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聖ピオ十世会日本 2018年2月聖伝のミサの報告 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2018年02月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2月2日には、聖母の御潔めの祝日を大阪で祝いました。ロウソクの行列聖母の御潔めの祝日のミサを行い、初金でしたので聖時間も行いました。
 2月3日には、初土曜日で「聖母の汚れなき御心」の随意ミサを行いました。その後に聖ブラジオのロウソクによる喉の祝福がありました。

 2月4日の六旬節の主日には東京で聖伝のミサを行いました。ミサの後にはやはり聖ブラジオのロウソクによる喉の祝福を行いました。

 今日、2月5日(月)には日本二十六聖殉教者のミサを執行しました。11名の愛する兄弟姉妹の皆様がミサに与ることができました。天主様に感謝!

 次回は次の通りです。

【大坂】
    2月11日(主) 五旬節の主日(2級)紫
            午後5時20分 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 

    2月12日(月) 証聖者童貞聖マリアの僕の会の七創立者(3級祝日)白
            午前8時50分 ロザリオ及び告解 
            午前9時30分 ミサ聖祭 ←時間が変更になりました

【東京】

    2月18日(主) 四旬節第1主日(1級)紫
            午前09時頃 グレゴリオ聖歌の練習及び告解
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    2月19日(月) 四旬節の平日(3級)紫
            午前7時 ミサ聖祭

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様こんにちは。
大阪でのミッションありがとうございました。
神父様は30度を超えるフィリピンからマイナス17度の韓国、そして日本へ来られたそうで、気温差の大きさは神父様のお疲れにそのままに大きくあられたと思います。
日本の為に激務をお捧してくださる神父様に心から感謝申し上げます。

2月の初金、初土の御ミサの報告をお送りいたします。

2月2日(初金)聖母の御浄めの祝日のミサには16人が、
2月3日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサみは20人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!
この度は大阪で初めて御浄めの日のロウソク行列が行われ、参加できて大きなお恵みを頂きました。
このロウソク行列にはもともと償いの意味があったことや、ロウソクと光の意味、シメオンの祈りの解説など、前もって神父様から色々と準備して頂いたので、自分なりにシメオンになってロウソクを受け取りました。光であるイエズス様を天国に入るまで絶やさずに霊魂に保てるように、シメオンのようにイエズス様以外はもう何も必要ではなく、未練がなくなるようにこの世の旅路を終われるように願いました。

初金曜日の御ミサのあとには御聖体降福式でイエズス様を礼拝し、感謝し、お愛しし、そして日本と世界、特に中国や韓 国のために御憐みをおねがしいました。
なぜか私もこの度は、いつものようにイエズス様に色々な事をお願いしたりお話ししたり出来ず、ただただイエズス様の御憐みを乞い願った御聖体降福式となりました。。

ロウソク行列と初金、初土の両日の御ミサには小さなお友達も参加され、行列ではまだ三歳にもなられていないのに、しっかりとロウソクを手に暗い道を自分の足で歩いて聖堂へ帰って来られました。ロウソクの光を嬉しそうに見つめ、うっとりとしているお顔を見て、ロウソクの光がイエズス様を表わしていることに納得しました。小さなお子さんを遠くまで御ミサに連れてこられるのはご両親、特にお母様には大変な事だと思いますが聖堂に子供の声がするのが心地よく、とても嬉しかったです。みんな子供さんの愛らしさにノックダウンでした。大阪の聖堂にもこれからたくさんの子供、聖なる家族が増えますように!

初金日のお説教でマリア様の御浄めの祝日について黙想いたしました。
イエズス様が初めて教会にお姿を現された事がどれ程私達は喜ばなければならないでしょうか。シメオンが長い間待ちわびた救い主であるイエズス様を抱いた時に、自分の唯一の望みはかなった、自分の唯一の執着である救い主を見たのだからもう死んでもいいといいましたが、私は御聖体にましますイエズス様を見、拝領しているにも関わらずどれ程まだこの世に未練を持ち続けていることでしょうか?

聖福音の中にあるたった二つの讃歌のひとつ、シメオンの讃歌は毎日聖務日課で唱えられるのはシメオンの喜びがどれ程大きかったかをまた、いかに必要で大事なものであったかを教会が私達に思い出させてくれているように思いました。

初土曜日のお説教ではイエズス様が私達に望まれる最善で最良の救霊の方法、マリア様の汚れなき御心への信心を復習しました。
ファチマ100周年が終わって、ファチマ気分が終わらぬ様、改めてマリア様への汚れなき御心への信心の大切さをファチマの使徒として胸に刻みました。
日本で、また世界で

公教要理では初土曜日の黙想の助けとして聖トマスアクイナスの解説を引用して御浄めについて詳しく説明して頂きました。
御浄めと神殿への奉献の玄義はロザリオの黙想の中でもついつい無知ゆえに簡単に黙想していた玄義でしたが、今日の公教要理を聞いて、目がパッと明るくなったようでした。
色々な事が深く深く隠れている玄義だと気付きました。2月の初土曜日の黙想は15分では足らないほどでした。

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 25人(内、子供2人)
女: 21人(内、子供4人)
計: 46人(内、子供6人)



【報告】【前回の分】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ご公現後第三の主日の御ミサをありがとうございます。

今日のお話を伺うことができまして、私の主に向かう態度、祈るときの心の持ち方、ご聖体を拝領するときの心がまえなどを、深く顧みることができました。反省させられました。ありがとうございます。

らい病の人が慎ましく述べる……「もしもあなたがお望みであるならば、そうすることができます」という、言い方と近づき方は、ずけずけとものを申し上げるのではなくて、どれほどの謙譲さで相手にものを頼むべきかということがわかりました。どのように主に近づくべきかがすこし分かったようにおもいます。。

そして、いつも、申し上げているので慣れてしまっていた百夫長の嘆願のことばも、位階秩序を知っているものが徹底的な尊敬をもって申し上げたのですというお話を伺って、どのように深い信仰を信頼をもって遜(へりくだ)って主に近づくべきかということを教えられ、自分の態度を見直すことができました。

弱く惨めなものであるがゆえに、自分が弱いものであり、病んでいるものであり、どれほどかけ離れたところにいるものなのか、ということも、ついわからなくなってしまっているのだということを、いま、振り返ることができました。
(ユダの娘として、らい病を負う者として、異邦人として、信頼と信仰と謙遜をもって主に近づきたいと思いました。)

自分とはどのようなものなのかということを、今一度わきまえて知り、全能の天主にちかづこうとするにあたり、相応しき態度で、行うことができますように、しっかりと心に刻みました。

ご聖体にましまし給うイエズス様に向かうときの、自分の態度をリセットするきっかけとなりましたことを、感謝申し上げます。

そしてさらに、マリア様がどれほど、慎ましく淑やかで遜っていらっしゃられた御方であるか、また今回も教えていただきました。

「イエズス様がお望みになるようにイエズス様に提案するのです、あまりにご謙遜で慎ましいので……」という言葉に、胸を打たれました。

そのような頼みごとができるような方で、マリア様以上の御方はいらっしゃらないことでしょう。マリア様ほどの方が、そのような頼み方をされるのですから、マリア様にお願いして頼んでいただくことが一番よい方法に思えました。

「私たちがどのようなものであるか知れば知るほど、近づくことができなくなるけれど、マリア様とともにご聖体拝領に与ってください」

これまでと同じ、百夫長が祈った言葉を申し上げて、マリア様とともにご聖体拝領をいたしましたが、その態度は馴れ馴れしさをさけるように努め、出来る限りのへりくだりと、できる限りの尊敬をもって、主に近づくことができたように思います。

すこし話がずれてしまいますが、お許しください。私がまだ、新しいミサのことしか知らなった時のことです、まだ、現代ではミサというものが日本語で司祭と信徒がテーブル上の祭壇を挟んで向き合いながらするものという認識しかもっていなかったその当時、私はある頃から「主よ、私はあなたをこの胸の内に迎えるに足りないあまりに惨めな者です、ただ一言仰ってください、そうすれば私の霊魂は癒されます」と心の中で三回申し上げて、マリア様に来ていただいてその汚れないみ心のうちにご聖体を受け奉りますと申し上げながらご聖体拝領をさせていただくようになりました。

それは、いろいろな昔の古いカトリックの聖人がたの書かれた本を読んでいるうち、ご聖体のイエズス様をお迎えするための方法が、それら(たとえば、聖ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォール師の本などだったかもしれません)に書かれていたからでした。惨めな罪深い者でありますが、すこしでもふさわしく、イエズス様をお迎えできますようにと思って、そのようにさせていただこうと行い始めました。

ところが、全く知らなかった聖伝のラテン語のミサにおいては、それが何百年も続けられていたのだと気づくようになりまして、正直なんといっていいかわからない気持になりました。

現代の新しいミサでのご聖体拝領でのあまりにも失礼にあたるような拝領の仕方を反省して祈りの中で少しでもよい方法を求めましたのに、それはすでに、長い間世界中のカトリック教会で正式に行われ続けている聖伝のラテン語のミサ典書のなかにしっかりと収められているものであったからです。

私は、新しいミサしか知らなくても、お恵みにより、このような必要な内的態度のことを教えていただいたのかもしれません。まことに天主さまにマリア様に感謝申し上げます。そして、聖伝のごミサに導かれましたことを、感謝申し上げております、ありがとうございます。

こんなに素晴らしい拝領の仕方を教えられることもなく、ごミサに与るしかないというのは、あまりにもイエズス様に失礼となるようにも感じられますのに、現代の日本で、ミサにおけるこのような態度のことが取りはらわれ無視されてしまっていることが悲しくてなりません。信仰を求めて教会にやってくる何も知らない信者にたいしても、残酷なことと感じられます。余計なことを申し上げた失礼をどうぞお許しください。(今回のお説教の内容に関係していたことと思いました。)

神父様、ご公現後第三の主日において、この一年どのようにして主のみもとにまいりご聖体拝領をしなければならないを、今一度立ち返り反省とともに確認ができましたことを、感謝申し上げます。


【お便り】
親愛なる小野田神父様

神父様がブログに載せている、 「使徒職の秘訣」という記事をとても楽しく読んでいます。
聖ピオ10世会は、厳しい、世俗と戦うための修道会だと思ってきましたが、とても憐れみ深い、慰めの心に満ちた修道会なのだと感じております。
深い主への愛に生きておられるのだと感じます。
東京に御聖堂がないことがどんなに悲しいことか。多くの、司祭や修道者の召命のために、もっと祈らなくてはなりませんね。立派な心で司祭を志そうとする若者や、清い心で主に仕えたいと思う人々がたくさんいます。そのような、ただ、主への愛に生きたいと思う人々が、どうか、聖伝の信仰に導かれますように。
アーメン。

大阪の御ミサの案内を見ると、いつも行きたいなぁ、と思ってしまいます。
神父様、私が良き終わりを遂ぐる恵みをいただけるように、どうかお祈りください。

【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」を続々アップして下さってありがとうございます!

「およそ一国民が、国をあげてキリスト教に回心するためには、ただ熱心な聖職者の布教者たちばかりでなく、信徒の中にも、イエズスの聖心と一致して生きたい、イエズスのみ国をひろめたい、そのためにはまず自分で内的生活をいとなみ、次に周囲の人の心にもまた、これを芽ばえさせたいと、はげしく渇望している篤志家の信者が、いくらかいてもらわねばならぬ。この種の精鋭の信者は、数はすくなくてもいい。肝心なのは、量よりも質だ。」

「信者の熱心と救霊は、善き司牧者の司祭たちの聖性に依存しています。もし小教区のかしらに、りっぱな主任司祭をいただきますなら、じきに信心の花は咲きみだれ、秘跡はしばしば受けられ、黙想はたいへん重んじられるようになります。」

と書いてあって、まさに今の日本の聖ピオ十世会の求めているものが書かれてあると思いました!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父さま、本のご紹介をありがとうございます。
日本語の「使徒職の秘訣」を何度か借りて読んだことがあります。
残念ながら既に絶版で、入手は困難です。

私の感想は、「とても素晴らしいけれど、 難しい!」と感じる箇所がありました。
今思いますと、典礼のことについて、書かれている箇所だったと思います。
高度な内容だし、難解に感じたように思います。
自分の体験から推察できることと少し離れていると思ったのかもしれません。

この本が出版された当時の典礼は、何百年と続けて捧げられたラテン語の古いミサで、
著者はそれを念頭にこの本を書かれたのでしょう。
まだ、新しいミサしか知らなかった私には、正しく内容を理解することができなくて、当然だったのです。

ベネディクト16世引退教皇様が説明された内容を読みますと、
新しいミサは古いミサとまったく異なるものだと、はっきりとおっしゃっておられますから。
また、私自身、古いミサ(聖伝のミサ)に与かるようになってから、
ミサで祈っている内容が、両者では異なっていると、その違いを感じさせられますから。

小野田神父様は、内的生活を築く必要性を書いてくださいました。
内的生活とは、天主様との対話、 イエズス様との親しい語らい、 祈りの生活のことかなと思います。
祈りの中で最も高度な祈りは典礼の祈りであると、古いカトリックの書物には書かれてあります。
そのことに気づいても、古いミサを知ることができなければ、その言葉が真実かどうかわかりません。
"本当の祈りを知るために、本当に良い祈りをお捧げするために、良い典礼生活が必要だ"
ということを、最近はっきり理解できるようになったとおもっています。

日本人のほとんどの人が、いまや古いミサがかつて日本の教会でも捧げられていたということを知りません。
ミサには、新しいミサと古い伝統的なミサがあるのだ、ということすら、知りません。
そしてそれが、日本人が伝統的な本物のカトリックの信仰をよく理解できない原因の一つかもしれません。

小野田神父様が推薦される「使徒職の秘訣」という素晴らしい本が、
もはや絶版となってから、幾久しく放置されているのは、
この典礼のことが日本ではあまりにも誤解を受けたからだと思います。

そのために、祈りの生活を求めようとしても、
最高の祈りの場(良い典礼生活 = 聖伝のミサ)が与えられていなくて、
カトリック信徒の本当の内的生活も、築かれ難いのだと感じております。

内的生活の希薄なカトリックであるままならば、
本物を求めている求道者を引きつけるに及ばず、
カトリック信仰が世に普及されないのだと思います。

数学の方程式を解くのと、このことは同じですね!
難問の答えが見つかったので、他の人もまた答えを見つけることができるようにと思います。

そして私の内的生活をしっかり築いていこうと思います。
聖伝のミサが日本で毎日ささげられる日が来ますように!

【報告】
小野田神父様こんにちは。

御浄めのミサの後、聖ブラジオのロウソクを祝別して喉の祝別をして頂きました。
母は薬を飲むのが苦手で、いつも飲み込むのに苦労していたので聖ブラジオ様に、薬が喉に引っかかってつまりませんようにとお願いしたそうです。
また、聖歌をもっと美しく歌えるようになりますようにとお願いした人もいました。
私は、喉は健康な方ですが、不平不満など、言いたいことを喉から先へ出さないようにできるようにお願いしました。



【お返事】
「不平不満など、言いたいことを喉から先へ出さないようにお願いしました」って、とても良いお願いですね!


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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第三部 内的生活が善徳への進歩を保証せねばならぬ 一、使徒的事業は内的生活をいとなむ霊魂にとって聖性達成への手段(A)

2018年02月05日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
一、使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である。
(A) 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への有力な手段である
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
一、使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である。

(A) 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への有力な手段である


 イエズス・キリストの使徒職に参加する人は、ただおのれを聖性のうちに、安全に確保するだけでは足りない。なお一歩すすんで、聖性に進歩しなければならぬ。これは、聖主のあきらかなご要求である。それを実証する聖書の言葉はおおい。ティトや、ティモテオにあてた聖パウロの書簡にも、アジアの諸司教にあてた聖ヨハネの黙示録にも、そのことが、うらがきされている。
 他方において、天主は使徒たちに、“事業”を、お望みになる。
 このことは、本書の初めにも書いておいた。
 であるから、ここに一人の使徒職専従者がいて、「使徒的事業は、それ自体、われわれの聖性達成に、障害となる。なるほどそれは、天主のみ旨から出るにはちがいなかろうが、同時に、完徳の頂きにむかってのわれわれの行進を、必然的にゆるやかにするものだ」などというなら、それは天主の知恵にたいして、天主の善良にたいして、天主の摂理にたいして、たいへんな侮辱をくわえ、ひじょうな冒瀆をあびせるものであることを、覚悟しなければならぬ。

 相互に矛盾し、衝突する二箇の命題が、ここにある。
 その一つは、こうだ。
 「およそ、使徒職に専従する人は、いつも、おのれの救霊と霊的進歩を、気にかけていなければならぬ。さて、使徒職は、それがどんな形式のものであれ、もし天主のみ旨から出るものであれば、それ自体、使徒職にたずさわっている人が、常時にひたっていなければならぬ堅実な聖性のふんい気を、絶対に悪化させるものではない。そればかりか、活動に要求される条件を具備していとなまれるとき、それは当人にとって、聖性を達成するための、最も有力な手段でさえある」

 命題の他の一つは、こうだ。
 「自分は、天主の協力者となるように、天主から選ばれた。したがって、天主のこの召し出しに応ずる義務がある。さて、天主から命ぜられた、これこれの事業を遂行するためには、これこれの活動をしなければならぬ。これこれの苦悩をしのび、これこれの心配をしなければならぬ。だから、自分はりっぱに、正当に、申しひらきができるのだ。――私はとうてい、自分自身の聖性達成に、没頭している余裕なんかないのだ、と」
 つまり、一方では、使徒的事業は、聖性達成への手段であるといい、他方では、このおなじ事業が、聖性達成の放棄への、正しい理由になるという。

 さて、天主のご計画が、りっぱに実現するためには、右のジレンマをみごとに解決してくれる、なにかすばらしい結論がなければならぬ。その結論というのは、こうである。

 「天主は、そのお選びになった使徒たちに、必要な恩寵をお与えになり、この恩寵によって、かれらが、その多忙をきわめた活動のさなかにあっても、ただおのれの救霊を安全に確保することができるばかりでなく、なおそのうえ、おのれの聖性を達成することもできるほど、善徳の獲得を可能にしてやらなければならない義務を、ご自分のうえに、おせおいにならなければならぬ」

 天主は、聖ベルナルドや、聖フランシスコ・ザベリオのような大聖人に、かれらの使命を完全に遂行するために必要な恩寵はみんな、おあたえになった。このおなじ恩寵、同じ天主の助けをこそ、たとえ程度の差はあっても、しかし必要なだけは、どんな使徒的人物にも、天主はおあたえにならなければならないのである。いちばん貧弱な、福音の働き手にも。いちばんつまらない、修道者の教師にも。いちばんお粗末な、病人看護の修道女にも……。
 これこそは、天主が、そのお選びになった”道具“、その使徒職に参与する人びとに、お支払いにならねばならない、天主ご自身の”負債“なのだ。このことは、いくたびくり返しいっても、けっしていいすぎることはない。
 そんなわけで、すべて使徒たる者は、事業の遂行において具備すべき条件を、もし果たしさえいれば、おのれの事業にどうしてもなくてはならぬ天主のお助けと恩寵を、当然、天主に要求できる権利があるのだから、この権利に、全幅の信頼を、おいていなければならない。「召し出しによって与えられた事業」――これが、天主のお助けと恩寵の無限のたからを、おのれに要求するための、“抵当”物件なのである。

 パスのアルバレス師(Alvarez de Paz)は、こういっている。
 「愛徳の事業にたずさわっている人は、事業が自分に、観想の門戸をとざすのではなかろうか、観想に身をゆだねることが、以前よりむずかしくなる、いや、不可能にさえなるのではなかろうか、などと心配してはならぬ。事実はこれと逆である。かえって、みごとな仕方で、霊魂は、観想へ、観想へとさそわれていく。
 理論的にいってもそうだし、権威ある教父たちもまた、それが真理である、と断言している。そればかりではない。実際の話、隣人にたいする愛の事業――聴罪や、説教や、カトリック要理の教授や、病人の訪問――にたずさわっている人たちのなかで、いにしえの砂漠の隠者にも比べることのできるほど、観想の高い度合いに達している人びとを、よく見かけるではないか」(同師『全集』三巻、四五章)

 「観想の度合い」« degré de contemplation »――という言葉によって、この有名なイエズス会員もまた、他の霊生の大家たちのように、天主の愛にみなぎりあふれた霊魂の特長をなす“念禱の恩寵”を、さしているのである。

 事業をやっていくには、多くのぎせいが要求される。このぎせいこそは、天主の光栄と人びとの霊魂の聖化のために、なくてはならぬものである。このぎせいのおかげで、活動的生活に従事する人は、大きな超自然的価値とゆたかな功徳を、自分のものにすることができ、もし当人さえその気持ちなら、天主への愛と天主との一致の段階を、毎日、すこしずつ登っていく ―― 一言で申せば、聖性の度合いを、日に日に、すこしずつ高めていくことができるのである。

 いうまでもなく、ある場合――たとえば、とりわけ信徳にたいして、貞徳にたいして、ほんとうに罪となるような重い、しかも直接の危険がある場合、天主は、当人が、その従事している事業から離れることを、お望みになる。しかし、それが出来ない場合、天主は福音の働き手を、内的生活によって、この危険から予防し、かつ善徳に進歩するための手段を、お与えになるはずである。

 「善徳に進歩するための手段」――と、いまさっきいったが、さてこの進歩が、何に存するか、それをハッキリ見究めることが大切である。良識に富み、いたって超自然的な大聖テレジアの、一見矛盾したような次の言葉が、筆者の議論をわかりやすく説明してくれると思うから、下にこれを引用する。

 「院長の職務について、たくさんの用務をおび、しばしば旅行しなければならないようになりますと、わたしは以前にもまして、多くの過ちにおちいるようになりました。しかし、過ちにむかって必死にたたかい、また天主さまのためにだけ仕事をしますので、かえってそのために、前よりもいっそう、天主さまに近づいていくように感じられるのです」

 修道院の静寂と沈黙のさなかにいるときにくらべて、外にでればいっそう自分のよわさを知り、過ちにもしばしばおちいる。聖女はそれを、身にしみてさとる。だが、心はみだれない。こうなったら、心戦あるのみ! 聖女は、以前に倍加して、努力をつみかさねる。だから、それはかえって、勝利のチャンスとなり、以前には霊魂の奥に潜伏して、外部には現れなかった弱さのために、心ならずもおちいっていた突発的な過誤を、十二分にうめあわせてくれるのだった。

 十字架の聖ヨハネがいっているように、天主との一致は、人間の意志と天主のみ旨との合致に存する。そして、天主のみ旨だけが、この一致を可能にし、その度合いを規定するのである。
 霊的生活にかんして、あやまった考えをしてはならない。天主との一致の問題を、間違った観点から眺めてはならない。天主との一致に進歩するためには、ただ静寂と孤独のうちに身をおけばよい、などと考えてはならない。むしろ、大聖テレジアがいっているように、召し出しによって、従順によって、天主から命じられた仕事の中に、そして天主がお望みになる条件を具備していとなまれる活動の中にこそ、犠牲の精神、謙遜、自己放棄、天主の国をますますひろめたいとの熱烈な奮発心が、つちかわれるのであるから、これらの活動の中にこそ、霊魂と天主との親密な一致ははぐくまれ、かつ成長していくのである。聖主は、こういう霊魂の内にこそお生きになるのであり、かれの仕事をいのちづけ、このようにしてついに、当人を聖性にまで到達させてくださるのである。
 じじつ、聖性というものは、なによりもまず、天主にたいする愛のなかに宿る。そして、使徒的事業こそは、天主にたいするこの愛を、実行にうつしたものにほかならぬ。「愛の証拠は、業(わざ)の提示である」と、大聖グレゴリオ教皇もいっておられる。愛は、自己を否定する犠牲のわざによって、証拠だてられる。この奮発心の証拠をこそ、天主はそのお選びになった働き手から、要求されるのである。
 ペトロは、いくたびもくり返して、「主よ、わたしは、あなたを愛します」と宣言した。この愛の宣言が、真実なものであるかどうか、ほんとうに使徒の真心から出たものであるかどうか、を証拠だてるために、聖主がペトロに要求された業は、何であったか。
 「わたしの羊を牧しなさい。わたしの子羊を養いなさい」――これであった。
 「イエズス・キリストにたいする愛が、人びとの霊魂の救いのために、おのれをささげつくさせるほど熱烈でないなら、だれも、イエズス・キリストの友としての資格がない Non se amicum Christi reputabat, nisi animas foveret quas ille redemit, ――とは、いつも、アシジの聖フランシスコの頭にあった考えだった」(聖ボナヴェントゥラ『聖フランシスコ伝』)

 「わたしの兄弟である、これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マテオ25・40)と仰せられた聖主は、われわれが身体面でか物質面で、博愛と慈悲のわざを、他人にほどこすとき、それをあたかもご自分にたいしてなされたかのごとくに、お取りになるのである。これらの業の一つ一つのなかに、ご自分にたいする愛の反映を、お見いだしになるのだからである。

 げに、キリストにたいするこの愛こそは、宣教師たちをいのちづけるエネルギー源なのだ。この愛こそが、砂漠の苦業者たちを、隠棲と孤独と欠乏と心戦において、力づよくささえてくれるのだ。

 活動的生活は、なやめる人類への献身的奉仕の事業に使われる。
 活動的生活は、けわしい、まがりくねった犠牲の小みちをたどりながら、イエズスのみあとについていく。――ナザレトの労働者、霊魂の司牧者、御父の宣教師、奇跡をおこなう天主の人、霊魂と身体のあらゆる病いをいやす医師、世の人々のあらゆる必要に救援の手をさしのべるため、わが身の疲れもしらずに全世界をかけめぐる、心やさしい“人の子”イエズスのみあとに……。
 「わたしは、あなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」(ルカ22・27)
 「人の子がきたのは、仕えられるためではなく、仕えるためである」(マテオ20・28)
 活動的生活にたずさわっている人は、キリストの右のお言葉を、いつも記憶している。
 記憶して、これを実行にうつしている。
 活動的生活にたずさわっている人は、不幸というこの世の旅路をたどる巡礼である。みちすがら、真理の言葉に霊感されては、そのつど、この世の悲惨に泣く不幸な人びとを、天主の光りで照明する。天主の恩寵のタネを、周囲の人の心にまいては、そこからあらゆる種類のゆたかな収穫をあげる。
 活動的生活にたずさわっている人たちの信仰は、真昼の太陽のように、光かがやいている。その愛は、溶鉱炉のように、灼熱している。
 この信仰の光りと愛の直観によって、かれらは最も悲惨な人びとの中に、最も痛ましい苦悩にのたうつ人びとの中に、天主の人イエズス・キリストを、――裸で、悲嘆にあえぐイエズス・キリストを、見いだしているのだ。
 すべての人に嘲けられ、見捨てられ、そのおからだはらい病人のそれのように、傷つきただれたイエズスを。
 天父の正義によって、死の宣告を受け、天主のムチでうち砕かれた不思議な人物イエズスを。

 イザヤ預言者が、まぼろしのうちにみた、あの苦悩の天主の人イエズス――全身、打ち傷におおわれ、血潮は滝のように流れている。ムチうちにより、十字架の処刑によって、やつれ、衰えはてた天主の人、道ゆく人の土足でふみにじられ、地上をはいまわる虫けらのようにみじめなイエズス――このイエズスをこそ、かれらは不幸な人びとの中に、見いだしているのだ。多くの人が、このイエズスを、自分らの目で、ちゃんと眺めていながら、一向にそれを“見知り”えない世の中に……。et vidimus eum et non erat aspectus et desideravimus eum despectum et novissimum virorum virum dolorum et scientem infirmitatem et quasi absconditus vultus eius et despectus unde nec reputavimus eum(イザヤ53参照)

 ああ、活動的生活よ、あなたは、あなたこそは、このイエズスを、よく“見知る”者である。
 見知るばかりではない、あなたこそは両ひざを地につけ、両眼に涙をたたえて、このイエズス――貧しい人々に中にいますこのイエズスに、お仕えする者である。

 活動的生活は、人類社会を、改善する。
 その博愛をもって、その事業をもって、その汗をもって、砂漠のような人の世を、住みごこちのよい世界にする。
 活動的生活のおかげで、地上に天国が建設されるのだ。
 活動的生活は、天主の報酬を呼ばずにはいない。
 貧しい人びとにあたえる一ぱいの冷水に、天国を約束された天主は、まして病める人びとを看護する者に、まして汗だくになって福音のために働く使徒に、どうしてそれ以上にすばらしい天国を、おあたえにならないだろうか。
 ああ、活動的生活! ああ、活動的生活!
 世界終末の夕べ、天主は天と地の面前で、愛の事業を、いとも荘厳に、列聖されるであろう。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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