アヴェ・マリア!
邪悪なダ・ヴィンチ・コードは
カトリック信仰に対立する
歴史に見せかけたカトリック信仰への攻撃
「無知は私たちの最悪の敵である」(聖ピオ十世教皇)
スタイル
ストーリーは平凡なフィクションとされる。しかし作者は、実際の出来事、実在の人物、実在の場所などを織り込ませながら、少しずつ事実であるかのように提示している。フィクションと実在を巧妙に混ぜ合わせ混乱を引き起こさせることにより、最後には反キリスト教の宣伝となっている。
「私の本の中で、私は数世紀の間ひそひそと語られていた秘密を明らかにする。私がそれを発明したのではない。この秘密が成功したスリル小説の中で、初めて暴かれた。私はダ・ヴィンチ・コードが読者に考察の新しい軸を与えることを心から期待している。」(ダン・ブラウンのサイトhttp://www.danbrown.comより)
この道具として使われている曖昧さは真理と誤謬を超えて、善と悪を超えて「考察の新しい軸」を提示しようともくろんでいる。それはキリストに対する憎しみである。キリスト教とカトリック教会に対する憎しみだ。
歴史的・文化的な文脈
この邪悪なおとぎ話は、歴史的事実に関する無知、宗教に関する無知、福音書に関する無理解を良いことに、多くの人にアピールすることができた。第二バチカン公会議はカトリック教会の聖伝と歴史との断絶をもたらした。多くの司教、司祭、平信徒らは、教会の過去と切り離され、根無しにされ、混乱の中に放り込まれている。ちょうどその時、作者は、証拠もなく歴史上の実在の場所や人物を歪曲し、似非科学的やり方で話を作り上げた。子供じみた秘教的なグノーシス伝説で話を丸め込み、無知な人々に付け入る。ダ・ヴィンチ・コードは、何も知らない多くの人々に、多くの誤解と偏見と不信を送りつけている。
詐欺の言葉づかい
前書きから「ここで取り上げられた遺跡、美術品、公文書、秘密儀式のすべての描写は、証明されている」と著者は読者を騙している。
ダ・ヴィンチの描いた「最後の晩餐」にある聖ヨハネは、実はマグダラのマリアであると言う。これには根拠がない。何故なら西洋絵画の全伝統は、キリストの右に聖ヨハネを描きつづけていたからだ。ブラウンによるとキリストの前にはカリスが無い。何故ならマグダラのマリアが「聖杯」だからだ、と言う。しかしダ・ヴィンチは、御聖体の制定の前の様子を描いたのであり、だからキリストはユダの裏切りを予告しているのだ。従って、聖杯はこの時には必要ではなかったのだ。
シオンの修道院とは「一〇九九年に創立されたヨーロッパ秘密結社の一つで、実在の組織である。一九七五年、パリ国立図書館は秘密文書の名前で知られる羊皮紙を発見し、シオン修道院に所属する数名の会員の名前が分かった。その中にはアイザック・ニュートン、ボッティチェリ、ヴィクトル・ユーゴー、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの名前がある。」しかしこの名前の団体は、ドルイド教の僧、反ユダヤ主義者のペテン師ピエール・プランタール(Pierre Plantard)「尊師」によって一九五六年に作られた協会でしかなく、それ以前に存在していたものではない。神話を作り上げるためにピエール・プランタールは一九六七年に偽物の文書を偽造しそれを国立図書館に置かせた、と言うのが事実だ。
パリにあるサン・スルピス教会は「シオン修道会」と全く関係がない。秘教的なものも異教的な要素もない。ブラウンは読者が素直に信じることをいいことに、フィクションと現実とを混ぜ合わせて全くデタラメを書き連ねる。
サン・スルピス教会にあるオベリスクと真鍮の帯は、秘密の跡でも何でもなく、一八世紀の科学道具の一部だった。ステンドグラスの真ん中にある P と S の文字は、「シオン修道院」(Prieure de Sion)の頭文字ではない。この教会の聖なる保護聖人の聖ペトロと聖スルピスの頭文字だ。
パリの子午線は、ブラウンが自分の説のために使っているが、ダ・ヴィンチ・コードが言うようにルーブルを通っているのではない。サン・スルピス教会も通っていない。ブラウンの限界は明らかだ。
ダ・ヴィンチ・コードによると、ティービングはアラマイ語の伴侶とは「妻」という意味だ、と断言する。しかし実際の文書はアラマイ語ではなくコプト語で書かれている。コプト語の伴侶に当たる言葉はギリシア語からの借用語であり「霊的な姉妹」を意味すると思われる。「妻」ということを言うのなら「ギュネー」という言葉を使っていただろう。
目的
ダ・ヴィンチ・コードがインスピレーションを受けたのは、最近のグノーシス、秘教、フェミニズム、ニューエイジ、カバラ降神術だ。いにしえの反キリスト教的なおとぎ話、偽伝書、異教のデタラメを盛り込んで、悪意を持ってキリスト教を攻撃する。ダ・ヴィンチ・コードは、カトリック教会が歴史を歪曲したと告発し、「真のキリスト」に関する文書をなきものとしたと非難する。ダ・ヴィンチ・コードの究極の目的は、キリスト教信者の滅びであり、信仰の喪失であり、カトリック教の崩壊である。
ブラウンは言う。「イエズスに関して、カトリック教会が私たちに教えたことの大部分は、そして私たちに今でも教え続けていることは、全く単純に間違っている。」(ダ・ヴィンチ・コード) 彼は数世紀にわたって新興宗教やセクトらが、最近ではエホバの証人とかイスラムとかが、たどたどしく繰り返す文句をまた歌い始めている。事実の「新しい見方」を促進するためにカトリック教会の信用を失墜させようとしている。
この「歴史小説」の目的は、私たちの主イエズス・キリスト、人となった天主の御言葉に関する神学を根本的に攻撃することだ。ダ・ヴィンチ・コードの攻撃の中心は、本質的に私たちの主イエズス・キリストその人にある。この本によれば、キリストは確かに偉大な人物、大預言者ではあったが、天主ではなかった。キリストの第一の弟子はマグダラのマリアであり、彼女と結婚したことになっている。マグダラのマリアの胎は「聖なる杯」であり結婚の実りである娘サラを身ごもった。フランスの王たちはこの子孫である。
キリストの独身の事実
ブラウンはキリストの独身の事実を否定する。彼は三〇歳にもなるユダヤ人であれば普通に結婚していたはずだ、ユダヤ教世界においては独身というのは殆ど存在していないことが確かに証明されている、と言う。しかしもしもブラウンの言うようにキリストが少なくとも偉大な預言者であったとしたら、旧約の預言者のように終生の貞潔を守るべきではないだろうか。キリストの先駆者、洗者聖ヨハネも童貞であった。ユダヤ教世界に独身が無かったなどというのは虚言である。
キリストとマグダラのマリアと「結婚」
キリストとマグダラのマリアと結婚が、「文書による証拠」で書かれたとうそぶくこの小説で想像されている。この「結婚」は、本質的にすべての人間関係を性愛の観点しかものを見ることの出来ない貧弱な現代の傾向から出たものだ。現代のメンタリティーは、天主の聖寵によってキリスト教的な貞潔を守るなどということを受けいれることが出来ないからだ。だから現代社会は司祭の独身制、修道誓願について攻撃をかけている。
偽伝の「フィリッポの福音」と言われるグノーシスの本によると、グノーシス共同体に置いては口による接吻が行われていたらしい。この接吻ということは、新しいメンバーに霊を伝えるという象徴的な意味があったようだ。古代キリスト教では接吻に霊的な意味があったのであり何ら性的な意味を持っていたのではなかった。ローマ人への書簡(一六:一六)の中で聖パウロも口づけについて話をしている。マグダラのマリアがキリストの御足に接吻をした、これだけをもって二人が結婚していたという証拠にはならない。メシアの来る前の旧約時代に、ヤーウェがイスラエルの花婿であったように、キリストはその教会の花婿である。教会こそがキリストの唯一の花嫁である。
ダ・ヴィンチ・コードによるとカトリック教会において女性は軽蔑されているとされる。ブラウンはキリストは本当はマグダラのマリアを教会の頭としたかったと暗示させている。しかし使徒たちが陰謀をたくらみ、マグダラのマリアの地位を横取りしてしまった、と言うことになっている。だからカトリック教会は、女性を蔑視しているという。
しかし、原罪の汚れなく宿り給うた天主の御母聖マリア、そして罪を痛悔したマグダラのマリア、そしてその他の多くの女性の聖人たちは、カトリック信仰の中心にいつも存在している。たしかにプロテスタントは女性の神秘を自分たちの宗教から追放してしまった。しかし、カトリック教会は、全人類史において、男女両性の等しい尊厳を認め、教え、確立させた最初の団体である。カトリック教会の指導において、キリスト教文明は古代の異教的習慣と隷属状態から女性を解放した。
これを書くのに、
Da Vinci Code contre foi catholique
par Abbe Marc Vernoy, fsspx
を参照にした。
兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。
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