盛んになっていきました。なぜでしょうか。
 ああ、天主さまに感謝いたします。わたしの司祭たちも、またこのわたし自身も、事業をはじめたころは、まだほんとうに赤ん坊でしたが、いまでは目がいっそう肥えてまいりまして、ものごとの真相をハッキリ、見究めることができるようになったからです。そして、“かくれたままに”お働きになるイエズス様のご活動にたいして、恩寵のお働きにたいして、わたしどもがいっそう大きな信仰をもつようになったからです。
 わたしを、信じていただきたいんです。予想される困難の前にたじろがず、理想はできるだけ高くおもちなさい。できるだけ高い所を、おねらいなさい。そういたしましたら、きっと結果のすばらしいのにビックリされるでしょう。
 それを、これから具体的に説明します。
 青年たちを、禁じられた娯楽や、危険な遊びから遠ざけようとして、なにか罪のないレジャーを、えりにえって、あたえてやる。または、かれらを、形ばかりでもいい、とにかくミサ聖祭にあずからせる。たまには、秘跡にも、やっと及第するぐらいの心の準備をさせて、あずからせる。それで表面だけは、キリスト信者としての体面を保たせる。――こんなことを、かれらに“理想”として提議するようでは、情けない限りです。
 「沖へ乗りだしなさい!」(ルカ5・4)
 高尚な、聖なる野心を、おもちなさい。まず、青年たちの中から、ある人びとをえらんで、かれらに、熱心な信者として生活しようとの強固な決心を、取らせるように努力しなさい。どんなぎせいを支払っても。熱心な信者として――これを別な言葉で申せば、かれらが毎朝、黙想をしますように。もしできることなら、毎朝ミサ聖祭にあずかりますように。わずかの時間でもいい、霊的読書をしますように。
 その結果は、ひんぱんな、そして熱心な、聖体拝領となってあらわれることは、疑いありません。精鋭のこの小さき群れに、イエズス・キリストへの熱烈な愛を、祈りの精神を、自己放棄を、おのれの行為のきびしい取り締まりを、一言で申せば、かれらの心に強固な、堅実なキリスト教的善徳をあたえるために、あらゆる努力を、おかたむけなさい。また、かれらの霊魂が、ご聖体にたいして、ますます激しい渇きを感じますように、前者におとらぬ努力を、お支払いなさい。この基本的な、内心の修業に成功いたしましたら、次にはかれらが、自分たちの周囲の人びとに、自分たちの友人らに、積極的に働きかけることができるように、かれらの奮発心を刺激しておやりなさい。
 かれらを、りっぱな“使徒”に、仕上げなさい。単純で、質朴で、善良で、ぎせいの精神がつよく、そのうえ熱烈で、男らしい使徒――狭量な信心家ではなく、超自然の機知にも富み、けっして熱心の口実のもとに、くらい目で、友人たちのあらをさがしまわるような、ファリザイ人でない使徒に。
 これらをまず、実行してごらんなさい。そういたしましたら、きっと二か年を出ないで、あなたは再びわたしを訪ねて、ここにおいでになるでしょう。そして、わたしに申されるでしょう。――こんなにすばらしい成果を収めました。もう音楽も演劇も、ちっとも必要ではありません、と……」

« — Fanfare, théâtre, projections, cinémas, etc., je ne blâme point tout cela. Au début, moi aussi, je les avais crus indispensables; ce ne sont que des
béquilles qui s’emploient faute de mieux. Mais plus je vais, plus mon but et mes moyens se surnaturalisent, car je vois de plus en plus clairement que toute œuvre bâtie sur l’humain est appelée à périr et que seule l’œuvre qui vise le rapprochement de Dieu et des hommes par la vie intérieure est bénie par la Providence.
« Les instruments de musique sont au grenier depuis longtemps, le théâtre m’est devenu inutile, cependant l’œuvre prospère plus que jamais. Pourquoi? C’est que mes prêtres et moi voyons, Dieu merci, bien plus juste qu’au début, et que notre foi dans l’action de Jésus et de la grâce s’est centuplée.
« Croyez-moi, n’hésitez pas à viser le plus haut possible, et vous serez étonné des résultats. Je m’explique: N’ayez pas seulement comme idéal d’offrir aux jeunes gens un choix de distractions honnêtes qui détournent des plaisirs défendus et des relations dangereuses, ni de simplement les vernir de christianisme par une assistance machinale à la messe ou par la réception très distancée et à peine passable des sacrements.
« Duc in altum. Ayez d’abord la noble ambition d’obtenir à tout prix qu’un certain nombre d’entre eux prennent l’énergique résolution de vivre en chrétiens fervents, c’est-à-dire avec la pratique de l’oraison du matin, l’habitude quotidienne de la messe si cela se peut, une courte lecture spirituelle, et, cela va de soi, fréquentes et fructueuses communions. Appliquez toutes vos sollicitudes à donner à ce troupeau choisi un grand amour de Jésus-Christ, l’esprit de prière, d’abnégation, de vigilance sur soi-même, de solides vertus en un mot. Développez avec non moins de soin dans leurs âmes la faim de l’Eucharistie. Puis excitez peu à peu ces jeunes gens à l’action sur leurs compagnons. Façonnez des apôtres francs, dévoués, bons, ardents, virils, sans étroite dévotion, pleins de tact, ne donnant jamais, sous prétexte de zèle, dans le triste travers d’épier leurs camarades. Avant deux ans, vous me direz s’il est encore besoin de cuivres ou de décor de théâtre pour obtenir une pêche fructueuse.


 「よくわかりました――」それまで、だまってきいていた筆者は、このへんで先方の話をさえぎり、そしてたずねた。「たしかに、この精鋭の小さき群れは、パン全体をふくらますパンダネのようなものです。ですが、この精鋭の群れにぞくしていない他の人びと――たとえばです、わたしが計画している“会”にぞくすべき、あらゆる年令層の青少年たち、また、結婚している人たちにたいしては、いったいどのようにすればいいのでしょうか。こういうひとたちの霊魂を、前に申されました精鋭のグループの水準まで高めることは、とうていできない相談だと思うのですが……」

 「いや、かれらにはまた、別な方法がありますよ。かれらに、強い強い信仰をあたえてやることです。かれらに、宗教のお話を、たびたびしてきかせることです。宗教のお話は、よく準備されたもの、興味が深くて、滋味に富んだものでなければなりません。それを、例えば冬の夕方などにされるといい。できるだけしばしば、おやりなさい。効果は、てきめんです。あなたの信者たちは、信仰の敵にたいして十分の備えをなし、世間に出なおしてまいります。会社や工場の仲間たちが、どんなに宗教をバカにしようと、かれらはみごとに敵どもをやっつけます。そればかりではありません。さらに恐るべきわるい新聞や、悪い書物の害毒にたいしても、十分に抵抗ができるでしょう。
 確固たる宗教的信念を、信者の心にうえつける。もし必要とあれば、だれも恐れず、それを堂々と人まえに宣言できる、信仰のつよい信者をつくる。――これだけでも、すでに大成功ではありませんか。しかし、これだけで満足してはなりません。かれらを、もっと高い処までみちびく。かれらを、信心に――ほんとうの信心、あたたかい、確信のある、そして神学の教えに基づいた、あかるい信心にまでみちびいてやらなければならないんです。」

 「では、最初から、どんな人でも、会に入れてよろしいのでしょうか」

 「えりぬきの会員が、すこしでもできましたら、あとの数はたいして問題にはなりません。あなたの会が、大きくなるかならないかは、とりわけ、会の核心をなすこれらエリートの会員が、他におよぼす影響力のいかんにかかっています。さらに、エリートの会員たちの中心となるべき人物は、イエズスとマリアと、それにこのおふた方の道具ともなる、あなた自身なのです」

 「会場は、それこそ貧弱だと思うのですが、もっと大きなのを造ることができるように、カネの集まるのを待たなければならないものでしょうか」

 「とんでもない! りっぱな部屋とか豪壮な建物は、そりゃ初めのころ、生まれたばかりの事業のうえに、人びとの注意をひきつけるために、すこしぐらいは役に立つでしょう。チンドン屋の役ぐらいにはね。……だが、わたしはくり返して申します。もしあなたが、事業の根底に、内的生活を――熱烈で、完全で、積極的で、使徒的奮発心に富む内的生活をおきますなら、なあに、会の仕事をふだんやってのけるのに必要なだけの場所は、ちゃんとありますよ。いままで舞台や、楽器の置場や、その他、なにやかにやに使っていた、余分の場所が浮いてきますからね。そうこしているうち、騒々しい音響は、べつに大してよい効果もないということ、反対に、よい効果を収めるためには、騒々しい音響をたてる必要は、すこしもないということを、あなたはご自分でさとってまいりますよ。そのうえ、福音の精神をよく理解してまいりますと、会の出費もすくなくなり、反対に成績のほうはぐっとあがっていきますよ。
 だが、何よりさきに、あなたは、あなた自身のからだを張って、支払いしなければなりません。といっても誤解してはいけませんよ。骨身をくだいて、芝居や運動会の準備をしなさい、とは申しません。いっそう骨を折って、あなた自身の霊魂に、祈りの生活を確保しなさい。内的生活をゆたかにしなさい、と申しているんです。なぜなら、次の点を、心に銘記してほしいからです。――あなたは、あなたがまず、イエズス・キリストをお愛しする、その愛の生活の強さに応じて、ただその愛の強さの度合いに応じてのみ、他人のうえにも、愛の炎を放射することができるんです。」

 「結局、あなたは、内的生活のうえに、事業の土台をすえろ、とおっしゃるのですね」

 「まさにそのとおり! わたしは、千たびもくり返して、そうだ、とお答えします。そうしなければ、せっかくの金山から、純金はとれませんからね。いつも、まぜ物ばかりですよ。とにかく、わたしを信用してください。長い年月をついやし、にがい失敗をいくたびも重ねて、ようやっと獲得した、貴重な体験ですからね。わたしが、青少年相手の事業にかんしていっていることは、同時にすべての使徒的事業にも、あてはめることができると思うんです。小教区の事業にも、神学校の養成事業にも、カトリック要理の授業にも、学校経営の事業にも、兵隊さんあいての事業にも、その他すべての会の事業にも。
 ほんとうに超自然的精神に生かされている、ほんとうに内的生活に生かされている会は、どれほど大きな善を、世間の人びとに施すことができることでしょう。こういう会こそ、全能のちからをもったパンダネです。それが、世の救いの仕事に、人びとの救霊の事業に、どれほどみごとな成果を収めるかは、天使たちでなければわかりません。……。
 ああ、布教事業にたずさわっている司祭、修道者たち、またいわゆるカトリック“事業家”たちが、自分らの手にしている、テコの偉力を知ることができましたら!そして、このテコの支点に、イエズスの聖心と、聖心との一致の生活をおくように、いっそう努力しさえしましたら!
 ああ、そのとき、かれらは全国を、いや、全世界さえも、もちあげることができましょうに!
 そうですとも。悪魔とその加担者らの勢力にかかわらず、りっぱにそれをやってのけますとも!」


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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