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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2017年10月20日 証聖者ケンティの聖ヨハネの生涯とファチマ

2018年02月07日 | お説教・霊的講話
2017年10月20日(金)証聖者ケンティの聖ヨハネのミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年10月20日、ケンティの聖ヨハネの祝日です。
今日のこの御ミサの後に、感謝の祈りの後に、いつものように一緒に終課を唱える事に致しましょう。明日も10時30分からミサがあります。



「憐れみのある人は、羊の牧者がその群れにするように教えて、道を示す。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はケンティの聖ヨハネの祝日です。ポーランドの守護の聖人です。

そこで今日、ケンティの聖ヨハネという人はどういう人だったのかという事を黙想して、その人生を垣間見て、

私たちはその聖ヨハネの一体、人生の中心の原理は何に基づいて生活していたのかを見る事に致しましょう。

最後に、私たちは聖ヨハネに倣ってどうすれば良いか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

聖フランシスコ・ザヴェリオが日本に到着して、まだ数年経つか経たないか、20年経つか経たないか、ポーランドのクラクフという街のケンティという村で、聖ヨハネは生まれました。

お父さんはスタニスラオ、お母さんはアンナという、とても敬虔な家族に生まれました。子供の頃から敬虔で、とても落ち着いていて、軽薄な所がなく、罪を知らない子供で、とても優しい良い子で、「きっとこの子は大きくなったら大聖人になるだろう」という事を思わせる子供でした。

頭が非常に良かったので、学校で学んだ後には、クラクフの大学まで進んで、哲学と神学を勉強しました。大学では勧められて教授になり、聴講生たちをその教えと、模範と、実際の生活態度や、あるいはその話す内容で、イエズス様への愛と信心で、聞いた人の心は必ず燃え立たせるようなものでした。

学徳も聖徳も認められて、ついに司祭に叙階されます。司祭になると、ますます司祭としての務めとして、天主様に対して罪の償いと、イエズス様、これほどまで私たちを愛するイエズス様、十字架の苦しみ、御血を流し、御聖体に留まり、私たちを日々、日夜愛して待っておられるイエズス様があまりにも愛されていないので、その罪の償いの為に聖務日課や、あるいはミサ聖祭、祈りと犠牲をたくさん捧げて、罪の償いをしていました。特にミサ聖祭を一生懸命真剣に立てて、罪の償いの為に、天主聖父にイエズス様のいけにえを捧げていました。

イクシーという所の小教区の主任司祭を数年していたのですけれども、あまりにも人々がイエズス様への愛から遠ざかっているという事を嘆いて、それを見るあまりに、そこでの主任司祭を続ける事ができなくなってしまいました。また学校からの要請があり、「ぜひ教授として、学生たちを指導してもらいたい」というひたすらのお願いを受けたので、そこに天主の御摂理を見て、愛の為に、この教授の職務を受け取りました。

もちろん授業を一生懸命準備して、講義して、神学・哲学を教えたのみならず、余った時間には燃え立たせるような火の付くような御説教をして、人々にイエズス様への愛を訴えて、あるいは燃え立つような祈りをいつもして、人々が天主様に立ち返るように、イエズス様をお愛しするように、イエズス様の愛がどれほど素晴らしいか、イエズス様を知るというのがどれほどの事か、という事をいつも訴えて、祈っていました。

聖ヨハネはおそらく、イエズス様と親しい、緊密な祈りを会話をしていたに違いありません。聖ヨハネがお祈りをする時にはきっと間近に、王であるイエズス様の現存を思い浮かべて、その現存の中に、全能の王の前に御前に出て、目と目を合わせて、天主様のその愛の深い眼差しに、ヨハネの愛の眼差しをもって、イエズス様に懇願して、特にイエズス様の御受難を黙想してそれに、イエズス様に祈りを捧げていた、との事です。特にイエズス様の御受難を黙想すると、ついつい時間を忘れて、夜通し黙想し、お祈りし、気が付くと朝になっていた、という事がよくあったそうです。

言い伝えによると、聖務日課によると、聖ヨハネの伝記によると、イエズス様を時々ビジョンで見たり、あるいは親しい会話を、天上の会話をしていた、との事です。天主様の御前にこうやって出て、霊魂の為に、「この霊魂を救ってください」「あの苦しい霊魂を助けてください」「あの私の友のあの霊魂を」「あの霊魂の為にこれを御捧げします」「あぁ、この霊魂を」と、イエズス様にお願いしていたのだと思います。

遂に、「イエズス様のこの御受難をぜひもっとよく知りたい、もっと黙想したい、もっとどうだったろうか」というその情熱のあまりに、エルサレムに巡礼さえもします。イエズス様の巡礼の地に詣でて、その血が流されたその聖なる地に行って、イエズス様の事だけに浸っていました。その情熱のあまりに、本当は非常に危険だったのですけれども、イスラム教徒たちに、イエズス様の十字架に付けられた事、その私たちに対する愛、その価値の尊さ、その真のいけにえについて、説教して回ったそうです。

エルサレムに行った後にはローマにも、エルサレムに行った他にもローマにも4回ポーランドから巡礼に行きました。使徒たちのお墓を巡り、きっと私たちがローマに行った時に受けたその感動を、更に大きなものを、大きな感謝と讃美のうちに、使徒聖ペトロ、聖パウロ、諸聖人のお墓のもとに行って、取り次ぎをお祈りされたのだと思います。

特にそのような巡礼を、自分の愛する隣人や煉獄の霊魂たちの為に捧げた、と言います、煉獄の霊魂たちがその苦しみが短くなりますように。

ある時には、ローマで泥棒に遭いました。身ぐるみを剥がれてしまうのですけれども、その時に盗賊はヨハネに「さぁ、お金はまだあるか!?」「ない。」「そうか」と言って帰ったそうです。すると、いざという時の為に金貨を隠して縫ってあったのを思い出して、「あれ?あ、ここにある、あった!」という事で、盗賊を呼び戻して、「おーい!友よ、ここにまだあった!あげる」と言ったら、その盗賊が、あまりにもこのヨハネが単純で、憐れに満ちた事を言うので、それにびっくりして、「そこまでしたら、本当にお前がかわいそうだ」という事で、自分の取ったものを全部返して、「お前、これで行け。ありがとう」とそのまま自分の取ったものを返した、という逸話があります。

あるいは聖ヨハネは、特に罪人、あるいは貧しい人、病の人に対する、あるいは弱い人に対する特別の優しさがあったので、自分の部屋にはあるいは食卓には、聖アウグスティヌスの部屋に食卓にあった格言と同じものが書かれてあったそうです、「ここでは他人の悪口を言わない。」聖ヨハネは決して他人の悪口を陰口を言わなかったそうです。貧しい人がいれば自分の食べ物を与えて、あるいは服がない人がいればその人に服を買ってあげたり、あるいは自分の持っている服をあげたり、ある時には必要なものをあげてしまったので、その隠す為にマントを覆って足を隠して家に帰ってきて、善行をしたという事が分からないように帰ってきた、とても控えめだった。

自分については非常に厳しくて、いつも床に、寝台も使わずに床にそのまま地べたに寝ていて、食べ物も着る物も、最低限だけで非常に満足していた。それだけではなく、いつも身に荒々しい毛皮のようなチクチクする物を着ていて、体には鞭打ちをしたり、非常にしばしば断食をしていて、特にこのような肉体での苦行は、貞潔を守る為に非常に熱心に行った。それから最後の死ぬ前の35年間は肉を絶って、小斎をずっと守っていた。いつも「この人生は短い」という事を知っていて、「この儚い、短い人生の後に、永遠の巨大な、長い長い終わる事のない幸せが待っている」という事をよく知っていたので、長い間人生のすべてを使って、良い死を迎えるように準備をしていた。

準備をしていて、準備をして準備をして、良い死を迎える事ができるように、いつも成聖の状態を保っていたのですけれども、自分の健康が衰えてきて、「あぁ、死期が近付いた」と分かると、自分の持ち物を全部貧しい人に配ってしまった。「いつもイエズス様と一致していたい」という願いだけしか持っていなかった。そこで聖ヨハネは1473年の12月24日、クリスマス・イブに亡くなりました。

聖ヨハネの取り次ぎによって、生きていた時もそうだったのですが、死後ものすごい多くの奇跡が起こって、そのお墓にお参りする来る人の数がますます増えていったのです。遂には、教皇様クレメンテ十三世は1767年に列聖して、ポーランドとリトアニアの守護の聖人と定めました。

では聖ヨハネの関心事というのは何だったのでしょうか?

それは、「天主様の憐れみ」であって、「天主がこれほども私たちを愛して下さってるのもかかわらず、愛されていない。だからその天主をお慰めしたい。その罪を償いたい」という願いでした。その為に、祈りと犠牲と苦行の一生を送りました。

もう1つは、「天主様のこの御望みは、霊魂の救いだ」という事で、「多くの隣人が、この霊魂が救われるように、特に弱い人や、かわいそうな人や、貧しい人を助けたい。無知の人、知らない人に、イエズス様の事を教えたい」という憐れみで燃えていました。特に「隣人の霊魂を救いたい、その隣人を助けたい」という事によって、隣人に接しておられました。この2つは結局は1つでした、「天主への愛」と、「天主を愛するが為に、多くの隣人を救いたい」という事でした。

ケンティの聖ヨハネの生涯を見ると、ちょうどファチマの二人の子供たちの生涯や、ファチマでマリア様が私たちにお願いした事とぴったり重なってきます。ケンティの聖ヨハネもマリア様も、私たちに同じ事を教えているようです。

「天主様は私たちを救いたい、永遠の命を与えたいと思っている。その為に全てをしたのだけれども、その愛は愛されていない。全く無視されて、それどころかもう既に極限まで侮辱され続けている。人類はこれ以上、罪を犯してはいけない。誰かがその罪の償いをしなければならない。その罪の償いというのは、単なるお祈りの口先だけで唱えるだけではなく、私たちがイエズス様の御前に行って、目と目を合わせて、イエズス様の天主の御稜威の前に、『マリア様と共に出ることができる』という特別の特権を使って、ぜひマリア様を通して、イエズス様に御憐れみと御赦しとを乞い求めて償いを果たす。天主に対する罪の償いを果たすと同時に、多くの霊魂が救われるように私たちが祈る、犠牲をする」という事ではないでしょうか。

では私たちも、マリア様の御心に入る事ができますように、ケンティの聖ヨハネの真似をする事ができますように、御取り次ぎを求めて、このミサを捧げていきましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日、2月7日は初水曜日(月の初めての水曜日)です「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」

2018年02月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2月7日は初水曜日(月の初めての水曜日)であります。

「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。



なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

2018年に聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
2018年に聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である 二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命

2018年02月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命

内的生活をいとなまない、使徒的事業家の落ちていく運命!
 それがどんなものだかは、一言でいいきることができる。――そういう事業家は、かりにまだ冷淡(tiède)におちいっていないとしても、しかしそれは、時間の問題である。宿命的に、必然的に、ひどい、とりかえしのつかぬ冷淡におちこんでいく。

 さて、内的生活において、冷淡であること、――感情や、自然の弱さからの冷淡ではなしに、“意識的な、故意的な冷淡”に沈んでいること、それはいったい、どういうことなのか。――霊魂が、習慣的に、しかも自分で承諾して、何の抵抗もなしに、放念とか、怠慢とか、そういったものに、好んでおちいっている、ということだ。自分で知りながらおかす小罪と仲よしになる、ということだ。それは同時に、霊魂から、救霊の保証をうばい取る、ということだ。大罪までもおかす気持ちになる、大罪にまで引きずられていく、ということだ。

 聖アルフォンソは、冷淡について、右のように教えている。そして、弟子のデシュルモン師(P. Desumont)は、それをみごとに解説している。

 内的生活をいとなまない使徒的事業家は、はたして必然的に、冷淡におちこむのか。――必然的におちこむのだ、といわざるをえない。この事実を証明するためには、司教で宣教師でもあったラビジェリ枢機卿(cardinal Lavigerie)が、その司祭たちにあてた次の言葉を引用すれば足りると思う。語る人が、使徒的事業への奮発心にもえる心から、それを発していることと、静寂主義をにおわせるものにたいしては、真っ向から反対する傾向のある性格の持ち主であっただけに、そのくちびるをついて出るものは、いっそう恐るべき強力な真理の言葉となって、ひびきわたる。
 枢機卿は、こういっている。
「この一事を、心に納得させておかねばならぬ。――すべて使徒たる者にとって、完全な聖性(すでに達成した聖性、という意味ではないが、すくなくとも、心でそれを望み、忠実に勇敢に、その達成を追及している聖性)と、完全な堕落とのあいだには、うす紙ひとえの距離しかない!」
« Il faut en être bien persuadé: pour un apôtre, il n'y a pas de milieu entre la sainteté complète au moins désirée et poursuivie avec fidélité et courage, ou la perversion absolue.»

 上の言葉を完全に理解するために、まず思いださねばならぬことは、原罪の結果、三つの邪欲が、われわれの人間性に、すでに堕落のタネをまいている事実である。霊魂の内にも外にも、敵が群がっているから、これとたえまなく戦わねばならぬ。危険は、四方八方から、霊魂をおびやかしている。これが、一方の事実だ。
 他方、使徒職にたずさわっている人で、もしかれが、おのれをとりまく危険にたいして、十分に備えをなし、十分に心をかためていなかったら、どんな運命におちこんでいくかを、研究しておく必要がある。

 Nというカトリック信者が、ここにいる。
使徒的事業に、一身をささげたい、という望みが、かれの心に芽ばえる。ところが、Nはまだ、この方面の経験がない。使徒的人物にあこがれ、使徒職に興味をもっているのだから、情熱の人である。血気にはやる性格である、と信じてもよかろう。活動に興味をもっている、おそらく教会の敵とのたたかいにも、興味をもっている、と想像してよかろう。さらに、仮定をゆるしていただくなら、かれの品行は、方正である。信心もある。熱心な信心家ですらある。だが、かれの信心は、天主のおきてを完全に、忠実に実行する意志の信心というよりむしろ、感情的信心である。さらに、かれの信心は、ただ天主のみをおよろこばせしよう、と決意している霊魂の反映ではなくて、いわば信心家らしい習慣の惰性(だせい)である。それは、賞賛すべき習慣ではある。だが、たんなる仕来たりにすぎない。
 黙想――もしかれが、それをしているとすれば――は、かれにとって、一種の空想、一種の知的遊戯でしかない。霊的読書も、一種の精神的気休めでしかない。好奇心のたわむれでしかない。したがって、かれの実生活にプラスするような効果は、なにひとつ生じない。おそらく、悪魔にだまされたのだろう、つまらぬ霊魂たちがよくそうしているように、かれもまた、ただ芸術的感興だけをもって、内的生活を味わっている。
 天主との一致について、高遠な、異常な道を論述している書物に、ことのほか興味をおぼえる。そしておのれもまた、著者の口まねをして、情熱的にそれを賛美し、それを論じる。せんじつめれば、この人は、ほんとうの内的生活はすこしも持っていないのである。持っているとしても、ごくごくわずかである。よい習慣は、いくらも持っている。自然の美質、自然の長所も、たくさん持っている。感心するほどの良い願望も、いくらかは持っている。だが、それはあまりに漠然と取りとめもない願望なので、天主と忠実に一致して生きる内的生活を、ささえてくれるほどに強烈ではない。
 これが、われわれの主人公Nさんの、ありのままの姿である。 

 いまやかれは、使徒的事業のために働きたい一心から、奮発心にもえて、いよいよこの新しい仕事にとりかかるのである。やがて、新しい仕事は、また新しい環境をいくつも作りだした。そして、この環境のゆえに、かれはだんだんおのれの外にでて、うわッつらな生活をせざるをえなくなった。そのために都合のよい機会が、次から次へと起きてくる。(使徒的事業にたずさわっている人だったら、だれでも、筆者のいっていることが理解できよう!)

 生まれつき物好きにできている、かれの性格を満足させるために、世間はよくしたものだ。浮き世の魅惑が、くびすを接して、面前に姿をあらわす。堕落の機会は、かぞえきれないほどやってくる。今までは、家庭とか、神学校とか、修練院の静かな敬けんなふんい気のなかにあって、または少なくとも、賢明な指導者の保護のもとにあって、なかば安全に守護されていたろうが、今は丸腰で、単身敵地にとびこんだようなもの。

 放心は、ますますひどくなる。なんでも見たい、なんでも知りたい、という危険な好奇心は、ますます強くなる。ちょっとした不愉快な出来ごとにも、がまんできない。すぐに腹を立てる。虚栄心は強くなる。嫉妬心はますます深くなる。あまりにおのれを頼みすぎる自負心、困難を前にしてしりごみする卑きょうな心、不公平、他人の悪口――こういう欠点がふえてくる。

 そればかりでない。心の弱さとか、多少にかかわらず、あらゆる種類の過度の愛情が、――活動の対象たる異性にたいする、または同性にたいする、あまりに自然的な情愛がだんだん心のなかに侵入してくる。かれの霊魂は、こういうことにはあまり訓練されていないので、そのはげしい絶えまない襲撃にむかって、間断なく戦わねばならぬ。かくて、霊魂は、しばしば深い痛手をこうむるのだ。

 そればかりならまだしも、かれはいったい、誘惑と戦うことを、まじめに考えているのだろうか。――うわッつらな信心しかもたないこの霊魂が。すでに自然的な、あまりに自然的な満足に、おぼれきっているかれが。自分は、たいへんりっぱな、たいへん高尚な目的のために働いている。自分の全活動を、全精力を、全能力を、そのためにささげつくし、消耗しつくしている、とウヌぼれているかれが……。

 そのうえ、悪魔は、注意ぶかく、かれの霊魂をねらっている。すでに、うまい餌をかぎつけたからだ。かれの自然的な、人間的な満足に反対するような、ヤボな悪魔ではない。それどころか、かえってその満足の炎に、油をそそぐ。全力をつくして、ますますかれを、おだてる。

 ある日、突然に、かれの目がさめる。シグナルは赤だ! 危険信号が、かれの目の前に出ている。守護の天使が、かれの耳にささやいたのだ。良心が、かれをとがめたのだ。――黙想をして静かに自分の生活を、反省しなければならぬ。自身の内部に、しりぞかねばならぬ。日常生活を取り締まる、なにかの規則を定めて、万難を排しても、それをまもりとおすように、強い決心をとろう。けっしてそれを破らないようにする。こんなにまで可愛くなったこの仕事、あの職務が、たといそのために、台なしになったとしても。

 ここまでは、殊勝な考えである。
 ああ、しかし、もうおそい。

 霊魂は、事業にそそぎこんだ努力が、はなばなしい成功によって、報いられるのをみて、スッカリ有頂天になっている。歓喜の美酒に、酔いしれている。
 「明日、明日になったらやろう。きょうはダメだ!」霊魂はこうさけぶ。「きょうは、とてもできない。だいいち、時間がない。前からやりかけているこの説教を、したくしなければならぬ。あの記事を書かなければならぬ。この信心会を組織し、あの慈善事業を起こさねばならぬ。この演劇会、あの音楽会の準備をしなければならぬ。そうそうこの旅行もしなければならぬ。もらった手紙には、返事を出さなければならぬ。しかもそれが、山のようにたまっている……」
Demain, demain, s’écrie-t-elle. Aujourd’hui, impossible; le temps manque, car je dois continuer cette série de sermons, écrire cet article, organiser ce syndicat, cette société charitable, préparer cette représentation, faire ce voyage, mettre à jour ma correspondance, etc...

 これはりっぱな、いいわけになる。かれは安心する。幸福にさえ感じる。自分の良心とさしむかいにならねばならぬ、と考えただけで、暗い気もちになるかれだ。まじめにおのれを反省するなんて、とうていがまんできることではない。

 悪魔が全力をふるって、思うぞんぶん、破壊と堕落の仕事をするのに、絶好のチャンスである。その時が、いよいよきた。かれの心はもはや、悪魔の加担者になりきっている。堕落のしたじは、もうりっぱにできあがっている。悪魔のぎせいになり終わったかれにとって、いそがしく立ち働くということは、すでに一種の情熱、一種の熱病とさえなっている。アヘン喫煙者が、アヘンなしには生きていかれないように、かれもまた、活動という刺激剤がなければ、すぐにさびしさを感じる。仕事につきものの喧騒を忘れる、おのれの心奥に沈潜する――こういうことは、とうていがまんできない。悪魔がその嫌気をふきこむのだ。そのうえ、悪魔は、次から次へと、新しい計画を、かれの頭にそそのかしてやまない。天主の光栄のためだ、世の人びとの大いなる利益のためだ、といって。じじつ、悪魔がもちだす動機は、いつもきまって、このうえなくりっぱである。

 これが、偉大な使徒を夢みていた、われわれの主人公のなれの果てなのだ! しばらく前までは、善良な習慣もたくさん持っていたのに、今ではもう弱さから弱さへと、さ迷いあるき、その弱さも、いっそうひどくなってゆくばかり。かれはいま、すべりやすい急な坂に、片足をのせているのだ。どうして谷底に、ころげ落ちないですむだろうか。

 不幸な人よ、あなたは良心がくもっているために、自分の活動が、それから生じる心身の焦燥が、すこしも天主のみ心にかなっていないことを、さとらずにいる。あなたは良心の声をちっ息させるため,良心の苛責をまぎらわすために、常にもまして活動へ活動へと、死に物ぐるいになっている。活動の渦巻きの中へとびこんでいく。胸中の苦悶を忘れるために!

 だが、そうすればするほど、必然的に過ちはふえていく。以前は、良心の苛責なしにはやれなかったことも、いまでは平気で、軽べつしながらやってのける。「なあに、自分が細心だから、いけないんだ!」心はそういっている。「時勢におくれをとらないように、注意しなければならぬ。当世の教敵とたたかうには、敵とおなじ武器を使用せねばならぬ!」

 そのために、かれは、いわゆる“積極的善徳”なるものを、さかんに礼賛する。謙遜とか、制欲とか、従順とか、克己とか、そういった消極的善徳は、時代おくれの信心である、中世紀の残骸である、といって軽べつし、排せきする。そのうえ、事業は、いつもよりずっと繁栄するものだから、人びとはかれをほめそやす。毎日毎日、新しい成功が、かれを訪れる。「天主さまは、わたしの事業を、祝福しておいでになる!」あざむかれた霊魂は、こうさけんでホクホクしている。「明日、明日になったらやろう……」といっていたその“明日”は、なるほど、いつものようにやってはくるだろう。だが、その明日は、大きな過ちにおちいっているかれ自身の、みじめな姿をたずさえてやってくるだけだ。――天使たちを号泣させるような、堕落におちこんでいるかれの姿を!
(この章 続く)

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