Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その4

2013年07月17日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰」という文章を掲載しましたが、いくつかご質問をいただきました。それらにお答えしたいと思います。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【質問】
『第一バチカン公会議によれば、信仰に関わることであっても、教皇が全世界のカトリックにそれを信じることを明確に強制しなければ、つまり信じなければカトリックではない、破門される、と信仰をドグマとしてはっきりと教えなければ、教皇がその教権・教導権を行使して私たちにそれを信仰箇条として信じ従うことを命じなければなりません。これは特別教導権の行使です。』とありますが、第一バチカン公会議によれば何なのかを分かりやすく説明して下さい。これでは『第一バチカン公会議によれば、. . . を命じなければならない』と読めてしまい、意味が良く分かりません。

【お返事】
大変失礼しました。これは「第一バチカン公会議によれば、"信仰に関わることであっても、教皇が全世界のカトリックにそれを信じることを明確に強制しなければ、つまり信じなければカトリックではない、破門される、と信仰をドグマとしてはっきりと教えなければ、教皇がその教権・教導権を行使して私たちにそれを信仰箇条として信じ従うことを命じなければ、私たちの信仰箇条とはなりません。" これは特別教導権の行使です。」と「私たちの信仰箇条とは」を挿入してお読みください。


【質問】
第一バチカン公会議のどの宣言/教令によると、その主張通りになるのか、その典拠をはっきり提示して下さい。それはどこでしょうか?

【お返事】
教皇の特別教導権の行使については、第1バチカン公会議 第4総会(1870年7月18日)キリストの教会に関する第1教義憲章「Pastor aeternus」第4章 教皇の不可謬教導職について DS 3070 以下をご覧ください。これについては、「マニラの eそよ風」236号にも引用したことがあります。ご覧くだされば幸いです。


【質問】
教皇のペルソナとその役職とを区別したカトリック神学は、どこで読む事が出来ますか?

【お返事】
私の理解が正しければ、たとえばカイェタヌスがそれを主張しています。
Persona papæ potest renuere subesse officio papæ. ... Et si hoc in animo pertinaciter gereret, esset schismaticus per separatio- nem sui ab unitate capitis. Ligatur siquidem, persona sua, legibus officii sui quoad Deum. (in 2a 2ae, q39, al, n6)

カイェタヌスをジュルネ枢機卿が "L'Eglise du verbe incarné: Sa structure interne et son unité catholique" の中で引用しています。

これについては、以前「離教にあらず、破門にあらず」で言及したことがあります。ご覧くだされば幸いです。


【質問】
教皇はいつ不可謬なのですか?

【お返事】
教皇は、教皇座から(ex cathedra)発言するときに不可謬です。つまり、諸民族の最高の教師として、教皇がある真理を全ての信者らが必ず信じなければならないドグマとして宣言するときです。この場合、教皇が誤ることがないように、聖霊の補佐が教皇に約束されています。神学者たちは共通意見として、この他の幾つかの場合にも教皇に不可謬の特権を帰属しています。例えば、列聖の時(少なくとも1983年以前の列聖について)、或いは、教会の普遍的律法において、或いは、教皇が自分の全ての前任者たちの教えを繰り返すとき、などです。
(この質問と答とは五年前に「【質問】教会において誰が権威を持って教える権能を持つのか?教会の教導権は不可謬か?」というタイトルで書かれたものです。ご覧くだされば幸いです。)


【質問】
何故1983年以後の列聖については、不可謬とは限らないのですか?

【お返事】
何故なら、ヨハネ・パウロ二世以降の教皇たちが、歴代の教皇たちと同じ意味において「列聖」するという意図があるのか大きな疑問があるからです。何故なら、ヨハネ・パウロ二世以降の教皇たちが、今も昔もそして未来も変わらない真理という概念を持っているのか疑問があるからです。たとえば「教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できない」という点です。
さらに、列聖をするときに不可謬権を行使すると考えられているのは、カトリック教会のドグマではなく神学者たちの共通意見だからです。


【質問】
 教皇はどうやってこの強制の意志を表明するのですか?

【お返事】
 教皇は、全教会において、ある一つの教義を義務として強制しようとする意志を、これを拒否する人間はカトリック信仰をもはや持ってはいない、従って、拒否する人は教会の外にある(排斥される)と明確に宣言して、明らかに表明しなければなりません。


【質問】
教皇がどの位の教導権を行使しているかを客観的に判断する権限は聖ピオ十世会にあるのでしょうか?それともカトリック信徒一人一人にあるのでしょうか?

【お返事】
教導権をどれほど行使しているかを客観的に判断するのは、一般的な規則によれば、教皇や公会議の公文書に書かれている表現それ自体にあり、これによって「不可謬権を行使して信じることを強制している」ということが誰が見てもわかるように、客観的に判断されます。
ただし、教皇や公会議の文章が明確に強制してるように思えても、そうでないと判断する場合には、私の考えでは、その最終の判断の権限はカトリック教会の最高の教導権にあります。


【質問】
教導権をどれほど行使しているかを客観的に判断するのは、一般的な規則によれば、教皇や公会議の公文書に書かれている表現にあるとはどういう意味ですか?

【お返事】
明らかに信仰と道徳に関する事柄を教会によって保持されるべきものとして定義するとみずから明らかに宣言するときにのみ、そう定義することになる、ということです。
取り扱われている題材と表現方法から、教導権をどれほど行使しているか、神学的解釈の法則に従って知ることができる、ということです。たとえば、公会議についていえば、公会議の公文書の全ての内容が不可謬性を帯びているのではなく、そのうちの canon と呼ばれる排斥文のみが不可謬です。たとえば「もしも誰かが××と言ったら、彼は排斥される」という表現の文章です。これのみが不可謬です。
教皇の回勅などについて言えば、回勅・勅令で、特別教導権を行使してドグマの決定をしたとき、その決定の回勅に書かれていること全てが不可謬ではなく、そのうちの一部「私たちの主イエズス・キリストの権威と使徒聖ペトロとパウロの権威、また私の固有の権威により、私は、○○がドグマであると宣言し定義し決定する。従って、もしも誰かが、敢えて私の定義したことを否定するなら、彼は排斥される」などが、不可謬です。


【質問】
教皇や公会議の文章が明確に強制してるように思えても、そうでないと判断する場合には、その最終の判断の権限はカトリック教会の最高の教導権にあるとはどういうことですか?

【お返事】
教皇や公会議の文章が明確に不可謬権を行使していると考えられた文章があっても、それが不可謬ではないと発表がなされることがある、ということです。
たとえば、ヨハネ・パウロ二世の回勅 Ordinatio Sacerdotalis で女性が司祭になることができないという発言がありました。回勅が出た直後は、その表現からこれは不可謬であると考えられていました。何故なら次のような表現があったからです。
"Wherefore, in order that all doubt may be removed regarding a matter of great importance, a matter which pertains to the Church's divine constitution itself, in virtue of my ministry of confirming the brethren (cf. Lk 22:32) I declare that the Church has no authority whatsoever to confer priestly ordination on women and that this judgment is to be definitively held by all the Church's faithful."
これが不可謬であると主張したものには、たとえばORDINATIO SACERDOTALIS: AN EXERCISE OF INFALLIBILITYがあります。
 しかし、後日、教義聖省長官のラッツィンガー枢機卿によってこれ(Ordinatio Sacerdotalisのこの部分)は不可謬権の行使ではないと発表があったからです。


【質問】
教導権の行使の程度の違いについて言及する権威ある文書を教えて頂けますか?

【お返事】
 『教導権の行使・投入の程度/度合い』という表現・言い方は、日本語の読者に理解しやすいように自分の言葉で説明したもので、必ずしも過去の神学者たちの使ったラテン語からの翻訳ではありません。しかし、言い方はそうではないかもしれませんが、内容は古典的な教えです。
 教導権の行使の程度の結果は、「教義の神学的資格」(Theological Notes / Qualifications)として現れます。

 たとえば、聖ピオ五世のクォー・プリームムのように、聖伝のミサを「自由に合法的に使用する事が可能であり、適法であるように、使徒継承の権威を以って、しかも永久のこの〔文面〕を以って、承認し、認可する。」「故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。」などという表現を見るとき、パウロ六世のつかった新しいミサ発布の時の表現との違いに、従って教導権の行使の程度の違いがあることがわかります。
(聖ピオ五世のクォー・プリームムの教導権の行使の程度については「クォー・プリームムの法的適応範囲は一体どこまでなのか」において考察したことがあります。ご覧くだされば幸いです。)



【質問】
 1950年11月1日、ピオ十二世教皇は、どのようにして、天主の御母聖マリアの被昇天のドグマの定義決定の時、強制の意図を表明したのですか。

【答え】
 ピオ十二世は、使徒憲章『ムニフィチェンティッシムス・デウス』(MUNIFICENTISSIMUS DEUS)において次のように宣言して、このドグマを強制しました。

「私たちの主イエズス・キリストの権威と使徒聖ペトロとパウロの権威、また私の固有の権威により、私は、天主の汚れなき御母終生童貞聖マリアがその地上での生涯を終えたのし、肉体と霊魂とにおいて天上の栄光に上げられたということが、天主から啓示されたドグマであると宣言し定義決定する。従って、もしも誰かが、敢えて私の定義したことを故意に疑うとしたら、願わくは天主がそれを赦し給わぬことを!彼は天主よりのカトリック信仰を完全に棄てた者であるということを知るように。」


【質問】
[Indefectiblity]の意味は『不滅』だけでしょうか?

【お返事】
Indefectibilityの意味は、聖ピオ十世の公教要理にある通りです。キリストの教会が破壊され得ないということは、もちろん信仰や道徳が純粋に保たれるということもありますが、信仰という目に見えないものを超えて、ペトロの上に立てられた目に見える社会的制度として、使徒継承の位階制度が世の終わりまで保たれるということも含みます。

CATHOLIC ENCYCLOPEDIA の the Church の項には Indefectibility of the Church について言及があります。ご覧くだされば幸いです。少し引用します。

By this term [of indefectibility] is signified, not merely that the Church will persist to the end of time, but further, that it will preserve unimpaired its essential characteristics. The Church can never undergo any constitutional change which will make it, as a social organism, something different from what it was originally. It can never become corrupt in faith or in morals; nor can it ever lose the Apostolic hierarchy, or the sacraments through which Christ communicates grace to men. The gift of indefectibility is expressly promised to the Church by Christ, in the words in which He declares that the gates of hell shall not prevail against it. [...]


(続く)


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天主様に感謝!聖母マリア様に感謝!

2013年07月16日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主様に感謝!今月はアジア管区長のクチュール神父様が来日してくださいました。多くの方々が聖伝のミサにあずかるお恵みを受けたことを天主様に感謝します。主日は東京で31名の方々が、月曜日は10名の方々がミサにあずかることができました。

 次のような報告をいただきましたのでご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@ソウルにて

*****


クチュール神父は今日の説教で、聖書を読む時にはその意味を良く理解して読むことが重要であることを今日の聖福音の例を使って説明してくださいました。具体的には、
(1)天主は正義をもって裁かれる方であること、
(2)天主は私たちに多くの贈り物をしてくださる分、私たちがそれをどう使ったかについて天主に対して報告をしなくてはならず、その報告に対する裁きが私たちが死んだすぐ後、私審判として行なわれること、
(3)私たちは、今日思ったこと、行ったこと、行なわなかったことを含む全てのことについて裁かれること、
(4)そのため、私たちは今日の聖福音の使用人に習い、今、賢明に行動する必要がある、
とのことでした。また、煉獄の霊魂の為にミサを捧げていただくことの重要性についても話されました。

昼食の後午後2時半からのクチュール神父の霊的講話では、最近英語版が出版されたロベルト・デ・マッテイ教授の第二バチカン公会議に関する本("TheSecond Vatican Council - An Unwritten Story")の中から一章を取り上げて、とりわけ伝統と啓示という言葉の内容について、カトリック教会の伝統的な教えとプロテスタントの説、そして第二バチカン公会議で主張された新しい考えを対比して、聖ピオ十世会とバチカンとの理解の違いはどこにあるのかを詳しく説明してくださいました。

晩課のあと、クチュール神父と一緒に皆で近くの東洋文庫ミュージアムで行なわれている「マリー・アントワネットと東洋の貴婦人-キリスト教文化をつうじた東西の出会い」の展示を見学し、夕食を共にしてお別れしました。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供0人)
女: 17人(内、子供2人)
計: 31人(内、子供2人)

霊的講話の参列者数
男: 6人
女: 7人
計: 13人

晩課と東洋文庫ミュージアム展示会の参加者数
男: 5人
女: 3人
計: 8人


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖母の代願の象徴なるエステル

2013年07月16日 | カトリックとは
十 一 日 聖母の代願の象徴なるエステル

エステル王の御前(みまえ)に進みし時・・王は怒(いか)れる顔を上げしが・・天主は
忽ち彼の心を和(やわ)らげ給えり。    (エステル書十五。九の一 一)

ペルシャ国王アスエロは、ユデア人を憎むアアマン宰相(さいしょう)の奸(わる)計(だくみ)に乗せられ、遂に国中(くにじゅう)のユデア人を一日の内に皆殺しにせよとの厳命(げんめい)を発した。
 所がその皇后のエステルは、矢張りユデア人の中から迎えられた婦人であったから、同胞の不幸を黙視(もくし)するに忍(しの)びず、彼等を救う為に、招きを受けずに王の居間に入る者は何人と雖(いえど)も殺されるという、厳(きび)しい掟(おきて)があるにも拘(かか)わらず、敢然(かんぜん)進んで王の前に立ち、憐(あわ)れみを乞おうとした。その時王は憤(いかり)の形相(ぎょうそう)物凄(ものすご)く顔を上げたが、天主は其の瞬間急に其の心を和(やわ)らげ給うた、というのが冒頭(はじめ)に記(しる)した言葉である。
 このエステルは云うまでもなく聖マリアの象徴(かたどり)であった。彼女が国王に同胞(どうほう)の命乞(いのちご)いをした如く、聖母も我等不幸な人類を憐(あわ)れみ、いつも主の玉座(ぎょくざ)の御前(みまえ)に代願(だいがん)し給うのである。
 こう云うと我等の為天主御父(おんちち)に取りなして下さる方は救い主イエズス・キリストではないかと疑(うたが)う人もあろう。成る程天主御父は人類を救う為に御独子(おんひとりご)を世に遣(つか)わし給うた。そして之を信ずる者は聖書にもある如く、確(たし)かに永遠の生命を受ける。けれども浅ましい我等は救い主の御慈悲(おんいつくしみ)を軽蔑(けいべつ)したり、その御旨(みむね)に反抗(はんこう)したりして罪を犯(おか)し、自分に与えられる主の御苦難御死去の功徳(くどく)を踏(ふ)みにじり、永遠の生命を失う危険に瀕(ひん)することが度々(たびたび)ある。
 イエズスは天主であって無限の慈悲(いつくしみ)と共に無限の正義も有し給い,公(こう)審判(しんぱん)の折には審判者となられるお方(かた)である。それで我等がかような不心得(ふこころえ)を働いた時には、その正義から咎(とが)め給わぬ訳には行かぬ。かような場合、主の御怒りを宥(なだ)め参らせて、我等の為に憐(あわ)れみを乞(こ)うて下さるのは何方(どなた)であるか。それは聖母
マリアの外(ほか)にはない。
 聖マリアはエステル皇后のように、主の御招きを待ち給う必要がない。天の元后(げんこう)として常に三位(さんみ)一体(いったい)の御側(おそば)においでになる。そしてかのカルワリオ山の上、十字架のもとに立ち給うた時から、地上に於いて天主を父として認め、キリストを兄弟として信ずる者を悉(ことごと)く御自分の愛子(あいし)として、その為に祈り給うのである。故(ゆえ)にその代願(だいがん)には元后(げんこう)としての権利(けんり)と慈母(じぼ)としての限りなき愛が含まれている。その権利の為に聖母の代願は此の上もなく効果があり、その愛の為に聖母は如何(いか)なる罪人もお見捨てにならぬ。寧(むし)ろ重い罪人ほど余計に同情を寄せ給う事は、恰(あたか)も母親が不幸な子ほど不愍(ふびん)に思うようなものである。
そして縋(すが)り奉る者は、善人なるか悪人なるかを問わず、必ず助けてくださるのである。
 されば天主に対して「我を憐(あわ)れみ給え」と祈る事が出来ぬ場合には、臆(おく)せず速(すみ)やかに聖母の御許(みもと)に馳(は)せ寄り「慈悲(いつくしみ)深き御母、我を助け給え!」と願うがよい。そうすれば大いなる慰(なぐさ)めを得(え)、再び希望と信頼とを恵(めぐ)まれるであろう。
 なお、我等も聖母に倣(なら)い、友の為にも敵の為にも、我等によき人にも悪(あ)しき人にも、隔(へだ)たりを置かず、彼等の報(むく)いを求めず、祈祷(いのり)の効果如何に頓着(とんちゃく)せず、唯(ただ)ひたすら真心(まごころ)を尽くして祈ろう。
 かように励(はげ)むならば、生涯、殊に臨終(りんじゅう)の時、天の元后(げんこう)に特別な御扶助(おたすけ)を蒙(こうむ)る事は疑(うたが)いない。

   祈   願

 ああ我等の代願者なる聖マリアよ、望(のぞ)むらくは我等をして明らかに己が欠点を知り、心より罪を悔(く)やみ、友を助け敵を愛し、罪を償(つぐな)い、もって善(よ)き終わりを遂(つ)ぐるの恵を得(え)させ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:勝利者ユディット

2013年07月15日 | カトリックとは
十 日 勝 利 者 ユ ジ ツ ト

汝はエルザレムの栄誉、イスラエルの歓喜(かんき)、我が人民の誇りなり。
(ユジツト書一五。一○)

バビロンの国王ナブゴドノゾルがホロフエルネスを大軍の将として、ベツリアという町を囲(かこ)ませた事がある。その時町の人々は、敵の為に川の水を堰(せき)留(と)められ、水攻めの憂(う)き目に逢(あ)い、勇気沮喪(そそう)していよいよ愛する町を敵の手に明け渡そうという事に衆議(しゅうぎ)一決(いっけつ)した。所がこれを聞いてその不甲斐(ふがい)なさに蹶起(けっき)したのはユジツトという寡婦(やもめ)である。
 彼女は町の長老達に降参(こうさん)の早計(そうけい)なるを戒(いまし)め、天主に対する厚い信頼の下に唯(ただ)一人の下婢(めしつかい)を伴(とも)に連れ、勇敢(ゆうかん)にも敵陣に乗り込み、謀略(はかりごと)を以て大将ホロフエルネスの首を討(う)ち取り、急ぎ帰って此の事を告(つ)げたので、町の人々は大いに喜び、勇躍(ゆうやく)敵陣に攻め入り、遂(つい)に大勝利を得るに至った。
その後、間もなく首府エルザレムの大司祭は多くの司祭達と共にベツリヤ町に来(き)たり、口を揃えて勇敢(ゆうかん)なユジツトを賞讃(しょうさん)し、「汝はエルザレムの栄誉(えいよ)、イスラエルの歓喜(かんき)、我が人民の誇(ほこ)りなり」と叫んだ。
 この勇婦(ゆうふ)ユジツトは実は聖マリアの象徴(かたどり)である。聖母も彼女の如く燦然(さんぜん)たる大勝利を得られた。さればこそ聖会はベトレヘムの司祭達のユジツトに対するように、聖母を、祈祷(いのり)に歌に、讃美(さんび)し奉るのである。それでは聖母が征服(せいふく)し給うた敵は一体(いったい)何者であろうか?その敵は数多(あまた)ある。
しかし此処(ここ)では特別に聖会の最も恐るべき敵である異端(いたん)について考えて見たい。歴史によれば、如何に恐ろしい迫害(はくがい)が起こった時でも、聖会は決して滅(ほろ)びなかった。却(かえ)って殉教者(じゅんきょうしゃ)の聖(きよ)い血汐(ちしお)によって益々教勢(きょうぜい)が盛んになるばかりであった。然し十五世紀から十七世紀にかけて起こった様々の異端(いたん)は、多数(たすう)の人々を我が聖会より引き離した。此の点、異端(いたん)は迫害(はくがい)より恐ろしい大敵(たいてき)と云う事が出来よう。
 この敵は今も聖会を攻撃して居る。聖会は恐らく世の終りまでこの敵と戦わねばなるまい。所がこの大敵に対する勇敢(ゆうかん)な新約(しんやく)のユジツトこそ天主の御母(おんはは)聖マリアである。その証拠には、異端(いたん)が人々の心を惑(まど)わすのはいつでも聖マリアに対する愛と尊敬の薄らいだ時に限っている。これは一見(いっけん)不思議のようでも、よく考えて見れば道理に適(かな)っている。
たとえ如何にキリストのみを信じ、尊敬し奉っても、其の最(さい)愛し給う御母を軽(かろ)んずるならば、どうして主の御心(みこころ)を喜ばせ奉る事が出来よう。従(したが)って与えられる恵も次第に減(げん)じ、遂に真理(しんり)の道を離れる不幸さえ招くに至るのである。
 それに反して、主と共に御母をも尊敬し、その御扶助(おんたすけ)を願うならば、主の御覚(おんおぼ)えも一入(ひとしお)めでたく、御恵(おんめぐみ)は増すばかりで、必ず異端(いたん)に打ち勝つ事が出来る。故(ゆえ)に聖会は聖母を讃美(さんび)して「聖マリアよ歓(よろ)喜(こ)び給え。そは全世界の異端(いたん)に打ち勝ち給いたればなり」と祈るのである。
 この聖母の御保護に依って、聖会は初めから異端(いたん)を防(ふせ)ぎ、キリストの聖教(みおしえ)を純粋(じゅんすい)に保(たも)って来た。真理は誤謬(ごびゅう)と相容(あいい)れない。天主御子(おんこ)の御教(みおし)えに背(そむ)き公教会の基(もと)となる磐(いわお)を離れて異説をたてる者は、真理(しんり)の泉に毒を投(とう)ずる者と云わねばならぬ。我等は斯様(かよう)な邪説(じゃせつ)に迷わされぬよう、屡々(しばしば)己の信仰を聖マリアの御熱心御善徳に引き較(くら)べて反省する必要がある。というのは、余程(よほど)警戒して心に堅固(けんご)な要塞(ようさい)を築(きず)いているつもりでも、悪(あく)慾(よく)や世間の快楽(かいらく)の為に心の門を開放し、いつか異端(いたん)の思想(かんがえ)の侵入を許している事が度々(たびたび)あるからである。されば我等もユジツトに倣(なら)い、天主や聖母を厚く信頼して、この大敵と勇敢(ゆうかん)に戦わねばならぬ。

   祈   願

 エルザレムの栄誉(えいよ)、イスラエルの歓喜(かんき)、我が人民の誇りなる聖マリアよ、我等が常に御身を離れず、御扶助(おんたすけ)によりてむらがる敵を防(ふせ)ぎ、尊(とうと)き信仰の宝を保(たも)ち、之を子孫にも伝え得るよう護り給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)


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司教聖別二十五周年に際しての宣言(二〇一三年六月二十七日) 日本語訳

2013年07月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! 司教聖別二十五周年に際しての宣言の日本語訳ができあがりました。翻訳の原稿はすでに7月4日に完成していました。遅れてしまいましたが、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。この日本語訳を作って下さった方には感謝を申し上げます!

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


司教聖別二十五周年に際しての宣言
(一九八八年六月三十日~二〇一三年六月二十七日)


二〇一三年六月二十七日


1- 司教聖別二十五周年に際し、聖ピオ十世会司教三名は、ルフェーブル大司教とアントニオ・デ・カストロ・マイヤー司教に対して、一九八八年六月三十日、両名が恐れることなく執り行った英雄的行為に対して、荘厳に自らの感謝の念を表明することを切望する。三司教は特に、教会と教皇に長年に渡って仕え続けたのち、信仰とカトリック司祭職の擁護のため、不従順という不当な非難を耐え忍ぶことを躊躇しなかった尊敬すべき創立者に対して、子としての感謝の念を表明したいと思う。

2- 司教聖別の前、大司教は私たちにあてた書簡の中でこのように述べている。「私は、あなた方に懇願します。信仰告白の中で、トリエント公会議による公教要理の中で、表明されているとおりの完璧なカトリック信仰において、神学校であなた方が教えられたことに合致して、ペトロの座、全ての[地方]教会の母であり教師であるローマ教会に愛着し続けることを、あなた方に懇願します。聖主の統治の来たらんがため、この信仰を伝え続けることに忠実にとどまりなさい。」この一節こそが、実に、大司教がなした行為の深い理由を表明している。「御国の来たらんことを adveniat regnum tuum!」

3- 教会を破壊しつつある憂慮すべき重大な誤謬の原因は、公会議諸文書の悪質な解釈──つまり「継続における改革の解釈学」と対立するものとされる「断絶の解釈学」──にではなく、むしろ、第二バチカン公会議によってなされた前例のない選択により、真実に、諸文書そのもののにあると私たちは断言する。この選択はその諸文書とその精神の中に明らかにある。それは「世俗の天主なき人間主義」(l'humanisme laique et profane)に直面し、つまり「自らを天主となす人間の宗教───なぜならそれも一つの宗教ですから───」に直面し、「人となった天主」の啓示を唯一守護する教会は、自分の「新しい人間中心主義」を「私たちも、私たちもだれにもまして人間を礼讚する(le culte de l'homme)」(一九六五年十二月七日、パウロ六世による閉幕の挨拶)と述べることで、現代世界に知らしめることを望んだ。だが、天主の崇敬と人間の崇敬との共存は、根本的にカトリック信仰に反している。カトリック信仰は私たちに、唯一のまことの天主と、そのおんひとり子なるイエズス・キリスト、「神性のみちみちたものが、すべて、体の形をとってやどっている」(コロサイ二章九節)お方のみに対し排他的に最高の崇敬と至上の地位とを与えることを教えている。

4- 私たちは、他の公会議と比較し得ないこの公会議、単に司牧的なものにとどまり、教義的であることを欲しなかったこの公会議は、教会内にこれまでに前例のない新種の、聖伝に由来しない教導職を始動せしめたのだと、真実に意見を述べざるを得ない。すなわち、カトリック教義を自由主義思想と和解させようと決意し、偽りの生ける聖伝という概念にしたがった、主観主義と、(生命的)内在論と、恒久的進化論という近代主義的観念に染まり、教会の教導職の本性と中身と役割と行使とを損なっている。

5- これ以降、「私には、天と地との一切の権威が与えられている」(マテオ二十八章十八節)というキリストのみことばが依然として絶対的真実であり絶対的現実であるという事実にも関わらず、キリストの統治は、もはや教会当局の最大関心事ではない。行動においてこれらを否むことは、実践上、聖主の天主性をもはや認めないことである。従って、第二バチカン公会議のために、人間社会の上に及ぶキリストの主権はまったく無視されかつ反対されてすらおり、教会は、特に信教の自由、エキュメニズム、司教団体主義(*)、また新しいミサにおいて明らかである、この自由主義精神に染まっている。

6- 『信教の自由に関する宣言』によって示され、過去五十年にわたってその実際上の適用されたままの信教の自由は、必然的に、「人となられた天主」が「自らを天主とする人間」の上にその統治を及ぼすことを放棄するように要求し、このことはキリストを解体することと等しい。私たちの主イエズス・キリストが持つ現実の権能への堅固な信仰によって息吹を受けた行動の代わりに、私たちは以下のことを見ている、すなわち、教会が恥ずべきことに人間的な賢明さによって導かれ、しかもフリーメーソンのロッジが教会に譲歩することを望むこと以外は何も要求しないという自己疑念を持っていることを。すなわち、教会がもはやあえて偽りであると言わなくなった他の諸宗教の中で、それと同じレベルにおいて、教会は[真理のみが有することのできる特権ではなく]どの宗教にも適応される共通法以外を何も要求していない。

7- 至るところに存在するエキュメニズム(『エキュメニズムに関する教令』)とむなしい諸宗教の対話(『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』)との名のもとに、唯一のまことの教会についての真理は沈黙させられている。また、聖職者と信者の大部分は、もはや、私たちの主イエズス・キリストとカトリック教会において、救霊の唯一無二の道であるとは見ておらず、偽りの諸宗教の信奉者たちを唯一の真理についてむしろ無知なままにしておきつつ、彼らを回心させることを放棄してしまっている。このエキュメニズムは、こうして文字通り教会の宣教精神を殺したのである。偽りの一致を模索しつつ、教会の使命を非常にしばしば、純粋に地上的平和のメッセージ、及び世界における貧困の緩和という人道主義の役割のメッセージを伝達するのみという使命に縮小させ、その結果、教会を諸々の国際組織に倣って位置づけている。

8- 聖主が天主であることに対する信仰を弱めることは、団体主義と、平等主義と、民主主義との精神の導入により(『教会憲章』)、教会において権威の一致を解体させることを促進させている。キリストはもはや、そこからすべてが流れ出る頭ではなく、とりわけ権威の行使がそこから流れ出る頭ではない。教皇は自分の権威の十全をもはや効果的に行使しせず、そして司教たちは──第一バチカン公会議の教えに反して──団体的にかつ恒常的に最高権力の充満を分かちあっていると考えており、教皇と司教らとは、結果として、司祭らともに、新しい主権である「天主の民」に聞き従うことを自らに課している。これは、権威の破壊を、従ってキリスト教的制度である家庭、神学校、修道会の荒廃を意味している。

9- 一九六九年に公布された新ミサは、キリストが十字架より統治し給う("regnavit a ligno Deus")という肯定を貶めている。実に、この典礼様式そのものが、聖体の犠牲が生贄であり宥めの本性を持っていることを弱め、覆い隠している。この新しい典礼の下に隠れているものは、過ぎ越しの神秘という新しい偽りの神学である。新しい典礼と新しい神学の双方は、聖主がカルワリオでの犠牲の上に打ち立てたカトリックの霊性を破壊している。このミサには、エキュメニカルかつプロテスタントの精神、民主的かつ人間中心主義の精神が浸透しており、十字架の生贄を空洞化している。この新しいミサは、司祭の秘跡的司祭職を弱体化させる「洗礼を受けた者らの共通司祭職」という新たな概念を描き出している。

10- 五十年後の現在、[教会を破壊している]この原因の数々は根強く存続し、なおも同じ影響を生み出している。それ故に、今日でもなおかつ司教聖別はその完全な正当性を保っている。ルフェーブル大司教を導いたのは、そしてその後継者らを導いているのは、教会への愛であった。「カトリック司祭職をそのすべての教義の純粋性と宣教者の愛徳のうちにおいて伝える」(ルフェーブル大司教著『霊魂の旅路』)という同じ渇望であり、この渇望は、聖ピオ十世会が、ローマ当局に対し、教義と道徳と典礼とに関する聖伝の宝をふたたび取り戻すことを断固として要求する時、教会への奉仕において聖ピオ十世会を動かしているものである。

11- この教会への愛は、ルフェーブル大司教が常に遵守していた法則を説き明かしている。すなわち、あらゆる状況において、み摂理に先駆けることを許さず、み摂理に付き従うこと、である。私たちも同じことを行うつもりである。すなわち、ローマがまもなく聖伝と永遠の信仰に戻る時──これは教会内に秩序を再建するだろう──あるいは、私たちが信仰を完全に告白し、これに反する誤謬を拒絶する権利、さらに誤謬と誤謬の支持者らが何者であれ、これらに公に反対する私たちの権利と義務とをローマが明確に認める時に──これは秩序の再建のはじめとなるだろう──。それを待ちながら、教会内で破壊を続けているこの危機に直面して、私たちはカトリック聖伝の擁護を忍耐強く続け、「地獄の門はこれに勝たざるべし」(マテオ十六章十八節)と信仰の確実さによって私たちが知っているが故に、私たちの希望はそのまま完全に残る。

12- 私たちは、司教職において敬愛する霊父の戒めに従うつもりである。曰く「愛する友人たちよ、天と地におけるイエズス・キリストの凱旋と栄光とのため、キリストにおける私の慰めとなり、信仰において堅固なままでおり、ミサの真の犠牲と、聖主のまことの聖なる司祭職とに忠実であるように」(司教たちへの手紙)。願わくは聖三位一体の天主が、マリアのけがれなき御心のおん取り次ぎにより、私たちが拝命した司教職、天主の名誉のため、教会の凱旋と霊魂の救いとのために行使せんと望む司教職に忠実なる恩寵を私たちに賜らんことを。


二〇一三年六月二十七日、絶えざるおん助けの聖母の祝日に。エコンにて。

ベルナール・フェレー司教
ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教
アルフォンソ・デ・ガラレタ司教

フランス語原文

英語訳


訳者注(*) 司教団体主義という訳語について


 司教団体主義とは、collegialitas の訳である。何故「司教団体主義」という訳をつけたかというと、第二バチカン公会議の collegialitas, collegiality, collégialité は、教会憲章 第3章 教会の聖職位階制度、特に司教職について(§§18 - 29) の中にある表現に由来しているからである。

 教会憲章によると、イエズス・キリストは12使徒たちを「使徒団」という団体(collegium)として制定し、それと同じように「司教団」がこれを継承するという。そこで一般には、世界中の司教たちは「使徒団」の継承として「司教らの団体」を構成し、「司教団(Collegium Episcoporum)は、かしらとともに普遍教会に対する最高かつ十全な権限の主体として存在し、そのかしらなしには決して存在し得ない」(新教会法典336条)とされるようになった。教会憲章による主張は、司教聖別を受けることによって自動的に司教団の中に組み込まれ、司教は、司教聖別と同時に教皇が望もうが望むまいが、司教団の一員として裁治権上の権能を受け取ることと理解されるようになった。

 これに反して、聖伝によれば、教皇のみが普遍教会に対する最高かつ十全な権限・権能の唯一の主体であり、最高権力は、教皇によって、教皇の望みのままに(ad nutum)、伝えられる場合のみ、団体的なものとなる(たとえば公会議の時)。聖伝によれば、天主から与えられた制度としてキリストの教会は君主制であり、「司教団体制」をとっていない。また、教会を統治する裁治権は教皇が司教に伝えるのであって、司教聖別を受けることによって司教が裁治権を自動的に受けるものではない。そこで、第二バチカン公会議の文章でも使われている「司教聖別」という言い方は司教を作ることであるが、「叙階」ではなく「司教聖別」というこの表現は、叙階による聖職の位階秩序とは区別されたものとしての裁治権の位階秩序は教皇によって与えられることを暗に示していた。

 教会憲章§19にはこうある。「主イエズスは聖父に祈った後、自分が望んだ人たちを自分のもとに招き、自分の伴侶とするため、また天主の国の宣教に送るために、12人を任命した(cfr. Marc 3, 13-19; Matth. 10, 1-42)。主はこの使徒たちを(cfr. Luc 6, 13)、団体、すなわち永続的な集団の形に(ad modum collegii seu coetus stabilis)制定し、彼らの中からペトロを選んでその頭とした (cfr. Io. 21, 15-17)。[…] 」

(§22)「主の制定によって 、聖ペトロと他の使徒たちとが一つの使徒団体(unum Collegium apostolicum)を構成しているのと同じように 、ペトロの後継者であるローマ教皇と使徒たちの後継者である司教たちとは、互いに結ばれている。[…]秘跡的聖別の力によって、また司教団体の頭ならびに構成員との(cum Collegii Capite atque membris)位階的交わりによって、人は司教団の一員となる 。 しかし、司教団体すなわち司教団は(Collegium autem seu corpus Episcoporum)、ペトロの後継者であるローマ教皇をその頭として一致したもの 、また牧者も信者も含めた全ての人に対する教皇の首位権は完全に 存続するもの、と考えるのでなければ、権威を持つことはない。[…] 」

 (ラテン語は次にある。LUMEN GENTIUM

 第二バチカン公会議の collegialitas の日本語訳語としては、その要素と語源である collegium「団体」の元の意味を保持することが大切である。そこで司教団体主義、あるいは単に団体主義と訳す。私はかつて、誤った司教団制度 (collegialité) と訳したこともある。

 さて、普通であれば「-tas」は「 -性」と訳される。collegialitas を「司教団体性」と訳すこともできるが、意味の上から、司教たちが団体として教会の最高の権力を持っているという主張であって、そのような本性上の性格ではないが故に、「 -性」という訳は採用しなかった。第二バチカン公会議後、教皇がその最高の十全の権能を、司教団としての司教たちに自由に与えているように思われるので、制度として「司教団制」と言うことができるだろう。しかし、そのときでも、カトリック教会の君主制の本性はそのまま残る。何故なら、天主の作った制度なので人間が変えることができないからだ。そこでその意味を含めて「司教団体主義」と訳した。

 そのほかにも、『提題解説』に対する日本の教会の公式回答(1997年7月23日 日本カトリック司教協議会)には、「中央集権」 (centralization)への対比として「協働性」(collegiality)と訳されていた。気持ちはわかるが、「協働」という言葉は、collaboration の訳語に普通使われているので、混乱をもたらすだけだと思う。

 あるいは、「同僚性」とするものも見つかった。「同僚性」とは、collegium(団体、集団、組合)というラテン語やそれから由来する英語 college ではなく、colleague (同僚)との連想からの訳語であるように思われる。


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの祝福の象徴

2013年07月14日 | カトリックとは
九 日 聖 マ リ ア の 祝 福 の 象(かた) 徴(どり)

山に行きて海の方を眺めよ。小さき雲海より立ち昇るべし。  
(列王記上一八。四三)

 天主はユデア国王の不信仰と人民の堕落(だらく)を懲(こ)らし給う為に、予言者のエリアを遣(つか)わして王に天罰(てんばつ)を告(つ)げしめ給うたが、それから三年六ケ月という永い間、一滴の雨露(あめつゆ)も地を潤(うる)をさなかった。為に至る所の川は乾上(ひあが)がり、草木は枯れ、人間を始め総(すべ)ての生物は非常に苦しみ,饑(う)え渇(かわ)きの為に死んだ者も多かった。それで人々はどれほど大雨を待ち望(のぞ)んだか解(わか)らない。遂にエリアは雨乞(あまご)いをする為に地に平伏して祈ったが、僕(しもべ)を呼んで冒頭(はじめ)に記(しる)したように「山に昇りて海の方を眺めよ、小さき雲海より立ち昇るべし」と命じたのである。
 僕(しもべ)は其の言葉に従い屡々(しばしば)山に昇って見たが、中々青空に雲の湧(わ)く様子も見えない。然し遂に七度(ななたび)目に海から小さい雲の立ち昇るのを見た。その雲(くも)足(あし)は頗(すこぶ)る速く、見る見る空一面に拡(ひろ)がったかと思うと、忽(たちま)ちドッと篠(しの)つくような大雨が降り出し、乾(かわ)いた土地は始めて充分な潤(うるお)いをえて、草木も青々と蘇(よみがえ)り、人々も漸(ようや)く生き返ったような心地がしたという話しである。
 旱魃(かんばつ)の太地に最も必要なものが水分であるように、色々の困難と戦い様々の悩みに喘(あえ)ぐ我等には、天主の御祈福ほど有り難い力(ちから)になるものはない。されば旧約聖書にも天主が天地万物を創造(そうぞう)された時、七日目を祝して以て、全世界を幸福にする特別の恵(めぐみ)を賜(たまわ)る日とされたよしが記(しる)してある。
しかるに人は愚(おろ)かにも、また不幸にも、罪を犯(おか)して全くこの御祝福の泉を
閉ざしてしまったのであった。
 所がこの泉を再び開き、前にもまして豊かな御祝福を得る事の出来るようにして下さったのが救い主イエズス・キリストである。それは勿論その御苦難御死去の御功徳(おんくどく)による。
 然し主は十字架上から聖マリアを我等の母として与え給うた時、また聖母を一切の恵(めぐみ)のわかちてと定め給うた。
 即ちイエズスを限りなき恵の大海とすれば、聖母はそれから水分を得て、地上の万物に雨露(あめつゆ)を降らす雲に相当する。
 実に聖母の祝福の雲がイエズスの無限の愛の大海から立ち昇って以来、その雲(くも)足(あし)は迅速(じんそく)に全世界を蔽(おお)い、恵の大雨を降らし、誘惑(いざない)に逢(あ)う者には力(ちから)を、苦悩(くるしみ)に泣く者には慰(なぐさめ)を、病気、災禍(わざわい)に罹(かか)れる者には忍耐を、臨終(りんじゅう)の者には大いなる安心と歓喜(よろこび)とを、与えた事がどれほどあるか知れない。
 けれども聖母の御憐(おんあわ)れみを蒙(こうむ)るには、かのエリアの僕(しもべ)が七度(ななたび)山に昇って漸(ようや)く雲を認めたように、矢張(やは)り忍耐して常に御扶助(おんたすけ)を祈り求めねばならぬ。肉身
の母、地上の母の好意さえ喜ばしい限りであるからには、霊魂の御母、天上
御母の御祝福は此の上もなく有り難いものであるに相違ない。
故に我等は聖マリアの子たる幸福を喜び、益々其の御祝福を頂くに相応(ふさわ)しい者となるよう、努めて心を改め行いを正(ただ)す事が大切である。叉、己の幸福を思うにつけても、宗教を信ぜず、聖マリアの子となるを肯(がえ)んじない人々の淋(さび)しさ、不幸さを思いやり、彼等の為に祈る事を忘れてはならぬ。他人の事ばかりでない、自分も心に御祝福を感ぜず、憂(うれ)いに沈み、悩みに悶(もだ)えるような時は天にまします「憂(うれ)い人の慰(なぐさ)め」に向かって祈るがよい。そうすれば何時かは哀(あわ)れみの雲の立ち昇るのを見るであろう。
 かように喜びに悲しみに、御母を忘れず敬愛し、叉,つつましき信心の業(わざ)を以て聖母崇(すう)敬(けい)の精神を他の人々にも移し植え、殊に親として子にそれを残し伝えるのは、我等聖母を慕(した)う者の、正(まさ)に為(な)すべき責務である。

   祈   祷

 ああ聖寵(せいちょう)の雨雲なる聖マリアよ、常に祝福の大雨を以て我等の心をうるおし、御身を知らざる者、或は御身を拒(こば)む者までも悉(ことごと)く御許(みもと)に導くを得(え)せしめ給え。しかして遂にはわが日本帝国を津々浦々(つつうらうら)に至るまで恵(めぐ)みの雨露(あめつゆ)にて潤(うるお)し給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:契約の櫃と聖母の聖心

2013年07月13日 | カトリックとは
八 日 契 約 の 櫃 と 聖 母 の 聖 心

 箱を造り、純金を以て内外共に掩(おお)い、わが汝に与うる掟(おきて)を其の箱に納(おさ)むべし。
(出埃及記二。五)

 これは天主がモイゼに仰せられた御言葉であるが、ここに箱というのはエルザレムの神殿で最も聖(とうと)しとされていた契約(けいやく)の櫃(ひつ)に他(ほか)ならぬ。この契約の櫃(ひつ)には二つのものが納めてあった。
その第一は、天主がモイゼに手づから授け給うた、十(じゅう)誡(かい)を刻(きざ)んだ二枚の石板(せきばん)。その第二は、昔イスラエルの民がエジプトを遁(のが)れてアラビアの曠野(あれの)を彷徨(さまよ)うていた頃、天から降って彼等を養った、マンナという不思議な食物を入れた黄金の器(うつわ)。この二つである。
そして天主はモイゼに聖(み)旨(むね)を伝え、或はイスラエル人に多くの恵(めぐみ)を与え給う時、いつもこの契約の櫃(ひつ)を通じてせられるのが常であった。
 我等は連祷(れんとう)に於いて聖マリアを契約の櫃(ひつ)と呼び奉るが、誠にこの聖(せい)櫃(ひつ)は聖母の象徴(かたどり)である。聖マリアの完全無訣(むけつ)な聖心(みこころ)は、如何にも純金で内外を飾られた聖(せい)櫃(ひつ)に喩(たと)えるに相応(ふさわ)しい。のみならずその聖心(みこころ)には、始めから天主の誡(いまし)めが、かの石板(せきばん)の面(おもて)よりも深く刻(きざ)み込まれてあった。
 されば天主の聖(み)旨(むね)に従順(じゅうじゅん)で、その聖式(せいしき)に与(あずか)る事などは、よくその御性質に適(かな)い、むしろ已(や)みがたい聖心(みこころ)の御要求であった。故に聖マリアは御幼少の時から熱心に聖教(みおしえ)を学(まな)び、十二分に天主の十(じゅう)誡(かい)に通暁(つうぎょう)されたけれど、本来から云えばユデア人や我等の如く、己(おのれ)を律(りっ)する外部的な掟(おきて)などは必要でなかったのである。
 然し我等に於いては大いに異(こと)なる。我等の心は天主の聖(み)旨(むね)よりも、原罪(げんざい)に歪(ゆが)められた本性に従い易(やす)く、その為、善に赴くには絶えず努力や勧告を要する。けれどもそれにも拘(かか)わらず我等の心も洗礼の時から聖(せい)櫃(ひつ)になった。
そして天主の聖(み)旨(むね)はその時から十(じゅう)誡(かい)を以て明らかに示された。故に聖母を
熱心に崇敬(すうけい)する者は、その麗(うるわ)しき御鑑(おかがみ)に倣(なら)い、行(おこな)いを改(あらた)めてその尊敬(そんけい)の心を
表(おもて)に現(あらわ)さねばならぬ。
 次に契約の櫃(ひつ)には不思議な天の食物なるマンナが納めてあった。此の点から云ってもこの櫃(ひつ)は聖母の象徴(かたどり)である。
何となればイエズスは或る時ユデア人に向かい「我は生けるパンなり。汝等の先祖は砂漠にてマンナを食して死せしが、人、若(も)しこの我パンを食せば永遠に生くべし」と仰せられたが、このパンは御托(ごたく)身(しん)によって聖母の内にやどり給うた。
 されば聖母が天のパンを納める契約の櫃(ひつ)と呼ばれ給うのは誠に適切で、我等に降(くだ)り給う聖体と如何に深い関係を有し給うかも悟(さと)られよう。
 聖体は世の終りまで信者を養う霊魂の糧(かて)で、逐謫(ちくたく)の身に此の上ない力(ちから)であり慰安(なぐさめ)であるが、聖マリアも主の御昇天後は始終(しじゅう)聖体を拝領されて、懐(なつ)かしい御子(みこ)と一致されそれを力(ちから)にナザレトのつつましい御生活を続けられた。
故に我々も聖体拝領のたび毎(ごと)に聖母を思い出して、その芳(かんば)しき御徳を鑑(かがみ)とし、聖会の勧告(すすめ)に従い、心を改め行いを正し、御跡(みあと)を慕(した)い奉ろう。かように努(つと)めるならば、此の世から天国にいますイエズス・キリストと親しく交(まじ)わる事が出来るのである。

   祈   願

 ああ、聖(きよ)き御母マリアよ、我等は誠(まこと)に拙(つたな)き者なれども、洗礼によりて主の聖(せい)櫃(ひつ)とせられし事を深く感謝し奉る。
我等は御身の麗(うるわ)しき範(のり)にならい、主のよみし給う性質となり、犠牲と善徳の花を手向(たむ)けて、主の聖心(みこころ)を休ませ奉る者とならん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度
繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:燃える霊

2013年07月12日 | カトリックとは
七日 燃 え る 霊

我、行きて大いなる観物(みもの)を見ん。 (出埃及記三。 三)

 天主の民と選ばれたアブラハムの子孫は、エジプトに至って大いに人口を増加したが、後には残酷(ざんこく)なエジプト王の為に奴隷(どれい)のように虐待(ぎゃくたい)され、苦痛に耐(た)えず天主の御扶助(おんたすけ)を願った。すると天主はモイゼという偉人を彼等の首領(かしら)と選び、これにその同胞を救い出す使命をお授けになったが、その時天主はホレブ山の麓(ふもと)なる燃えている茨(いばら)の草むらの中に姿を現し給うた。
 モイゼは時ならぬ炎(ほのお)と、しかも草むらの焼失せる様子もないのに驚いて「我行きてこの大いなる観物(みもの)を見ん」と叫び、急いで駆(か)けつけると、天主は「汝(なんじ)靴(くつ)を脱(ぬ)ぐべし、そは汝の立てる所は聖なる所なればなり」と宣(のたま)い、それから「我が選民(せんみん)をエジプトより救うべし」と命じ給うたのである。
 この燃える草むらは聖マリアの象徴(かたどり)であり、その罪の汚(けが)れなき前表(まえしらせ)である。聖母の天主に対する愛は実際燃(も)えさかる火のようであった。その熱は御一生を通じて身も心も溶(と)かさんばかり、もとより不純(ふじゅん)な穢(けが)れを入るべき余地などある筈がない。しかも其の愛の火の最も激しく燃え立ったのは、カルワリオ山に御子の十字架を仰ぎ見給うた時であろう。その時茨(いばら)は愛熱の焔々(えんえん)と燃え上がる聖母の聖心(みこころ)を深く刺(さ)し貫(つらぬ)いたのである。
 聖マリアの人類に対する愛、救(すく)霊(い)に対する熱心も矢張(やは)り火の如く燃えている。そして火は燃えても草むらは焼けなかったように、その愛、その熱心も尽(つ)きる時がない。故(ゆえ)にモイゼに倣(なら)って我等も行きてこの大いなる観物(みもの)を見よう。それには天主がモイゼに命じ給うた如く靴を脱がねばならぬ。
 何となれば我等の立てる所は聖なる所であるからである。これを説明すれば、汚(けが)れなき童貞(どうてい)聖マリアに近づいて尊敬するには、まづ世間的の慾(のぞ)望(み)や悪(あく)慾(よく)の古き殻(から)を脱(ぬ)ぎ捨て、身も心も聖母の愛の聖火に燃やされねばならぬとの意味に他ならない。
 経験によれば我等の生涯は茨(いばら)の道である。即ち悲しみ、苦しみ、或は病気、災難など、恐ろしい試練(こころみ)の刺(とげ)の連続である。我が主イエズス・キリストは、此の世の富も宝も快楽も、皆、善を塞(ふさ)ぎ止(とど)める茨(いばら)である、という意味の言葉を仰せられた。然し是(これ)等(ら)の茨(いばら)も聖マリアを尊敬する人には、自我(じが)の心を突き破り、謙遜(けんそん)と神えの愛と信頼とを深める便(たよ)りになるのである。
 最後にモイゼは指導者としてエジプトの奴隷(どれい)であった同胞(どうほう)を乳と密の流れるカナアンの地へ導く使命を受けた。聖母もキリスト信者の扶助(たすけ)、罪人のよりどころ、憂(う)き人の慰めと呼ばれ給い、我等の指導者としてその立派な模範(もはん)により、罪悪(ざいあく)や肉慾(にくよく)の奴隷(どれい)である我等を、平安と霊的(れいてき)歓喜(かんき)に充(みち)満(み)ちているキリスト信者の正しき生活に導き、遂には永遠のカナアンの地なる天国に導き給うのである。  
されば我等も聖母に倣(なら)い、各自に未信者を聖会に導き、他人の救(すく)霊(い)の為にも熱心に努(つと)めなければならぬ。
   
祈   願

愛の焔(ほのお)に燃(も)え立ち給う天主の御母童貞(どうてい)聖マリアよ、我等は今より全(まった)く古き殻(から)を脱(ぬ)ぎ捨て、ひたすら聖(み)旨(むね)を仰ぎみ、それぞれの境遇(きょうぐう)において、己と他人の救(たす)霊(かり)の為、力の限りを尽さんと決心し奉(たてまつ)る。
何卒(なにとぞ)この志を憐(あわ)れみて、御身の焔(ほのお)を我等の心に移し、弱き我等をして御身に肖(あやか)らしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:契約の方舟

2013年07月11日 | カトリックとは
六日 契 約 の 方 舟

   汝と汝の家、皆箱舟に入るべし。 (創世記七。一)

 ノエの時代人々は堕落(だらく)してあらゆる罪悪(ざいあく)に溺(おぼ)れ、ノエが改心(かいしん)をすすめても一向(いっこう)に聴き入れぬのみならず、却(かえ)ってこれに冷罵(れいば)嘲笑(ちょうしょう)を浴(あ)びせかけるばかりなので、天主は大洪水を起こして悪人を滅ぼそうと思(おぼ)し召(め)し、正しいノエ一家だけを救う為、彼に箱舟を作れと命じ給うた。
ノエが早速仰せをかしこみ幾十年の歳月を費(つい)やして大きい箱舟を作ると、天主は「汝と汝の家、皆箱舟に入るべし」と仰せになってこれを避難せしめ、やがて恐るべき災禍(わざわい)の天罰(てんばつ)を下し給うた。即ち四十日間昼と云わず夜と云わず、暗澹(あんたん)たる空から小(こ)止(や)みもなく降り注ぐ大雨は、さながら滝津(たきつ)瀬(ぜ)の如く、見る見る内に水量は増し、山も丘も忽ちに沈み、世界は唯、濁水(だくすい)の湧き返る大海原と化したのである。
その時の悪人共の恐怖(おそれ)と惨状(みじめさ)はどれ程であったろう!唯、箱舟に入ったノエとその一家のみは天主の御加護に依って無事なるを得(え)たのである。
 此の大洪水の有様は、叉、我等がこの世に於ける生活の象徴(かたどり)ではあるまいか我等も日々恐ろしい誘惑(いざない)の暴風(あらし)に吹きまくられ、罪悪の大波に呑まれようとしている。尋常では中々滅亡を免れる事が出来ない。
然し天主は我等にも「汝と汝の家、皆、箱舟に入るべし」と命じ給うのである。その箱舟とは何か?我等の避難所なる聖マリアである。この箱舟に入るべしとは彼女を尊敬し、彼女に縋(すが)り、その御保護や御助力を求めよとの意味である。
そうすればかのノエの一族が救われた如く、我等も激しい誘惑(ゆうわく)の暴風(あらし)や罪悪の大濤(おおなみ)にも安全なるを得(え)るに相違ない。
 それに反して聖母崇敬(すうけい)を軽んずる者は、様々な危険に出(で)逢(あ)っても助け船がない。恰度(ちょうど)ノエが箱舟を作っているのを嘲笑(あざけ)った、愚(おろ)かな人々のように滅びてしまう外(ほか)はないのである。
 なおノエは箱舟を作る為に幾十年を要した。同様に我等の聖母に対する尊敬も、一朝(いっちょう)一夕(せき)のものであってはならぬ。矢張り数年ないし数十年の久しきに亘って変わらざる赤(ま)誠(こと)を尽くさねばならぬ。そうでなければ、危険に際して俄(にわか)に助け舟を求めても、舟が未だ出来上がっていないのと等(ひと)しく、空(むな)しく罪の大濤(おおなみ)に巻き込まれる外(ほか)はあるまい。
 洪水(こうずい)が引いた時、天主はノエに向かって「我、雲を地の上に起こす時、虹を雲の上に現すべし。しかして我は再び総(すべ)ての生(い)ける物を打ち滅ぼさじ」と新たに約束し、且つその契約の印(しるし)として空に美しい虹を現し給うた。
 キリストも我等の為に救(すく)霊(い)の契約(けいやく)をお立てになり、我等は洗礼によって各自それに加わる事が出来る。しかし大空に度々(たびたび)黒雲の漲(みなぎ)る如く、我等の生涯にも屡々(しばしば)危険や心配の雲が沸(わ)き起こる。
けれどもその上に高くかかる美しい虹を仰ぐ人は決して滅びに陥(おちい)る事はあるまい。その虹も聖母の象徴(かたどり)である。虹の七色は聖母の七つの御徳を現す。
それは信(しん)望(ぼう)愛(あい)の三つの対(たい)神(じん)徳(とく)と、賢(けん)義勇(ぎゆう)節(せつ)の四つの枢要(すうよう)徳に他(ほか)ならぬ。その麗(うるわ)しい虹は暗澹(あんたん)たる生涯の大空に、どれほど我等の慰めとなり、力となる事であろう。
 更に虹は太陽の反映(はんえい)であり、虹の見える時、必ず太陽も出ているように虹なる聖母マリアを仰ぎ尊(とうと)ぶ人は、太陽なるキリストにも決して見離(みはな)される事がない。「聖母を熱心に尊敬した者で、地獄に堕(おと)された者は一人もない」と云われた聖アルフオンゾの言葉は真実である。故に我等は今月中、否、生涯を通じて「汝と汝の家、皆箱舟に入るべし」と云う御言葉を深く心に銘(めい)じ、聖母に対する愛と尊敬と信頼とを増して、且(か)つは御恩(ごおん)を報(むく)い、且つは御助力(おたすけ)を戴くように努(つと)めよう。

   祈   願

 ああ救(たす)霊(かり)の箱舟なる聖母マリアよ、我等が誘惑の嵐(あらし)に悩(なや)み罪悪(ざいあく)の波に溺(おぼ)れんとする時には、常に慈悲(いつくしみ)に充(みち)満(み)てる御懐(おんふところ)を思い出さしめ給え。
 叉、不幸にして大罪に傷(きず)つきたる時には、我等を庇(かば)い、主の御怒(おいか)りをなだめ、契約の虹の証(あかし)となり給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)


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7月15日(月)のミサ開始時間は午前7時です。その他は予定通りです。

2013年07月11日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

7月15日(月)は、国民の祝日ですが、今回の開始時間は、司祭の都合でいつもの通りの午前7時に変更になりました。ご了承ください

7月15日(月)証聖者聖ヘンリコ皇帝(3級祝日)白
          午前7時   ミサ聖祭

 その他は、予定通りです。ご理解を感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの閉じたる花園

2013年07月10日 | カトリックとは
五日 聖マリアの閉じたる花園

我が妹、我が花嫁よ、汝は閉じたる園(その)なり。 (雅歌四、一 一)

 世の始め天主は人(じん)祖(そ)を最も完全にして聖なる者に創(つく)り、これをエデンという楽園に置き給うたが、この園は永久(とこしえ)に春の如く,百花(ひゃっか)爛漫(らんまん)と咲き乱れ、馥郁(ふくいく)の香り天地に満(み)ち、小鳥の歌、楽しげに聞こえ、果物累々(るいるい)と実(みの)り、すべて快(こころよ)き上に不自由というものを知らず、死も病(やまい)もなく、凡(およ)そ人の世の幸福は悉(ことごと)く此処(ここ)に集まって、人(じん)祖(そ)のうけ楽しむに委(まか)せたのである。
 しかし天主は園(その)の中央にある唯(ただ)一本の樹(き)の実(み)だけは食する事を禁じ給うた。それは人(じん)祖(そ)を始め、その子孫等の肉身の命と霊魂(れいこん)の命とを永遠に保(たも)つべき智慧(ちえ)の樹(き)の実(み)であった。
 ところが人(じん)祖(そ)は或る日悪魔の誘惑(いざない)に乗って禁断(きんだん)の果(このみ)を犯(おか)し、遂に楽園から追放され、後に其の門は固く閉ざされて再び入るによしなく、子孫の代まで病(や)み且つ死する者となる悲運を招いたのであった。
 けれども慈悲深い天主は、エデンの自然的、物質的楽園を失った人類に、妙(たえ)なる超自然的、霊的楽園を恵(めぐ)み給うた。それは聖マリアの麗(うるわ)しい霊魂(れいこん)である。
 この楽園(らくえん)にも美しい花、見事な果実(くだもの)がえも云われぬ芳香(ほうこう)をはなっている。
例(たと)えば聖霊による歓喜(よろこび)や平安,無上の謙遜(けんそん)、比類なき忠実、完全な貞潔(ていけつ)などがそれである。そしてその中央には天主に対する熱愛が焔々(えんえん)と燃(も)えつつ不思議な智慧の樹(き)の如くに立ち、その梢(こずえ)に人に対する愛と救(すく)霊(い)の果(このみ)をつけている。
 けれども最も感ずべきはこの園(その)が堅(かた)く閉じられている事である。それは勿論(もちろん)天主の深い思(おぼ)し召(め)しにもよるが、叉、聖マリア御自身それに忠実に従われなかったならば、こうまで堅(かた)く完全に閉(と)じられる事も出来なかったであろう!
 全く聖マリアの聖心(みこころ)の園の扉は堅かった。汚(けがら)わしい世間に置かれても大敵なる悪魔はもとより、さまざまの誘惑(いざない)も罪も、唯(ただ)の一歩も中に入る事が出来なかった。叉、悪(あく)慾(よく)や肉の欲求、無益(むえき)な思いや感じなども、踏(ふ)み込む隙(すき)すらなかったのである。
それに較(くら)べると我等の心の園(その)は何という相違であろう!それはいつでも開(あ)け放(はな)しの状態で、世間の悪い快楽(かいらく)、悪い感化の踏(ふ)み入るに委(まか)せている。
 されば悪魔は我が物(もの)顔に横行(おうこう)して悪の種子(たね)をまき、悪(あく)慾(よく)の雑草(ざっそう)ははびこり放題(ほうだい)、無益(むえき)な思考(しこう)や希望は野良犬の如く出入りし、周囲の垣(かき)は倒(たお)され、花は踏(ふ)みにじられ、泉(いずみ)は涸(か)れ、木陰(こかげ)涼しい大木は朽(く)ちて、園(その)というよりは荒野(あれの)になり果(は)てているではないか。もっと我等が注意して、心の扉を閉めておいたならば、天主の聖寵(せいちょう)によって、もう少し美しい花園(はなぞの)になっていた事であろう。
 ああ、聖マリアよ、我等の心を御身の愛で給うに足(た)る、閉(と)じられたる花園(はなぞの)となし給え!
それでは心の園(その)を閉じる為にはどうしたらよいか。犠牲の垣根を結(ゆ)い廻(めぐ)らし、克己(こっき)の扉を堅く閉(し)めるのである。即ち五官,殊に目、耳を守り、耐(た)えず襲(おそ)い来る想像を抑(おさ)え、傲慢(ごうまん)、憤怒(ふんど)、復讐(ふくしゅう)等の悪慾をすべて退(しりぞ)け、堅い決心で自我に打ち克(か)つのである。なお善(ぜん)徳の花を培(つちか)う為に、痛悔(つうかい)や様々の償(つぐな)いの水を与え、祈祷(いのり)その他の信心の務(つと)めを以て天主の御祝福の光と御恵(おんめぐみ)の雨を願わなければならぬ。そうすれば我等の心の園(その)にも美しい徳の花が開き、やがては天国の倉(くら)に納(おさ)めらるべき見事な果実(くだもの)が実(みの)るに相違(そうい)ない。

   祈   願

 ああ、閉じられたる花園(はなぞの)なる聖マリアよ、我等の心も亦、閉じられたる花園とならん事を切に求め奉る。
 しこうして我等が危険なる誘惑(いざない)に逢(あ)い、罪悪の淵(ふち)に沈まんとする時、常に御身の閉じられたる花園に隠(かく)れ憩(いこ)い、以て安全に救わるるをえせしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくじ)三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:イエツセの株よりの一の枝

2013年07月09日 | カトリック・ニュースなど
四日 イエツセの株よりの一の枝

イエツセの株(かぶ)より一の芽(め)出(い)で、其の芽より一つの枝生(は)えて実(み)を結(むす)ばん。
(イザヤ書一一。一)

これはイザヤが聖母に就いて予言した言葉であるが、ここに云う枝とは即ち童貞女、聖マリアを意味し、実(み)とはその御子イエズス・キリストを指(さ)すのである。
 天主は御独子(おんひとりご)を世に送り給う時、その肉身の母として、新たに罪の汚(よご)れに染(そ)まぬ婦人を創(つく)り給わず、却ってアダムの子孫の中から一人の少女を選び給うた。
 その訳は始め天主が人間を創造し給うには、何物をも待たず、全くその全能の力にのみより給うたのであるが、我等、人間を救い給う為にはその御事業に人間の与(あずか)る事を望(のぞ)み給うたからである。
 それ故(ゆえ)にまた救いの御事業を実現し給う時機も、世の人々の心の状態によって定め給うた。もしも世の始めの子孫が憐(あわ)れみ深い天主の聖(み)旨(むね)を悟(さと)り、早速それに従い身を慎(つつし)み徳に励み奉ったならば、人類は何も四千年の永い間、救いを待つ必要はなかったであろう。
 何となれば天主の御心には、最早、救い主の御母が選ばれて居り、その現世(このよ)に現れ給う時期は、唯、祖先の心がけと準備によって定まる筈であったからである。しかるにアダムとエワの子孫は、人(じん)祖(そ)と違ってかの楽園の幸福を忘れ、却って堕落(だらく)せる本性(ほんしょう)に従い、益々悪に奔(はし)り、憎むべき罪に溺(おぼ)れてしまう有様であったから、天主は救いを与え給うどころか、かの恐ろしい大洪水を以て義人ノエの一族を除く外(ほか)は、尽(ことごと)く滅(ほろ)ぼし給うの余儀なきに至ったのである。
 けれども救われたノエの子孫も、正しい道を踏み外(はず)したので、天主は更に其の中から義人アブラハムとその子孫とを選び、これに優(ゆう)渥(あく)な祝福を賜(たま)うた。この祝福こそイザヤ予言者に云われたイエツセの株(かぶ)である。
 罪に依って蛇の毒が人間の心に深く食い入っている間は、到底その血統から潔(きよ)き救い主の御母を起こす事は出来ない。それで天主はその祖先が先ず犠牲と罪の償(つぐな)いを献(ささ)げて、次第に心の病毒を減(へ)らし、その肉身を潔(きよ)くし、以て清浄(しょうじょう)無垢(むく)の少女(おとめ)の祖先(おや)として相応(ふさわ)しい者になるまでお待ちになる必要があった。
 その準備の整(ととの)うにつれ、人の心には救い主に対する憧憬(あこがれ)がいよいよ強くなり、アブラハムに与えられた祝福は漸次(ぜんじ)その効果を現(あらわ)し、神の聖寵(せいちょう)は恰(あたか)も最初一滴に過ぎぬ水が、やがて泉となり小川となるように、次第にその量を増し、聖母の御両親ヨアキム・アンナの時代には大河の如く漲(みなぎ)り、その御子聖マリアに至って遂に溢(あふ)れるばかりになったのである。
 故に大天使ガブリエルが彼女に現れて「めでたし聖寵(せいちょう)充満(みちみ)てるマリア!」と 挨拶されたのも決して褒(ほ)め過ぎの言葉ではない。ここに於いてイエツセの株(かぶ)より一つの芽(め)出(い)で、その芽より一つの枝が生(は)えた。この枝が約束せられた実(み)を結(むす)ぶのである。
 以上は人間の歴史に於ける救いの準備であるが、我々各自の救いも同様に犠牲に対する熱心な努力を必要とする。わが心に主イエズス・キリストを宿(やど)し参らせるには、どうしても悪(あく)慾(よく)を抑(おさ)え五官を慎(つつし)むなどの犠牲を献(ささ)げねばならぬ。
 洗礼の際、我等の心に植えられた成(せい)聖(せい)の聖寵(せいちょう)という枝は、今なお、青々と茂っているであろうか?或は見る影もなく枯れ果(は)ててしまったろうか?もし枯れ果(は)てたとすれば、我等に犠牲の精神が欠(か)けていた為ではないか。
 我等は今後、聖母を尊敬する為にも、もっと此の精神を盛んにしよう。何となれば聖母は祖先の犠牲の功徳(くどく)に依(よ)って世に現れ、御自分も犠牲の生涯を送って聖子(おんこ)の救世(きゅうせい)の事業を助けられたからである。

   祈   願

 ああ聖母よ、願わくは洗礼の時に我等の受けたる聖寵(せいちょう)の枝をいよいよ伸(の)び且つ栄(さか)えしめ、御身の実(み)なる主イエズス・キリストを我等の枝にも生(しょう)ぜしめ給え。
 亦、不幸にして既(すで)に枝の枯れたるものには、何卒(なにとぞ)その心の悪(あく)慾(よく)、汚(けが)れ等を去り、誘惑(ゆうわく)を絶(た)ち、之を助けて速(すみ)やかに蘇(よみがえ)らしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)
三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:救主に就いての第一の約束

2013年07月08日 | カトリックとは
三日 
救主に就いての第一の約束

   我、汝と婦人(おんな)との間に怨(うら)みを置かん。(創世記三.一五)

 狡猾(こうかつ)な悪魔が蛇の姿を借りて人(じん)祖(そ)エワを誘(いざな)い、遂に彼女及びその夫を罪に陥(おとしい)れた時、天主は彼等を罰すると同時に、予(あらかじ)めその救拯(すくい)を約して、蛇に向かい「此の救いは一人の婦人より出(い)づべし。我、汝と婦人(おんな)との間、叉、汝の裔(すえ)と婦人の裔(すえ)との間に怨(うら)みを置かん。彼は汝の頭(こうべ)を踏(ぶ)み砕(くだ)かん」と仰せられた。この蛇、即ち悪魔の仇(あだ)と立てられた婦人は、云う迄もなく聖母マリアである。
 さて、この救いの御約束は、楽園を失って後の人(じん)祖(そ)及びその子孫にとって四千年の間、大いなる慰めであり希望であった。のみならずこの御言葉(みことば)は其の婦人の特殊(とくしゅ)な地位と使命、殊(こと)に母としてのそれを明らかに示している。
 実に聖母の地位と使命の重大なる事は、天地の間に較(くら)べる物もない位(くらい)である。彼女は罪ある人類の子孫でありながら、唯一人その汚れを免れ清浄(しょうじょう)無垢(むく)、玲瓏(れいろう)として罪の影すら止(とど)めぬ特別の御方であった。そればかりでなく、更に大切なのは聖母が第二のエワである事である。
 即ち第一のエワがアダムと共に人類の自然的生命の祖先となったように、聖母はイエズス・キリストと共に、人類の超自然的生命の祖先になられたのである。かように重大な御母の地位と使命に就いては、御子自らも公生活の始め、カナの婚姻(こんいん)の席上で明らかにお示しになった。
即ち聖母が貧しき新郎新婦を憐(あわ)れんで「彼等に酒なし」と仰せられた時、イエズスは「婦人よ、そは我と汝とに何かある。我、時未(いま)だ来たらず」と答え給うた。 換言(かんげん)すればこれは、私は今後貴方(あなた)の肉身の子としてではなく、天主の独子(ひとりこ)として奇跡(きせき)を行う。従って貴方も唯、人の母ではなく、世の始めから約束された婦人、天主の母と認められるであろうと云う意味で、聖母の類ない地位を明らかにした御言葉である。
 次にイエズスは十字架に磔(かか)り給うた時も、御足許(おんあしもと)に佇(たたず)み給う聖母を御覧になって、母という懐(なつ)かしい言葉を用いず、わざと婦人(おんな)と呼び給うた。
これはかの天主の「我、蛇と婦人との間に怨(うら)みを置かん」という御約束にある婦人こそは実に聖マリアを指(さ)すのであって、御自分が唯(ただ)の人間でないように聖母も唯の母ではなく、救いの母であり人類の永遠の新生命の母であると、御母の大使命を宣言されたのであった。しかして救いの御約束はここに成就(じょうじゅ)されたのである。
 なお、聖母の特別の御使命に就いて一言(いちごん)すれば、聖マリアは御子イエズスが我等、一切(いっさい)人類の為に得て下さった恵(めぐみ)を我等各自に分(わ)かち与えてくださるのである。これは恰(あたか)も一家の父が、働いて得た報酬(ほうしゅう)を悉(ことごと)く母に委(ゆだ)ね、一切の家計、子供達の必要に宛(あ)てしめるのと似ている。しかも幸福な事には、此の御母は極めて慈悲(じひ)深く寛大(かんだい)で、その代願(だいがん)により我等に御恵(おめぐみ)をいくらでも与えたいと望(のぞ)み給い、叉、その恵(めぐみ)の宝も全く無尽蔵(むじんぞう)である。
但しこの宝を頂く為には我々は先ず一家の敵なる悪魔を憎(にく)んで交(ま)じりを絶(た)ち、その誘惑(いざない)に乗らず、母なる聖母と悪魔を怨(うら)む心を共にして聖母に対する尊敬(そんけい)の実(じつ)を現(あらわ)さねばならぬ。

   祈   願

 ああ聖母よ、御身を慕(した)い奉る我等を悪(あく)慾(よく)の危険より助け、悪魔の誘(いざな)いより守り、益々(ますます)罪、殊に大罪を憎悪(にく)ましめ給え。
而(しこう)して我等が各々(おのおの)如何なる功(いさおし)を立てて、主の御心を喜ばせ奉るべきかを、
常に示し給わん事を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返し願い奉る。

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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖母が永遠より選ばれ給うた事

2013年07月07日 | カトリックとは
二日 
聖母が永遠より選ばれ給うた事

主(しゅ)古(いにしえ)其の道の始めとして我を造(つく)り給えり。(箴言(しんげん)八。二二)

 天主御父は万物御創造(おそうぞう)の前、既にその全智(ぜんち)に依(よ)って、人類の犯(おか)す罪と結果とを知り給い、その限りなき御哀憐(おんあわれみ)から救(きゅう)霊(れい)の道をお定めになった。
それは、かしこくも最愛の御独子(おんひとりご)を救い主として罪に呪(のろ)われた地上に送り聖(たっと)き童貞女の御胎(ごたい)を借りて人の貌(かたち)とし、救わるべき者の同胞として彼等の罪を償(つぐな)わしめ給わうというのである。
されば此の救世(きゅうせい)の御計画に、極めて重大な役割を演ずる救い主の御母が、早くから予定せられたのは当然であり、亦、我等人間の考えに従えば,母は子に先立つ者であるから「主、古(いにしえ)に其の道の始めとして我(即ち聖母)を造り給えり」との御言葉(みことば)は道理に適(かな)っている。
 かようにしてユデア国の貧(まず)しき一人の少女が選ばれて天主の聖母となり諸天使、諸聖人の元后(げんこう)に立てられ、三位(さんみ)一体(いったい)の玉座の次に栄えある席を受け給う事は、永遠の昔、即ち人(じん)祖(そ)が楽園に置かれ、地上に不幸の充満(みちみ)つる前から定められたのであった。
 この感ずべき御計画を天主から示された時、麗(うるわ)しき天使達はその限りなき御慈愛(おんいつくしみ)と測(はか)り知れぬ聖慮(おぼしめし)の程を、如何に忝(かたじけ)なく思い、如何(いか)に讃(ほめ)称(たた)えた事であろう!しかし或る神学者の説によれば、数多(あまた)の天使はその時、傲慢(ごうまん)の心から人なる少女の下位に立つを快(こころよ)く思わず、反抗の思いを起こした為に、忽ち美しかりし其の姿も醜(みにく)き悪魔の形と変じ、地獄に堕(おと)されて永遠に救い主の御母の御恵に浴(よく)する事が出来なくなったという。
 我等は幸いに天主の御哀憐(おんあわれみ)に依(よ)って救いの御恵(おんめぐみ)に浴(よく)し、聖母の御寵愛(ごちょうあい)を蒙(こうむ)る事が出来る。故(ゆえ)にかの善良な天使達の如く、常に愛と忠実とを以て仕えるように努めなければならぬ。
 抑(そもそ)も全智(ぜんち)なる天主の尊前(みまえ)には過去も未来もなく、すべては現在であるから、主は我等の永遠の運命を明らかに知り給うが、我等は死後でなければ自分の永遠の運命を知る事が出来ぬ。
しかし天主は古(いにしえ)あらゆる被造物(ひぞうぶつ)の中より聖マリアを選んで特別の地位に挙げ給うた故(ゆえ)、我等がこの御母を真心(まごころ)から敬(うやま)い愛すれば、亦、特別の御恵と御保護とを賜り、悪意を以て主に背(そむ)かざる限り決して地獄に堕(お)とし給うような事はない。
 されば聖母に対する信頼と愛とは、幸福な運命を勝ち得る確実な保証と云わねばならぬ。

祈   願

 ああ、慈しみに満ち給う我が母よ、我等は御身の子となりたるを心の底より喜び奉る。
天主が御身を立てて諸天使の元后(げんこう)となし給えるは、只、御身を幸いなるものとならしめ給う為のみならず、叉、御身の大権(たいけん)をもって我等を救い給わんとの深き思し召しより出(い)でたる事なれば、何卒(なにとぞ)、御一人子の御前に、御身に縋(すが)る人々の為に祈り、現世にては愛と忠実とを保たしめ、後の世にては永遠の幸福を得せしめ給え。
 なお、我等の祈るべき人々をも同じく御身の愛子(あいし)且つ、忠実なる僕(しもべ)として、共に共に天国において三位(さんみ)一体(いったい)の天主の御前に至らしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返し願い奉る。

(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖母月の目的

2013年07月06日 | カトリックとは
聖母月の黙想2

聖 母 月 中 の 祈 祷

我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン



一 日 
聖 母 月 の 目 的

 我を得(う)る者は生命を得(う)、そは神の恵を
得(う)ればなり。 (箴言八。五五)

 懐(なつ)かしい聖母月を迎える言葉として、右の箴言(しんげん)ほど相応(ふさわ)しいものは他にあるまい。何となれば、聖母月は今更、説明するまでもなく、我等の救い主イエズス・キリストの御母、童貞聖マリアを特別に尊敬讃美(さんび)して、その御助力(おたすけ)を願う月であるが、我等の罪を贖(あがな)う為に人となって天下り給うた天主の第二位なる御子によりすがれば、如何なる人も永遠の生命を約束される如く、聖母を尊敬して其の御伝達(おんとりつぎ)を願えば、その生命を得るに必要な聖寵が、豊かに与えられるからである。
 故に我々は各自の家庭に聖母の御絵(ごえ)或は御像(ごぞう)を美しく飾り、毎日,殊に晩には必ずその御足(みあし)の許(もと)に馳(は)せ集(つど)い、その御徳を深く黙想し、力を尽くして讃美し、熱心に祈願し、尚、御母に肖(あやか)る為に些(いささ)かなりとも犠牲を献(ささ)げるように努(つと)めよう。
 祈願する一般の目的は、勿論(もちろん)、人、皆が救(きゅう)霊(れい)をえ、世に天主の光栄(こうえい)のいよいよ輝きまさる事ではあるが、その他、自分の欠点を改め徳に進む為、戴きたい恵(めぐみ)は人によって異(こと)なっていよう。
 されば我々はよく己の心を反省して、必要な所を一心に祈り求むべきである。そしてその祈るに当たって,聖母の御徳に現れた天主の光栄を讃美(さんび)し、天国の諸天使、諸聖人、及び地上に於ける全公教会信者の祈祷(いのり)に合わせるならば、益々其の御心に叶(かな)うに相違(そうい)ない。
 かようにして常に聖母の御徳を仰ぐならば、我等のマリアに対する尊敬と愛とは益々深きを加え、不束(ふつつか)な我等も次第(しだい)に感化されて、義に飢(う)え渇(かわ)く者となる事が出来よう。故(ゆえ)に我等は今月中毎日少しづつ聖母の御跡(おんあと)に倣(なら)い、天国への道を進む為に、短い黙想をして我等の救(たす)霊(かり)に深い関係のある聖母の御生涯を学ぶ事にしたい。その題材となるものは、聖母が永遠より天主に選ばれ給える事、聖母についての預言(よげん)や前表(かたどり)、聖母の現世に於ける御生活、最後に聖母が天国に於ける御栄(みさかえ)等である。
 かような黙想は我等の信仰を強め、希望を堅くし、愛熱(あいねつ)を燃(も)やすものである。従ってこの黙想に依(よ)る決心は唯(ただ)一時的に止(とど)まらず、永続する徹底的(てっていてき)なものでなければならぬ。
 かの第四誡(かい)に於(お)いて「父母を敬(うやま)うべし」と命ぜられた天主は、肉身の母を敬(うやま)う者に自然的、御祝福を約束されたが、その通(とお)り霊魂(たましい)の母、聖マリアを尊敬する者にも、必ず超自然的御恵(おめぐみ)を以て報(むく)い給うに相違(そうい)ない。
 まことに「我を得(う)る者は生命を得(う)、そは神の恵(めぐ)みを得(う)ればなり」とは真実(しんじつ)に して謬(あやま)る事のない御言葉(みことば)である。

祈   願

 ああ、敬愛し奉る元后(げんこう)よ、我等は今月中、我等の霊魂(れいこん)も肉(にく)身(しん)も全(まった)く御身に献げて仕(つか)え奉らんと決心し、なお、一般公教信者の一人も此の恵(めぐみ)に漏(も)れざらん事を切望(せつぼう)しつつ、御身を我等の頼(たの)もしき伴侶(みちづれ)、黙想のよき導(みちび)き手、御一人子イエズス・キリストの御祝福の代願者(だいがんしゃ)と選び、その御慈悲を蒙(こうむ)らんが為に、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度(みたび)繰(く)り返して祈り奉る。

(天使祝詞 三度)


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