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キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その3

2013年07月05日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は初金曜日ですね。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 今回は、「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰」と「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その2」の続きです。

 ルフェーブル大司教様と聖ピオ十世会とは、イエズス・キリストがそう創立したが故に、カトリック教会が君主制的組織であり、地上におけるキリストの代理者たる教皇のみが、普遍的教会を統治する至高権力を持つ(従って第二バチカン公会議の主張する「司教団体主義」は受け入れられない)というカトリック信仰を宣言し続け、教皇様のために祈り闘っています。そして私たちの教皇様は、今ローマにいるフランシスコ教皇様です。

 もしも、フランシスコが教皇ではなかったのなら、ではキリストの教会は可視的存在としていったいどこにあるのでしょうか? もしもフランシスコが教皇ではないのなら、この事実をいったい誰が全キリスト教世界において公式に・正式に宣言することができるのでしょうか? 全キリスト教世界は、彼を本当の教皇であると認識し続けているのが現実です。カトリック教会において、個人的な判断は、いかなる司法的な・教会法的な価値を持っていません。

 ある個人が、ヨハネ二十三世、あるいはパウロ六世、あるいはヨハネ・パウロ二世、あるいはベネディクト十六世、あるいはフランシスコを、個人として判断する権利があると主張し、全教会を前にだれそれは教皇ではないと宣言する権利があると主張した、だれそれは教皇ではないと主張したとしても、自分の主張は絶対的に確かで証明されていると言い続けたとしても、しかし、カトリック教会においてそのような主張はいかなる法的価値を持っていません。そう主張する主体が、単なる個人に過ぎないからです。

 もしも「この世に存在する本当のカトリックたち」と主張する方々が、自分の権威で「聖座が空位だ」と宣言することができると信じたとすると、この同じ人々は教会に本当の教皇を与える力と義務があると思い込むかもしれません。そうして、キリストの教会に、キリストが約束した可視性と不可崩壊性(indefectibility)とを保証しようとするかもしれません。そのような人々は、自分たちの論理と、誠実な意図をもって、教会を救おうと自らコンクラーベを開いて「教皇」を選出するかもしれません。実際に、すでに、いかなる教会法根拠もなく、選挙権もなく、自分たちの「教皇」を選んでしまった人々もいます。そのようにして選ばれた自称「教皇」たちも複数存在します。正気を失ってしまったように私たちには見えますが、これは「自分の権威で「聖座が空位だ」と宣言する権利と義務がある」と信じたその論理的結論にすぎません。何故なら、それは、自分たちにこそ、教会に本当の教皇を与える権利と義務があると思い込むことだからです。

 たとえそこまでの極端な論理的結論にいかなくとも、ローマにいる教皇が本物の教皇ではないということは、あたかも信仰箇条の一つであるかのように行動する人々もいます。ローマにいる教皇を教皇としてそのために祈ることも拒否する人々もいます。

 私たちは、ルフェーブル大司教様とともに、「教皇が教皇であるかないかを判断するのは私たちの義務でも権利でもない、もしもそれをすることがあるとするならば、ひょっとしたら将来の教皇が発言することがあるかもしれない、しかし、私たちは自分の義務をよく果たそう、つまりカトリック信仰を守るという義務を」、という態度をとり続けています。

 さて、前回は、父親から悪事を命じられた場合との類比で、教皇様が誤謬を含んでいる、あるいは/かつ悪を促進することを命じられた場合、どうすれば良いか?ということを考察しました。ところで、9年前に『マニラのeそよ風』第236号を書いていたその時は、あまりにも自明だと思ったので言及しませんでしたが、今回は、言及しなかったことを考察することを提案します。つまりそれは、「悪い父親が良いことを命令したら?」という場合です。

 「悪い父親」から、良いことを命令されたら私たちはどうしなければならないのでしょうか? ある人(ここでは仮にヨハネさんと呼ぶことにしましょう)の父親はカトリック信徒ではないのですが、カトリック信仰と道徳に合致することをするように命令した(例えば、ロザリオを唱えなさい、聖伝のミサに与りなさい、など)場合を考察しましょう。ヨハネさんは、自分の父親に対してどのような態度を取るべきでしょうか? 答えは、あまりにも明らかです。もちろん、良き命令に従う、です。

【質問1】父親がカトリック信仰と道徳に合致することを命令した場合、自分の父親に対してどのような態度を取るべきか?

 このヨハネさんのお父さんが、仮に、とても悪い父親であった、酒におぼれギャンブルにおぼれ家庭を顧みずに放蕩の父親だった、悪事をするように子供たちに命令したりすることもあった、と仮定します。そしてこの「悪い父親」が、カトリック信仰と道徳に合致することをするように命令した(例えば、勉強しなさい、悪い猥褻な雑誌を読んではいけない、ロザリオを唱えなさい、聖伝のミサに与りなさい、など)場合、私たちはどうすべきでしょうか?

(1)悪い親であろうが父親の望みは絶対である。しかし、勉強するとか、ロザリオの祈りとか聖伝のミサなどは、めんどくさいし古くさい、口だけは「はい、はい」と答えておいて、実際は行動には移したくない。「お父さん、お父さん、尊敬します」と口先では言っておこう。しかし、このような良い命令は実行しない。

(2)悪い親であろうが父親として尊敬する。もしも天主の掟に反することならそれをすることは出来ないが、幸福なことに、この命令は良い命令だ。その良い命令を受け入れて、従わうことこそが真の従順だ。

(3)酒におぼれギャンブルにおぼれ家庭を顧みずに放蕩をするのは、父親とは言えない。悪事をするように子供たちに命令するような人は、父親として認めない。彼は私の上にいかなる権威も無い。口では「父」と呼んだとしても、それは名前だけで、事実上は父親でも何でもない。彼を全く無視して行動する。彼の悪い行動の全てを非難をすることが子供として正しい態度だ。父親の地位を自ら辞任し放棄するように彼を訴えて行動すべきだ。

上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?

【質問1に対する 答え】

 正しい答えは(2)です。

 弱い人間性を纏った親は、私たちにとって天主の代理者であります。罪人である親も、天主の御摂理によって、私たちにとっては天主の代理者であるが故に、天主を愛するために、親に従順であるべきです。親の命令が天主の戒律に合致している場合には、もちろん従うべきです。

【質問2】

 ここにカトリック信者のヨハネさんがいます。彼は天主の十戒を守る男性で、特に第四戒を大切にしています。さて、彼の属する司教区の司教様は、カトリック信仰と道徳に反するようなことをするように説教したり(例えば共産主義、近代主義)、模範を示したり(例えばカトリック以外の宗教行事に参加する)、命令したり(例えば御聖体に対する崇敬の態度の禁止)するのですが、今回は、どのような理由なのかは分かりませんが、日本の全ての司教様たちと一致して日本を聖母の汚れなき御心に奉献するように積極的に働いて、平信徒たちにも聖母の汚れなき御心に自分を奉献するように勧告したり、東京都議会選挙の前には、共産党に投票してはならない、と訴えていた、とします。

 ヨハネさんは、自分の司教様のこの命令に対してどのような態度を取るべきでしょうか?

(1)悪い司教であろうと、司教様は絶対である。しかし、聖母の汚れなき御心への奉献だとか、共産党に投票してはならない、などということは古くさいことだ。口だけは「はい、はい」と答えておいて、実際は行動には移したくない。「司教様、分かりました、尊敬します」と口先では言っておこう。しかし、このような良い命令は実行しない。

(2)悪い司教様であろうと、司教様として尊敬する。もしも天主の掟に反することならそれをすることは出来ないが、幸福なことに、この命令は良い命令だ。その良い命令を受け入れて、従わうことこそが真の従順だ。

(3)天主の掟に反するような悪事を説教し行動し命令するような人は、カトリック司教として認めない。彼は私の上にいかなる権威も無い。たとえミサの中で「我らの司教、だれそれ」と名前を挙げて祈ったとしても、それは口先だけで、事実上は司教でも何でもない。彼を全く無視して行動する。彼の悪い行動の全てを非難をすることが信者として正しい態度だ。司教の地位を自ら辞任し放棄するように彼を訴えて行動すべきだ。

上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?

【質問2に対する 答え】

答えは(2)です。


【質問3】

 ここにカトリック信者のヨハネさんがいます。彼は天主の十戒を守る男性で、特に第四戒を大切にしています。さて、この教皇様は、カトリック信仰と道徳に反するようなことをするように説教したり(例えば近代主義)、模範を示したり(例えばカトリック以外の宗教行事に参加する)するのですが、今回は、どのような理由なのかは分かりませんが、「聖伝のミサは決して廃止されたことがなかった」「ルフェーブル大司教の聖別した司教たちのいわゆる "破門" など無い、撤回する。」と主張したとします。

 ヨハネさんは、教皇様のこの主張に対してどのような態度を取るべきでしょうか?

(1)どのような教皇であろうと、教皇は絶対である。しかし、聖伝のミサとか、聖ピオ十世会、などということはどうでも良いことだ。口だけは「はい、はい」と答えておいて、実際は行動には移したくない。「教皇様、分かりました、尊敬します」と口先では言っておこう。しかし、このような良い命令は実行しない。

(2)近代主義の考えに染まっている教皇様であろうと、教皇様として尊敬する。もしも天主の掟に反することならそれをすることは出来ないが、幸福なことに、この命令は良い命令だ。その良い命令を受け入れて、従わうことこそが真の従順だ。

(3)天主の掟に反するような悪事を説教し行動し命令するような人は、カトリック教皇として認めない。彼は私の上にいかなる権威も無い。たとえミサの中で「我らの教皇、だれそれ」と名前を挙げて祈ったとしても、それは口先だけで、事実上は教皇でも何でもない。彼を全く無視して行動する。彼の悪い行動の全てを非難をすることが信者として正しい態度だ。

上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?

【質問2に対する 答え】

答えは(2)です。

 最初の(1)の態度は、多くのNovus Ordoの司教様や神父様たちの態度のような感じがしますが、そのような感じについては私が間違っていることを祈ります。

 最後の(3)の態度は、たとえ口先だけでは教皇を教皇として認めている、と主張したとしても、実際上はセデヴァカンティストの態度です。教皇が存在しようがしまいが、良い発言をしようがしまいが、彼の原理は近代主義とエキュメニズムだからすべては悪い(に決まっている)、と色眼鏡を通して見る態度です。


 真ん中の(2)が、現在、フェレー司教様の下で、聖ピオ十世会が取っている態度です。この態度を取り続けるために、聖ピオ十世会は多くの苦しみがありました。

 ルフェーブル大司教様は、第二バチカン公会議で発布された神学校運営に関する規定(ratio fundamentalis)を忠実に適用させました。エコンの神学校はそれを適用させている数少ない神学校のうちの一つです。ルフェーブル大司教様は、第二バチカン公会議の文章のどれが良く、どれが間違っているかを区別することをよく知っていました。

 ルフェーブル大司教様は、アシジの集会をしたローマと交渉して、一人の司教を聖別して良いというローマの同意を得ることさえもしました。たとえアシジの集会をした当局でも、カトリック聖伝をまもる司教を聖別して良いというのは良い命令です。すでに書いたことですが、繰り返せば、ルフェーブル大司教様は「もう手遅れだ、私たちには天罰を待つしかない、天罰で現代文明が滅びることだけが解決策だ」とは言いませんでした。ルフェーブル大司教様は、ローマと交渉し、ローマの権威を認めつつも、しかし、生き残り手段として、1988年にカトリックの司教を聖別したのです。

 ルフェーブル大司教様は、「単なる一カトリック司教」として、カトリック教会の中に聖伝が戻ってくるように働きかけていたのです。ルフェーブル大司教様はローマに、聖伝に自由を与えてくれることを求めていました。もしも新規なこと、革新的なこと、ありとあらゆる「実験」が許されるのなら、聖伝にも「実験」する自由を与えてほしいと。

 聖ピオ十世会は、すでに1970年教会から公式の認可を受け、ローマの枢機卿らから賞賛の手紙を受け取っています。スイスの一司教が教会法に反してそのような権限がないにもかかわらず、聖ピオ十世会の認可を取り下げたとき、ルフェーブル大司教様はローマの教会裁判所に訴えて判決をお願いし、それが受理されたにもかかわらず、その裁判はすることをブロックされました。すべての迫害は聖伝のミサを捧げ続けていたからです。従って、この迫害は全く不法であり、聖ピオ十世会は教会法上、存在し続けています。

 ところで数年前から、ベネディクト十六世の方から自主的に、聖ピオ十世会に対して次のような要求がありました。「聖ピオ十世会は、カトリック教会のまっただ中にある、カトリック教会の正真正銘の正しい修道会である、と私は宣言したい。その宣言のために聖ピオ十世会は何らの条件を受け入れる必要が無い。そのままの聖ピオ十世会に教会法による教区を任せたい。聖ピオ十世会を無条件で属人区としたい」と。

 バチカンでは聖伝のミサを捧げている高位聖職者たちがいます。信憑性のあるそのような保守派の高位聖職者たちから、聖ピオ十世会の神学的立場に同意するということを伝えてきます。これらのバチカンの保守派高位聖職者が言うには「教皇様は、破門撤回のときと同じように、見返りに何の要求なしに【第二バチカン公会議や新しいミサを受け入れるという要求など一切無しに】聖ピオ十世会を承認するつもりだ、公式ルートからの内容は、教皇様の意向ではない、バチカンにはどんな手を使ってでも教皇の計画を潰そうという人々がいる、今後も聖ピオ十世会は、今と同じように思う存分[第二バチカン公会議への]攻撃を続けることができる、教皇は教理聖省よりも上にある、教皇様が聖ピオ十世会を守る」云々と。(これについてはすでに「私たちはどうしてカトリック教会に聖伝を復興させる手伝いができるかという試練」において詳細に書きました。)

私たちはどうしてカトリック教会に聖伝を復興させる手伝いができるかという試練(2)

アヴェ・マリア!愛する兄弟姉妹の皆様、...



 聖ピオ十世会とエクレジア・デイ委員会傘下の修道会らの違いはどこにあるかというと、今回、ローマの方から聖ピオ十世会に接近があったのに比べ、エクレジア・デイ委員会の傘下にある修道会らは、皆、自分たちの方からローマに行って聖伝のミサをすることができる修道会として公式の認可を受けるために働きかけました。そして、バチカンの反聖伝の勢力は、今まで聖ピオ十世会を中心に一つとなっていた聖伝の勢力を分断することを試み、エクレジア・デイ委員会傘下の修道会たちを作り上げることによって聖伝の分裂化を成功させました。
 もう一つの違いは、ローマが、非公式的には、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議の改革を受け入れる必要が無い、第二バチカン公会議や新しいミサを受け入れるという要求など一切無しに、聖ピオ十世会を承認したい、という要望を出してきたに比べ、エクレジア・デイ委員会傘下の修道会らには、第二バチカン公会議や新しいミサの受け入れを要求したことです。

 聖ピオ十世会の昨年の苦しみはここにありました。確かに近代主義に染まってはいるけれども、ベネディクト十六世は、正当な教皇様なのなら、もしも教皇様が聖ピオ十世会に関して正当な、良い望みを示すなら、どうしてそれを拒むことが出来るでしょうか?

 教皇様が聖ピオ十世会の活動にお墨付きを与えたい、聖ピオ十世会が現在の教会の危機からカトリック教会を救うために教皇様を助けることを教皇様が望んでいる、だから、聖ピオ十世会が第二バチカン公会議を受け入れる必要はない、この聖ピオ十世会の活動の「公認」は、聖ピオ十世会をして第二バチカン公会議を飲み込ませる罠ではない、のであれば、本当のことが本当であると宣言されることは、それ自体で善であるのですから、私たちはいったいどうしてそれに従わないことができるでしょうか?

 これについては、一年前に、記事を書いたことがあります。
【質問】「あまりに多くの失望を味わったので罠かもしれないという疑い」とはどういうことなのでしょうか?

アヴェ・マリア!愛する兄弟姉妹の皆様、 今回は御質問に答えることをお許しください。御質問については、少し私が編集しました。【質問】聖ピオ十世会の総長であるフェレー司教様...


 ベネディクト十六世は、正当な教皇様です。イエズス・キリストはベネディクト十六世の口を通して今でも語り続けることができます。だから、もしも良い望みであるのならば、それに従うべきです。結局、去年の6月には、最後の最後に、ローマは聖ピオ十世会が第二バチカン公会議とその後の改革を受け入れることを要求したので、その命令には従うことができませんでした。

 私たちは、カトリック教会がイエズス・キリストの真の唯一の教会であると信じています。にがにがしさもなく、乱暴にならず、祈り、苦しみ、試練を受け入れる。天主が私たちに送り給う全ての十字架を忍従する。教皇職に信頼すること。ペトロの後継者としてのペトロの後継者に信頼し続けます。聖ピオ十世会は、天主様から贈られる全ての十字架と苦しみを、教皇様のために、カトリック教会のために捧げます。

 願わくは、教皇様が聖伝に立ち戻りますように! 教皇様が、カトリック教会をその聖伝に立ち戻らせますように!
 聖母の汚れなき御心よ、教皇様のために祈り給え!教皇様を助け給え!教皇様を守り給え!
 聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、教皇フランシスコのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、聖ピオ十世会のために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、日本のために祈り給え!


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)



聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:天国

2013年07月05日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

三 十 一 日
天     国

(一)聖パウロは「汝らは地上に於いて旅人なり。」と申された。旅人はいずれも目的地をもっている。われらの目的地は天国である。天国こそわれらの真(まこと)の故郷(ふるさと)で、この世は、ただ旅の空の、一夜の宿のようなものにすぎない。
 旅人は常に目的地にあこがれ、寄留(きりゅう)せる人は本国を慕(した)う。われらもその如く片時(かたとき)も天国を忘れてはならない。
 真(まこと)の故郷(ふるさと)にはまだ見ぬ愛の父の天主、御母マリア、またその御子イエズス・キリストを始めとして、多くの兄弟姉妹なる天使聖人方が、われらの帰宅の日を待ち侘(わ)びていて下さる。
罪の為に呪(のろ)われたこの世に於いてさえ、自分の家へ帰れば嬉しく、親子兄弟の交(まじ)わりは楽しい。まして天国は無限(むげん)愛(あい)の天主がその愛子(あいし)に永遠の幸福を惜しみなく与えて下さる祝福の所である。どれほどに喜ばしく、どれほどに楽しいかは殆ど想像もできないのである。
聖パウロは天主の特別の御恵(おんめぐみ)によって、この世にありながら第三天まであげられたことがあった。聖人はこの体験を語って。
「天主がこれを愛し奉る人々に具(そな)え給いしこと、目もこれを見ず耳もこれをきかず、人の心にも上(あが)らざりき」と云っておられる。
 我等が天国における最大の幸福は、限りなく善に、限りなく美しい天主を目のあたりに仰ぎ奉って、永遠にこれを愛し、これに愛せられる甘美(かんび)なる楽しさである。また天国は人として正当なる望みの悉(ことごと)く満たされる所で,,真(しん)善美(ぜんび)を慕(した)い求める心はここに全く満足を得(え)る。しかもそれは一時的ではない、永久に変わることがなく失われることがないのである。
 この世の空(むな)しい快楽(かいらく)の忽(たちま)ちに過ぎ去るのと比(く)較(ら)べて、何という甚だしい違いであろう。
アシジの聖者フランシスコが臨終(りんじゅう)に際し弟子達に向かい、「我、最愛の兄弟等よ、罪における楽しみは短く,地上における苦しみは短く天国における光栄は限りなし。我等は天主に大いなる物を約せしが天主は我等に、より大いなる物を約し給えり」という言葉を遺(のこ)されたのもまことに道理(どうり)と云わなければならない。

(二)主イエズスは御弟子(みでし)達に「我に仕(つか)えるひとはまた我おる所に居らしめん」と仰せられた。主は我等に天国の席を与え、御自分の傍(かたわ)らにおかんことを切(せつ)に望(のぞ)み給うのであるまた天国における我等の母なる聖母マリアも子たる我等が首尾(しゅび)よく御側(みそば)に至るようたえず祈っていて下さる。
そして我等の兄弟なる諸聖人は我等にその美しき模範(もはん)を示し我等を励ましつつ天国への道を歩(あゆ)めと招いて下さるのである。
イエズスは最後の晩餐(ばんさん)終って後、御弟子(みでし)達に別離(わかれ)を告(つ)げ給うたとき、彼らを慰(なぐさ)めて、「我が父の家に住所(すみどころ)多し、我は至りて汝らの為に所を備(そなえ)んとす」と仰せられた。
故(ゆえ)に主は我らのためにも天のエルザレムにおいて、美しい住み家を具(そな)え置き
給うであろう。
我等は主の御期待に添(そ)い奉るためにも、艱難(かんなん)に屈(くつ)することなく勇ましく徳の道を進まければならない。
    
 永久(とこしえ)の望(のぞ)み     与えられし身は、
     世のもの忘れて、  天のみ慕(した)う。

○ 聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりて、われらすべて天国に入るを得(え)んために、
「めでたし」 三度誦(とな)えん。

     祈 願 せ ん

主イエズス・キリスト主は天国に我等の住(す)み家(か)を具(そな)へんとして昇天し給えり。
願わくは聖母の御伝達(おんとりつぎ)により、我等にも天国に至りて,諸天使、諸聖人と共に主に謁(まみ)え、主を愛し、しかして主と聖霊と共に永遠に統治(しろしめ)し給う、聖(おん)父(ちち)を讃美(さんび)する限りなき幸福を与え給わんことを。  アメン。


聖母聖月信心の終りの祈祷

聖マリアよ、我等、御身に捧げたる此の月を終らんとするに当たり、御前(みまえ)に
跪(ひざまず)き、我等が御身の子としての讃美(さんび)、感謝、祈祷(いのり)を捧げ奉る。
 我等は御身があらゆる聖寵(せいちょう)と美点(びてん)とを与えられ給いしことを、三位(さんみ)一体(いったい)なる天主に感謝し奉り、また御身が我等の為に代願(だいがん)し、我等の願いを叶(かな)わしめ、我等に慰めを与え我等に天主の聖寵(せいちょう)を求め給いしことを御身に感謝し奉る。
 愛すべき御母よ、この月の日の如く、何時(いつ)にても、何処(いづこ)にでも、御身の貧しき子なる我等をみそなわし給え。危険に臨みては御保護を、戦いに於いては御助力を、苦難に際しては忍耐を与え給え。
 罪人(つみびと)の為には改悛(かいしゅん)と赦(ゆる)し、義人(ぎじん)の為には聖徳(せいとく)の進歩を求め給え。遂に我等、総(すべ)てに最終まで耐え忍ぶ力と、善(よ)き臨終(りんじゅう)、(かん)仁(じん)なる審判(しんぱん)を求め給え、御伝達(おんとりつぎ)によりて総(すべ)ての危難(きなん)より救われ、今、御身の子として愛を以て、御身にまかせ奉りし我等総(すべ)てを、天国に於いて再び御身の御前(みまえ)に集(つど)わしめ給わん事を願い奉る。
 ここに誠心(まごころ)より「天主の御母聖マリア、罪人(つみびと)なる我等の為に今も臨終(りんじゅう)の時も祈り給え。」とさけぶ我等の中一人も滅(ほろ)びに至らざらんことを願い奉る。 
アメン。

尊(とうと)き天主の御母マリアよ           ▲ 更に祝せられ給えかし。
我等の救い主イエズス・キリストの御母よ      同じ
憐(あわ)れみの御母よ                  同じ
罪人と貧しき者の依托(よりどころ)               同じ
総(すべ)ての聖徳(せいとく)の亀鑑(かがみ)                 同じ

我が最愛の御母、支配者、代願者(だいがんしゃ),    ▲ 更に祝せられ給えかし。
 
生涯(しょうがい)殊に今月我等に賜(たまわ)りたる恩恵(おんめぐみ)の為に ▲ 我等、誠心より汝に感謝し奉る
 
我が罪悪(ざいあく)の為に受くべき地獄と、肉(にく)身(しん)、霊魂(れいこん)の
悪より、御伝達(おんとりつぎ)をもって救い給いしことを           同じ
この聖(せい)月(げつ)に祈り得たる恩恵(おんめぐみ)の為に             同じ
この聖月の中に我等に授け給いし聖寵(せいちょう)及び光明(ひかり)の為       同じ
我等に賜(たまわ)りし歓喜(よろこび)、慰(なぐ)籍(さめ)の為に              同じ
この月の中に御身の模範(もはん)が我等の心に起こしたるよき決心の為に 同じ
今月の中に我等に賜(たまわ)りたる総(すべ)てと我等の受けたる知らざる恵(めぐみ)の為に 同じ
     祈 願 せ ん

慈悲深き聖母マリアよ、我等今この聖(せい)月(げつ)を終らんとするに当たり、省(かえり)みればわれらが信心の勤行(つとめ)には足らざることのみ多く、また卑(いや)しきわれらが祈りには、聴き入れらるるに堪えざるものありき。されど御身は哀憐(あわれみ)の御母なれば、そを見そなはし給うことなく、御身の栄光(さかえ)の為に、この聖月の信心を行いたる我等の意志(こころざし)を顧(かえり)み給え。
 我等の足らざるを許し、却って慈悲深き御身に信(より)頼(たの)み御身にさけびし者の捨てられしこと、古(いにしえ)より今に至るまで世に聞こえざるを思い給え。
 願わくは我等を御身の子として、我等の意志(こころざし)、我等のうやうやしき祈りを御父に捧げ、その聴き入れられんことを請(こ)い求め給え。 アメン。

我等に深き痛悔(つうかい)と罪のゆるしを天主より請い求め給わんことを▲更に願い奉る。
生ける信仰、天主の憐(あわ)れみのかたき信頼、天主に対する燃ゆる
愛を求め給わんことを                       同じ
真実の謙遜(けんそん)、柔和(にゅうわ)、忍耐及び艱難(かんなん)に臨(のぞ)み,御身の子として主に
依(よ)り頼みを得んことを                       同じ
我等今より忠実に主に奉仕へこれを最終まで持続せんことを      同じ
御身の識(しろ)し召す我等の為に、最も益(えき)にして且つ最も必要なる
御恵を求め給わんことを                       同じ
我が両親、朋友(ほうゆう)、親族恩人等を御身の御保護の中に入れ給わんことを  同じ  
すべての罪人(つみびと)と、煉獄(れんごく)の霊魂(れいこん)を憐(あわ)れみ給わんことを          同じ

     祈 願 せ ん

ああマリアよ今も、また特に臨終(りんじゅう)の時に我を捨て給わざれ。愛すべき御母よ、わが臨終に於いては我が今月屡々(しばしば)御前に跪(ひざまず)きて、「天主の御母聖マリア、罪人なる我等のために今も臨終の時も祈り給え。」とさけびしことを記憶(おぼ)へ給え。
 ああマリアよ。願わくはここに集(つど)える我等すべてを御身の伝達(とりつぎ)によ地獄より救い、天国に於いて再び御前に会(かい)し、御身の愛と御慈悲(おじひ)とを、永遠に讃美(さんび)するを得(え)せしめ給え。アメン。

注意  なおこの終りにおいて聖母マリアの讃美歌(マグニフイカト)或は他の感謝の聖歌を歌うことが習慣となっている。



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キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その2

2013年07月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰」という記事の続きです。

 岩下壮一神父様は、当時の日本人が誤解していた考え、特にプロテスタントの人々がカトリックの教えを誤解して理解したことに基づいてなされていた批難に答えようと努めておられました。では、一般の人々が誤解していることとは何でしょうか。それは、たとえば、教皇という地位とその特権に関するカトリック信仰に関する誤解などです。(そのほかにも「免罪符」だとか、「聖母マリア様を拝んでいる」とか、などもあるでしょう。)

 よくある誤解は「教皇が朝起きてから夜寝るまで発言するすべての言葉が不可謬で誤りがない」というようなもので、これはカトリックの信仰ではありません。第一バチカン公会議によれば、信仰に関わることであっても、教皇が全世界のカトリックにそれを信じることを明確に強制しなければ、つまり信じなければカトリックではない、破門される、と信仰をドグマとしてはっきりと教えなければ、教皇がその教権・教導権を行使して私たちにそれを信仰箇条として信じ従うことを命じなければなりません。これは特別教導権の行使です。もちろん、教皇様が常にどこででも教え続けてきた同じ意味の同じことを(eodem sensu eademque sententia)、すなわちカトリック教会の聖伝をそのまま教えるのであれば、これは誤りがありません。これは通常普遍教導権の行使です。

 しかし、もしも特別教導権を行使したのでもなければ、通常普遍教導権を行使したのでもないならば、それは必ずしも不可謬とは限らない、これは、カトリック神学の古典的な教えです。何故なら、カトリックの古典的な神学は、教皇その人とその職務とを区別することを教えているからです。何故区別するかというと、教皇がかつて、発言したあるいは命令した言葉が、すべてがすべて不可謬で誤りがない、とは明らかに言えない場合が歴史上存在しているからです。この現実を説明するために、カトリック神学は教皇のペルソナとその役職とを区別しました。つまり、教皇は、自分の最高の権威に訴えて教導職を行使しない場合には、個人として誤謬を犯しうる、ということです。

 たとえば聖ペトロは、聖パウロから叱責を公にうける誤りを犯しました。聖パウロがアンティオキアに来たとき、聖パウロは面と向かってかれに反対しました。聖ペトロに非難するところがあったからです。聖ペトロはある人々がヤコボのほうから来るまでは、異邦人といっしょに食事していたのに、その人たちが来ると、退いて、割礼を受けた人々をはばかって異邦人を避けたからです。他のユダヤ人もかれにならって、いつわりの態度をとり、バルナバもそのいつわりにさそわれたほどでした。」しかし、それは悪い模範であって、全キリスト教会にそれを強要したのではありませんでした。

 だから、たとえば教皇リベリウスは、半アリウス派の文章にサインをし、さらには聖アタナジオを数回破門(この聖アタナジオの破門は教皇リベリオの次の書簡によって再度確認されています。DzS 141 Pro deifico および DzS 142 Quia sxio および DzS 143 Non doceo)ました。リベリウスの統治下全世界はアリウス派の異端に染まってしまったかのようでした(聖イェロニモの描写によると「全世界はうめき、自分がアリウス異端説に染まってしまったのを知り驚いた」)。

 ちょうどデカルトがアリストテレスのアナロジーの世界を否定して、この世界が精神と物体との二つしかないとそう思ったように、この世界にいろいろな程度があることを認めない態度があるようです。「教皇の発言はすべて無条件にキリストの意志を代表する、それがカトリック信仰だ」という態度です。教皇様が自分の発言をどのようなものとして発言したのかを考慮しないで、「教皇の発言だ、イエスかノーか、イエスということは教導権だ、イエスかノーか、教導権であるなら、従わなければならない」と十把ひとからげに論を進める態度です。

 そこから、次の二つの態度が生まれてくるように思います。
第一の態度は、第二バチカン公会議の改革を受け入れる方々の態度です。教皇の言ったことはすべて正しい、教会は不可謬だ、だから、どんなことでも従わなければならない。たとえ、過去の教えと矛盾すると思われても、そのように考えるおまえが間違っている、そのように考えるおまえは、教会の不可謬性、教皇の不可謬性を信じていないのだ。
 ところで、第二バチカン公会議とその後の改革は正当な教皇によって発布されたのだ。
 従って、第二バチカン公会議とその後の改革はすべて合法的なものとして受け入れなければならない、というものです。

 第二の態度は、セデヴァカンティストと言われる方々の態度です。これは、ノブス・オルドの態度に似ていますが、結論だけが違います。
教皇の言ったことはすべて正しい、教会は不可謬だ、だから、どんなことでも従わなければならない。
ところで、第二バチカン公会議とその後の改革は、客観的に見て過去の教えと矛盾する。
 従って、カトリック教会は不可謬であるから、過去の教えと矛盾することは間違っている。間違うことを強制する教権は、本当の教権ではない、従って教皇は本当の教皇ではない、というものです。

 私たちは、第一バチカン公会議の決議に従い、岩下壮一神父様のように考えます。つまり、キリストの御意志を代表する教導権を使う教皇様が、キリストを代表しようと意志しない時、それはもはや教導権ではなくなるが、しかし、だからといって教皇が教皇でなくなるわけではないのです。

 では、第二バチカン公会議以後、教皇様たちは、エキュメニズムなど誤謬を教え、新しいミサという有害なものを強要したのではないでしょうか? 第二バチカン公会議の新しい教えは決して信じなければならないと特別教導権を行使して信じなければならないと命じられたものではありませんでした。何故なら、第二バチカン公会議は司牧会議を目指したからです。新しい教義を決定するのではなく、現代人に合った表現を使って述べるということを意図したものだからです。教皇たちのエキュメニズムに関する実践の乱用がありましたが、そして残念なことにそれがなされてしまったのですが、しかし厳密には「許可」でした。残念なことアシジの集会を開き、コーランに接吻をした教皇様もいます。しかし、全カトリック信徒たちに向かって、キリストの代理者の名前によってこれを強要したのではありませんでした。ここに教導権の行使の程度の違いがあります。

 新しいミサについても、パウロ六世の使徒憲章のラテン語原文を見ると、新しいミサを強制したのではなく、ただ単に新しく導入されたものを使うことを許可するだけだったからです。厳密に法的に見ると、新しいミサは単なる「許可」に過ぎませんでした。これについては「新しいミサについての教会法上の観点からの考察」において考察されています。

 典礼の法におけるカトリック教会の不可謬性については、Arnaldo Xavier Da Silveira 著の “La Nouvelle Messe de Paul VI : Qu’en penser?”の161ページから211ページに詳しい論述があります。私たちはダ・シルヴェイラの結論に従い、パウロ六世が不可謬性を行使する意向がなかったと判断します。何故なら1969年11月19日の訓話で新しいミサの典礼様式はそれ自体で教義的決定ではないと言っているからです。

 厳密な意味で法的に義務ではなかったけれども、新しいミサが事実上「義務である」という状況にあったのは確かです。だからといって教会が不可謬権を行使していたとは言えません。何故なら、過去にも、典礼上の義務であったけれども撤回された例があるからです。たとえば、ピオ十二世の定義以前には、叙階式の典例法規の中に、聖具(カリスやパテナなど)に触れることによって司祭の刻印(カラクテル)が刻まれるということが記載されており、叙階を受ける者たちに聖具に触れさせることを司教に命じていました。

 従って私たちは、教皇様の発言をすべて教皇の発言として敬意を払います。しかし、その内容については、いったいどれほどの権威を込めて発言したのか、どれほどの教導権の行使をする意図があったのかを客観的に見ます。

 だからこそ、もし聖ピオ十世会がフランチスコ教皇を、あるいはベネディクト十六世を、ヨハネ・パウロ二世を、真の教皇と認めていつつも、司教団体主義や、信教の自由、また新しいミサなどを拒絶することができるのです。何故なら、これらの教皇たちは、キリストの後継者ではなくキリストの代理者であり、私たちは第一バチカン公会議に定められたとおり、目に見えるキリストの代理者の権限を知っているからです。

 これはちょうど、父親から悪事を命じられた場合と類比されえます。これについては九年前に「マニラのeそよ風」に記事を書いたことがあります。

 父親から悪事を命じられた場合との類比で、教皇様が誤謬を含んでいる、あるいは/かつ悪を促進することを命じられた場合、どうすれば良いでしょうか?

(1)教皇様は不可謬だ。教皇様が言うことは、全て真理であり、もしもそうでなかったとするならこれらからはそれが真理となる。ある教皇様がAはBだと言えばAはBとなる。そして次の教皇様がAはBではなくCだといえば、AはCとなることだ。カトリック信者は、現行の教皇様の言うことは、教皇様の言うことであるが故に、それが何であれ、それが真理であると信じなければならない。次の教皇様が別のことを言えば、新しい教皇様の言うことに従わなければならないことは言うまでもない。それがカトリック信者のあるべき態度だ。拒絶する権利などない。

(2) 教皇様の不可謬性とは、教皇様が罪や誤りを犯すことが出来ないと言うことではない。しかし、教皇様がEX CATHEDRAで(=教皇座から)宣言する時、すなわち、次の4つの条件を満たすとき、
(あ) 全キリスト信者の牧者として教師として,
(い) その最高の使徒伝来の権威によって
(う) 全教会が守るべき
(え) 信仰と道徳についての教義を決定する時
天主の助力によって、教皇様には不可謬性が与えられている。そのような特別な宣言は、信仰の遺産に含まれていた永遠不変で普遍の真理であるがゆえに、教皇様がそれを真理と確認することである。この真理は、何時どこでも真であり、真理であるが故に信じなければならない。教皇様の権威には喜んで従うが、もしも聖伝に矛盾することが命じられた場合、やむをえず、その悪い命令だけには従うことはできない。

(3)教皇様は不可謬だ。天主の掟に反するような悪事を説教し行動し命令するような人は、カトリック教皇ではなくなるし、教皇として認めない。

 上記の(1)の態度は新しいミサに従い、第二バチカン公会議の改革に従う人々の態度のようです。

(3)の態度は、教皇聖座空位主義と言われている態度です。

 私たちは、ルフェーブル大司教様とともに、上の(2)の態度をとり続けています。

 何故なら、私たちは教皇の不可謬権の範囲を第一バチカン公会議に従って理解しつづけるからです。カトリック教会が過去の歴史上、公会議によって、異端として排斥された教皇たちも少数ですが存在します。(例えば、教皇ニコラス一世は、洗礼の時に使う祈りの文について誤りを犯しました。教皇ホノリウスは誤謬が自由に広まるのを許し、第三コンスタンチノープル公会議は彼に破門を宣告しています。この破門は教皇聖レオ二世によって確証されています。教皇ヨハネ二十二世は自分の誤りを死ぬ直前に撤回しています。)しかしカトリック教会は一度も教皇を教皇ではなかったと宣言したことはありませんでした。

 ルフェーブル大司教様もいうように、もしも、異端説を唱えたことにより教皇ではなくなったとすると、その教皇によって任命された枢機卿たちは、本物の枢機卿ではないということになります。そうなれば有効に別の教皇を選ぶことができなくなってしまいます。そうなれば、もしもピオ十二世以後の教皇が教皇ではなかったとしたら、ピオ十二世以後の教皇たちが選んで創られた枢機卿たちは、正当な枢機卿ではなく、教皇を選ぶ権利を持たないことになります。するとカトリック教会には正当な教皇が得られる可能性がなくなってしまいます。(もちろん石ころからもアブラハムの子孫を創り出すことの天主にはなんでもできるし、死者を蘇らせることもできます。しかし天主の特別の奇跡に頼るなどというのは私たちの道ではありません。)
 ルフェーブル大司教様のいうとおり、教皇が存在していないということを主張する人々の考え方は、教会を抜け出すことのできない状況に追いやってしまいます。しかし教会の可視性の問題にとって、教皇の存在はあまりにも必要であり、天主は過去数十年の長きにわたって無かったでは済ますことのできないことだからです。

 カトリック教会は、indefectible (不可崩壊・不可破滅的)です。聖ピオ十世の公教要理によるとこうあります。
問178 カトリック教会が崩壊したり、破滅したりしてしまうことがあり得るでしょうか。
答 カトリック教会は迫害を受けることはありますが、決して崩壊したり、破滅したりしてしまうことはありません。約束されたように、キリストは世の終りまで教会と共においでになりますから、教会は世の終りまで存続します。

 私たちの主イエズス・キリストは、聖ペトロの上に自分の教会を建てました。ペトロの後継者が半世紀以上も存在しないこと、そしてその後継者を得る手段が天主の直接介入する奇跡以外には存在しないこと、などはカトリック教会の不可崩壊性(indefectibility)に反していると思われます。

 教皇がいなくなってしまい、教皇を選ぶ正当な枢機卿がいなくなってしまったのなら、いったい誰が私たちに将来の教皇がどこにいるかを教えてくれるのでしょうか? もはや正統な枢機卿たちが存在していないとしたら、いったいどうやって教皇を選ぶのでしょうか? 私たちはここに離教的な精神を見いだします。私たちの聖ピオ十世会はこのような考え方に入るのを絶対的に拒否します。

 私たちはローマに、ペトロの後継者に固執し続けることを望み、それと同時に、歴代の教皇たちへの忠実さ故に、第二バチカン公会議以後のリベラリズムを拒否します。

【パウロ四世の大勅令】
(3)の態度をとる人の中には、パウロ四世の1559年2月16日の大勅令クム・エクス・アポストラートゥス(Cum ex Apostolatus)を持ち出すかもしれません。これは異端者が、教皇職を含めて、教会の職務に就くことができないということを述べた勅令です。

 これについて、三点の困難な点を指摘します。

 第一には、「異端者」ということの定義です。異端者には、二種類あります。どのような名前をつけて分類するにしても、その意味するところを理解することが大切です。一つの種類は、本当の(formal)異端者です。本当の異端者とは、教会の教えていることに反対していると知りつつ敢えて異端説を主張する人のことです。第二の種類は、内容だけの(material)異端者、その気が無かった異端者、善意の異端者です。これは、教会の教えがそうであるとはよく知らずに、あるいは誤解して、異端説を信じ・主張する人のことです。たとえば、マリア様の無原罪の御孕りのドグマや教皇の不可謬性のドグマが発表されない以前、天啓の一部ではあったにもかかわらずそれを否定していた人の場合です。後者は、たとえ知らなかったとはいえ、信仰の真理を否定していたことになります。

 聖パウロがティトに「異説を立てる者は、一度か二度いましめてのち、それから遠ざかれ」と言うように、カトリック教会の教会法は私たちの主イエズス・キリストの命令に従って、異端者が本当の異端者となるためには、教会法に従った「警告」が必要です。パウロ四世の大勅令が適用されるためにも、その対象の人が、「形相的な」と言われる本当の異端者でなければなりません。第二バチカン公会議以後の教皇たちにいったい誰がその警告を出すことができるのでしょうか?

 第二には、1917年の教会法の発布によって、この大勅令は廃止されたと考えられています。何故なら、同じ教会法の第六条には、1917年の教会法において採用されなかった法は、明らかに神法である場合を除き、すべて廃止されたと見なされるとあるからです。パウロ四世の大勅令は、その一部だけが採用されたに過ぎません (can. 1888.4 および 2314.1)。しかも教皇についての場合は言及がありません。
第1888条4項:「いかなる職務であれ、その事実(異端)自体(ipso facto)により、そしてもし被告が聖職者である場合には、同法規4項により容認される暗黙の辞任によって、いかなる宣告がなくとも空位となり. . . 公式にカトリック信仰から離脱する」。

 第三に、教皇ヨハネ23世とパウロ6世の選出に有効であった教皇選出に関する法律は1945年12月8日に教皇ピオ12世(†1958)が制定したものです。それによれば「いかなる枢機卿であれ、どのような破門宣告、聖職停止、あるいはどのような種類の禁止令、または他の如何なる障害という口実あるいは理由により教皇の積極的かつ消極的選出(教皇選挙有権者と次期教皇候補)から除外され得ない。これにより私は単に上述した選出の目的のためにこのような非難を一時的に差し控える。」とあります。カトリック教会は、ピオ十二世の下で、異端者により無効に統治されるよりも、その異端者により有効に統治される方が自らにとってよりよいと判断したのです。こうやって、知らずにある無効な選出をしてしまうとか、あるいは、選出した“教皇“は真の教皇ではなかったという危険を避けたのでした。何故なら、真の教皇ではない「教皇」によって指名される司教達は各自が受け持つ司教区を統治する真の権利を持たないであろうし、彼が認める法律のどれも公教会を拘束することなく、そして特に彼によって指名される枢機卿達は将来の教皇の有効な選抜者ではないことになるからです。また、この隠れた破門制裁の事実が最終的に明るみに出るとき結果として生じる大混乱は想像を出来ないでしょう。そこで例え密かな異端者あるいは背教者であっても、もし教皇として選出されているならば、地上の普遍的教会に完全な教会法的権利をもってペトロの座に昇るであろう事を認めることにより、教会法はこの破滅的状況を予見し退避したのでした。

(続く)

 聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、教皇フランシスコのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、聖ピオ十世会のために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、日本のために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:天国に対する希望

2013年07月04日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

三  十  日
天 国 に 対 す る 希 望

(一)人間は誰しも幸福に対する激(はげ)しい憧憬(あこがれ)をもっている。ゆえに必ず自分の好(この)む所に従って、この世の愛や、富や名誉や健康などを求め,それによって幸福になろうとするのである。
 しかるに不思議にもかくの如き被造物(つくられたもの)や被(つく)造物(られたもの)の世界に関係した幸福は一時は成(な)る程、人の心に満足を与えるか知れないが、到底(とうてい)、長くは続かないのである。このようにして、人は一つを得(え)ると、その上を望(のぞ)み、それを手に入れるとまたその上を望む。それは殆ど人間の幸福への憧憬(あこがれ)に、涯(はて)しがないと思われるほどである。
 果てしがないのもむりはない、この憧憬(あこがれ)は天主が我等をして限りなき御自分の福楽を即ち天国を望(のぞ)ましめんためにお与えになったものなのである。
 われらはそれに達して始めて全く満足を得(え)る。被造物(つくられたもの)とその世界は本来が限りあるものゆえ、その性質上到底(とうてい)我等のはてしない憧憬(あこがれ)を満(み)たし得ぬのは当(あ)たり前である。また満(み)たし得(え)たとしても変わりやすいものであるから何時(なんどき)失われてしまうか分(わ)からないのである。
 我等は幸いイエズスの御教(みおし)えによって早く真(まこと)の幸福の対象を知った。未信者のように、もはや移りやすい世の幸福を求めて、いつまでもはかない巡礼の旅を続ける必要はないのである。ただ一心に天国を望(のぞ)みこれに向かって根気(こんき)よく歩(あゆ)んでゆけばよいのである。
 聖人たちはいづれもこの唯一(ゆいいつ)の目的に向かいわき目もふらず進まれた方々であった。殊にイエズス御昇天後(おしょうてんご)の聖母マリアにとっては天国は最愛の御子の在(いま)し給う所である。
島流しも同様な淋(さび)しいこの世の生活を耐(た)え忍(しの)ばれながら、どれほど聖母は永遠(えいえん)の故郷(ふるさと)の空を仰ぎ望(のぞ)まれたであろう。またどれほど、御子と共にあらん日の早く来ることを願われたであろう。

(二)実に天国に対する希望は,天主の子たる者のしるしである。これのない人はキリスト信者といわれない。叉、天国を望む心は時々起こすだけでは不充分(ふじゅうぶん)である。
この熱望(のぞみ)と憧憬(あこがれ)が徳の道を進む力(ちから)のもととなり、天国に導くのであるから、たえず望み,進むに従って益々望まなければならぬ、かくの如く天国を希望する心を起こすためには、先ず世間の物事のはかないことと、人の一生の短いことをよく覚(さと)る必要がある。そうすればこの世の物に幸福を求めるような誤謬(あやまり)も なくなるに相違ない。聖母マリアは御子(おんこ)御昇天後、肉(にく)身(しん)ではこの世に止(とど)まっていられたが、心ではもはや天国の御子の許(もと)に行っておられたという方が適当であった。
聖母の御心には天主の他に何物もなかった。世の物は彼女の目に,過ぎゆく煙のようなものであったのである。我等もこのような心の状態に達してこそ始めて本当に幸福な者ということができるのである。

○ 聖母マリアによりて、天国に対する我等の希望が益々熱烈なるものとならんため、「めでたし」 三度唱えん。

     祈 願 せ ん

 ああ天主,主の我等を造り給えるは、はかなきこの世の快楽を求めしめん為にあらず、却って永遠なる天国の幸福を与え給わんためなりき。されば願わくは、我等をして悲しき時にも、天国に対する希望を固く心に抱き、すべての艱難に打ち勝ちて主の御国に凱旋するまで、これを失わざらしめ給え。 
アメン。


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2013年07月03日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 九 日
キリストの内に隠れたる生活

(一)「汝ら、もしキリストと共に復活したならば、上の事、すなはち神の御右にキリストの座(ざ)しい給う所のことを求めよ。地上のことならで上のことをおもんばかれ。
蓋(けだ)し汝らは死したる者にして、その生命はキリストと共に神に於いて、かくれたるなり」罪を捨てこの世に死し天主の為に活(い)きんと望(のぞ)むすべての人に向かい、使徒(しと)聖パウロは、こう叫んでいられる。
 われらの生活はキリストと共に天主の内に隠(かく)れたるものでなければならぬ。
このキリストの内に隠れたる生活は被造物(ひぞうぶつ)との空(むな)しい交(まじ)わりを避(さ)けることにある。
もしどうしても人々の中にあって、かれらと共に生きかれらと共に働かなければならない場合には、少なくとも心に天主を思い、自分の仕事を天主に献げ、常にその御前(みまえ)にあることを覚(おぼ)え、すべての空(むな)しい考えを心から追い出し、自分の目をつつしみ、無用の言葉を避け短い祈祷(いのり)によって心を天主に揚(あ)げなければならぬ。
 聖母が使徒(しと)達と共に生活された時もそうであった。彼女は世間の目を遁(のが)れ、エルザレムで祈祷(いのり)と、黙想(もくそう)とに身を献(ささ)げ給うた。ただその時だけ聖母は口を
開かれたのである。

〔二〕天主との一致(いっち)を望(のぞ)む者は、ただ肉(にく)身(しん)と心とを以てばかりでなくまた霊魂(れいこん)の底においてキリストと共に隠(かく)れたる生活をせねばならぬ。
かくの如き生活を行う霊魂(れいこん)は主と一致(いっち)して新しい生命を得(え)る。しかしそれは只、最も主に忠実なる僕(しもべ)、すなはち外は五官(ごかん)の慾(よく)を制(おさ)へ、内は己の悪しき傾きを断(た)ち、たえず克己(こっき)して被造物(ひぞうぶつ)への執着(しゅうちゃく)を悉(ことごと)く捨てた人にのみ与えられるのである。
 かかる霊魂(れいこん)の内には天の浄配(じょうはい)なるイエズスがお降(くだ)りになって、霊的(れいてき)婚礼を挙(あ)げられ、云い尽くしがたい天上の喜びを与え給うのである。
 故にすべてを捨てよ、さらばすべてを見出(みいだ)すであろう。己に死せよ、世に死せよ、さらばキリストは汝において生(い)き給い、汝はキリストにおいて生き、肉身は死するとも、汝は永遠に死することがないであろう、この点についてもマリアはわれらの立派(りっぱ)な亀鑑(かがみ)である。
 聖母は己に死し、世に死して、その霊魂(れいこん)の底にはただ霊魂(れいこん)の霊魂なる天主が活(い)き給うたのである。

 ○ 聖母マリアの御伝達(おんとりつぎ)により、われらが世に死しキリストにおいて生(い)くるを得(え)んために、「めでたし」 三度唱(とな)えん。

     祈 願 せ ん

 主イエズス・キリストよ、われらは聖母マリアが世に隠(かく)れ、ただ主と共に親しく一致(いっち)して生活し給える御鑑(みかがみ)を仰ぎつつも、常に外なる物に惑(まど)わされ、地上の物に心を傾(かたむ)け、聖なる孤独(こどく)を厭(いと)うことあるを、深く悲(かな)しみ奉(たてまつ)る。
 願わくは、わが霊魂(れいこん)を導きて、すべての被造物(ひぞうぶつ)より離れ、聖なる孤独(こどく)の内に、ひたすら主を愛し、主と完全に一致して活(い)くるを得(え)せしめ給え。 アメン。


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:己を全く天主の御摂理に任せること

2013年07月02日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 八 日
己を全く天主の御摂理に任せること

(一)主イエズス・キリストは、我等にいかに祈(い)祷(の)るべきかを教えられた時。
「聖(み)旨(むね)の天に行(おこな)われんことを」と仰せられた。
また「われが天より降りしは、わが意をなさんためには非(あら)ず、われを遣(つか)わし給いし御者(おんもの)の思(おぼ)し召(め)しを果(はた)さんためなり」と仰せられたこともある。
そうして御死去の前晩(ぜんばん)には、「父よ、わが思う如くにはあらで、思(おぼ)し召(め)しのままになれかし」と三度までも祈り給うた。
 聖母マリアも常に御子キリストに倣(なら)い、ただただ天の御父の聖心(みこころ)に従(したが)うことのみを心がけられた。大天使ガブリエルが現れて天主の御母となり給う旨(むね)をお伝えしたとき、恐らくつつましいマリアの胸は、いい知れぬ不安に騒(さわ)いだことであろう。しかし一旦(いったん)それが御父の御旨(みむね)であると分(わ)かると、聖母はもはや躊躇(ちゅうちょ)し給わなかった。
「われは主の婢(つかひめ)なり。仰せの如くわれになれかし」と応(こた)えられて、直ちに天主の思(おぼ)し召(め)しに従(したが)い給うたのである。
また御子キリストが、いよいよ世の罪を贖(あがな)うため、死の途(みち)に門出(かどで)せんとして、その前晩、聖母に別れを告(つ)げられたとき、マリアはどれほど悲しみに胸を破られ給うたことであろう。
けれども私情はあくまでも耐え忍び、万事を天主に任(まか)せられたのである。
われらも主イエズス・キリストと、聖母マリアとに倣(なら)って、天主の御旨(みむね)に喜んで従うように努(つと)めなければならぬ。
そうすれば天主は慰めをも与え給うて、われらの心には云い尽くせぬ平安の溢(あふ)れるのを覚(おぼ)えるであろう、

(二)故(ゆえ)にわれらは次の二つのことを始終(しじゅう)心に留(と)めていなければならぬ。
 第一 ― いかなる時にも己を全(まった)く天主の思(おぼ)し召(め)しと御摂理(おんせつり)に任(まか)せ奉ること。これこそ天主に対する愛の絶頂(ぜっちょう)であり、完(かん)徳(とく)の極(きわ)みなのである。
 第二 ― この世に於ける吉凶(きっきょう)禍福(かふく)、生死、貧富(ひんぷ)等を未信者の如くただ運であるとは考えずに、皆、天主の我等を愛し給う聖心(みこころ)より出た摂理(せつり)であると考えること。
 いやしくも御父の許しなければ、何事も起こらないことは聖書にも出ている。しかも天主は全知(ぜんち)全善(ぜんぜん)なる御方であるから、われらに起こるを許し給うすべてのことは、一見(いっけん)不幸らしく見えても、その実われらに最もよい結果をもたらすものなのである。
これを信じよう。そして誘惑(いざない)や苦しみに逢(あ)うとき、心から「主よ、思(おぼ)し召しのままになれかし」と申し上げよう。
 何事をも天主の思(おぼ)し召(め)しに任(まか)せる人は世に最も幸福な人である。なぜならばかかる人は、常に心に平和を覚(おぼ)えるばかりか、愛(あい)深い天主の導き給うままに歩(あゆ)むので、決して天国を取り外(はず)す憂(うれ)いがないからである。

○ 聖母マリアによりて万事を天主の御旨(みむね)に委(ゆだ)ねる聖寵(せいちょう)をうけんために
「めでたし」 三度唱(とな)えん。

     祈 願 せ ん

 永久(とこしえ)に統(しろ)治(しめ)し給う全能(ぜんのう)の天主、主は御慈悲(おんじひ)を以て万事われらによきように計(はか)らい給う。
されば願わくはわれらが何事にも主の御摂理(ごせつり)を崇(あが)め、わがすべてを主に委(ゆだ)ねまつり、聖母と共に「我は主の御召使(おんめしつか)いなり、仰せの如く我になれかし」との祈祷(いのり)を以て、常に主の御(み)旨(むね)に従い得(え)る恵(めぐみ)を与え給え。 アメン。



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フェレー司教へのインタビュー 司教聖別二十五年を振り返って

2013年07月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! 聖ピオ十世会の総長フェレー司教様のインタビューの日本語訳ができあがりました。
 愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。この日本語訳を作って下さった方には感謝を申し上げます!

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*****


原文はこちら「聖ピオ十世会アメリカ管区」
あるいは
「DICI」


フェレー司教へのインタビュー──司教聖別二十五年を振り返って


※[ ]は訳者による補足


二〇一三年六月七日

以下はアンジェルス・プレスによる聖ピオ十世会総長、フェレー司教へのインタビューの内容である。

司教聖別について

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様があなたを司教聖別のための司祭の一人にお選びになったことを知った時、真っ先に思ったことは何ですか?

フェレー司教:最初に考えたのは、私よりもふさわしい人がいるはずだ、という思いでした。つまり、できることなら「この杯を取り除き給え!」です。次に思ったことは、私の同僚たち、司祭職における私の兄弟たちのために──“pro fratribus”──[お受けしよう]でした。なぜならこれは大きな十字架であることは明らかだからです。これは他者のために自らを捧げるという問題だからです。

アンジェルス誌:一九八八年六月三十日、ルフェーブル大司教様の手より司教聖別を受けた後のあなたの感情と心情を思い出せますか?

フェレー司教:自分がどう思い、感じていたか、あまり思い出せません。覚えているのは、聖別式に集った人々全員がどれほど感動していたかということです。あのときは空気に電流が流れていたとしか思えませんでした。私の生涯で経験したことがないものです。私がはっきりと覚えているのはこのことです。式典の間もその後も、非常な喜び、それ以外何もありませんでした。この喜びは圧倒的なものでした。

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様は著書「霊魂の旅路」(Spiritual Journey)の中で、ダカールの大聖堂で見たヴィジョンを描写しておられます。一九八八年の司教聖別はこのヴィジョンの実現であるかも知れないと、どのように説明できるでしょうか?


フェレー司教:驚かれると思いますが、その二つのことの間につながりがあると言うつもりはありません。事実、私は何か関連があるとは思いません。数名の司教たちを得るという手段は、[司祭職の復興という]事業そのものに直接関係しているとは思いません。この司教聖別は聖伝を生き残らせるための手段に過ぎません。これは[司祭職復興]事業の本質ではありません。司祭職復興の本質とは、イエズスの聖心に従って司祭たちを養成し、打ち立てるということです。肝心なのはこのことです。

司教なくして司祭は存在し得ない、というのは真実ですが、これは間違いなく、この司祭職復興の本質的要素ではありませんでした。司教聖別は聖伝を生き残らせるためには本質敵ですが、司祭職の本性そのもののためではありません。

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様は、司教聖別をするというご自分の決定の特別な性質を明確にしようと努められました。また、司教の裁治権を伝えようとしたのではなく、ただ[秘蹟による]司祭叙階の権能のみを伝えようとしていることを強調することで、この司教聖別を離教的行為と区別しました。ところで、これらの司教の一人を総長として選ぶことは、司教としての裁治権の要求を暗示していると異議を唱え、司教の一人が総長なることに賛成できないと述べた人も過去二十五年間の中にはいました。このような異議がいかに不正確であるかを説明し、総長の役割を果たすことは司教としての裁治権を要求するものではないと、詳しく述べていただけますか?

フェレー司教:まず初めに、ルフェーブル大司教様はなぜ司教聖別の時に、司教が総長であることを望まなかったのでしょうか? 明らかに、ローマとのやりとりをやりやすくするためです。総長が司教となったなら、総長である彼はローマの「罰」のもとにあることになったでしょう。例えば、当時はシュミットバーガー神父様が総長でしたが、総長が司教になったとしたら、ローマとの議論はより困難になっていたことでしょう。これは明らかにそのときの状況に限定されたことで、原則ではありませんでした。慎重さの問題でした。将来、司教が総長となることを直接に除外するということではありませんでした。

ですが、私たちは二種類の裁治権の区別をつけなければなりません。総長がその配下の会員たちの上に及ぼす普通の、通常の裁治権と、さらに別に、教区司教の裁治権とがあります。司教としての私たちには現時点において教区司教の裁治権はありませんが、総長としては私には別の裁治権があります。この二つは同じではありません。


ルフェーブル大司教の精神


アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様について、あなたが分かち合いたいと望む、特に貴重な思い出がおありですか?

フェレー司教: まず、大司教様の飾り気のなさと常識です。他方では、物事に対する非常な先見の明があったということです。常に超自然的でした。大司教様はいつも天主を仰ぎ見ておられました。大司教様が祈り、信仰、そして天主との一致によって導かれていたというのははっきりとした事実でした。大司教様にとって、普段の行いにおいて主と常に一致していなければならないというのは、普通のことであり当たり前のことでした。

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様の、司祭的敬虔さ、教義に関する健全性、そして革命に反対する行為という比類ない精神を、神学生たちと司祭たちにどのように教え込んでおられますか?

フェレー司教:まず初めに、ルフェーブル大司教様ご自身の話、教え、著作その他にできるだけ触れてもらうようにしています。私たちは神学生たちのために大司教様の講話のテープがあります。フランス人たちはここでは得をしています! ですが、全神学生たちがそれらに触れることができるよう翻訳作業をしています。英語ではすでに本の形で数冊がまとめられています。「彼らは聖主の王冠を奪った They Have Uncrowned Him」「司祭職の聖性 Priestly Holiness」そして「永遠のミサ The Mass of All Time」などです。

次に、大司教様ご自身が神学校において私たちにくださった手段を実現し、適用させようとしています。例えば、大司教様ご自身が準備なさった組織、授業計画、訓戒です。大司教様は神学校の成り立ちと、構成を決定しました。例を挙げますと、私たちの神学校での哲学と神学は、教会が勧めてきたように聖トマス・アクィナスの教えに基礎を置いています。教導権[に関する授業]はルフェーブル大司教様が特に熱望した授業であり、教会と社会へ啓蒙主義の原則を導入することに反対して戦った、ピオ十二世に至るまでの十九世紀の教皇たちの回勅を教えています。私たちは素晴らしい実りをもたらすこの教えに今なお従っています。


一九八八年から続く発展


アンジェルス誌:一九八八年の司教聖別式以来、聖ピオ十世会にとって良くも悪くも最も意義深い変化は何でしょうか?

フェレー司教:非常に多くの変化があるのかどうか、私にはわかりません。私たちは徐々に年をとってきています。私たちの修道会はいまだ若い修道会ですが、でも今や、一九八八年にはいなかった年配の司祭たちがいます。これは外見上の変化だと言えるかも知れません。当時、私たちには四人の司教がいましたが、今は三人です。多くの国々にはさらに多くの修道院ができました。が、これは事業の通常の発展なのであって、大きな変化ではありません。

私たちはルフェーブル大司教がくださった教えに忠実に留まっています。ここ数年間を振り返れば、ルフェーブル大司教様が一九八八年に「ローマは司教聖別後の五、六年のうちに私たちに歩み寄って来るだろう」と言われたことが事実となっています。[ルフェーブル大司教様の予感が実現するのに]ほぼ二十四、五年かかりました。しかし、機はまだ熟していないことは明らかです。つまり、ルフェーブル大司教様が教会内に起こることを期待した変化、聖伝への立ち戻りはまだありません。ですが明らかなことは、ローマ当局がその道を歩み続けるなら破壊は続くでしょうし、そしていつの日か、当局は立ち戻らなければならないのです。そのとき、彼らは私たちのもとへと再びやって来るでしょう。

その一方で、近年に起きたことを見て下さい。すなわち、古いミサは廃止されなかったという告白、一九八八年の破門の撤回、そして私たちが以前にはもっていなかった教会内での影響です! これは、言うまでもなく、公会議への批判が、聖ピオ十世会の外においても、しかもローマにおいてすら高まっており、これは比較的新しい現象です。


発展のために必要なこと


アンジェルス誌:司教聖別なくしては不可能であったはずの、過去二十五年間に起きた数々の事業と奉仕を説明していただけますか?

フェレー司教:簡単です。司教聖別からずっと、聖ピオ十世会の司教たちは一九八八年の聖別式までに叙階された司祭よりもさらに多くの司祭たちを叙階し続けています。ですから、聖ピオ十世会の事業の発展のために司教たちが必要だったことは明白です。事業の継続のため不可欠な存在です。司教なしでは聖ピオ十世会は消滅していたことでしょう。また、天主とその王国のために戦うキリストの兵士たちを作るという堅振の秘蹟の授与もあります。最後に、聖伝がその権利を取り戻すことができるよう、教会全体に及ぼしているこの影響を否定できません。

アンジェルス誌:聖ピオ十世会を批判する一部の人々は、カンポスの場合を除いて、"エクレジア・デイ" 委員会傘下の修道会は自らの司教たちを持っていないということを指摘しています。ですから彼らは、司教聖別は必要なかった、エクレジア・デイ傘下のこれらの修道会は自らの司教たちを持たなくても存在しているのだから、と異議を唱えています。過去二十五年以上に渡る聖ピオ十世会の歴史とエクレジア・デイ傘下の修道会との違いを比べることで、一九八八年のルフェーブル大司教様の的確な判断、すなわち、聖ピオ十世会の、聖ピオ十世会出身の一人の司教が必要である、単に会が生き残るためというだけでなく、会の完全な使命を保持するためにという判断を、今日、当時よりもさらに明確に論証していただけますか? 

フェレー司教:最初に言えることは、"エクレジア・デイ" 傘下の全会員の方々は、私たちが司教たちを持っていなかったら自分たちは存在していなかっただろうとよく理解している、ということです。直接、あるいは間接的に、彼らは聖ピオ十世会の命脈に依存しています。これはもう明白です。現在、エクレジア・デイの使徒職の実りは教区司教たちの善意に完全に依存しています。教区司教たちは聖伝のカトリック的生活を打ち立てるという、そういった方向への使徒職の可能性を限定することで、そのような強い真面目な望みを大幅に制限しています。エクレジア・デイの方々は第二バチカン公会議の新規なこと、世俗、そして新しいミサを[聖伝に]混ぜ込まなければなりません。これこそ、聖ピオ十世会と "エクレジア・デイ" 傘下のグループとの大変大きな違いです。一部のグループは、徐々に私たちに近づいてきていると見ています。言うまでもなく、すべてのグループではないのですが。

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様は、唯一の聖伝の司教として(カストロ・マイヤー司教様を除きます。しかし彼は自分の活動領域をご自分の教区にほぼ限定されました)、司教聖別に先立って世界中を旅することでご自身を酷使されました。その結果、ただ一人にとどまらず、四名の司教たちを聖別する道を選ばれました。過去二十五年間に数えきれないほど多くの聖伝信者たちが増え続けていますが、悲しむべきことに聖ピオ十世会の司教たちの数は今や三名に減ってしまいました。聖伝の事業を続けるために三名の司教様たちで充分でしょうか? さらなる司教様たちを聖別なさる必要があるのではないでしょうか?

フェレー司教:実際のところ、二〇〇九年からずっと、私たちは三人で働き続けている結果となっています。言うまでもなく、うまくいっています。従って三名のままで[物事が]順調にいっているのは明らかです。ですからもう一名司教を聖別する緊急性も特別の必要性もありません。

もちろん、たとえ今すぐに[司教を聖別する]必要性がないにしても、将来に関しては自らにしっかりと問わなければなりません。

私の答えは簡単です。すなわち、大司教様があのような決断するよう導かれた状況がふたたび出現したなら、そのとき、私たちは同じ手段を取ることでしょう。


正常化の最初の一歩


アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様はローマ当局と穏便な関係に達することを常に望み続けていましたが、司教聖別はローマ当局が聖ピオ十世会を敵意をもって取り扱うという側面と、迫害するという事態をもたらしました。司教様たちは、少なくとも過去十年に渡って、この敵意と迫害の解決方法を、聖ピオ十世会の使命の原則を妥協するというやり方でなく、見つけ出そうとしてきました。少なくとも今までのところ、あなた方の努力は解決に至っていません。あなた方の善意にも関わらず、努力が成功からほど遠いのはなぜだと思われますか?

フェレー司教:初めに、私たちの教会法的正常化の第一歩は、私たちではなくローマから来たのだ、ということを指摘したいと思います。私が最初に動いたのでありませんでした。私たちがあるがままでありつつ、この正常化を進めることができるような状況なのかどうか理解しようとしました。今は明らかにそうではありません。

なぜでしょうか? ローマ当局は、第二バチカン公会議のときに教会に導入された、危険で有毒な原則に依然として固執しているからです。これこそ、私たちが一緒に行くことができない理由です。

どのくらいの時間を必要とし、どれほどの苦難を耐え忍ばなければならないのか、時が来るまで私にはわかりません。十年かも知れません。もっと、あるいはそれ以下かも知れません。答えは天主のみ手の内にあります。

アンジェルス誌:あなたはローマからの、とりわけ新しい教皇様からのコンタクトを喜んで受け入れようというままでおられますか?

フェレー司教:もちろんです。喜んで受け入れますとも! カトリック教会は天主の教会です。聖霊は依然として、第二バチカン公会議後、教会内に置かれた障害物を飛び越えて働いています。聖主が物事をまっすぐに進めたいとお望みなら、そうなさいます。いつそうなるのか、天主だけがご存知です。でも私たちは怠りなく準備しておかねばなりません。完全かつ真実の解決策は、ローマ当局がふたたびその方向に動くときにのみ、もたらされるはずです。

アンジェルス誌:ローマ当局の間に聖伝への回心が起きたのか、あるいは始まっているか、決定を下すために、私たちはどんなしるしを観察できるでしょうか? 

フェレー司教:それがいつ始まるのかを口にするのは難しいですね。第一に、典礼、それからそれ以外の典礼よりもっと弱い別の分野における努力という、すぐれたしるしを、[破門撤回やスンモールム・ポンティフィクムを発布した]ベネディクト十六世において私たちは見ていました。これらのことは教皇様に対する猛反発に直面して起こりました。言うまでもなく、これは私たちが今考えていること[聖伝へのたち戻りということ]の糸口にはなりませんでした。ですが、確実に[聖伝への回心は]教会のトップから来なければなりません。

聖伝へと戻りたがっているノブス・オルドの司教たち、司祭たち、そして信者たちといった、[ヒエラルキーの]下方から来るものもいくつかはあるでしょう。小規模ながら、この動きはすでに始まっていると思います。まだ主流ではありませんが、確実な一つのしるしです。しかし深い大規模な変化は上から、教皇様から来なければなりません。さまざまな側面から由来するかも知れませんが、確実に言えることは、[聖伝への回心は]天主と聖主イエズス・キリストを教会の正当な場所、つまり中心に据えるということになるはずです。

アンジェルス誌:聖伝への回心はトップから、ローマから来るとするなら、教会全体を復興するという事業はどのようにして進展できるのでしょうか?

フェレー司教:回答するには大変難しい問いです。現時点では、物事が変化しないなら、内部の迫害と内部における大規模な戦いが起きるといえるかも知れません。何らかの変化、例えば、迫害が起こったとすると、その後教皇様が聖伝へと戻って来るなら、状況はがらりと変化するはずです。教会を正しい道に連れ戻すため、天主が付けてくださる青写真がどんなものかは、天主だけがご存知です。

アンジェルス誌:こういった聖伝への立ち戻りを早めるため、何ができるでしょうか?

フェレー司教:祈りと犠牲です! すべての人は身分上の義務に従うべきであり、マリアのけがれなき御心への信心に励み、ロザリオを祈るべきです。ロザリオについては、私は新たな十字軍を開始することを考えています。

アンジェルス誌:あなたが公会議に関して、また公会議後の教会と妥協することを計画した(あるいは計画中である)と主張する人々になんと言われますか?

フェレー司教:それは聖ピオ十世会を分裂させたがっていた人々のプロバガンダにすぎません。彼らがなぜそのような考えを持っているのかわかりません。総長が決して妥協せず、妥協するつもりもなかったことについて、総長を非難するために彼らが昨年の非常に難しい状況を利用したのは一目瞭然です。私は聖ピオ十世会を妥協させしようと意図したことは一度もありませんでした。

それにしても、自らに問いかけてみて下さい。敵でないならば、聖ピオ十世会が分裂するのを見ることは、誰にとっての益になるのでしょうか? 自分たちの弁証法で聖ピオ十世会を分断する人々は、自分たちがやっていることの理由をじっくりと考えてみるべきです。つまり、ウィリアムソン司教様とその追随者たちのことを言っています。

アンジェルス誌:過ぎ去った十年間を振り返ってみて、他のやり方で成し遂げたらよかったことがあるでしょうか?

フェレー司教:ええ、もちろんですとも。私たちは戦いの後は、いつも前よりも賢くなります。私がいつも言い続けてきたことを、さらに強調しましょう。そうする必要はないと思ったのですが。つまり、[将来の]合意協定がどんなものであれ、私たちが妥協するつもりのない「必須条件(a condition sine qua non)」が常に存在する、ということです。これ以外にありません。私たちは、今あるがままに留まります。これこそ、私たちをカトリックたらしめ、私たちがカトリックのままでありたいと望んでいる理由です。

私は確実に、連絡手段を改善するでしょうし、そして実際にすでに改善しました。情報漏洩によって身動きが取れなくなっていましたが、今は別なやり方を取っています。

アンジェルス誌:ローマとの関係を越えて、次なる二十五年間に向けて、あなたは聖ピオ十世会とカトリック教会のためにどんな望みを抱いておられますか?

フェレー司教:今後二十五年間のうちに、教会が新しく花咲き乱れるものとなるのを見ることができるよう、聖伝へ立ち戻るのを眼にするだろうということです。

アンジェルス誌:司教聖別二十五周年を讃え、記念するためのふさわしい手段として、聖職者と平信者の両方に何をお勧めになりますか?

フェレー司教:私どもの敬愛する大司教様を讃えるため、大司教様のさまざまな徳、すばらしい謙遜、清貧、慎み、信仰に倣おうと努めて下さい。さらに、私どもを導く原則を理解するために、ルフェーブル大司教様の教えを学んで下さい。つまり、聖主への、教会への、ローマへの、ミサへの、そしてマリアのけがれなき御心への愛を、です。

(出典:アンジェルス・プレス)


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2013年07月01日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 七 日
隣  人  愛

(一)キリストが、あらゆる徳に越えて其の実行を奨励(しょうれい)し給うたものに、隣人(りんじん)愛(あい)がある。われら全世界の人間はいづれも同一の天主に作られ,皆、同一の御父の子供なのであるから、機会ある毎に隣人に対して愛の心を現さなければならない。
 主イエズスは最後の晩餐(ばんさん)の時に遺言(ゆいごん)として、「汝等,相愛(あいあい)せよ」と命ぜられ、また公(こう)審判(しんぱん)の有様を予言し給うた際にも人が天国に入るか否(いな)かの判決はこの世にありし時、隣人を愛したか否かによって定められるものであると仰せられた。 
そしてその終りに、「汝らがわがこの最も小さき兄弟の一人になしたる所は事毎(ことごと)にわれになせしなり」とのたまうたのは、隣人を見ること恰(あたか)も主を見る如くにして、主を愛する心を以て隣人を愛すべきことを諭(さと)し給うたのである。
 信仰は勿論(もちろん)、救(たす)霊(かり)の土台である。しかし死んだ信仰では何の役にもたたない。活(い)かして始めて価値(ねうち)が出るのである。信仰を活(い)かすものはすなわち天主に対する愛である。そうして天主に対する愛を現す方法は,隣人を愛することなのである。
 故(ゆえ)に天主を愛することと隣人を愛することとは離すことができない。我等がもしイエズスを喜ばせ奉るつもりならば、是非(ぜひ)、隣人(りんじん)をも愛さねばならぬのである。

(二)しかし隣人愛や博愛(はくあい)といっても、ただ感情や気分の上で他人を愛するのでは足(た)りない。実際に他人(ひと)を愛する業(わざ)、即ち肉(にく)身上(しんじょう)の精神上の慈善業(じぜんぎょう)を行わなければ本当の愛とはいえぬのである。
 聖母マリアの御手本を仰(あお)ぎみよ。彼女は天使ガブリエルより、天主の御母(おんはは)となるべき御告(つ)げを受けさせ給うと間もなく、その歓喜(よろこび)を聖女エリザベトに分(わか)たんとしてはるばる危険多き旅をせられ、この親戚(しんせき)を訪れ給うたそしてその時、恰(あたか)も懐胎(かいたい)していたエリザベトを助けるために、さまざまな働きをして三月ほどもその許(もと)に止(とど)まり給うたのである。
 これいづれも、他人を己(おのれ)の如く愛し給うマリアのやさしい御心(みこころ)のあらわれに外(ほか)ならない。
けれども聖母が最(もっと)もすぐれた隣人愛の鑑(かがみ)を示し給うたのは、御子の十字架の下(もと)にただずんでいられた時であった。その時、傷(いた)ましい御子の有様に彼女の胸も苦痛(くるしみ)のため、張(は)り裂(さ)けんばかり悩(なや)まれたが、マリアは全世界の人々の救(きゅう)霊(れい)を思ってはその隣人愛のために、よく耐(た)え忍(しの)んで、最愛の御子を天主に献げ以て  救世(あがない)の大事業を完成せしめ給うたのである。
 翻(ひるがえ)って、われらの隣人愛を見るならばどうであろうか?われらは果たして親子、兄弟,親戚などを十分に愛しているだろうか?己の利益にならぬとて、彼等の老(お)い或は病(や)みたる時、之を粗末にし或は看護(かんご)せぬようなことがないか?
もしあればこれこそ最も隣人愛に背(そむ)くことである。
隣人(りんじん)愛(あい)にはすべて犠牲(ぎせい)が伴(ともな)う。博愛(はくあい)を口にしつつ、利己(りこ)主義(しゅぎ)から脱(のが)れえぬのは大きい矛(む)盾(じゅん)といわなければならない。われらはこのことをよく心にとめて、人を愛するために何事をか忍(しの)ぶよき習慣(しゅうかん)を養(やしな)うようにしよう。

○ 聖母の御伝達(おとりつぎ)によりて我等の心に隣人(りんじん)愛(あい)を増(ま)さんため「めでたし」
三度誦(とな)へん。

     祈 願 せ ん

 イエズス・キリスト主は原罪(げんざい)によりて悪魔(あくま)の奴隷(どれい)となりし我等を、新(あら)たに天主の子とならしめんため、人と生まれ,かたじけなくもわれらの兄弟となり給えり。
 されば願わくはわれらにも、あらゆる人を兄弟として、言葉よりも行為(おこない)に
より、真実(しんじつ)の心を以て互いに愛し互いに祈り、互いに親切を尽くし相(あい)共に天国に至りて主の御前(みまえ)に一家の如く和合(わごう)する御恵(おんめぐみ)を与(あた)え給え。聖母マリアの御伝達(おんとりつぎ)によりて。 アメン。


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