2017年10月22日(主日)聖霊降臨後第20主日のミサ
小野田神父説教
小野田神父説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年10月22日、聖霊降臨後第20主日のミサです。今日の御ミサの後でいつものように14時頃から公教要理、今日はイエズス様の当時のユダヤ教とその習慣について、またイエズス様に書き残した資料などについてお話したいと思っています。
次のミサは11月です、11月5日。11月は3回主日にミサがあります、5日と12日と19日です、いらして下さい。
“Descende priusquam moriatur filius meus.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日福音で私たちの主はこのように頼まれました、「私の息子が死なない前に、ぜひ下りて来て下さい、私の元に来て下さい。」
そこで今日、一体この今日の聖霊降臨後第20主日のテーマというのは何なのか?一体このミサの構造はどうなっているのか?福音は何でここでこの話をわざわざ取り上げたのか?を黙想した後に、
では一体今日この福音は、21世紀の10月に、2017年の10月の私たちに一体どんな関係があるのだろうか?私たちの主はどうやってこのこれを私たちに今実現させようとしているのか?という事を黙想して、
最後に遷善の決心を立てる事にしましょう。
今日の主人公は、主に奇跡を求めて、「自分の子供が死にそうだから早く来て下さい。エルサレムから下ってこちらの田舎に来て下さい」とカファルナウムまでやって来ました。ちょうどファチマの奇跡があると聞いて、雨がザーザー降りであったにもかかわらず、夜中から約8万人から10万人が集まった、その熱情をもって今日、主に奇跡を求めてやって来ました。
では一体何でこの話が取られているのでしょうか?典礼学者によると、この聖霊降臨後第20週のミサは、典礼歴が終わりに近付き、私たちの主の再臨が近付いているという事を思い出して、そして実はこの先週ちょうど、自分の子供が、王が王子が結婚式をするから、その結婚式に呼び集められたその招きの話があったのですけれども、実はこの結婚式というのも、「天主と人類との一致、天国での一致」という事を象っているものですから、ますます終末について世の終わりについて、教会は私たちに黙想するように、と招いているのです。
そしてその黙想のテーマが、「実は私たちのこの地上にいる生活というのは、本当の短い間の、逐謫の身であって、涙の谷に流されている流刑の身であって、外国生活の身であって、国外追放になった身であって、私たちは今本当の故郷から遠く離れた外国に生活していて、私たちのここの住まいは本当の住まいではないのだ」という事を思い出させようとしています。
ですから入祭誦では、ダニエルの言葉を使って、ちょうどバビロンに流されて、ナブコドノゾルの下にあったユダヤ人たちが、「あぁ、私たちは確かに正当な罰を受けて、あなたのなさる事は全て正しい。私たちは罪を犯したから、こんなに流されの身になってしまったのだ。でもあなたに期待する」と言わせています。
もしも私たちがこの地上で、苦しみや、苦々しい事や、涙や、悲しい事があるとしたら、それはまさに人類が罪を犯したからで、流されの身であるからです。ですから聖パウロは私たちに、「この私たちの今住んでいるこの現代の時は悪いから、この時を良く使うように、時を贖うように」と勧めています。
特に最高潮は奉献文です、「バビロンのほとりで私たちは、エルサレムの神殿を思って涙を流した。主の家を思って涙を流した。主の元に行きたい、それが恋しい。早く主の元に行きたい」という事は、「天国の本当の住まいに私たちは行くのを大きな希望を持って待っている、主の助けを待ち望んでいる」という事を意味しています。ノスタルジーに浸っていたように私たちも、天国の本当の故郷に行こうと、私たちの目を上に、天の上に上げています、主の方に目を上げています。
ですからこそ階段誦によれば、これは御聖体の祝日と同じものですけれども、御聖体は天国への補償であり、私たちを天国までへと導く新約のマンナですから、私たちをいつも御聖体を下さるイエズス様の方にと目を向けている、という事を意味しています。
私たちはいつも、この地上にいながら目を上に向けて、天からのお恵みを求めているのですけれども、まさにそこで福音が来るのです、「私たちは流されの身だ、天国をいつも求めている。そしてこの世を霊に、酒に満たされるのではなく霊に満たされて、霊によって讃美の歌を歌い、感謝を歌い、そしてこの善行を果たして、この短い時間を使いたい、贖いたい、時を贖いたい」と思っているのですけれども、しかし私たちはあまりにも弱いというのが現実です。
そこで第2のポイントが、私たちがあまりにも弱いので、私たちはもう死なんとしている。私たちの霊魂はこの地上での、あたかもこの地上が全てであるかのように錯覚してしまっている。私たちの霊魂はともすると、この地上に富を蓄えて、大きな御殿を造って、ここに永久に住んで、面白おかしく過ごして、永遠の来世などないかのように錯覚してしまっている。それほど霊魂は弱っているので、主からの助けが必要だ。ですから私たちは今日主に求めるのです、「主よ、私の霊魂が死なない前に、ぜひ来て下さい。」
イエズス様は確かに来られます、祭壇の上に。福音では、「さぁ行け、子供は治っている、生きている」と口で言っただけですけれども、21世紀の私たちには本当に、イエズス様はこの祭壇の上に来られて、そして聖体拝領によって私たちの霊魂に来られて、私たちの霊魂と1つとなって、1つの体となって、そして私たちを直接癒して下さろうとしています。
私たちは、これは状況が違うのですけれども、似たような百不長の話を思い出して、「主よ、われ不肖にして、我が家に主を迎え奉るに及ばず。どうぞ一言宣い給え。されば我が霊魂は癒やされん」と3度繰り返して主を拝領致します。まさに「主からの癒やしが必要だ。主は必ず来られる」という事です。
そしてこの同じイエズス・キリストは、今は癒しの主として、奇跡を起こす主として来られ、命を与える主として来られますが、世の終わりには審判者として、生ける者と死する者とを裁く為に、そして善人には永遠の報いを、悪人には永遠の滅びと辱しめと死を与える為に、もう一度来られ給う主なのです。
では私たちは、主が御聖体拝領に来て下さっただけなのでしょうか。21世紀の私たちには違います。主は更に天からもっと来て下さいました。自分だけでは足りなく、自分の御母を私たちの元に来るように仰って下さいました。100年前にファチマでそうでした。
そしてシスタールチアの話によると、「震える手で、人類に最後の手段を、霊魂を癒やす手段を、救いの手段を、天国へと簡単に行く道、手段を与えようとしている」と言います。その2つの手段は何かというと、「ロザリオ」と「聖母の汚れなき御心に対する信心」です。なぜ震える手で与えようとするかというと、もしもこれを逃すと、その次がないからです。最後の2発。これを逃せばもう手段がない、その究極の最高秘密兵器です。それが私たちに提示されています。
そこで私はぜひ、この主が、「さぁ行け、子供は生きる」と言ったその言葉を信じて、その与えられた手段をそのまま実践する事を皆さんに提案して、この是非これを今日の遷善の決心として取る事を提案致します。
なぜかというと、今から400年前、イエズス様の聖心はフランスの王にお願いした事があります、フランス王ルイ14世に、「フランス王国を奉献してほしい、聖心に奉献してほしい。」そしてその為に、フランス王の聴罪司祭であったド・ラ・シェーズ神父様が責任をもってメッセージを伝えるように、イエズス会の司祭でした。「もしもこのド・ラ・シェーズ神父がその通りに実行するならば、彼は特別の聖徳を得るだろうし、特別の恵みを受けるだろう。またイエズス会全体も祝福を受けるだろう」と約束されました。しかしド・ラ・シェーズ神父はそれを実践しませんでしたし、ルイ14世はそれをしませんでした。
その100年後どうなったかというと、イエズス会は廃止されました。ポルトガル、フランス、スペインで廃止されたのみならず、教皇様によって廃止されました。当時5万人を超えるイエズス会士が世界中で働いていました、南米でも働いていました、中国にもいました、皇帝の元で働いていました、ヨーロッパの王室のすぐ近くで働いています。しかしそれにもかかわらず、イエズス会は廃止されてしまいます。フランス王国も無くなってしまいました。それを思うと、もしもそのフランス王がそのたったちょっとしたお願いをしていたならば、今でもフランスは王国があっただろうし、イエズス会は廃止されずに、世界中で多くの救霊の業をする事ができただろうにと思います。
実際にファチマのマリア様の、ファチマのメッセージを信心をした国は、ポルトガルであれ、3人のファチマの子供たちであれ、あるいはピオ十二世教皇様のもとのカトリック教会であれ、多くの回心と、共産主義者からの回心やお恵みでいっぱいでした。
ですから今日は、その是非この福音に倣って、「私たちは流刑の身であり、祖国から離れた身である。しかし天国に行く為の一番簡単な救いが与えられている。イエズス様は私たちの元に来られるし、マリア様も来られた。私たちはただ簡単な実践をすれば良い。つまりロザリオと、聖母の汚れなき御心への信心だ。」
ぜひ今日はファチマ100周年、10月13日の最後の奇跡のあったその月として、この決心を立てて御聖体を拝領をなさって、そしてこのファチマのメッセージをますます私たちの救霊の為に活かしていくように、遷善の決心を立てる事を提案致します。
“Descende priusquam moriatur filius meus.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。