2017年11月3日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年11月3日、11月の初金曜日です。今日いつもの通りに聖時間を、イエズス様の聖心に対して犯される罪を償う奉献をする事に致しましょう。
明日は10時30分からミサがあります。
“Ut possitis comprehendere cum omnibus sanctis,quae sit latitudo,et longitudo,et sublimitas et profundum: scire etiam supereminentem scientiae caritatem Christi.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日聖パウロの書簡の言葉を一緒に黙想したいと思います。
聖パウロは、「私たちは、イエズス・キリストへの愛徳に根付いて、その上に基礎を置いて、イエズス・キリストの愛が、愛徳が、どれほどその広さと、長さと、深さと、その崇高さがどれほどのものか、私たちが諸聖人と共に理解する事を望む。理解する事ができるように」と叫んでいます。
ちょうど11月1日、一昨日は、凱旋の教会の諸聖人の栄光を見ました。
昨日は苦しみの教会の、煉獄の霊魂たちがイエズス様を至福直感で見たいと、それを待ち望んでいる霊魂たちの為に祈りました。
そこで私たちも諸聖人と共に、一体イエズス様の愛徳の、その深さと、広さと、その崇高さがどれほどのものであるか、
もちろんこれは私たちが天国に行った時に初めて、その巨大な憐れみと愛の深さに、それを本当の姿を知る事になって、私たちはあまりにもその大きさに、巨大さに、ただ何と感謝して良いか、それさえも分からず、永遠でさえも足りないほどと思われて、主の憐れみをただひたすら讃美して、讃美して、永遠に幸せである、これほど私たちを愛して下さる主がおられる、という事を讃美するだけ、諸聖人と共に讃美をして、更にそれでも足りない、毎日が感動と感謝で過ごされる、という永遠の事を思って、私たちも、その永遠の時に私たちに啓示される、私たちが理解するであろうそのイエズス様の憐れみと愛、イエズスの聖心のその愛徳の深さに、少し思いを馳せる事にしましょう。
この愛徳を思いながら、今日聖時間を諸聖人と共に、天国の全ての天使たちと共に、イエズス様の前で、私たちの為に人となりパンとなられたイエズス様の前で、私たちの霊魂に来たり給うイエズス様の前で、礼拝と感謝をする事に致しましょう。
イエズス様はイエズス様の聖心は、永遠の昔から、この地上に人となって住まわれる、私たちと同じ肉体を取って生まれて来る、そして私たちの為にいけにえとなって屠られて、苦しみの内に、辱しめの内に死去なさる、という事を御存知でした。それを知っておられ、その事をしようと思われました。永遠の昔からの聖父の御計画であって、永遠の昔からの聖子の従順の愛の極みの同意でした。
永遠の昔から世々に渡って、その聖心の考えは、私たちを滅びから救い、私たちの霊魂を癒そうという考えでした。ちょうどこれは入祭誦でも歌われている通りです。私たちの事だけを考えていました。御自分を私たちの為に捧げ尽す事だけを考えていました。永遠の昔から、御自分が人間となる、という事を考えておられました。
聖パウロによると、ヘブライ人への手紙の中に10章の7節に、「この世に来る時にイエズス様はこう言った」とあります。「“Ecce venio.”ご覧下さい、私はここにいます。私は来ました。」イエズス様は永遠の昔から、この言葉を聖父に言っていました、「ご覧下さい、私がここにいます。私が人となります。私を失われた人類の為に使って下さい。」
三位一体は、人類が罪を犯してそれを、天主の愛の計画を壊してしまうという事を知っていましたが、やはり三位一体はそれを回復する方法をも知っていました。
イエズス様が御自分が「ここにいる」と言ったのは理由があります。
なぜかというと、人類が天主に対して犯した罪は、 無限の邪悪さがあるからです。罪というのは、天主に対して犯した罪は、償うには、天主が無限の聖性を持っておられる方であるので、その犯された罪は無限の悪が、邪悪さが宿っています。したがって天主に対して犯される罪を償う為には、 無限の聖徳が必要でした。無限に聖なる方の償いが必要でした。どのような清い人間が罪を償ったとしても、それは罪を償うには足りませんでした。ましてや人間は原罪を負って生まれている存在です。ですからどのような人間が罪を償っても足りませんでした。原罪が無かったとしても、有限の人間が無限の悪である罪を償う事はできませんでした。天使たちでさえも償う事ができませんでした。どうしても無限の聖徳の持ち主である方が償わなければなりませんでした。しかし天主は、無限の聖徳を持っていますけれども罪を償う事はできません。なぜならば、苦しむ事ができないからです。そこで天主の聖子が、人とならなければなりませんでした。その必要がありました。
あるイギリスの排斥された、その統治の教区の司教が断罪した、「これは違う」と言った、いわゆるメッセージの話を、ちょっと前に私は聞きました。
聞いたのは数ヶ月前ですが、それは既に排斥されていたメッセージでした。(Patricia de Menezes の主張する Divine Innocence と言われるメッセージのこと。Archbishop Kevin McDonald が否定し、教理聖省も否定した。[Observations of the Congregation for the Doctrine of the Faith on the writings of Mrs Patricia De Menezes and the Community of the Divine Innocence])確かに司教様が断罪するにふさわしいものでした。それによると、「堕胎された子供たちは、イエズス様の十字架と同じような所に磔になっていて、その幼子たちのその犠牲は、イエズス様の犠牲ほどのものがある」というような事を言うような「メッセージ」でした。しかしこれはカトリックの信仰と、カトリックの神学と全くかけ離れているものです。
たとえどのような聖なる人間であったとしても、人間の罪を償う為には全く足りないのです。ですからそのようなメッセージは、あるいはイエズス様の無限の聖徳についての冒瀆であるか、あるいは胎児がもしかしたら原罪が無いかのように思わせるような、全く罪が無いであるかの事を思わせるような、誤謬であって誤解であって、全くの想像の産物でしかないものでした。
しかし、もしも私たちがイエズス様の聖心の中に深く入って、「イエズス様というのが、天主の本性と全く、イエズス・キリストのペルソナにおいて、人間の本性と天主の本性が全く分ち難く一致している。イエズス・キリスト様は同時に真の天主であり、真の人である。イエズス様の苦しみは無限の価値がある」という事が理解できると、そして「その為に、私たちの為に、無限の功徳を積む為に、天主が、無限の聖性の天主が人となった」という事を理解すると、「その為に人となられた」という事を理解すればするほど、何か雑音のような騒音のような、いわゆるメッセージと言われるものが、全く何でもなく、興味も関心も無くなってしまいます。
その為にこそ、私たちの罪を償う為にこそ、無限の、私たちの知性では知り尽くす事ができない、無限の創造主が、無限の存在である天主が人となられた。これは私たちへの全くの愛の為でした。
その為にイエズス様は、永遠の昔から永遠の今において、天主聖父に言っております、「“Ecce venio.”ご覧下さい、私が行きます。私が人となります。」
イエズス様は人となられた時に初めて、人間として天主聖父に奉仕を捧げる事ができました。天においては聖子は聖父と等しい、全く等しいものです。しかし人間として33年の御生活において、人間としての従順と、天主聖父への奉仕と讃美を捧げました。その頂点が御受難でした。ポンシオ・ピラトはこのイエズス様について言います、「“Ecce homo!”この人を見よ!」
イエズス様が、「聖父よ、ご覧下さい。“Ecce venio.”私が行きます、ご覧下さい」と言ったものをこだまするかのように、ローマの最高皇帝の代理者が、イエズス様に向かって、「この人を見よ。この人間を見よ!」と言います。
イエズス様はその時に、「人」というよりは、「1つの傷」でした。肉体はもう傷だらけになって、茨の冠を被せられ、鞭を全身に打たれ、皮は皮膚はほとんど避けて肉を、そのまま肉を出して、血だらけになって、もう傷のないところは全くないほど傷だらけになっておられました。もしかしたらポンシオ・ピラトは、「この人を見よ!」と言うよりは、「この傷を見よ!」と言った方がよいかもしれません。
これは私たちの為の、天主の子羊として私たちの罪を償う為のものでした。すでに洗者聖ヨハネはイエズス様についてこう予言していました、「“Ecce Agnus Dei” 天主の子羊を見よ」と。
司祭も洗者聖ヨハネと同じ言葉をミサの時に繰り返します、御聖体を持って、「私たちの為にいけにえとなって屠られた、天主の羊を見よ」と。司祭はこの時にもしかしたら、「パンとなった人間、パンとなった天主を見よ」と言うべきなのかもしれませんが、しかし人となった天主、いけにえとなった屠られる天主の子羊、私たちの為にパンとなった天主の御言葉、傷だらけとなった私たちの聖心というのは、全く同一のものです。イエズス様はこの為に、永遠の昔から聖父にこう言っています、「“Ecce venio.”ご覧下さい、私が参ります。」
司祭がパンを御聖体を持って、「天主の子羊を見よ」と言った時に、イエズス様は天主聖父に対して、「私は参ります」と永遠に言い続けています。イエズス様の聖心は天主聖父に従順であり、天主聖父に奉仕する事でした。その為にこのパンとなって、傷だらけとなる事さえも厭いませんでした。その為にこそ人となられたのでした。
それにしても、天主聖父の心とイエズス様の心は瓜一つであります。天主聖父は私たちを救う為に、御自分の御一人子をこの世に与えるほど私たちを愛して下さいました。一体、奴隷を救う為に誰が自分の子供を犠牲にするでしょうか。
天主の御一人子、天主聖父がその為にそこに全く心を寄せる、天主聖父の愛する我が子イエズス・キリスト、そして永遠の知恵であり、永遠の昔からその聖父の喜ぶ事だけをしていた聖子、計り知れない愛をそこから受けていたその聖子、この聖子を犠牲にしてまでも、私たちを救おうとされました。
私たちはどのようなものかといえば、アダムとエヴァの時から被造物として創られて、そして聖父によって養子の子供とされたにもかかわらず、その養子と特別の恵みをすっぽかして、それをその計画を破壊して、罪を犯して、逆らって、その為に私たちはどれほどのものを受けたかという事を、もうそれさえも理解できないものであり、憐れみを受けるに全く値しないものとなりました。
私たちは天主の気に入られる為にいかなる良いところも、功徳も無いものであったにもかかわらず、そして天主を愛する、天主聖父を愛するという事にほとんど関心のない、冷たい冷淡なものであったにもかかわらず、その私たちを救う為に、聖子を犠牲にする事を御望みになりました。
聖パウロはイエズス様の十字架の愚かさについて、イエズス様のその愛の愚かさについて語ります。イエズス様のその私たちを愛するが為に、天主聖父に従順になって、天主聖子は人となられた。そしてそれと同時に天主聖父も、聖子を私たちに与えるほど私たちを愛されました。天主聖父を愛するが為に、私たちを愛するが為に、貧しい馬小屋で生まれる事を、33年間の貧しい貧困での生活も、あるいは十字架での屈辱も、死も、甘んじて喜んで受けたものでした。
私たちはこのイエズス様の愛と、聖父の私たちに対する愛を、少し今垣間見ようとしてみましたが、このイエズス様が人となられた、イエズス様が人となるようにこの世に送られたその天主聖父の愛と、聖子の愛は、私たちは到底理解し尽くす事ができません。無限の聖父のその栄光とその無限の喜び、イエズス・キリストの聖子のその聖父に対する愛、その両者の愛を見ると、そして私たちのあまりにも惨めさを見ると、どうしてそのような事が起こり得たのか、私たちは、永遠に感謝と讃美を捧げるだけしかありません。
今日この初金曜日に、ぜひこの神秘の中に入るお恵みを頂きましょう。マリア様にお祈り致しましょう。マリア様が、「“Fiat.”我は主の婢女なり」と、やはり“Ecce ancilla”と仰って下さったが為に、これが可能になったのですから、マリア様にこれを、その神秘の中に入る御恵みをお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。