Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

来る2月11日(主日)は五旬節の主日です。大阪で午後6時から聖伝のミサが挙行されます。

2018年02月06日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 来る2月11日(主日)は五旬節の主日です。大阪で午後6時から聖伝のミサが挙行されます。ミサの固有文をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【解説】五旬節の主日 二級主日 典礼色:紫 II CLASS  VIOLET
指定巡礼聖堂。聖ペトロ大聖堂
救霊の事業は、天主の人間への愛と、キリスト教的生活によってわれらの行う愛とに、基づいている。四旬節の準備を終えるこの主日を行うに当たって、典礼は、以上のことをわれらに思い出させる。われらがもし愛を持っていなければ、われらは空しいものである。本日、<聖福音>は、われらがこれから行う復活の奥義を省略して、こう言っている。イエズスは死につき給うが、三日目によみがえり給うと。

入祭文 詩篇Psalm 30:3,4  
ESTO mihi in Deum protectórem, et in locum refúgii, ut salvum me fácias: quóniam firmaméntum meum, et refúgium meum es tu: et propter nomen tuum dux mihi eris, et enútries me. 天主よ、私の保護者、避難所、救い主となり給え。主は、私の力と支持とに在す、御名のために、私を導き、私を養い給え。
Ps. 30:2 In te, Dómine, sperávi, non confúndar in ætérnum: in justítia tua líbera me, et éripe me. Glória Patri et Fílio et Spirítui Sancto. Sicut erat in princípio et nunc et semper et in sǽcula sæculórum. Amen. 詩篇30:2主よ、私は主に依り頼み奉る。私はいつまでも辱められることがないであろう。主の正義によって、私を解き放ち、私を救い給え。願わくは聖父と聖子と聖霊とに光栄あれ。はじめと同じく、今もいつも、世々に、アメン。
Esto mihi in Deum protectórem… 天主よ、私の保護者、…

 

集祷文Collect  
  PRECES nostras, quǽsumus, Dómine, cleménter exáudi: atque a peccatórum vínculis absolútos, ab omni nos adversitáte custódi. Per Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum. 主よ、願わくは、御慈悲をもってわれらの祈りを聞き入れ、われらの罪の鎖を解き放ち、災いより守り給え。天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生きかつ治め給うわれらの主、聖子、イエズス・キリストによりて。
  ℞. Amen. ℞.アメン。

 

書簡Epistle コリント前書I Corinthinans 13:1-13  
LÉCTIO Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Corínthios.  使徒聖パウロの、コリント人への書簡の朗読。
Fratres: Si linguis hóminum loquar, et angelórum, caritátem autem non hábeam, factus sum velut æs sonans, aut cýmbalum tínniens. Et si habúero prophetíam, et nóverim mystéria ómnia, et omnem sciéntiam: et si habúero omnem fidem, ita ut montes tránsferam caritátem autem non habúero, nihil sum. Et si distribúero in cibos páuperum omnes facultátes meas, et si tradídero corpus meum, ita ut árdeam, caritátem autem non habúero, nihil mihi prodest. Cáritas pátiens est, benígna est: Cáritas non æmulátur, non agit pérperam, non inflátur, non est ambitiósa, non quærit quæ sua sunt, non irritátur, non cógitat malum, non gaudet super iniquitáte, congáudet autem veritáti: ómnia suffert, ómnia credit, ómnia sperat, ómnia sústinet. Cáritas numquam éxcidit: sive prophetíæ evacuabúntur, sive linguæ cessábunt, sive sciéntia destruétur. Ex parte enim cognóscimus et ex parte prophetámus. Cum autem vénerit quod perféctum est, evacuábitur quod ex parte est. Cum essem párvulus, loquébar ut párvulus, sapiébam ut párvulus, cogitábam ut párvulus. Quando autem factus sum vir, evacuávi quæ erant párvuli. Vidémus nunc per spéculum in ænígmate: tunc autem fácie ad fáciem. Nunc cognósco ex parte: tunc autem cognóscam sicut et cógnitus sum. Nunc autem manent, fides, spes, cáritas, tria hæc: major autem horum est cáritas.  兄弟たちよ、たとい私が人間と天使との言葉を話しても、愛がなければ、鳴る青銅と響き渡る銅鑼(どら)に等しい。たとい私が、預言の賜物を持ち、すべての奥義と学問に通じ、山を動かすほどの充ちた信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。たとい私が、持っているすべてのものを貧者の食物として施し、私の体を焼かれるために与えても、愛がなければ、益するところがない。愛は寛容で、情け厚く、愛は妬まず、誇らず、驕(たかぶ)らない。非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、人からの悪を気にせず、不正を喜ばず、真理[の勝利]を喜び、すべてを許し、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを耐え忍ぶ。愛は、いつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識は亡びるであろう。われわれの知識は不完全であり、われわれの預言も不完全である。完全なものが来るとき、不完全なものは亡びるであろう。私が子どものころは、話すことは子供のようで、考えることも子供のようで、論ずることも子供のようであったが、大人になってからは、子供のことを棄てた。今われわれは、鏡を見るようにぼんやりと見ているが、しかし、かの時には顔と顔を合わせてみるであろう。今私は不完全に知っているが、しかし、かの時には、私が知られているとおりに、完全に知るであろう。今あるものは、信仰と希望と愛とのこの三つである、そして、そのうちで最も偉大なものは、愛である。
  ℞. Deo grátias.  ℞.天主に感謝し奉る。

 

昇階誦Gradual 詩篇Psalm 76:15-16  
TU es Deus, qui facis mirabília solus: notam fecísti in géntibus virtútem tuam. Liberásti in bráchio tuo pópulum tuum, fílios Israël, et Joseph.  主は天主であり、主のみ不思議を行い給う。主は、異邦人のうちに御力をあらわし給うた。御腕をもって、主の民、イスラエルとヨゼフとの子らを救い給うた。

 

詠誦Tract 詩篇Psalm 99:1-2  
JUBILÁTE Deo omnis terra: servíte Dómino in lætítia. Initráte in conspéctu ejus, in exsultatióne: scitóte, quod Dóminus ipse est Deus. Ipse fecit nos, et non ipsi nos: nos autem pópulus ejus, et oves páscuæ ejus.  地上の民よ、天主に向かって歓呼せよ。喜びをもって主に仕え奉れ。喜びをもって、御前に出よ。主は、天主である。主は、われらをつくり給うた。われら自身がつくったのではない。われらは主の民、主の牧場の羊である。

 

聖福音Gospel ルカLuke 18:31-43  
℣. SEQUÉNTIA sancti Evangélii secúndum Lucam.  ℣.ルカによる聖福音の続誦。
  ℞. Glória tibi, Dómine.  ℞.主よ、御身に光栄あれ。
  In illo témpore: Assúmpsit Jesus duódecim, et ait illis: Ecce ascéndimus Jerosólymam, et consummabúntur ómnia, quæ scripta sunt per prophétas de Fílio hóminis. Tradétur enim géntibus, et illudétur, et flagellábitur, et conspuétur: et postquam flagelláverint, occídent eum, et tértia die resúrget. Et ipsi nihil horum intellexérunt, et erat verbum istud abscónditum ab eis, et non intelligébant quæ dicebántur. Factum est autem, cum appropinquáret Jéricho, cæcus quidam sedébat secus viam, mendícans. Et cum audíret turbam prætereúntem, interrogábat quid hoc esset. Dixérunt autem ei, quod Jesus Nazarénus transíret. Et clamávit, dicens: Jesu, fili David, miserére mei. Et qui præíbant, increpábant eum ut tacéret. Ipse vero multo magis clamábat: Fili David, miserére mei. Stans autem Jesus, jussit illum addúci ad se. Et cum appropinquásset, interrogávit illum, dicens: Quid tibi vis fáciam? At ille dixit: Dómine, ut vídeam. Et Jesus dixit illi: Réspice, fides tua te salvum fecit. Et conféstim vidit, et sequebátur illum magníficans Deum. Et omnis plebs ut vidit, dedit laudem Deo. そのとき、イエズスは、十二人の弟子を別に呼んで、言い給うた。「見よ、われわれはエルザレムに上る。人の子について、預言者たちが録(しる)したすべてのことは、実現するであろう。人の子は異邦人に渡され、嘲(あざけ)られ、辱めを浴び、唾(つばき)せられるであろう。彼を鞭打ってから、死に渡すであろう。そして三日目に彼はよみがえるであろう」。弟子たちはしかし、これらのことが、何一つ分からなかった、この言葉は彼らに暗かった、彼らは、何について言い給うたかが分からなかった。イエズスがイエリコに近づき給うたとき、一人の盲人(めしい)が、路端に座って、施しを乞うていた。群衆が通り過ぎるのを聞いて彼は、何事ですかと尋ねた。ナザレトのイエズスが通っておられるのだと聞かされた。盲人(めしい)は「ダヴィドの子イエズス、私をお憐れみ下さい」と叫んだ。先頭を行く者たちが彼を黙らせようと止めたが、ますます叫んで、「ダヴィドの子よ、私をお憐れみ下さい」と言った。イエズスは立ち止まり、彼を連れてくるようにと命じた。彼が近づいたとき、問い給うた、「おまえは私から何をしてもらいたいのか」。彼は「主よ、見えますことを」と言った。イエズスが彼に、「見えよ、おまえの信仰が、おまえを救った」と言い給うと、彼はすぐ見えるようになり、天主を崇(あが)めながら、イエズスに従った。人々は皆、これを見て天主を讃美した。
 ℞. Laus tibi, Christe.  ℞.キリストよ、御身に讃えあれ。

 

奉献文Offertory 詩篇Psalm 118:12,13  
BENEDÍCTUS es, Dómine, doce me justificatiónes tuas: in lábiis meis pronuntiávi ómnia judícia oris tui.  主よ、祝されんことを。私に御掟を教え給え。主の御口より出た教えを、私は自分の唇で繰り返した。

 

密誦Secret  
HÆC hóstia, Dómine, quǽsumus, emúndet nostra delícta: et ad sacrifícium celebrándum, subditórum tibi córpora, mentésque sanctíficet. Per Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum.  主よ、願わくは、この捧げ物によって、われらの罪を浄め、このいけにえを行うことによって、下僕たちの身体と霊魂とを聖とし給え。天主として、聖霊との一致において、御身とともに世々に生きかつ治め給うわれらの主、聖子、イエズス・キリストによりて。
℞. Amen.  ℞.アメン。

 

聖体拝領誦Communion 詩篇Psalm 77:29-30  
MANDUCÁVERUNT, et saluráti sunt nimis, et desidérium eórum áttulit eis Dóminus: non sunt fraudáti a desidério suo.  彼らは食べ飽きるほど食べた。主は、彼らの望みを満たし給うた。彼らの望みは欺かれなかった。

 

聖体拝領後の祈Postcommunion  
QUǼSUMUS, onmípotens Deus: ut, qui cœléstia aliménta percépimus, per hæc contra ómnia advérsa muniámur. Per Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum.  全能の天主よ、願わくは、われらが受けた天の糧によって、すべての災いよりわれらを守り給わんことを。天主として、聖霊との一致において、御身とともに世々に生きかつ治め給うわれらの主、聖子、イエズス・キリストによりて。
  ℞. Amen.  ℞.アメン。
 
   
   
   

ヨゼフ陳日君枢機卿:2018年2月1日より地下教会の信者たちは、地下神父のミサに与ることが黙認・黙許されなくなる

2018年02月06日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 中国のカトリック教会のために特に聖母にお祈りください。


 香港の引退司教ヨゼフ陳日君枢機卿によると、

現在也沒有理由改變我的悲觀:政府訂出了更嚴格的宗教規則,有些早已存在而不執行的規則也要嚴格執行了。從二月一日起地下教友絕不許參與地下神父的彌撒了(大家等着看吧)!」

 つまり、中国共産党政府は、さらに厳しい「宗教規則」を制定しようと提出した。今まで存在していたけれども執行されていなかった規則も、厳格に執行する。2018年2月1日より地下教会の信者たちは、地下神父のミサに与ることが黙認・黙許されなくなる。

 聖母の汚れなき御心よ、中国のカトリック教会のために、中国の信徒たちのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


マルグリット・ペタース(Marguerite A. Peeters):ジェンダー論は、世俗化という革命の木になる実:ジェンダー革命は、「理論」ではない、人間の存在の現実、真実、善を否定する課程だ。

2018年02月06日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ジェンダー論に関するマルグリット・ペタース(Marguerite A. Peeters)と Zenit 報道局とのインタビューをご紹介いたします。







【要旨】
ジェンダー論は、世俗化という革命の木になる実。

革命によって、個人と人格(ペルソナ)、市民と父親、世俗と信仰、権利と無償の愛、理性と信仰、国家と教会が分離した。

世俗化した「市民」とは、性別もなく、自分の利益を求めない贈与や愛がない。

個人の平等な権利と選択の自由が、父親、家族、愛を分断し、個人・市民を作り上げた。

私たちはジェンダー論のバベルの塔に住んでいる。

現代、理性を否定する非合理主義のと、様々なイデオロギーを生み出す合理主義とは「信仰と理性の分離」において繋がる。

ジェンダー革命は、「理論」ではない。人間の存在の現実、真実、善を否定する課程だ。

ジェンダー論に対するのは議論ではない。これは光と闇の戦い、命と死の戦い、愛と憎しみの戦い、真理と偽りの戦いだ。

人類は愛の文明を望んでいる。人間は天主の似姿に創られている。聖父と聖子と聖霊との三位一体なる天主の似姿だ。


【マルグリット・ペタースとは?】
マルグリット・ペタース(Marguerite A. Peeters)は、1963年ニューヨークで生まれ、冷戦後の新世界コンセンサスが国連のもとにどのように構築されていったかを研究するジャーナリストとなりました。
2003年、彼女は文化間対話動態研究所(Institute for Intercultural Dialogue Dynamics)を創立し、グローバル化の鍵となる概念や価値やメカニズムの道具を識別する教育用教材を作りました。数々の本も書き、その中には
『民主主義を乗っ取る -- 選挙されない人々への権力の移行』(Hijacking democracy, the power shift to the unelected)
『新しい世界倫理 -- 教会への挑戦』(The new global ethic, challenges for the Church)
『ジェンダー革命』(The gender revolution)
その他があります。
彼女は、教皇庁立「信徒評議会」および「文化評議会」の顧問(consultor)の一人でもある。

ジェンダー論の核心とは?

1950年代にジェンダー論をねつ造した社会エンジニアらによると「女性と男性のアイデンティティーも、妻としての女性、母としての女性教育者としての女性の存在論的な構造も、文化人類学的な男女の相互補完性も、父性も、異性間のセクシュアリティも、婚姻も、伝統的な家庭も、それ自体としては存在しないし、それ自体で良いものではない。それらは社会的虚構に過ぎず、社会学的現象であり、時間をかけて作られた社会的機能であり、ステレオタイプ(判で押したような固定観念)で、差別的であり平等と反対なので教育と文化によって破壊されなければならないもの」とされます。

何故、今このことが話題になるのか?

西洋文化は過去数世紀の間、革命を体験しましたが、最近50年は革命が劇的に加速しました。その論理的な結果としてジェンダー論が提案されました。ジェンダー論は、歴史から離れた孤立的な現象ではありません。これは「父親」「母親」「夫婦」というものの文化的死へと進歩的に導かれた、長い世俗化(聖なる天主をこの世界から無くそうとすること)の過程の実り(結果)です。世俗化は、愛から愛のために生まれた人格(ペルソナ)の代わりに、世俗の「自律の」「個人市民」を入れ替えました。

人間の死を望む人々によって導かれたこの過程で、さらにその目的を追求しようとします。この過程は効果的に進んでいますが、静かに進んでいます。これは、言語的操作、同意の構築、科学者による義論、教育改革、「対話」などのソフトな社会変革のテクニックを使っています。

西洋のキリスト者たちは、しばしば遠くにいる受動的な傍観者として振る舞ってきました。多くの人々が過去40年間にしてきた妥協について何も発言しようとしませんでした。彼らは「進歩的」で「開放的」な革命の提案と革命のダイナミズムに魅惑されたかのようでした。革命の先鋭的なイデオロギーに対して「批判的な一般大衆」が抵抗しなくなったとき、しかも彼らがそれに全面的に賛成する時、革命は完成します。

ジェンダー論とは、この世俗化という革命の木になる実として熟れたとき落ちてきます。ジェンダー論を聞いて私たちはショックを受けますが、これは私たちがどれほどイデオロギーの進化に注意を払ってきていなかったかを物語っています。ちょうどカール・マルクスが「共産党宣言」を1848年に最初に発表した時と、1917年のボルシェヴィキ革命との間には70年の年月があったことを忘れないで下さい。

このジェンダー論のアジェンダ(行動計画)はどんなものか?

ジェンダー論が1950年代に最初に現れて、フランスとアメリカの大学で1968年5月のあたりにイデオロギー的なジェンダー論のプロジェクトが形を見せ始めました。西洋のフェミニストと性革命の波に乗って、ジェンダー論はますます社会変革の力を得ていきます。
1960年代、西洋のポスト・モダンの知識人たちと、国際組織とのパートナーシップの結果、ジェンダー論は1995年北京会議でグローバルな政治規範として採用されました。
ジェンダーの平等は、国際協力の効果的な優先課題となりました。発展途上国における発展援助を受ける条件としてジェンダー論が強制されました。しかも、カトリックの愛徳事業の多くが発展途上国の司教様たちやキリスト者たちに対してもこの条件が課せられました。

ジェンダー論というのは不可避的にイデオロギー的なのか?

グローバル文化および政治的規範としてのジェンダーの平等は、女性の平等な尊厳がかならずしも尊重されていなかった国々では、一般大衆にとっても指導者たちにとっても魅力的です。しかし、ジェンダーの平等というのは、ピンからキリまである様々な解釈の余地のある概念です。それらは全て一つの源から始まっています。それは女性を「市民としてだけ」見て、「天主と家族の関係(娘・妻・母親)とから自律・独立した者」、「避妊・堕胎・人工授精・自発的不妊手術の権利を持つ者」、「男として性的傾向への権利を持つ者」と考えることです。これらの見解には、はっきりとした区別の線がありません。

西洋の歴史は、世俗主義のドアをひとたび開けると、一つのことからその他の多くのことへと引き起こされていることを証明しています。すべてはフランスで18世紀にフランス革命で始まりました。個人と人格(ペルソナ)の分離があり、市民と父親の分離、世俗と信仰の分離、権利と無償の愛の分離、理性と信仰の分離、国家と教会の分離が始まりです。ジャン・ジャック・ルソーは「父親であるとは、平等とは反対の社会的特権である」と宣言したではないでしょうか?

平等と自由の名前でフランス革命は「父親・母親・夫・妻・息子・娘」に弁証論的に対立する用語として「市民・個人」を促進しました。「父親・母親・夫・妻・息子・娘」という言葉は、人格をもったペルソナとしての人間と置き換えることができます。しかし、世俗化した概念である平等の「市民」というのは根本的に誰も全く同じです。市民とは性別もなく、いわば「中性」です。「市民」には、無私の奉仕や自分の利益を求めない贈与、愛、というものがありません。

過去数世紀にわたって、個人の平等な権利と選択の自由とは、社会的に・司法的に・政治的に、父親であること、家族、愛、を乗っ取ってしまいました。粉々に分断された個人・市民は、まったく世俗的な新しい土台の上に人間を再構築することができるようになりました。それがジェンダー論です。

非西洋文化は、西洋の世俗化・ライシテ(laïcité)とはよそ者であるのですが、これらを自由に選びました。非西洋は、西洋を生かしてきた霊魂を再発見することができるように西洋を助けることができます。西洋が市民と父親とを和解させ、市民とキリスト者との和解、権利と無償の愛とを和解させることができます。さらに家族に社会の基礎細胞であるという正しい地位を戻させることが。

ジェンダー論の挑戦に合理的な義論をして答えるべきか?

確かにジェンダー論とその展開 --- 例えばクィア理論(Queer theory, 퀴어 이론)で、これは男性や女性の肉体は社会的構築であるとする --- は、理性に大きな抑制を与えます。また、ジェンダー論の理論家たちは、自分たちの間で自分たちの作り出した用語の意味について論争しています。例えば、性的アイデンティティー、ジェンダー・アイデンティティー、性的規範、性的傾向、性的嗜好、性的役割、ジェンダーの役割、性的行動、ジェンダーのステレオタイプ、性的多様性、などなどです。彼らの主張は互いに矛盾し合っており、私たちはバベルの塔に住んでいます。

ポスト・モダンの非合理主義は「哲学の終焉」を宣言し、近代の合理主義は一連のイデオロギーを絶え間なく生み出し続けていますが、この二つはつながっています。相互に関係している「理性の歪曲」の根本に、信仰と理性の分離が横たわっています。

理性をそのあるべき位置に戻さなければなりません。理性を元通りにするためには、人間的な行為の課程に「良心」と「こころ」の役割に光を当てなければなりません。

西洋では、理性を信仰から切り離して「自律」させました。そこで西洋は数世紀にわたって理性に絶対的な首位権を与え続けてきました。そのために良心とこころが犠牲になりました。理性を否定することを選んだ人々は、合理的な義論を受け入れません、聞きもしません。ところでジェンダー革命は、何よりもまず、「理論」ではありません。これは、人間の存在にとって現実のもの、真のもの、良いものを否定するという課程です。これはこの否定を個人的にも、文化的にもやり遂げることです。

この「悪の神秘」と自由選択の神秘が考察されなければなりません。従って教育の分野においても私たちは良心の概念を再導入しなければなりません。良いもの、真理であるもの、愛を誠実に探し求めなければなりません。ジェンダー危機は、私たちが更に進むようにと招いています。 Duc in Altum.沖に乗り出せ!

私たちにとっては、知的な義論をするのが第一ではありません。これは光と闇の戦いです。命と死の戦い、愛と憎しみの戦い、真理と偽りの戦いです。

この戦いにおいて私たちは一人ぼっちではありません。キリスト者として私たちは聖霊と協力するように招かれています。

私たちは理性だけではなく、良心とこころを持っています。そして天主はすべての人々にご自分を啓示することをお望みです。人類は愛の文明を望んでいるのではないでしょうか?男も女も、天主の似姿に創られています。聖父と聖子と聖霊との三位一体なる天主の似姿です。父の愛、子供の愛、兄弟愛、そして夫婦の交わりです。私たちの人類学がなぜ三位一体的でないわけがあるでしょうか?











ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活は危険である その一(B)内的生活を放棄するとき活動的生活は救霊の敵となる

2018年02月06日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
一、使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である。
(B)内的生活を放棄するとき活動的生活は当人にとって救霊の敵となる
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
一、 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である

(B)内的生活を放棄するとき、活動的生活は当人にとって、救霊の敵となる

 だが、ここに悲しい事実がある。
 自分で指導した心霊修業の折り、筆者自身、この事実を確認したのである。すなわち、使徒的事業が、当人にとって、霊的進歩の手段となるべきはずなのに、かえって当人の霊的建物を破壊にみちびく道具にさえなっている、という事実である。

 使徒的事業家の一司祭が、黙想会に参加した。
 かれは、おのれの良心をよく糾明し、そのみじめな、不幸な状態にあきれはて、いったい何がこの不幸の原因なのかをさぐり、正確にそれをつきとめた末、筆者にむかって、一見不可解に思われる、次のようなざんげ話をするのだった。

 「わたしを、堕落させたのは、実は、わたしの奮発心そのものだったことに、気がついたんです。思うにわたしは、あまりに人間的な、あまりに自然的な感情に流されていたんです。一生懸命に働くことそれ自体に、生の歓喜を味わっていたんです。他人に奉仕することそれ自体に、生の歓喜を味わっていたんです。他人に奉仕することそれ自体に、自然の幸福を見いだし、それを楽しんでいたんです。
 事業は、どんどん成功する。それが、うわッつらな成功だということに気がつかない。スッカリ有頂天になる。――このときです、魔がつきましたのは。長い年月のあいだ、悪魔はわたしのうちに、働いていました。わたしに錯覚をおこさせ、わたしを迷わせました。で、わたしは、活動自体のなかに、前後不覚におちいるような、物ぐるわしい快感をおぼえるようになりました。これと並行して、あらゆる内的生活の修業が、たまらなく嫌になりました。最後にこのとおり、とうとう悪魔はわたしを、断崖のほうへ引きずっていき、そこから、目もくらむような深い堕落の谷底へ、投げこんでしまったんです……」
« C'est le dévouement qui m'a perdu! Mes dispositions naturelles me faisaient éprouver de la joie à me dépenser, du bonheur à rendre service. Le succès apparent de mes entreprises aidant, Satan a tout su mettre en oeuvre, durant de longues années, pour m’illusionner, exciter en moi le délire de l’action, me dégoûter de tout travail intérieur, et finalement m’attirer dans le précipice. »

 なんという深刻な、しかし真実なざんげだろう!
 この司祭の精神状態は、奇怪とまではいわないが、たしかに異常である。
かれのざんげ話が、なによりも雄弁に、それを実証している。
 天主の働き手は、自然的活動のなかに、あまりに人間的な満足だけを、追求していた。あげくの果ては、おのれのうちにある、なにものにもかえがたい“天主的生命”を、枯渇させ、死滅させてしまったのである。この天主的生命こそは、いわば天主的カロリーであり、それはまず、かれ自身の霊魂の内部に充満して、それを生かし、あたため、次にかれの従事する使徒職を実りゆたかにし、自然的精神という暗黒の冷気にたいして、かれの霊魂を保護してくれる尊いたからであるはずなのに……。

 なるほど、かれは一生懸命に働きはした。しかし、万物をいのちづける義の太陽なるイエズスから、遠く離れさっていたのである。
 「千里の馬にまたがり、可能な限りの力をだして走ってはいたものの、あわれにも道なき道を、ただメクラめっぽうに暴走していた」Magnae vires et cursus celerrimus, sed praeter viam.(聖アウグスチノ『詩編注解』三一)

 使徒的事業は、たとえそれ自体、神聖であっても、同時に、それにたずさわっている使徒を傷つけた。事業は、扱いにくい剣のようなもの、扱い方を知らない人を傷つける両刃(もろは)の剣のようなものだ。

 活動的生活が、このように危険なシロ物であればこそ、これにたいしては、おさおさ用心を怠りなさるな、と聖ベルナルドは、時の教皇エウジェニオ三世に警告したのではないか。聖人は、教皇へ捧呈した『反省録』のなかに、こう書きおくっている。
 「仕事が、山のように積もっている。いつになったら、片づいてしまうのだろう。-それを思って、聖下は失望に見舞われていらっしゃる。ついに聖下は、そのために、お心をかたくなにしてしまわれるのではなかろうか、とわたしは心配しているのでございます。このような仕事は、たとえ一時的にせよ、おやめになったほうが、聖下にとりましては、むしろ賢明の策かと存じます。それは、仕事の奴隷となるよりも、または、聖下がそこに行くのをいやがっていらっしゃる魔の場所へ、徐々にしかし確実に、ずるずる引っぱり込まれていくよりも、聖下にとりましては、よほどましなのでございます。
 『わたしが、そこに行くことをいやがっている魔の場所とは、いったいどこのことですか』と、おたずねになるのでございますか。――それは、“心の頑固さ”という場所なのです。この魔の場所へ、聖下をずるずる引きずっていくことでございましょう、この“呪われた仕事”のかずかずは! もし聖下が、当初のそうなさっていらっしゃいましたように、これからもなお引き続いて、こんな仕事に身も心もうち込み、それがために、ご自身のために、ご自身のものを、すこしもお取り置きにならないようでございましたら……」(『反省録』二部二章)
"Je crains qu'au milieu de vos occupations qui sont innombrables, désespérant d'en voir jamais la fin, vous ne laissiez s'endurcir votre âme. Vous feriez bien plus prudemment de vous soustraire a. ces occupations, ne fût-ce que pour un temps, que de permettre qu'elles vous dominent et que peu à peu elles vous mènent infailliblement là où vous ne voulez point aller. Où donc? direz-vous peut-être. A Rendurcissement du coeur.
Voilà où peuvent vous entraîner ces occupations maudites, hae occupationes maledictae, si toutefois vous continuez comme vous l'avez fait d'abord à vous y livrer tout entier, ne vous réservant rien de vous pour vous-même."

 さて、教会の統治という仕事より、いっそうすぐれて高貴な仕事、いっそうすぐれて聖なる仕事が、ほかにあるだろうか。
 天主の光栄のため、霊魂の利益のために、これよりいっそうすぐれてためになる仕事が、ほかに一つでもあるだろうか。
 それなのに、聖ベルナルドはこれを、“呪われた仕事”だといっているのだ。もしこの仕事が、それにたずさわっている人の内的生活を妨害せねばならぬとしたら、それはあきらかに、“呪われた仕事”となるのである。

 “呪われた仕事”――なんという強い表現だろう!
 なんという恐ろしい言葉だろう!
 それは、われわれに、反省をうながしてやまない。この言葉の真の意味を究めつくすためには、まさに一巻の書物が必要だ。もしこの言葉が、聖ベルナルドのような大聖人の口から出なかったとしたら、この偉大な教会博士の筆先からほとばしり出なかったとしたら、われわれはこのような表現にたいして、大いに抗議しなければならないだろう!


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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