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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2017年10月21日 ファチマ100周年。これで終わったのではなく、目が開いた、だからすべきこと。

2018年02月09日 | お説教・霊的講話
2017年10月21日(土)聖母の土曜日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年10月21日、聖母の土曜日のミサをしております。今日のこの御ミサの後に、いつものように公教要理の続きを致しましょう。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン

愛する兄弟の皆さん、今年はファチマのマリア様の御出現100周年ですから、ファチマでマリア様は一体何を私たちに求めておられるのかを一緒に黙想する事に致しましょう。
もしもマリア様の要求に応えることができたらどのような事があって、もしもそれをしなかったらどのような事になるか、

次に私たちはマリア様から一体、特に何が求められていて、私たちは何をしなければならないのか、その為に一つ提案するのをお許し下さい。

私の思ったのは、天主様の選み、天主様から特別のお恵みを受けるという事、その憐れみの深さです。

この憐れみを受けておきながら、それに応えれば更に憐れみの報いを受けるし、もしもそれに応えなければ、私たちはその天主の憐れみさえも受けることができずに、私たちには惨めな状態におかれてしまうこと、天主の憐れみをどうしても受ける事ができるように、天主様が私たちを目覚ませてくれる為に、惨めな状態に置かれてしまう、という事です。

どういう事かという事を説明させて下さい。

天主は私たちを無から創造されました。アダムとエヴァを完壁な状態において創り、幸せの中において創り、苦しみも悲しみも、病も死もない状態で創りました。そして地上の楽園に置いて下さり、遂には簡単な事を通して天主様の御旨を果たして、天国の永遠の至福を受ける為に、地上に置かれました。ところがこのアダムとエヴァは、その簡単な試験さえも、あえて踏みにじってしまいました。この地上の楽園に死をもたらしてしまいました。天主の御旨を果たさなかったからです。

選ばれたユダヤの民。アブラハムという立派な男を基礎として、唯一の天主を信じ、そしてそれに礼拝し、希望し、唯一の主を愛したアブラハム。

「そこから多くの子孫が出るだろう、そこから救い主が生まれるだろう」と約束された特別の民族、ユダヤ民族。この民族は特別に天主から選ばれて、愛されて、「救い主がそこから生まれる」という特別の憐れみの選びを受けました。しかし残念な事にこのユダヤの民族は、救い主を認めようとせずに、却って殺害をさえもしてしまいました。この民族はしたがって、国を奪われ、そして離散をしなければなりませんでした。

この選ばれた民の為に、特別の宗教の施設が与えられました。それは唯一、ここでのみ生贄を捧げる事ができるという神殿でした。エルサレムに建てられた神殿、ソロモンが建てた神殿でした。そしてそのソロモンが建てた神殿が70年間破壊されて、神殿が失われてしまったとしても、ゾロバベルがもう一度立て直し、そしてヘロデが拡張リフォームして、豪華絢爛にソロモンのようにまた復興して、その中で常に天主の心に気に入る、来たるべき救い主を意味するがゆえに、天主に嘉される生贄が捧げ続けられていた神殿、イエズス様も訪問したし、マリア様も行かれたし、その聖なる神殿も、イエズス様を受け入れなかったがために粉々に、跡形もなく消えて無くなってしまいました。

「エルサレム」という名前は、ローマ人によって名前さえも変えられてしまいました。平和な町エルサレムは、エリア・カピトリーナという名前に変えられました。聖ヘレナが来てその名をエルサレムに変えるまで、元に戻すまでそうでした。

これを思うと、主の選みを受けたにもかかわらず、憐れみを受けたにもかかわらず、それを拒否するという事には、恐ろしい結果が待っているという事が分かります。

この前フランスの王についても一緒に黙想しました。フランスの王ルイ14世、太陽王に特別に、イエズス様の聖心が償いの為にフランス王国の奉献を求めました。

その特別のお恵みを、フランス王の聴罪司祭であったイエズス会のド・ラ・シェーズ(de la Chaise)神父様に委ねる、とイエズス様は仰いました。ところがド・ラ・シェーズ神父様はそれをしようとしませんでした。おそらくしたとしても、王にその事をするように励ましませんでした。その結果何が起こったかというと、イエズス会全体が廃止されました。しかも教皇様によって。フランス王国も、あれほど愛された王国も、革命によって無くなってしまいました、共和国が起こりました。

イエズス様の、確かな、「どうしてもこれが本物だ」と分かっていた望みであったと分かっていたにもかかわらず、それを拒否した国、あるいは拒否した修道会は、あるいは神殿は、全くそのそれの為に苦い思いをしなければなりませんでした。

特にフランス王も投獄され処刑され、死刑されなければなりませんでした。イエズス会の総長も廃止された当時、リッチ(Ricci)神父様でしたが、投獄され、死ぬまで監獄にいなければなりませんでした。ちょうどイエズス様が罪無きにもかかわらず、投獄され処刑されたというのと同じ事をしなければならなかったかのようです。でももっと簡単な、「イエズス様の聖心への信心」という簡単な方法でそれを捧げる事ができたにもかかわらず、別の方法でそれを償わなければなりませんでした。

しかし、本当なら人類の罪の為に当然受けるべき罰があったにもかかわらず、その天から特別に与えられた簡単な方法を実践した所では、多くの恵みを受けました。

ポルトガルの国は、ファチマのマリア様の汚れなき御心を実践しました。するとお隣の国では市民革命があって、地続きでしたから革命の火がすぐ飛んでくる恐れがあったにもかかわらず、平和を保ちました。第二次世界大戦からも免れました。それ以前までは、ポルトガルは社会的にも経済的にも政治的にも非常に不安定で、もう無政府状態にあったにもかかわらず、安定と繁栄を取り戻しました。

3人の子供たちもファチマの子供たちも、普通の子供のようだったのに、ロザリオもめでたしだけで終わっていた、「めでたし」という一言で天使祝詞全部の代わりにしていた、そして数分でロザリオを唱えてしまっていた子供たちも、大聖人になりました。

ピオ十二世教皇様のもとで、聖母の汚れなき御心に対する信心の動きが非常に高まりました。するとその当時多くの人々が世界中で回心して、このままいくと世界中の人々がカトリック信者になると思われるほどでした。

シスタールチアによると、「この世に最後の救いの手段として、イエズス様は震える手で私たちに与えた、非常に簡単なこの世を救う手段がある」と言っています。「この最後の手段をなぜ震える手で与えるかというと、これを受けるか受けないかに、人類がかかっている、人類の救いがかかっているから」と説明しています。

ファチマでは仰いました、7月13日、マリア様の言葉によれば、「ロシアは戦争を挑発して、教会に対する迫害を挑発するだろう。多くの国々が色々な国々が無くなってしまうだろう。教皇様はたくさん苦しまなければならないだろう」と。

もしも国々が無くなってしまうのであれば、多くの修道会たちも無くなってしまうしれません、イエズス会のように。フランス王国が無くなったように、多くの国々が無くなってしまうかもしれません。

しかしこの最後の手段を使えば、おそらく聖母の汚れなき御心の見本として、ショーケースとして全世界に輝く手本として、あるいはポルトガルのように、あるいはファチマの3人の子供たちのように、多くの聖徳と保護を受けるに違いありません。

そこで私の思うには、ファチマ100周年でこれで終わったのではなくて、ファチマ100周年で私たちは目が開いた、私たちはよく理解したのです。

汚れなき御心に対する信心は私たちに与えられた最後の手段で、ロザリオの祈りと共にこの2つは最後の手段であって、これを取る事に私たちの生き残りがかかっている、という事を理解しました。

もしもこれをするならば実践するならば、私たちの聖徳と発展とが保証されている。しかしもしもこれさえもできなければ、私たちはこのまま惨めに消えて無くなるしかない。

どのような力強い国であれ、どのような力強い修道会であれ、どのような力強い人であれ同じだ、という事です。

では私たちはどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

ぜひ、特にこの聖母の汚れなき御心の聖堂では、マリア様の汚れなき御心の信心をますます深めていく事に致しましょう。

どのようにしたら良いでしょうか?私の思うには、この初土の信心を特によくするという事です。特に初土の15分の黙想をよくするという事を提案します。

ところで、1ヶ月に一度、初土に15分間だけ「さぁ」と言われても、その15分をうまく過ごす事ができないかもしれません。そこで私の提案したいのは、初土の15分をマリア様と一緒に過ごす為に、ロザリオの玄義を黙想しながらよく過ごす事ができる為に、毎日練習するという事です。どういう事かというと、「今度の初土の時には、この黙想をしよう」とすでに1ヶ月前から決めていて、そしてこの初土の為に例えば、「聖母の御告げを、喜びの第1玄義を黙想しよう」と思っていれば、その御告げについて常に毎日1ヶ月間考えて黙想して、夜も昼も、寝る時も起きた時も、学校に通う時も仕事に行く時も、いつも考えていて、マリア様の御心の中に深く入る事ができるように、マリア様の事を深く知る事ができるように、イエズス様の事を深く知る事ができるようにと、いつもそのお恵みを求めているならば、「イエズス様の聖心をもってマリア様の御心を慰めたい、だからそのお恵みを特別に求めたい、お願いする」という事をいつも思っているならば、この初土の15分は非常にきれいに過ごす事ができるのではないかと思います。

マリア様は、天使が現れた時に、「はい」と答えました、「フィアット“Fiat.”」天主の御母となる、救い主の母となるという事は、非常に名誉な事でした。ですからマリア様はマニフィカト、「わが魂は主を崇めて、高揚して、」と喜びと感謝の祈りをした事もできたかもしれません。

しかしおそらくマリア様は、救い主の母となるという事が、苦しみの母となるという事をよく知っていたに違いありません。ですから、「あなたは苦しみますけれども、良いですか?」という事を、その事の同意を求められたのです。

イエズス様は、ゲッセマニの園で、「もしもできるならば、この杯が私から遠ざかりますように。しかし私の意志ではなく、主の御旨がなりますように。“Fiat voluntas tua.”」と言われました。

ちょうどそのゲッセマ二の言葉と同じ言葉が、マリア様の口から出ます、「私は主の婢女です。仰せのご如く我になれかし。フィアット。」十字架を受け入れるという事です。

アルメニアにリヴィウ(Lviv)司教座聖堂がありますが、そこにはヤン・ヘンリック・デ・ロセン(Jan Henryk de Rosen)の有名な御告げの絵が描かれています。それにはマリア様の御告げの背後に、イエズス様の十字架の道行が描かれているので有名です。

なぜかというと、マリア様は「我になれかし」と言った時に、すでに苦しみをも受け入れたからです。マリア様はもちろん全く自由でした。「自分の苦しみは嫌だから、断る」と言う事もできました。もしもマリア様がその苦しみを受け入れなかったならば、フィアットと答えなかったならば、マリア様は苦しまなかったかもしれませんが、しかし全人類はもう、救い主を受ける事ができませんでした。ユダヤ教、あるいはフランスの王国、あるいはイエズス会が廃止されたように、このまま人類も真っ暗闇の中に、ずっと留まらなければなりませんでした。

人類の救いと光と命が、ナザレトという貧しい村の、小さなマリア様の家の、マリア様の「はい」という言葉から始まった、というのは何と素晴らしい事でしょうか。マリア様の「はい」という言葉を見ると、私たちもこれに促されて、ファチマのマリア様からの最後の手段が与えられているので、「はい」と答えるように強く促されているように思われます。

ですから特に私たちは、ロザリオの玄義を深く黙想して、初土の準備を良くしながら、深くマリア様の御心に入り初土の信心をする、という事をこのファチマ100周年の決心として、遷善の決心として取る事を提案したいと思っています。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


うるわしくも 咲きいでにし奇しき薔薇の はなよたぐいもなき そのかおりに

2018年02月09日 | カトリック・クイズ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

うるわしくも 咲きいでにし
奇しき薔薇の はなよ
たぐいもなき そのかおりに
われらが こころ和む
みいつくしみ 満ちあふるる
もろびとの はは マリア
ときわに たたえまつる

みちのほとり みどりふかく
しげれる そのときわ木
あえぎあえぐ わが たび路の
やすらいの すずかげよ
みははマリア 汝がまもりに
よろこび いさみたちて
みくにを 指してぞ ゆく

第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である その二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き2)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」 】

2018年02月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き2)
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き2)



第三の過程――この過程の病状は、聖務日課を、おろそかにとなえることである。
 教会の公式祈禱である聖務日課は、キリストの兵士に、かれがときどき戦場で倒れるさい、すぐに立ちあがるための、喜びと力をあたえる特効薬である。聖務日課はまた、霊魂にとっては、感覚の世界を超越して、高く天主の生命のいとなみにまで雄飛し、そこで静かにいこうためのツバサともなる。

 それなのに、こんなにありがたい聖務日課が、かれにとっては、やまらなくいやな重荷となる。典礼生活こそは、かれにとっても、信者たちにとっても、光りと喜び、気力と功徳、および天主の恩寵の源泉であるはずなのに、あわれかれ自身にとっては、いやで仕方のない義務でしかなくなる。そして、いやいやながら、この義務を果たすのである。――それは、敬神徳に抵触している、というだけでは足りないのだ。事業熱が、この美しい善徳を枯渇させてしまったのである。かれが、典礼のなかに見るものは、天主への礼拝、崇敬よりはむしろ、人目をひく祭典美であり、芸術美である。
 世に知られず、ただ独りでする、しかし誠意のこもった「くちびるのいけにえ」(聖パウロの言葉)である、聖務日課の祈りは、かれの心に、なんの反響も呼ばない。――賛美も、嘆願も、感謝も、赦罪も、祈願も、かれにとっては全く無意味である。
 つい最近までは、まじめに、聖務日課をとなえていたかれである。そのころ、よくかれは心のなかで、誇らしげにいったものだ。「自分だって、聖務日課を専門にとなえる、修道院の歌隊修道者におとらず、『天主よ、わたしは天使たちの前で、あなたをほめ歌います』(詩編137・2)と、天主さまに申し上げることができるのだ」と。それは正しい誇りであったにちがいない。むかしは、かぐわしい典礼生活の芳香で、かれの霊魂の聖所は、かんばしい香りをただよわせていたのに、いまはもう騒々しい、町のちまたと化してしまった。
 事業への余計な心配と、ふだんにふけっている放心が、かれの雑念を倍加して、心をからっぽにしてしまったのである。そのうえ、かれはこの憂慮すべき状態から救われようと、すこしも努力しない。心の戦いをあえてしない。
 「天主は、激動のなかには、いらっしゃらない」Non in commotions Dominus.(列王の書19・11)
 心が、激しくゆれ動いているとき、ほんとうの祈りができるはずがない。大いそぎでとなえる。わけもないのに、途中でやめて、ほかの仕事をする。なおざりにとなえる。いねむりをする。あとまわしにする。そんなことをすれば睡魔におそわれて、とうていとなえきれないと知りながら、いちばん最後の時間まで持ち越す。……たぶん、ときどきは、省略することもあろう。
 こうなれば、せっかくの霊薬も、毒になるだけ。賛美のいけにえも、罪の連禱になるだけだ。
 しかも、おそらく、小罪だけではすまないようになるだろう。
 
第四の過程――前のと、つながっている。
 ふちは、ふちを呼ぶ!
 こんどは、聖務日課どころではない。
大切な秘跡にまで、堕落の手をのばす。
 むろん、聖物だと思って、受けもし、授けもするだろう。
 だが、秘跡に含まれ、そこに鼓動している超自然の生命は、すこしも実感できない。
 イエズスが、聖櫃の中に現存しておいでになる、告解場にも臨在しておいでになる、とはタダ書物のなかの知識であって、この信仰が、かれの霊魂の深奥までしみとおっていないのである。
 カルワリオのいけにえたるミサ聖祭までが、かれにとっては、“閉ざされた園”である。たしかにまだ、汚聖にまでは行っていないだろう。すくなくとも、そう信じたい。だが、かれはもはやキリストの生ける御血の愛熱を、すこしも実感しない。聖変化のときも、心は氷のようにつめたい。聖体拝領も、冷淡で、気を散らしたまま、そして上べだけである。聖の聖なる儀式とスッカリ慣れっこになって、尊敬心などみじんもない。ただ仕来たりで、なんの気乗りもなしに執行している。おそらくいやがってさえいるのではなかろうか。
 こうまで格好悪い使徒の生活は、あきらかに、イエズスのご生命から遠く、かけはなれている。したがって、イエズスが、その親しい、ほんとうの友にでなければおささやきにならない内的なお言葉も、かれにとってはなんの興味もない。
 それでも、天主なる友のイエズスは、この不信の弟子に呼びかけることを、かたときもおやめにならない。かれの良心の空に、あるときは、おしかりのカミナリをとどろかし、あるときは、照明の稲妻を、お放ちになる。
 イエズスは、反響を待っておいでになる。心のとびらを、たたいておいでになる。 
 内に入れてくれ、と願っておいでになる。

 「わたしのもとにおいで、傷ついたあわれな霊魂よ、ただわたしのもとに来なさい。来さえすれば、なおしてあげよう。『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』(マテオ11・28)……『わたしこそは、あなたの救いである』(詩編34篇)……『わたしのもとに来なさい。人の子が来たのは、失われたものをたずねだして、救うためである』(ルカ19・10)……」
 イエズスは、こういっておいでになる。
 ああ、そのお言葉の、心にも耳にも、甘美なこと!
 やさしくも哀切なこと! それは、涙なしにはききえない。
 ああ、そのお言葉の、迫力にみちてること!
 「心を入れかえなければならぬ。もっとりっぱにならなければならぬ!」
 かれは、スッカリ感激して、心にこう誓うのである。

 ああ、しかし、心のとびらが、わずかしか開かれていないので、イエズスはおはいりになれない。冷えきった霊魂の園には、あたたかい良い考えのタネがたくさんまかれたが、明日の収穫はとうてい期待できない。天主の恩寵はいたずらに通りすぎて、霊魂にもたらしたものは、ただ忘恩という負債だけだ。

 それでも、イエズスは憐れみ深い。霊魂が天主の復しゅうを呼ばないために、その心に語り続けられるだろう。「イエズスを、おそれなさい。イエズスは、ひとたび通りすぎたら、二度とは帰ってこられないのだから」Time Jesum transeuntem et non revertentem と。

(この章 続く)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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