Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会聖伝のミサ(ラテン語のミサ)報告 2018年2月 四旬節 次のトリエント・ミサは東京で3月4日です。

2018年02月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回は大阪と東京で聖伝のミサを捧げることができ、聖体降福式も執行することができ大変幸福です。聖体降福式は、大阪でも東京でも、皆がとても一生懸命に祈っていてくれて、それがよく伝わってきました。イエズスさまもお喜びになっておられたと思います。

 今年は、次のような行事が予定されております。多くの兄弟姉妹の皆様が聖伝のミサに与れることを願っております。

3月25日:枝の主日【東京】(聖母の御告げの祝日は今年は4月9日(月)に移動します。)

4月1日:復活祭【大阪】

5月3日から6日まで:秋田巡礼【秋田】
ご予約の連絡はお早目にどうぞ!

5月20日:聖霊降臨の主日【東京】

6月3日:御聖体の荘厳祭【東京】

8月18日:デ・ガラレタ司教様:大阪で堅振式
8月19日:デ・ガラレタ司教様:東京で堅振式


ではよい四旬節をお過ごしください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッション、ありがとうございました。
御ミサ、告解だけでなく、憐みを乞い求めるために御聖体降福式までして挙行して頂き本当にありがとうございました。
神父様の大きな犠牲の上に成り立っている日本での聖ピオ十世会の活動に、私達はどれ程感謝しなければならないかと、緊張する世界情勢を見てつくづく思いました。
ミサの報告をお送りいたします。

2月16日(金)四旬節の平日のミサには15名が
2月17日(土)同ミサには13名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日のお説教で、この日の聖福音の解説と黙想をして頂きました。
七旬節から段階を経て四旬節の準備をしてきたつもりでしたが、なぜかわかりませんが四旬節に突入した途端に自分のみじめさに押しつぶされそうで、良く四旬節を過ごす自信もなくなり、一体どうしたものかと気分は落ち込むばかりでした。

しかし、お説教を聞いて大きな慰めと希望を頂くことができ、イエズス様に舟に乗って頂いて天国まで連れて行って頂くために頑張る勇気を持つことができました。聖福音に隠されているメッセージをひとつ、ひとつ教えて頂くごとに天主様の深い愛と憐みをうまく言えませんが大雨を受けているように感じます。

土曜日の御ミサの後のご聖体降福式ではゲッセマニの園でのイエズス様とマリア様の御苦しみの黙想をして頂き、罪の邪悪さ、汚なさが招くイエズス様とマリア様の聖心への酷い仕打ちを改めて思い、深く反省いたしました。

ゲッセマニでのイエズス様の三つの大きな御苦しみをマリア様も霊的に共有されていたという事が新しい黙想の助けとなりました。次の初土曜日のテーマはここに絞ろうと思います。

灰の水曜日に受けることが出来なかったので、御ミサのあと、聖灰を受ける式がありました。
あっという間の人生を終えてチリに帰ってしまうのだから、あっという間のこの世を捨てて永遠の喜びのために戦えと、
善と悪との霊戦の渦中にあちらこちらで燃え上がる火の中から拾った灰を額に頂いたような気がしました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

大阪でのミッションをありがとうございました!
お説教と御聖体降福式での苦しみの第一玄義の黙想は
本当に心に染みとおり、突き刺さりました。ありがとうございます!


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供3人)
女: 27人(内、子供2人)
計: 51人(内、子供5人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今日はありがとうございました。
聖体降福式は本当にとてもよかったです。
素晴らしかったです。
長時間で大変お疲れになられましたことと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
聖マリアの汚れなき御心のうちに!

【報告】
Dear Fr Onoda,
おはようございます(^。^)そして、いつもありがとうございます(^_^)
聖体降福式では、みなさん声を一つに、良く歌っていらっしゃり、その厳かな雰囲気が今回とても印象に残りました(^O^)/
今日も東京は寒いので、マニラとの温度差に気を付けてくださいね〜(^_^)

トリエント公会議の第22総会の決議文:ミサ聖祭についての教義:1562年9月17日

2018年02月19日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様にトリエント公会議の第22総会の決議文をデンツィンガーの番号に従ってご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Doctrina de ss. Missae sacrificio ミサ聖祭についての教義
1738 937a Sacrosancta oecumenica et generalis Tridentina Synodus..., ut vetus, absoluta atque omni ex parte perfecta de magno Eucharistiae mysterio in sancta catholica Ecclesia fides atque doctrina retineatur et in sua puritate, propulsatis erroribus atque haeresibus, conservetur: de ea, quatenus verum et singulare sacrificium est, Spiritus Sancti illustratione edocta, haec, quae sequuntur, docet, declarat et fidelibus populis praedicanda decernit. 1738(937a)聖霊によって合法的に召集されたこの聖なるトレント公会議は……聖なるカトリック教会において、この偉大な聖体の秘跡に関する古代からの信仰を完全に守り、誤謬と異端を排斥して教義をけがれなく守るために、聖体の秘跡が真の唯一のいけにえであることを聖霊の光によって教えられて、次に述べることを教え、宣言し、信徒に教えるべきであると決定する。
Cap.1. 'De institutione sacrosancti Missae sacrificii' 第1章 ミサ聖祭の制定について
1739 938 Quoniam sub priori Testamento (teste Apostolo Paulo) propter Levitici sacerdotii imbecillitatem consummatio non erat, oportuit (Deo Patre misericordiarum ita ordinante) sacerdotem alium "secundum ordinem Melchisedech" (Gen 14.18; Ps 109.4; Heb 7.11) surgere, Dominum nostrum Jesum Christum, qui posset omnes, quotquot sanctificandi essent, consummare (Heb 10.4) et ad perfectum adducere. 1739(938)使徒パウロによれば、旧約時代にはレビ族の司祭職は完全なものでなかったため、慈悲深い父である天主の計画によって、メルキセデクの位にひとしい他の司祭を立てる必要があった(創世記14・18;詩編109・4;ヘブライ7・11)。それがすなわち、私たちの主イエズス・キリストであって、キリストは「聖化すべきすべての人々を完全なもの」(ヘブライ10・14)にすることができた。
1740 938 Is igitur Deus et Dominus noster, etsi semel seipsum in ara crucis, morte intercedente, Deo Patri oblaturus erat, ut aeternam illis (illic) redemptionem operaretur: quia tamen per mortem sacerdotium exstinguendum non erat (Heb 7:24, 27), in Coena novissima, "qua nocte tradebatur" (Cor1 11:13),  ut dilectae sponsae suae Ecclesiae visibile (sicut hominum natura exigit) relinqueret sacrificium, quo cruentum illud semel in cruce peragendum repraesentaretur ejusque memoria in finem usque saeculi permaneret, atque illius salutaris virtus in remissionem eorum, quae a nobis quotidie commituntur, peccatorum applicaretur: "sacerdotem secundum ordinem Melchisededch se in aeternum" (Ps 109.4) constitutum declarans, corpus et sanguinem suum sub speciebus panis et vini Deo Patri obtulit ac sub earundem rerum symbolis Apostolis (quos tunc Novi Testamenti sacerdotes constituebat), ut sumerent, tradidit, et eisdem eorumque in sacerdotio successoribus, ut offerent, praecipit per haec verba: "Hoc facite in meam commemorationem", etc. (Lc 22:19; Cor1 11:24), uti semper catholica Ecclesia intellexit et docuit (can. 2.). 1740私たちの天主であり、主であるキリストは、十字架の祭壇の上で死に、「一度で永久に」(ヘブライ10・14)父である天主に自分をささげて、救いのわざを完成した。しかしキリストの司祭職は死によって消去るものではなかったので(ヘブライ7・24、27)、敵の手に渡される夜(1コリント11・13)、最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に目に見える供え物を残したのである(人間のためにはこれが必要であった)(第1条)。この供え物によって、十字架上で一度血を流してささげたものが表わされ、その記憶が世の終りまで続き(1コリント11・23以下)、その救いの力によってわれわれが毎日犯す罪が赦されるのである。キリストは「メルキセデクの位にひとしい永遠の司祭」(詩編109・4)であると宣言して、自分の体と血をパンとブドー酒の形色のもとに父である天主にささげた。そして、使徒たちを新約の司祭として制定し、パンとブドー酒の形色のもとに拝領するように自分の体と血を与えた。使徒たちとその後継者たる司祭職に、「私の記念としてこれを行え」(ルカ22・19;1コリント11・24)という言葉で、それをささげるように命じた。これはカトリック教会が常に理解し、教えてきたことである(第2条)。
1741 938 Nam celebrato veteri Pascha, quod in memoriam exitus de Aegypto multitudo filiorum Israel immolabat (Ex 12.1ss), novum instituit Pascha, se ipsum ab Ecclesia per sacerdotes sub signis visibilibus immolandum in memoriam transitus si ex hoc mundo ad Patrem, quando per sui sanguinis effusionem nos redemit "eripuitque de potestate tenebrarum et in regnum suum transtulit" (Col 1:13). 1741イスラエルの子たちがエジプトからの脱出の記念としてささげた旧約の過越(出エジプト記12・1以下)を祝った後、キリストは新しい過越の祭を制定した。キリストは自分がこの世から父の所に移る時、自分の血を流すことによってわれわれを救い、「闇の権力から救い出し、自分の国に・移した」(コロサイ1・13)。キリストはその記念として、目に見えるしるしのもとに、教会において司祭たちによって自分をささげるのである。
1742 939 Et haec quidem illa munda oblatio est, quae nulla indignitate aut malitia offerentium inquinari potest, quam Dominus per Malachiam nomini suo, quod magnum futurum esset in gentibus, in omni loco mundam offerendam praedixit (Mal 1:11), et quam non obscure innuit Apostolus Paulus Corinthiis scribens, cum dicit, non posse eos, qui participatione mensae daemoniorum polluti sint, mensae Domini participes fieri (Cor1 10:21), per mensam altare utrobique intelligens. Haec denique illa est, quae per varias sacrificiorum, naturae et Legis tempore (Gen 4:4; 8:20; 12:8,22; ex: passim), similitudines figurabatur, utpote quae bona omnia per illa significata veluti illorum omnium consummatio et perfectio complectitur. 1742(939)清い供え物が、それを供える者の側からの欠点または罪悪によってけがされることができない。この供え物は、主がマラキア預言者を通じて予告したものであり、諸国民の間で偉大な主の名に、主の名のためにささげられる(マラキア1・11参照)。使徒パウロもコリント人に書き送った手紙の中で、この供え物について述べている。すなわち、悪魔の食卓に列席してけがれた者は、主の食卓に列席することはできないと。食卓という時、パウロは祭壇をさしている(1コリント10・21参照)。この供え物は、自然と律法の時代には、種々のささげ物によって予型とされた(創世記4・4;8・20;12・8;12・22;出エジプト記随所参照)。この供え物は、昔のささげ物によって示されていた善の実現と完成であり、それらすべてを含んでいる。
Cap.2. 'Sacrificium visibile esse propitiatorium pro vivis et defunctis' 第2章 ミサ聖祭が生者と死者のための真の贖罪の供え物である
1743 940 Et quoniam in divino hoc sacrificio, quod in Missa peragitur, idem ille Christus continetur et incruente immolatur, qui in ara crucis "semel seipsum cruente obtulit" (Heb 9.14,27): docet sancta Synodus, sacrificium istud vere propitiatorium esse (can.3), per ipsumque fieri, ut, si cum vero corde et recta fide, cum metu ac reverentia, contriti ac paenitentes ad Deum "accedamus, misericordiam consequamur et gratiam inveniamus in auxilio opportuno" (Heb 4.16). Hujus quippe oblatione placatus Dominus, gratiam et donum paenitentiae concedens, crimina et peccata etiam ingentia dimittit. Una enim eademque est hostia, idem nunc offerens sacerdotum ministerio, qui se ipsum tunc in cruce obtulit, sola offerendi ratione diversa. Cujus quidem oblationis (cruentae, inquam) fructus per hanc incruentam uberrime percipiuntur: tantum abest, ut illi per hanc quovis modo derogetur (can.4). Quare non solum pro fidelium vivorum peccatis, poenis, satisfactionibus et aliis necessitatibus, sed et pro defunctis in Christo, nondum ad plenum purgatis, rite juxta Apostolorum traditionem offertur (can. 3). 1743(940)ミサにおいて行われるこの神的ないけにえの中に、十字架の祭壇上で血を流して自分自身を天主にささげた(ヘブライ9・27)その同じキリストが現存し、血を流さずに自分自身をささげている。したがって、聖なる公会議は次のことを教える。すなわち、ミサ聖祭は真に贖罪の供え物である(第3条)と。われわれが真心と正しい信仰、畏敬の念と痛悔と償いの心をもって天主に近づくならば、「適切な時に慈悲を受け、恩恵を見出すようになる」(ヘブライ4・16)であろう。なぜなら、この供え物によってなだめられた主は、悔改めの恩恵とたまものを与え、どのように重い大罪さえも赦すからである。すなわち、ささげものは同一である。あの時自分を十字架の上でささげたキリストが、今司祭の役務を通してささげているからである。違うのはささげ方だけである。事実、この無血の供え物によって、十字架上の(流血の)ささげものの成果を非常に豊かに受けることができる。しかし、このささげもの(ミサ)によって十字架上のいけにえがどのような形でも価値を失うのではない(第4条)。そのため、このいけにえは、生きている者の罪や罰の赦しのため、または罪の償いのため、またはその他の必要のためだけでなく、使徒たちの伝承からも明らかなように、キリストの恩恵の状態で死んだが、まだ完全に清められていない霊魂のためにもささげられるのである(第3条)。
Cap. 3. De Missis in honorem Sanctorum 第3章 聖人崇敬のミサについて
1744 941 Et quamvis in honorem et memoriam Sanctorum nonnullas interdum Missas Ecclesia celebrare consueverit, non tamen illis sacrificium offerri docet, sed Deo soli, qui illos coronavit (can. 5). Unde 'nec sacerdos dicere solet: Offero tibi sacrificium, Petre et Paule', sed, Deo de illorum victoriis gratias agens, eorum patrocinia implorat, 'ut ipsi pro nobis intercedere dignentur in caelis, quorum memoriam facimus in terris'. 1744(941)時々、聖人の崇敬と記念のためにミサをささげることは教会の習慣であるが、聖人にではなく、彼らに冠を与えた天主だけにいけにえをささげると教会は教える(第5条)。したがって司祭は、「私はこのいけにえを、ペトロとパウロにささげる」注1とは言わず、聖人に勝利を与えた天主に感謝し、「地上において聖人を記念する時、聖人が天国において、私たちのために祈るように彼らの・援助を願うのである」注2。
Cap. 4. Utrum missam celebrare conveniet 第4章 ミサ典文について
1745 942 Et cum sancta sancte administrari conveniat, sitque hoc omnium sanctissimum sacrificium: ecclesia catholica, ut digne reverenterque offerretur ac perciperetur, sacrum canonem multis ante saeculis instituit, ita ab omni errore purum (can.6), ut nihil in eo contineatur, quod non maxime sanctitatem ac pietatem quandam redoleat mentesque offerentium in Deum erigat. Is enim constat cum ex ipsis Domini verbis, tum ex Apostolorum traditionibus ac sanctorum quoque Pontificum piis institutionibus. 1745(942)聖なるもの、特にすべてにまさって聖なるいけにえを敬虔に取扱わなければならない。このいけにえが、ふさわしい方法で尊敬をもってささげられ受取られるように、カトリック教会は何世紀も以前に聖なる典文を制定した。この典文は、あらゆる誤謬からまぬがれ(第6条)、聖性と信心に反するもの、いけにえをささげる者の心を天主にまで高めないものを含んでいない。典文は主のことば、使徒たちの伝承、聖なる教皇たちの教訓から成立っているからである。
Cap. 5. "De solemnibus Missae sacrificii caeremoniis" 第5章 盛式ミサ聖祭について
1746 Cumque natura hominum ea sit, ut non facile queat sine adminiculis exterioribus ad rerum divinarum mediattionem sustolli, propterea pia mater Ecclesia ritus quosdam, ut scilicet quaedam submissa voce (can. 9), alia vero elatiore in Missa pronuntiarentur, instituit; caeremonias item adhibuit (can. 7), ut mysticas benedictiones, lumina, thymiamata, vestes aliaque id genus multa ex apostolica disciplina et traditione, quo et majestas tanti sacrificii commendaretur, et mentes fidelium per haec visibilia religionis et pietatis signa ad rerum altissimarum, quae in hoc sacrificio latent, contemplationem excitarentur. 1746(943)人間性は外的なことがらの助けなしに、天主について黙想することを困難に感じる。そのため、聖なる教会はミサの儀式の一部を低い声で(第9条)、一部を高い声でとなえるように規定した。さらに教会は種々の儀式に関する規定をもうけた。たとえば、使徒たちの規律および伝承から受継いだ聖なる祝福、ローソク、香、祭服、その他のものを利用してきた。これらのものはすべて、いけにえの偉大さを示し、宗教と信心の目に見える物を通じて、このいけにえに隠れて内在することがらの観想に信者の心を向けるためである。
Cap. 6. De Missa, in qua solus sacerdos communicat 第6章 司祭だけが聖体拝領するミサについて
1747 944 Optaret quidem sacrosancta Synodus, ut in singulis Missis fideles adstantes non solum spirituali affectu, sed sacramentali etiam Eucharistiae perceptione communicarent, quo ad eos sanctissimi huius sacrificii fructus uberior proveniret; nec tamen, si id non semper fiat, propterea Missas illas, in quibus solus sacerdos sacramentaliter communicat, ut privatas et illicitas damnat (can. 8), sed probat atque commendat, si quidem illae quoque Missae vere communes censeri debent, partim quod in eis populus spiritualiter communicet, partim vero, quod a publico Ecclesiae ministro non pro se tantum, sed pro omnibus fidelibus qui ad Corpus Christi pertinent, celebrentur. 1747(944)個々のミサ聖祭において、そこに出席している信徒がただ精神的に聖体を拝領するだけでなく、実際にも拝領して、聖なるいけにえの成果を豊かに受けることを教会会議は望むが、司祭だけが実際に聖体拝領をするミサ聖祭を不法であるというのではない(第8条)。むしろこれに同意を与え、さらにこれを勧めるものである。このようなミサ聖祭の場合も私誦ミサではなく、真に教会の祭儀である。信徒たちは精神的に聖体を拝領し、司祭はまた自分一人のためだけでなく、キリストの神秘体に属するすべての信徒のためにそのミサを奉献するからである。
Cap. 7. De aqua in calice offerendo vino miscenda 第7章 カリスの奉献の時にブドー酒に水を混ぜること
1748 945 Monet deinde sancta Synodus, praeceptum esse ab Ecclesia sacerdotibus, ut aquam vino in calice offerendo miscerent (can. 9), tum quod Christum Dominum ita fecisse credatur, tum etiam quia e latere eius aqua simul cum sanguine exierit (Jo 19, 34), quod sacramentum hac mixtione recolitur. Et cum 'aquae' in Apocalypsi beati Joannis populi dicantur (Apc 17, 1 15), ipsius populi fidelis cum capite Christo unio repraesentatur. 1748(945)次に、聖なる公会議は、司祭がカリスを奉献する時にプドー酒に水を混ぜることは教会の掟であると勧告する(第9条)。これはキリストが行ったと信じられているし、またキリストの脇腹から血と水とが流れ出た(ヨハネ19・34)からであり、この混合によって、聖なる秘義が思い起されるからである。また、聖ヨハネの黙示録によれば「水」は「人々」であり(黙示録17・1、5)、信ずる民とかしらであるキリストとの一致の象徴である。
Cap 8. De Missa vulgari lingua passim non celebranda, et mysteriis eius populo explicandis 第8章 到る所で自国語のミサを挙行しないこと、またミサの秘義を信者に説明すること
1749 946 Etsi Missa magnam contineat populi fidelis eruditionem, non tamen expedire visum est Patribus, ut vulgari passim lingua celebraretur (can. 9). Quamobrem, retento ubique cuiusque ecclesiae antiquo et a sancta Romana Ecclesia, omnium ecclesiarum matre et magistra, probato ritu, ne oves Christi esuriant, neve 'parvuli panem petant et non sit, qui frangat eis' (cf. Thr 4, 4): mandat sancta Synodus pastoribus et singulis curam animarum gerentibus, ut frequenter inter Missarum celebrationem vel per se vel per alios, ex his, quae in Missa leguntur exponant atque inter cetera sanctissimi huius sacrificii mysterium aliquod declarent, diebus praesertim Dominicis et festis. 1749(946)ミサは信者にとって大きな教育的価値を含んでいるが、到る所で自国語のミサを挙行することは教父たちの望むことではない(第9条)。そのため、すべての教会の母であり教師である聖なるローマ教会が昔から認めている儀式を全地方の教会で守らなければならない。そしてキリストの羊たちの喉が渇かないように、「子供たちがパンを求めても、それをさいてやる者がない」(エレミヤ哀歌4・4参照)ということがないように、この聖なる公会議は、すべての霊魂の司牧者に次のことを命令する。ミサ聖祭中に自分自身で、または他の人によって、ミサ中に朗読したことについて説明し、特にこの聖なるいけにえの秘義について説明すること。特に主日と守るべき祝日においてそうしなければならない。
1750 947 Quia vero adversus veterem hanc in sacrosancto Evangelio, Apostolorum traditionibus sanctorumque Patrum doctrina fundatam fidem hoc tempore multi disseminati sunt errores, multaque a multis docentur et disputantur: sacrosancta Synodus, post multos gravesque his de rebus mature habitos tractatus, unanimi patrum omnium consensu, quae huic purissimae fidei sacraeque doctrinae adversantur, damnare et a sancta Ecclesia eliminare per subjectos hos canones constituit. 1750(947)最近、多くの者が、聖なる福音書、使徒たちの伝承、聖なる教父たちの教説に基づいた古くからの信仰に反対する誤謬を流布し、多くのことが多くの者によって教えられ、論争されている。聖なる公会議は、これらの問題について慎重に検討した結果、全教父の賛同を得て、純粋な信仰と聖なる教義に反することがらを排斥し、聖なる教会から排除するため、次の諸規定をもうけた。
Canones de ss. Missae sacrificio ミサ聖祭についての規定
1751 948 Can. 1. Si quis dixerit, in Missa non offerri Deo verum et proprium sacrificium, aut quod offerri non sit aliud quam nobis Christum ad manducandum dari: an. s. 1751(948)1条。ミサにおいて真実の供え物が天主にささげられないとか、これをささげるのはわれわれにキリストを食べさせるためだけであると言う者は排斥される。
1752 949 Can. 2. Si quis dixerit, illis verbis: 'Hoc facite in meam commemorationem' (Jo 22, 19; 1 Cor 11, 24), Christum non instituisse Apostolos sacerdotes, aut non ordinasse, ut ipsi aliique sacerdotes offerrent corpus et sanguinem suum: an. s. (cf. DS 1740). 1752(949)2条。「私の記念として、これを行え」(ルカ22・19;1コリント11・24)という言葉によって、キリストは使徒たちを司祭としたのではなかったとか、使徒たちと他の司祭たちが、自分の体と血をささげるように定めたのでもないと言う者は排斥される(DzS1740参照)。
1753 950 Can. 3. Si quis dixerit, Missae sacrificium tantum esse laudis et gratiarum actionis, aut nudam commemorationem sacrificii in cruce peracti, non autem propitiatorium; vel soli prodesse sumenti; neque pro vivii et defunctis, pro peccatis, poenis, satisfactionibus et aliis necessitatibus offerri debere: an. s. (cf. DS 1743). 1753(950)3条。ミサのいけにえはただ賛美と感謝のためであるとか、あるいは十字架上で行われたいけにえの単なる記念であって、罪の償いのためでないとか、あるいは拝領する者だけの利益になるものであって、生存者と死者のため、罪、罰、償いその他の他の必要のためにささげられるべきでないと言う者は排斥される(DzS1743参照)。
1754 951 Can. 4. Si quis dixerit, blasphemiam irrogari sanctissimo Christi sacrificio in cruce peracto per Missae sacrificium, aut illi per hoc derogari: an. s. (cf. DS 1743). 1754(951)4条。ミサ聖祭は、キリストが十字架上でささげた聖なるいけにえに対して冒涜を加えるものであるとか、十字架のいけにえはミサのいけにえによって廃止されると言う者注は排斥される(DzS1744参照)。
1755 952 Can. 5. Si quis dixerit, imposturam esse, Missas celebrari in honorem Sanctorum et pro illorum intercessione apud Deum obtinenda, sicut Ecclesia intendit: an. s. (cf. DS 1744). 1755(952)5条。聖人の崇敬のためと天主に彼らの取次ぎを願うためにミサをささげることを教会は望んでいるが、これは詐欺であると言う者は排斥される(DzS1744参照)。
1756 953 Can. 6. Si quis dixerit, canonem Missae errores continere ideoque abrogandum esse: an. s. (cf. DS 1745). 1756(953)6条。ミサの典文は誤りを含んでいるので、廃止すべきであると言う者は排斥される(DzS1745参照)。
1757 954 Can. 7. Si quis dixerit, caeremonias, vestes et externa signa, quibus in Missarum celebratione Ecclesia catholica utitur, irritabula impietatis esse magis quam officia pietatis: an. s. (cf. DS 1746). 1757(954)7条。カトリック教会がミサ聖祭の時に使う儀式、祭服、外的なしるしは、信心の助けになるどころか、不敬の念を超させるものである、と言う者は排斥される(DzS1746参照)。
1758 955 Can. 8. Si quis dixerit, Missas, in quibus solus sacerdos sacramentaliter communicat, illicitas esse ideoque abrogandas: an. s. (cf. DS 1747). 1758(955)8条。司祭だけが聖体の秘跡を拝領するミサは不法であるから廃止すべきである、と言う者は排斥される(DzS1747参照)。
1759 956 Can. 9. Si quis dixerit, Ecclesiae Romanae ritum, quo submissa voce pars canonis et verba consecrationis proferuntur, damnandum esse; aut lingua tantum vulgari Missam celebrari debere; aut aquam non miscendam esse vino in calice offerendo, eo quod sit contra Christi institutionem: an. s. (cf. DS 1746 1748 s). 1759(956)9条。低い声で(ミサの)典文と聖変化の言葉をとなえるローマ教会の儀式は排斥すべきであるとか、自国語だけでミサをささげるべきであるとか、奉献の時にカリスのブドー酒に水を混ぜることはキリストの制定に反することであるからそうすべきでない、と言う者は排斥される(DzS1746、1748~1749参照)。
1760 Insuper cum eadem sacrosancta Synodus superiori sessione duos articulos alias propositos et tum nondum discussos, videlicet: - An rationes, quibus sancta catholica Ecclesia adducta fuit, ut communicaret laicos atque etiam non celebrantes sacerdotes sub una panis specie, ita sint retinendae, ut nulla ratione calicis usus cuiquam sit permittendus, - et: An, si honestis et christianae caritati consentaneis rationibus concedendus alicui vel nationi vel regno calicis usus videatur, sub aliquibus condicionibus concedendus sit, et quaenam illae sint, in aliud tempus, oblata sibi occasione, examinandos atque diffiniendos reservaverit: nunc eorum, pro quibus petitur, saluti optimum consultum volens, decrevit, integrum negotium ad Sanctissimum Dominum esse referendum prout praesenti decreto refert; qui pro sua singulari prudentia id efficiat, quod utile rei publicae christianae et salutare petentibus usum calicis fore iudicaverit. 1760さらに、聖なる教会会議は、第21総会に提出されたが、まだ討論されなかった次の2条項を、他の適当な機会に討議し、決定すべきものとして保留した。a)信徒およびミサを挙行していない司祭は、パンの形色だけによって聖体拝領するという聖なるカトリック教会に導入された習慣を保存し、カリスから血の拝領を絶対に許してはならないか。b)特定の民族あるいは領地に、キリスト教的愛に合致する理由から特定の条件のもとに血の拝領を許すがこの条件は何であるか。この申請に最善の解決を与えるため、公会議は、この問題の最終的解決を教皇にゆだねることを決定した。教皇は、キリスト教社会のためと、血の拝領を申請する者のためを考慮した上で判断をくだすであろう。

内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである。【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き4)
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き4)


(F)内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである。

 「およそ、天主が一つの事業を、ことごとくご自分のものにしようとおぼし召しされるとき、天主はまず、すべてを無為無能に、すべてを壊滅に帰せしめる。それがすんでからはじめて、ご自身イニシャチブをとって、お働きになるのである」 
Lorsque Dieu veut qu'une oeuvre soit toute de sa main, il réduit tout à l'impuissance et au néant, puis il agit.

 これは、ボスエ司教の有名な言葉だが、この文句は、使徒職の魂がなんであるかをさとっていない使徒にとっては、全く不可解である。

 傲慢にもまして、天主の尊厳を傷つけるものはない。ところで、われわれは、事業に成功しようとあせるのあまり、そのために純潔な意向を欠いで、われわれ自身を、事業の原因であり、同時に終局であるべき天主の玉座まで、高く祭り上げることがある。これは、あきらかに、一種の偶像崇拝であって、天主のお怒りにふれること、はなはだしい。
Bien ne blesse Dieu comme l’orgueil. Or, dans la recherche du succès, nous pouvons, faute de pureté d’intention, en arriver à nous ériger en une sorte de divinité, principe et fin de nos oeuvres. Dieu a en horreur cette idolâtrie. Aussi lorsqu’il voit l’activité de l’apôtre manquer de cette impersonnalité que sa gloire exige de la créature, il laisse parfois le champ libre aux causes secondes, et l’édifice ne tarde pas à s’écrouler.

 天主は被造物から、光栄を要求する権利がある。事業の遂行におけるこの光栄とは、使徒が、“おのれ”を、おのれの光栄を、無に帰して、ひたすら天主の光栄のみを、追及することである。もし使徒が、没我の精神を欠いだために、この光栄をご自分に帰しないのをごらんになるとき、天主はしばしばその事業を見放して、ただそれに従事する人の自力のみに一任されることがある。そうなると、事業はながくたたないで、しぜんに消滅する。
 福音の働き手が、ここにある。
 活動家である。頭もいい。熱心でもある。
 生来の熱烈な気性を、いかんなく発揮して、いさましく事業に着手する。
 そして、かがやかしい成功を収めたとしよう。
 かれはスッカリ成功の美酒に酔いしれて、有頂天になる。ウヌぼれる。
 うまくやったものだ! これこそは、わたし自身の事業だ、わたし自身の! Veni, Vidi, Vici ! わたしは来た、見た、勝った!
 シーザーの有名なこの言葉を、おのれに当てはめて、かれは得意になっている。
 だが、威張るのは、ちょっと待った。
 天主のお許しで、これこれの事件が、かれのうえに起こった。悪魔が、または世間が、直接間接、これこれのいたずらを、かれの事業に、かれの身に、しかけてきた。
 さあ、たいへん! 事業は壊滅だ。
 だが、いっそう残念なのは、かれの内心にひきおこされた荒廃だ。
 きのうの勇士の面影はどこへやら、かれはスッカリ意気消沈、落胆しきっている。
 成功の喜びが大きかっただけに、失望もまた、いっそう深刻なのである。
 地上に残骸をよこたえたかれの事業、敗残者のかれ自身――これを助け起こしうる者は、いったいだれなのか。
 ただイエズス・キリストだけである。
 聖主は、人生の惨敗者なるかれにむかって、こう仰せられる。
 「勇気をふるいおこして、立ち上がれ。一人でやるから、失敗するのだ。こんど、仕事をするときは、わたしとともに、わたしによって、わたしにおいて、するがよい!」

 力づよくも、心やさしい、主のみ声よ!
 だが、不幸なかれには、このみ声がききとれない。
 霊魂はひどく、軽率になっている。
 主のみ声がききとれるためには、恩寵の奇跡が必要なのだ。
 だが、恩寵の奇跡も、天主にしばしば不忠実を重ねてきたかれに、どうしてそれを乞い求める権利があるだろうか。
 天主は全能である、その摂理も全能である、とは心で信じている。
 だが、その信念は、あまりにもろい。
 この敗残の使徒は、あたかも溺れかかった人が、一本のわらくずにしがみつくように、このもろい、そこはかとなき信念に、最後の逃れ場をもとめるけれども、それがなんになろう。ひっきりなしに襲いかかる悲しみの津波を、防ぎ止めてはくれないのだ!
 ほんとうの使徒の姿は、これとは全然ちがう。
 かれの理想は、天主の人イエズス・キリストを、おのれのうちに再現することにある。
 かれにとって、祈りときよらかな生活は、天主のみ心にたいして、人びとの心にたいして、働きかけることのできる二大手段なのである。
 むろん、かれは、いかなるぎせいも惜しまない大きな心をもって、仕事に身をゆだねはするだろう。
 だが、成功の幻影を、追おうとはしない。
 それは、まことの使徒にとって、ふさわしくないことだ、と信じているからである。
 試練のあらしがやってきても、平気だ。
 かれは、それを生みだした第二次原因にかんしては、全然無関心である。
 うず高く積みかさねられた事業の残骸のさなかにあって、かれはイエズス・キリストをただ一人、おのが友として、再建に着手するのだ。そして、心の中では、かのゲネザレトの湖上、恐怖にうちふるえている弟子たちに、「おそれるな、わたしだ!」と仰せられて、かれらに平和と安心をお返しくださった聖主の、そのおなじみ声をきくのである。
 試練のあらしが過ぎ去ると、みごとな成果が現われる。
 聖体にたいするかれの信心には、新しい飛躍が見られる。
 聖母の七つの悲しみにたいする信心も、あらたな熱をおびる。
 かれの霊魂は、事業の不成功にうちひしがれる代わりに、かえって若返って、試練のルツボから出てくる。
 霊魂は、「ワシのように若返って、あらたになる」(詩篇102・5)
 失敗を喫しながら、かえって、勝利者の気持ちである。
 しかも、謙遜の態度を失わない。
 これは、いったい、どこからくるのだろうか。
 イエズスとの一致の生活から、くるのである。
 イエズスの全能にたいする、ゆるぎない信頼心からくるのである。
 これ以外の処に、その秘訣をさがしてはならぬ。
 これが、聖イグナチオをして、次のようにいわせたゆえんでもある。
 「もし、わたしの過失でなしに、イエズス会が、解散させられるようなことでもありましたら、天主様とおはなしするために、十五分間もございましたら、わたしはりっぱに、心の平静と深い平和をとりもどせましょう……」

 さらに、アルスの聖司祭も、これと同じようなことをいっている。
 「内的な人は、屈辱と苦悩のさなかにありましても、あたかも海底に沈んでいる厳石のように、心はすこしも動揺しません。」

 実際の話、使徒はさんざん苦労する。せっかくの努力も水泡に帰し、せっかくの事業も壊滅にひんするときがある。あげくの果ては、自分の司牧する信者の中から、教えを離れる者が続出する。これは真の使徒にとって、実に、はらわたを断つ悲しみだが、しかしかれは、いつまでも泣いてはいない。すぐに心をとりなおし、熱心をふるいおこして、また初めからやりなおすのである。
 かれは知っている――キリストがもたらされた人類救済の事業は、それが個々の霊魂に適用されて効果を生じるためには、どうしても、とりわけ苦しみによって行われねばならぬ大事業であることを。で、かれはけっして、くよくよしない。むしろ、よろこんで耐え忍んだ試練こそは、自分を善徳に進歩させてくれるのだ、また、天主にいっそう大きな光栄を帰せるのだ、との確信を、心にもっているのである。
 そして、この強い確信こそが、試練の日に、かれの有力な支柱となるのである。
 かれはまた知っている――自分はただ、それより成功をかりとるタネをまくだけでよい、これ以外には、なにも天主から要求されていないのだ、ということを。ほかの人たちがあとからきて、ゆたかな収穫をあげるだろう。そして、この人たちは、その収穫を、実は自分らのまかなったところからえたのにかかわらず、不当にもこれを、自分らの手柄に帰するでもあろう。
 しかし、「かくれたことを見ておられる天の御父」(マテオ6・4)は、ちゃんとコトの真相を知っておいでになる。ゆたかな収穫は、実は前任者のくるしい労作の成果だったのだ。どんなに働いても、いっこうに収穫のあがらない、ただ苦労だけして死んでいった前任者の、血と汗と涙のおかげだったのだ。涙のうちにタネをまいた者は、自分の事業が失敗だったと思ったろうが、それはただ表面の失敗にすぎなかったのである。
 「そこで、“ひとりがまき、ひとりが刈る“ということわざが、ほんとうのこととなる。わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために、労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人びとが労苦し、あなたがたは、かれらの労苦の実にあずかっているのである」(ヨハネ4・37~38)

 聖霊降臨後、使徒たちに成功をかちえさせた者は、イエズス・キリストだった。
 このイエズスは、公生活ちゅう、なにをなされたろうか。
 ただ、タネをまくこと、ただ教訓と模範のタネをまくことだけだった。
 これ以外に、なにもお望みにならなかった。
 ご昇天後、使徒たちは、キリストのそれより、はるかに大きな事業をするだろう。
イエズスは、かれらにそういっておかれた。
 「よくよくあなたがたにいっておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが、御父のみもとに行くからである」(ヨハネ14・12)
 まことの使徒は、失敗しても、けっして落胆などしない。口先ばかりで、臆病者の使徒だったら、失敗すると、いろいろ愚痴をこぼす。まことの使徒は、そんな無駄話には、耳もかさない。かれの内的生活とイエズスへの信仰が、かれをしてそうさせるのだ。
 かれは、ちょうど、疲れを知らない蜜蜂のように、つれないあらしにさんざん痛めつけられた蜜箱を、元どおり建てなおすのである。
 よろこび、勇んで!

  (第三部 終了)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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