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第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ 【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ


使徒的事業が、ゆたかに実を結ぶための条件――それは内的生活である

 使徒職の対象となる事業の中には、神学者たちのいわゆる「おこなわれた業そのものによって」(Ex opera operato)効果を生ずるものがある。さらに、また、「業をおこなう者の霊的価値によって」(Ex opera operantis)効果を生ずるものがある。
 前者は、ここでは問題にならない。
 われわれはもっぱら、後者について、考察したいと思う。

 キリストは、弟子たちにむかって、「わたしに留まっていなさい。そうすれば、わたしもあなたがたと留まろう」(ヨハネ15・4)と仰せられた。
 内的生活によって、イエズスと一致してとどまっていさえすれば、天主のみ旨によって使徒的事業にたずさわるとき、この事業がゆたかな実を結ぶことは、絶対確実である。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしに留まり、またわたしがその人と留まるならば、その人は実をゆたかに結ぶようになる」(ヨハネ15・5)
 キリストの右のお言葉から推して、それはあまりに明白な論理である。この命題を証明するためには、キリストのお言葉以外に、いかなる権威もあろうはずがない。あっても、無駄である。経験はなにより雄弁に、この事実を物語っている。で、事実によって、上の真理を確証するにとどめる。

 もうかれこれ、三十年以上にわたって、わたしが、しさいに観察してきた事実がここにある。
 それは、こうだ。――それぞれ異なった女子修道会の経営にかかる、女の子の孤児院が二つあった。その事業の歩みを、わたしはじっと見守っていたのだが、二つとも、人目にわかるほど、衰退した時期があった。
 「衰退した」――と、なぜいっていけないだろう?
 Aの孤児院にも、Bの孤児院にも、それぞれ十六名の孤児たちが、全く同じ環境のもとに、収容されていた。そして、年ごろになると、彼女らはいずれも孤児院をでて、再び社会に出て帰っていった。いい忘れていたが、その前すでに、Aの孤児院からは三名、Bの孤児院からは二名、それぞれ事故をおこして、退院させられていた。
 さて、残りの十一名である。彼女らは、在院中はしばしば、聖体拝領をし、告解の秘跡も受けていたのに、いったん社会にでると、人びとをガッカリさせるような、じだらくな運命をたどった。ある者は夜の女になり、ある者はメカケとなるように、彼女らは社会の最下層に転落していった。しかも、十一名は十一名とも、社会にでるときには、それぞれりっぱな家庭だとか、まじめな職場だとか、とにかくシッカリした処に世話されていたのに……。
 なにが、彼女らをそうさせたのか。
 話は、本論にはいる。

 Aの孤児院では、十一年まえ、院長が交替した。
 ところが、タッタそれだけで、わずか六か月もたつか、たたないうちに、孤児院の空気は一変した。
 人びとの精神は、根本的に革新されたのである。
 同様の革新が、今度は三年後、Bの孤児院にも見受けられた。院長も、職員の修道女らも、そのままのメンバーだったが、ただひとり、孤児院付きのチャプレンが交替した直後からである。
 このことがあって以来、年ごろになって、孤児院をでる娘たちの内、悪魔の誘惑にまけて堕落のふちにおちこむ者は、一人もいないようになった。娘たちの全部が、一人の例外もなしに、りっぱなキリスト信者として、生活するようになったのである。
 なにが、この美しい結果の原因なのか。
 それは、あまりに明白である。
 以前には、孤児院のかしらが、または告解場の聴罪師が、適任者でなかったからである。超自然的に、十分ちからのある指導をすることが、できなかったからである。そのために、天主の恩寵は、じゅうぶんに働くことができなかった。恩寵の働きは、完全にマヒしてはいなかったが、いちじるしく低下していた。
 前の院長も、聴罪師も、なるほど一面において、まじめな信心家ではあったろう。
 だが、深い、中味のある内的生活に欠けていたので、その結果、じゅうぶん深みのある、じゅうぶん長続きのする働きを、孤児たちの霊魂にしてやることができなかったのである。
 感情だけの信心、――ただ敬けんなふんい気、釣り込み式の信心、ただ外面的の祈りや、儀式や仕来たりだけの信心ではダメだ。それはただ、弱い漠然とした信念だけしか、娘たちの心にうえつけることができない。炎を発してももえさからない愛、しっかりした根をもたない善徳しか、彼女らには与え得ないのである。
 無気力な信心、ショーウインドー式の信心、甘ったるい、お涙頂戴式の信心、ただ仕来たりでなんの気乗りもなしにする信心、――なるほど、このような上わべだけの信心でも、娘たちを自然道徳に、訓練することができよう。他人に迷惑をかけない、上長にはていねいに、おじぎするぐらいのことは知っている程度の者にすることはできよう。だが、彼女らに、強い宗教的信念をあたえることはできない。強い性格を与えることはできない。感情と想像を抑制するほど、強固な意志を与えることはできない。このような信心がどうして、彼女らの信仰生活を深め、滋味ゆたかにすることができるだろうか。どうして彼女らを、霊魂の敵とたたかうために、よく準備のできた“強い女”にすることができるだろうか。
 孤児らは、かごの鳥である。いつも、ひろい自由の大空を慕っている。いつ孤児院から出してもらえるだろうかと、その日ばかり指折りかぞえて待っている。自由の天地にあこがれるこれらのひな鳥を、かごのなかにじっと閉じこめておくために、安っぽい信心がなんの役に立つだろうか。

 内的生活をほとんど理解しない福音の働き手が、苦労してまいたタネは、こんなものである。キリスト教的生活のタネは、いっこう芽をださないではないか。さて、Aの孤児院では、院長を取りかえた。Bの孤児院では、聴罪師を取りかえた。すると、空気が一変した。この突然の変化は、人目にたつほど、顕著である。施設の娘たちはみんな、あたかも人間が変わったように、祈りを大切にし、これに親しむようになった。
 告解、聖体の両秘跡も、しばしば受けるようになった。内面の信心は、おのずから外面にも反映し、以前にはあれほど浮ついていた彼女らも、がらりと態度が変わった。――聖堂でお祈りするときも、職場で仕事するときも、休憩時間を楽しむときでさえ、彼女らは貞淑そのものだった。
 娘たちの人柄は、根本的に一新されたのである。
 それは、内心にたたえられた天上の喜びが、外面に流露した証拠である。
 かくて、元気いっぱいな、快活な霊魂たちは、善徳の獲得にむかって、勇み足で前進する。その中には、修道生活の召し出しにたいして、熱烈な志望をもっている者もあるだろう。
 このすばらしい変容は、いったい、どこからきたのだろうか。――新らしい院長が、新らしい聴罪師が、内的生活の持ち主だったのである。
 この因果関係は、あながち孤児院だけに限らず、学校でも、病院でも、修道院でも、または小教区、神学校、その他カトリック経営のどんな施設でも、そのままりっぱに通用する。

 これにかんして、十字架の聖ヨハネが、うまいことをいっている。
 「活動、活動といって、日もなお足りないと考えている人たち、――説教や外的事業によって、世界を動かせるとウヌぼれている人たち、こういう人たちは、しばらく心をしずめて、まじめに反省するがいい。そうしたら、じきに、苦もなく、次の真理を発見するだろう。すなわち、もしかれらが、もうすこし時間をさいて、これを念禱や内的生活の修業にささげるなら、それが周囲にあたえるよい模範を抜きにしても、ただそれだけで、自分は教会にとって、以前よりいっそう有益である、また天主にもいっそう喜ばれるのだ、という真理を、心から納得するだろう。
 「念禱や内的生活の修業に従事する」――この条件を果たしさえすれば、かれらは自分たちの生命をすりへらして、千の事業をするよりも、タッタ一つの事業をすることによって、いっそう大きな善を、しかもはるかにすくない労苦をもって、なしとげることができよう。
 これはたしかに、天主の恩寵だけがなしうる奇跡だが、さてこの恩寵を、かれのうえに呼びくだしくれるものは何か。――それが、念禱の生活であるとは、いまさらくり返して申し上げるまでもないことである。
 念禱をしないなら、いっさいは大破壊におわる。
 念禱をしないなら、ちょうど金づちで、鉄床をたたくようなものだ。
ひびくものは、ただやかましい音ばかりだ。
念禱をしない人のすることは、なんでもゼロよりすこしばかりよいことか、それとも多くの場合、全然ゼロか、いやむしろ、ゼロ以下の悪でさえある。
 ああ、天主よ、もし使徒職にたずさわっている霊魂が、このように傲慢にでもなりましたら、こんな使徒はお見捨てになって、わたしどものそばには置いてくださいますな。かれの事業が、かれの才能が、どんなにりっぱでございましても。
 じじつ、こんな霊魂に、なにができるものですか。なぜなら、いやしくも善業と名のつくもので、天主のお助けなくして成就されるものは一つもない――ということは、絶対確実な真理だからです。
 ああ、この問題にかんして、どれほどたくさんのことが書けるのでしょう!
 内的生活の修業を投げだして、ただ自分たちの声望を高める外的事業にだけ、あこがれている人びとに向かって、――おのれの事業を、できるだけ多くの人に知らせてやりたい、できるだけ多くの人から、やんやと喝采してもらいたい、とこいねがっている人たちに向かって、どれほどたくさんのことが書けるでしょう。
 すべて事業に、ゆたかな実を結ばせるのは、ただ天主の恩寵という天主的樹液だけですのに、それがどこから流れてくるのか、また、生ける水の泉はどこにあるのか――こういうことにかんして、かれらはなにも知っていないのです。」(『霊の賛歌』第二十九歌)
 十字架の聖ヨハネの言葉の中には、前ほど述べた聖ベルナルドの“呪われた仕事”という表現にも比すべき、強いものがあるようだ。しかし、それには、なんの誇張もない。わけても、ボスエ司教がいっているように、十字架の聖ヨハネは、完全な良識のもちぬしである。聖性に達するためには、異常な道を通ろうと望んではならぬ、とかれは強く人をいましめている。かれのひじょうに深遠な神秘思想の表現には、水も洩らさぬ論理の正確さがある。
 使徒的事業に、内的生活を加味すれば、なぜゆたかな実を結ぶのか、その原因のいくつかについて、右に述べてみたいと思う。

(この章 続く)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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