アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き3)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き3)
さて、これから、この霊魂の秘奥を、もっと深くさぐってみよう。
およそ人の頭のなかにある“考え”ぐらい、その人の超自然的生活、道徳的生活、知的生活において、圧倒的役割を演ずるものはない。さて、われわれの主人公の脳裏を支配している“考え”は、どんなものだろうか。
人間的な、あまりに人間的な考えである。地上的な、空虚な、軽薄な、利己的な考えである。かれの考えはみんな、“自己”にむかって、被造物にむかって、集中されている。しかも、それはしばしば、神聖な奮発心とか、犠牲心とかいう、りっぱな仮面をかぶっている。
Humaines, terrestres, vaines, superficielles, égoïstes, elles convergent de plus en plus vers le moi ou les créatures, et cela souvent avec l’apparence du dévouement et du sacrifice.
知性が、このように乱れているので、当然の結果、“想像”があばれ放題となる。およそ人間の能力のなかで、想像にもまして、抑制の必要のあるものはない。ところが、霊魂はここまでくると、想像のあばれ馬に、くつわをはめようとの考えすらない。だから、想像は、どんな禁制の小みちにも、どんなに危険な秘境にも、平気で足をふみ入れる。視覚の抑制もたるんで、だんだんに目のつつしみを欠くようなる。そうなると、大聖テレジアが、“わが家の気ちがい”と呼んだこの想像は、いたるところに暴威をふるう。あばれだしたら最後、どこまで行くかわからない。【かくて、混乱は、知性から想像へ、想像から愛情へと移行する。】
Elle court à tous les écarts, à toutes les folies. La suppression progressive de la mortification de la vue permet à la folle du logis de trouver large pâture un peu partout.
こんどは、愛情(les affections)の領域が侵される。
心は浮き世のはかなく、つまらない物に愛着して、そこから愛情の養分を吸収する。空虚な、ちぢにかき乱された心の惨状は、じつに目もあてられない。内心の“天主の国”にたいしては、ほとんどいかなる考慮も払われていない。イエズスと差し向かいになって生きることは、いかなる実感も伴っていない。天主の崇高な奥義にたいして、典礼の荘厳な美にたいして、ご聖体の中にいます天主のお招きにたいして、そのおひきよせにたいして、心はいかなる反応も示さない。一言で申せば、超自然の世界からくる神秘の作用にたいして、心は全く無感覚である。
それなら愛情の対象をうしなった心は、“自己”のうちに、それを見いだせるのだろうか。
“自己”のうちに、すべての愛情を集中し、自己以外に何ものも求めず、自己のうちにいっさいの満足を、見いだせるのだろうか。
とんでもない、それは自殺行為にひとしい。
心は、他に愛情を求めてやまないのだ。
自己をささげつくして、愛しつらぬく何ものかがほしいのだ。
愛し愛されたいのだ。Amare et Amari.
それだから、天主のうちにおのれの幸福を見いだせないかれは、どうしても被造物を愛するようになる。被造物に愛情をもの乞いせねばならぬようになる。これは、自然の論理である。
ある日、突然、美しい被造物が、面前に現われる。かれの心は、一瞬のためらいもなく、この被造物のとりこになる。そのいうがままになる。この被造物のふところに飛びこむ。どんなぎせいを支払っても。
このさい、天主にちかった神聖な誓願がなんだろう。
教会の利害がなんだろう。
自分の名誉がなんだろう。
かれはいっさいをぎせいにしても、悔いないのだ。
背教者になったって、かまうもんか!
だが、そこまではまだ行っていないだろう。このままでいけば、背教者となるのではなかろうか、と考えただけで、かれは身ぶるいし、心は深い悲しみにしめつけられるのだから。しかし、自分のふしだらに、信者がつまずこうと、未信者が眉をひそめようと、そんなことにはいっこう頓着しない。
むろん、天主の恩寵のおかげで、トコトンまで堕落してしまうことは、きわめてまれだろう。
だが、天主のうちに幸福を見いだせない、いや、むしろ、天主のことに倦怠を感じている、禁断の実には平気で手をふれる――このような霊魂の落ちゆくさきは、きまって最悪の不幸である。堕落のドン底である。
「肉的人物は、天主の霊のことをうけいれない」animalis autem homo, non percipit ea quae sunt Spiritus Dei.(コリント前2・14)に始まった霊魂の堕落は、ついに、「むらさきの着物で育てられた者が、今では灰だまりの上に伏している」(イエレミアの哀歌4・5)とイエレミア預言者がうたった、あの最もみじめな境涯までいった。
精神はしつこい迷いの雲にとざされている。
霊魂は、スッカリめくらになっている。
心は、石のように、かたくなっている。
そして、日に日に、すさんでいく。しまいには、どこまでいくか。
かれの不幸は、“意志”の堕落によって、頂点に達する。
かれの意志はまだ、完全にはダメにはなっていないだろう。
しかし、力つきて、衰弱しきっている。ほとんど、無力化している。
「元気をだして、勇ましく立ち上がらなきゃ、ダメじゃないか」
かれに忠告しても、ムダである。
「さあ、ちょっとだけでもいい、力をだすんだ」essayer un simple effort
こうでもいったら、かれはきっと絶望的な口調で、
「いや、その“ちょっと”が、わたしにはできっこないんだよ!」« Je ne puis pas. »
と答えるにちがいない。さて、この“ちょっと”だけの力が出せないということ――これこそは、最悪の不幸に、とりかえしのつかぬ破滅の谷底に、堕落することではないのか。
ある有名な無神論者のいったことばが、ここにある。
「そのたずさわっている事業のために、いきおい、世間とまじわって生活することを余儀なくされている人たちが、はたして自分らの修道誓願にたいして、自分らの修道者としての義務にたいして、ほんとうに忠実であり得るだろうか。――わたしにはどうも、それが信じられない」
さらに、かれはつけ加えて、こういっている。
「この人たちは、ちょうど、サーカスの芸人のように、あぶない綱渡りをしている。かれらの堕落は、必然の運命だ!」
« Elles marchent sur une corde tendue. Leurs chutes sont forcées.»
これは、天主にたいして、教会にたいして、たいへんな侮辱である。
だが、これにたいする解答は、ごく簡単だ。いわく、
「かれらの堕落は、あなたがおっしゃるような、必然の運命ではない。もしかれらが、内的生活という貴重な平均とり棒で、精神のバランスを保つすべを心得ているなら(そしてかれらは、そのことを心得ているはずだ)[lorsqu’on sait se servir du précieux balancier de la vie intérieure]。
内的生活だけが、かれらの堕落をくいとめる唯一の手段なのだ。したがって、これを放棄したら最後、かれらは立ちどころに、目まいがする。酔っぱらいのように、足もとがぐらつく。そして、あなたがおっしゃるように、まっさかさまに、墜落するのである」
それはまさに、霊魂の破滅だ。
何がこの破滅の、最終的原因だったのか。
霊生の大家で有名な、イエズス会員ラルマン師(P. Lallemant)が、それを次のように述べている。
「使徒的事業にたずさわっている人たちのなかで、その多くは、ただひとすじに、天主のためにだけ働いている、とはいえない。かれらは、あらゆることにおいて、“おのれ”をさがしている。いちばんりっぱな仕事にたずさわっていながら、天主の光栄とともに、おのれ自身の利益も求めているのだ。――いつも、そして、こっそりと。だからして、かれらは、自然と恩寵に、おのれと天主に、かね仕えた中途半端な、不徹底な生活をいとなんでいる。最後に、死がやってくる。そのとき、そのときはじめて、目がさめる。自分が、だまされていた、ということを、はじめてさとる。恐るべき天主の審判は、刻一刻、近づいてくる。それをおもって、かれらは戦慄するのだ」(ラルマン師『霊的指針』)
Nombre d'hommes apostoliques ne font rien purement pour Dieu. Ils se cherchent en tout et mêlent toujours secrètement leur propre intérêt avec la gloire de Dieu dans leurs meilleures entreprises. Ils passent ainsi leur vie dans ce mélange de nature et de grâce. Enfin la mort vient et alors seulement ils ouvrent les yeux, voient leur illusion, et tremblent à l'approche du redoutable tribunal de Dieu.
真理の伝道者の美名のもとに、おのれを吹聴してあるく使徒の末路や、あわれ!
奮発心にもえ、たいへんな活動家であった、有名な宣教師コンバロ神父にかんして、かれが臨終の床で語ったという秘話が、ここにある。コンバロ神父(abbé Combalot)を、引き合いにだすからといって、なにもかれを、前記のニセ使徒たちと同類に取り扱う考えは、筆者には毛頭ないのだが、かれの臨終の一言が、われわれに大きな教訓をあたえるので、そうするまでである。最後の秘跡を授けおえた司祭は、かれにむかって、こういうのだった。
「神父様、ご安心なさいませ。あなたは、司祭としての生涯を、神聖に、無キズに、保ちました。それから、たくさん、お説教もなされたでしょう。あなたは、ご自分の内的生活がじゅうぶんでなかったと、そのことをざんげされましたが、神父様のなさったすばらしい、かずかずのお説教こそは、天主さまのみまえに、内生不足の弁護を、ひきうけてくれましょう……」
「わたしの説教が……?」死になんなんとしている老宣教師は、深いためいきの下から、無量の感慨に声をふるわせて、こういうのである。
「わたしの説教が、わたしを弁護してくれるんですって? ああ、わたしはいま、どんなに強い光に照らされて、自分のした説教の正体を見きわめていることでしょう! ああ、わたしの説教! もしイエズスさまが審判のとき、それをさきにいい出してくださらないなら、わたしのほうからは絶対に申し上げません……」
« Mes sermons! Oh! à quelle lumière je les aperçois maintenant! Mes sermons!
Ah ! si Notre-Seigneur ne m'en parle pas le premier, ce n'est pas moi qui commencerai. »
永遠の光りに照らし出された老司祭が、この光りのなかに見たものは何だったろうか。
――福音伝道という、いちばん神聖な、いちばんすぐれた仕事の中にさえ、“自我”の追求から生じる不完全が、軽い罪が、混入していた、ということである。死にのぞんではじめて、かれの良心はそれに気がついた。そして、かれをとがめた。内的生活が足りないために、この不幸にまつわれていたのだと、死にのぞんではじめて、さとったのである。
ペロン枢機卿(Le cardinal du Perron)が、臨終の床で語ったざんげ話も、これによく似ている。
「自分は、一生のあいだ、内的生活の実行によって、意志の完成をはかることよりむしろ、学問の研究によって、知性の完成をはかる仕事に、いっそう愛着を感じていた。死の関門に立っているいま、心からそれを残念におもう……」
ああ、イエズス、いともすぐれたる使徒よ!
わたしたちとともに、涙の谷にお住まいになっていらしたとき、だれがあなたにもまして、人びとへの奉仕に、身も心もささげつくした者があったでしょう。しかし、あなたは天にお昇りになった今日でも、あなたの地上生涯の延長なるご聖体の秘跡によって、以前にもましていっそうおおらかに、ご自身を人びとにおあたえになります。それでいて、あなたはけっして“御父のふところ”を、すこしもお離れになりません。どうぞ、お恵みをたれて、わたしどもにさとらせてください――。
「わたしどもの事業が、あなたに認められ、あなたに受け入れていただくための唯一の条件は、それが超自然の原理に生かされているということ、いいかえれば、それがあなたの聖心に、深く根ざしているということ――この条件を果たすときにのみ、わたしどもの事業は、あなたによろこばれるものとなる」という真理を、ゆめゆめ忘れさせないでください!
Puissions-nous ne jamais oublier que vous ne voudrez connaître nos travaux que s'ils sont animés d’un principe vraiment surnaturel et plongent leurs racines dans votre Coeur adorable.
(この章 終わり)
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き3)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き3)
さて、これから、この霊魂の秘奥を、もっと深くさぐってみよう。
およそ人の頭のなかにある“考え”ぐらい、その人の超自然的生活、道徳的生活、知的生活において、圧倒的役割を演ずるものはない。さて、われわれの主人公の脳裏を支配している“考え”は、どんなものだろうか。
人間的な、あまりに人間的な考えである。地上的な、空虚な、軽薄な、利己的な考えである。かれの考えはみんな、“自己”にむかって、被造物にむかって、集中されている。しかも、それはしばしば、神聖な奮発心とか、犠牲心とかいう、りっぱな仮面をかぶっている。
Humaines, terrestres, vaines, superficielles, égoïstes, elles convergent de plus en plus vers le moi ou les créatures, et cela souvent avec l’apparence du dévouement et du sacrifice.
知性が、このように乱れているので、当然の結果、“想像”があばれ放題となる。およそ人間の能力のなかで、想像にもまして、抑制の必要のあるものはない。ところが、霊魂はここまでくると、想像のあばれ馬に、くつわをはめようとの考えすらない。だから、想像は、どんな禁制の小みちにも、どんなに危険な秘境にも、平気で足をふみ入れる。視覚の抑制もたるんで、だんだんに目のつつしみを欠くようなる。そうなると、大聖テレジアが、“わが家の気ちがい”と呼んだこの想像は、いたるところに暴威をふるう。あばれだしたら最後、どこまで行くかわからない。【かくて、混乱は、知性から想像へ、想像から愛情へと移行する。】
Elle court à tous les écarts, à toutes les folies. La suppression progressive de la mortification de la vue permet à la folle du logis de trouver large pâture un peu partout.
こんどは、愛情(les affections)の領域が侵される。
心は浮き世のはかなく、つまらない物に愛着して、そこから愛情の養分を吸収する。空虚な、ちぢにかき乱された心の惨状は、じつに目もあてられない。内心の“天主の国”にたいしては、ほとんどいかなる考慮も払われていない。イエズスと差し向かいになって生きることは、いかなる実感も伴っていない。天主の崇高な奥義にたいして、典礼の荘厳な美にたいして、ご聖体の中にいます天主のお招きにたいして、そのおひきよせにたいして、心はいかなる反応も示さない。一言で申せば、超自然の世界からくる神秘の作用にたいして、心は全く無感覚である。
それなら愛情の対象をうしなった心は、“自己”のうちに、それを見いだせるのだろうか。
“自己”のうちに、すべての愛情を集中し、自己以外に何ものも求めず、自己のうちにいっさいの満足を、見いだせるのだろうか。
とんでもない、それは自殺行為にひとしい。
心は、他に愛情を求めてやまないのだ。
自己をささげつくして、愛しつらぬく何ものかがほしいのだ。
愛し愛されたいのだ。Amare et Amari.
それだから、天主のうちにおのれの幸福を見いだせないかれは、どうしても被造物を愛するようになる。被造物に愛情をもの乞いせねばならぬようになる。これは、自然の論理である。
ある日、突然、美しい被造物が、面前に現われる。かれの心は、一瞬のためらいもなく、この被造物のとりこになる。そのいうがままになる。この被造物のふところに飛びこむ。どんなぎせいを支払っても。
このさい、天主にちかった神聖な誓願がなんだろう。
教会の利害がなんだろう。
自分の名誉がなんだろう。
かれはいっさいをぎせいにしても、悔いないのだ。
背教者になったって、かまうもんか!
だが、そこまではまだ行っていないだろう。このままでいけば、背教者となるのではなかろうか、と考えただけで、かれは身ぶるいし、心は深い悲しみにしめつけられるのだから。しかし、自分のふしだらに、信者がつまずこうと、未信者が眉をひそめようと、そんなことにはいっこう頓着しない。
むろん、天主の恩寵のおかげで、トコトンまで堕落してしまうことは、きわめてまれだろう。
だが、天主のうちに幸福を見いだせない、いや、むしろ、天主のことに倦怠を感じている、禁断の実には平気で手をふれる――このような霊魂の落ちゆくさきは、きまって最悪の不幸である。堕落のドン底である。
「肉的人物は、天主の霊のことをうけいれない」animalis autem homo, non percipit ea quae sunt Spiritus Dei.(コリント前2・14)に始まった霊魂の堕落は、ついに、「むらさきの着物で育てられた者が、今では灰だまりの上に伏している」(イエレミアの哀歌4・5)とイエレミア預言者がうたった、あの最もみじめな境涯までいった。
精神はしつこい迷いの雲にとざされている。
霊魂は、スッカリめくらになっている。
心は、石のように、かたくなっている。
そして、日に日に、すさんでいく。しまいには、どこまでいくか。
かれの不幸は、“意志”の堕落によって、頂点に達する。
かれの意志はまだ、完全にはダメにはなっていないだろう。
しかし、力つきて、衰弱しきっている。ほとんど、無力化している。
「元気をだして、勇ましく立ち上がらなきゃ、ダメじゃないか」
かれに忠告しても、ムダである。
「さあ、ちょっとだけでもいい、力をだすんだ」essayer un simple effort
こうでもいったら、かれはきっと絶望的な口調で、
「いや、その“ちょっと”が、わたしにはできっこないんだよ!」« Je ne puis pas. »
と答えるにちがいない。さて、この“ちょっと”だけの力が出せないということ――これこそは、最悪の不幸に、とりかえしのつかぬ破滅の谷底に、堕落することではないのか。
ある有名な無神論者のいったことばが、ここにある。
「そのたずさわっている事業のために、いきおい、世間とまじわって生活することを余儀なくされている人たちが、はたして自分らの修道誓願にたいして、自分らの修道者としての義務にたいして、ほんとうに忠実であり得るだろうか。――わたしにはどうも、それが信じられない」
さらに、かれはつけ加えて、こういっている。
「この人たちは、ちょうど、サーカスの芸人のように、あぶない綱渡りをしている。かれらの堕落は、必然の運命だ!」
« Elles marchent sur une corde tendue. Leurs chutes sont forcées.»
これは、天主にたいして、教会にたいして、たいへんな侮辱である。
だが、これにたいする解答は、ごく簡単だ。いわく、
「かれらの堕落は、あなたがおっしゃるような、必然の運命ではない。もしかれらが、内的生活という貴重な平均とり棒で、精神のバランスを保つすべを心得ているなら(そしてかれらは、そのことを心得ているはずだ)[lorsqu’on sait se servir du précieux balancier de la vie intérieure]。
内的生活だけが、かれらの堕落をくいとめる唯一の手段なのだ。したがって、これを放棄したら最後、かれらは立ちどころに、目まいがする。酔っぱらいのように、足もとがぐらつく。そして、あなたがおっしゃるように、まっさかさまに、墜落するのである」
それはまさに、霊魂の破滅だ。
何がこの破滅の、最終的原因だったのか。
霊生の大家で有名な、イエズス会員ラルマン師(P. Lallemant)が、それを次のように述べている。
「使徒的事業にたずさわっている人たちのなかで、その多くは、ただひとすじに、天主のためにだけ働いている、とはいえない。かれらは、あらゆることにおいて、“おのれ”をさがしている。いちばんりっぱな仕事にたずさわっていながら、天主の光栄とともに、おのれ自身の利益も求めているのだ。――いつも、そして、こっそりと。だからして、かれらは、自然と恩寵に、おのれと天主に、かね仕えた中途半端な、不徹底な生活をいとなんでいる。最後に、死がやってくる。そのとき、そのときはじめて、目がさめる。自分が、だまされていた、ということを、はじめてさとる。恐るべき天主の審判は、刻一刻、近づいてくる。それをおもって、かれらは戦慄するのだ」(ラルマン師『霊的指針』)
Nombre d'hommes apostoliques ne font rien purement pour Dieu. Ils se cherchent en tout et mêlent toujours secrètement leur propre intérêt avec la gloire de Dieu dans leurs meilleures entreprises. Ils passent ainsi leur vie dans ce mélange de nature et de grâce. Enfin la mort vient et alors seulement ils ouvrent les yeux, voient leur illusion, et tremblent à l'approche du redoutable tribunal de Dieu.
真理の伝道者の美名のもとに、おのれを吹聴してあるく使徒の末路や、あわれ!
奮発心にもえ、たいへんな活動家であった、有名な宣教師コンバロ神父にかんして、かれが臨終の床で語ったという秘話が、ここにある。コンバロ神父(abbé Combalot)を、引き合いにだすからといって、なにもかれを、前記のニセ使徒たちと同類に取り扱う考えは、筆者には毛頭ないのだが、かれの臨終の一言が、われわれに大きな教訓をあたえるので、そうするまでである。最後の秘跡を授けおえた司祭は、かれにむかって、こういうのだった。
「神父様、ご安心なさいませ。あなたは、司祭としての生涯を、神聖に、無キズに、保ちました。それから、たくさん、お説教もなされたでしょう。あなたは、ご自分の内的生活がじゅうぶんでなかったと、そのことをざんげされましたが、神父様のなさったすばらしい、かずかずのお説教こそは、天主さまのみまえに、内生不足の弁護を、ひきうけてくれましょう……」
「わたしの説教が……?」死になんなんとしている老宣教師は、深いためいきの下から、無量の感慨に声をふるわせて、こういうのである。
「わたしの説教が、わたしを弁護してくれるんですって? ああ、わたしはいま、どんなに強い光に照らされて、自分のした説教の正体を見きわめていることでしょう! ああ、わたしの説教! もしイエズスさまが審判のとき、それをさきにいい出してくださらないなら、わたしのほうからは絶対に申し上げません……」
« Mes sermons! Oh! à quelle lumière je les aperçois maintenant! Mes sermons!
Ah ! si Notre-Seigneur ne m'en parle pas le premier, ce n'est pas moi qui commencerai. »
永遠の光りに照らし出された老司祭が、この光りのなかに見たものは何だったろうか。
――福音伝道という、いちばん神聖な、いちばんすぐれた仕事の中にさえ、“自我”の追求から生じる不完全が、軽い罪が、混入していた、ということである。死にのぞんではじめて、かれの良心はそれに気がついた。そして、かれをとがめた。内的生活が足りないために、この不幸にまつわれていたのだと、死にのぞんではじめて、さとったのである。
ペロン枢機卿(Le cardinal du Perron)が、臨終の床で語ったざんげ話も、これによく似ている。
「自分は、一生のあいだ、内的生活の実行によって、意志の完成をはかることよりむしろ、学問の研究によって、知性の完成をはかる仕事に、いっそう愛着を感じていた。死の関門に立っているいま、心からそれを残念におもう……」
ああ、イエズス、いともすぐれたる使徒よ!
わたしたちとともに、涙の谷にお住まいになっていらしたとき、だれがあなたにもまして、人びとへの奉仕に、身も心もささげつくした者があったでしょう。しかし、あなたは天にお昇りになった今日でも、あなたの地上生涯の延長なるご聖体の秘跡によって、以前にもましていっそうおおらかに、ご自身を人びとにおあたえになります。それでいて、あなたはけっして“御父のふところ”を、すこしもお離れになりません。どうぞ、お恵みをたれて、わたしどもにさとらせてください――。
「わたしどもの事業が、あなたに認められ、あなたに受け入れていただくための唯一の条件は、それが超自然の原理に生かされているということ、いいかえれば、それがあなたの聖心に、深く根ざしているということ――この条件を果たすときにのみ、わたしどもの事業は、あなたによろこばれるものとなる」という真理を、ゆめゆめ忘れさせないでください!
Puissions-nous ne jamais oublier que vous ne voudrez connaître nos travaux que s'ils sont animés d’un principe vraiment surnaturel et plongent leurs racines dans votre Coeur adorable.
(この章 終わり)