アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は初金曜日ですね。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?
今回は、「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰」と「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その2」の続きです。
ルフェーブル大司教様と聖ピオ十世会とは、イエズス・キリストがそう創立したが故に、カトリック教会が君主制的組織であり、地上におけるキリストの代理者たる教皇のみが、普遍的教会を統治する至高権力を持つ(従って第二バチカン公会議の主張する「司教団体主義」は受け入れられない)というカトリック信仰を宣言し続け、教皇様のために祈り闘っています。そして私たちの教皇様は、今ローマにいるフランシスコ教皇様です。
もしも、フランシスコが教皇ではなかったのなら、ではキリストの教会は可視的存在としていったいどこにあるのでしょうか? もしもフランシスコが教皇ではないのなら、この事実をいったい誰が全キリスト教世界において公式に・正式に宣言することができるのでしょうか? 全キリスト教世界は、彼を本当の教皇であると認識し続けているのが現実です。カトリック教会において、個人的な判断は、いかなる司法的な・教会法的な価値を持っていません。
ある個人が、ヨハネ二十三世、あるいはパウロ六世、あるいはヨハネ・パウロ二世、あるいはベネディクト十六世、あるいはフランシスコを、個人として判断する権利があると主張し、全教会を前にだれそれは教皇ではないと宣言する権利があると主張した、だれそれは教皇ではないと主張したとしても、自分の主張は絶対的に確かで証明されていると言い続けたとしても、しかし、カトリック教会においてそのような主張はいかなる法的価値を持っていません。そう主張する主体が、単なる個人に過ぎないからです。
もしも「この世に存在する本当のカトリックたち」と主張する方々が、自分の権威で「聖座が空位だ」と宣言することができると信じたとすると、この同じ人々は教会に本当の教皇を与える力と義務があると思い込むかもしれません。そうして、キリストの教会に、キリストが約束した可視性と不可崩壊性(indefectibility)とを保証しようとするかもしれません。そのような人々は、自分たちの論理と、誠実な意図をもって、教会を救おうと自らコンクラーベを開いて「教皇」を選出するかもしれません。実際に、すでに、いかなる教会法根拠もなく、選挙権もなく、自分たちの「教皇」を選んでしまった人々もいます。そのようにして選ばれた自称「教皇」たちも複数存在します。正気を失ってしまったように私たちには見えますが、これは「自分の権威で「聖座が空位だ」と宣言する権利と義務がある」と信じたその論理的結論にすぎません。何故なら、それは、自分たちにこそ、教会に本当の教皇を与える権利と義務があると思い込むことだからです。
たとえそこまでの極端な論理的結論にいかなくとも、ローマにいる教皇が本物の教皇ではないということは、あたかも信仰箇条の一つであるかのように行動する人々もいます。ローマにいる教皇を教皇としてそのために祈ることも拒否する人々もいます。
私たちは、ルフェーブル大司教様とともに、「教皇が教皇であるかないかを判断するのは私たちの義務でも権利でもない、もしもそれをすることがあるとするならば、ひょっとしたら将来の教皇が発言することがあるかもしれない、しかし、私たちは自分の義務をよく果たそう、つまりカトリック信仰を守るという義務を」、という態度をとり続けています。
さて、前回は、父親から悪事を命じられた場合との類比で、教皇様が誤謬を含んでいる、あるいは/かつ悪を促進することを命じられた場合、どうすれば良いか?ということを考察しました。ところで、9年前に『マニラのeそよ風』第236号を書いていたその時は、あまりにも自明だと思ったので言及しませんでしたが、今回は、言及しなかったことを考察することを提案します。つまりそれは、「悪い父親が良いことを命令したら?」という場合です。
「悪い父親」から、良いことを命令されたら私たちはどうしなければならないのでしょうか? ある人(ここでは仮にヨハネさんと呼ぶことにしましょう)の父親はカトリック信徒ではないのですが、カトリック信仰と道徳に合致することをするように命令した(例えば、ロザリオを唱えなさい、聖伝のミサに与りなさい、など)場合を考察しましょう。ヨハネさんは、自分の父親に対してどのような態度を取るべきでしょうか? 答えは、あまりにも明らかです。もちろん、良き命令に従う、です。
【質問1】父親がカトリック信仰と道徳に合致することを命令した場合、自分の父親に対してどのような態度を取るべきか?
このヨハネさんのお父さんが、仮に、とても悪い父親であった、酒におぼれギャンブルにおぼれ家庭を顧みずに放蕩の父親だった、悪事をするように子供たちに命令したりすることもあった、と仮定します。そしてこの「悪い父親」が、カトリック信仰と道徳に合致することをするように命令した(例えば、勉強しなさい、悪い猥褻な雑誌を読んではいけない、ロザリオを唱えなさい、聖伝のミサに与りなさい、など)場合、私たちはどうすべきでしょうか?
(1)悪い親であろうが父親の望みは絶対である。しかし、勉強するとか、ロザリオの祈りとか聖伝のミサなどは、めんどくさいし古くさい、口だけは「はい、はい」と答えておいて、実際は行動には移したくない。「お父さん、お父さん、尊敬します」と口先では言っておこう。しかし、このような良い命令は実行しない。
(2)悪い親であろうが父親として尊敬する。もしも天主の掟に反することならそれをすることは出来ないが、幸福なことに、この命令は良い命令だ。その良い命令を受け入れて、従わうことこそが真の従順だ。
(3)酒におぼれギャンブルにおぼれ家庭を顧みずに放蕩をするのは、父親とは言えない。悪事をするように子供たちに命令するような人は、父親として認めない。彼は私の上にいかなる権威も無い。口では「父」と呼んだとしても、それは名前だけで、事実上は父親でも何でもない。彼を全く無視して行動する。彼の悪い行動の全てを非難をすることが子供として正しい態度だ。父親の地位を自ら辞任し放棄するように彼を訴えて行動すべきだ。
上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?
【質問1に対する 答え】
正しい答えは(2)です。
弱い人間性を纏った親は、私たちにとって天主の代理者であります。罪人である親も、天主の御摂理によって、私たちにとっては天主の代理者であるが故に、天主を愛するために、親に従順であるべきです。親の命令が天主の戒律に合致している場合には、もちろん従うべきです。
【質問2】
ここにカトリック信者のヨハネさんがいます。彼は天主の十戒を守る男性で、特に第四戒を大切にしています。さて、彼の属する司教区の司教様は、カトリック信仰と道徳に反するようなことをするように説教したり(例えば共産主義、近代主義)、模範を示したり(例えばカトリック以外の宗教行事に参加する)、命令したり(例えば御聖体に対する崇敬の態度の禁止)するのですが、今回は、どのような理由なのかは分かりませんが、日本の全ての司教様たちと一致して日本を聖母の汚れなき御心に奉献するように積極的に働いて、平信徒たちにも聖母の汚れなき御心に自分を奉献するように勧告したり、東京都議会選挙の前には、共産党に投票してはならない、と訴えていた、とします。
ヨハネさんは、自分の司教様のこの命令に対してどのような態度を取るべきでしょうか?
(1)悪い司教であろうと、司教様は絶対である。しかし、聖母の汚れなき御心への奉献だとか、共産党に投票してはならない、などということは古くさいことだ。口だけは「はい、はい」と答えておいて、実際は行動には移したくない。「司教様、分かりました、尊敬します」と口先では言っておこう。しかし、このような良い命令は実行しない。
(2)悪い司教様であろうと、司教様として尊敬する。もしも天主の掟に反することならそれをすることは出来ないが、幸福なことに、この命令は良い命令だ。その良い命令を受け入れて、従わうことこそが真の従順だ。
(3)天主の掟に反するような悪事を説教し行動し命令するような人は、カトリック司教として認めない。彼は私の上にいかなる権威も無い。たとえミサの中で「我らの司教、だれそれ」と名前を挙げて祈ったとしても、それは口先だけで、事実上は司教でも何でもない。彼を全く無視して行動する。彼の悪い行動の全てを非難をすることが信者として正しい態度だ。司教の地位を自ら辞任し放棄するように彼を訴えて行動すべきだ。
上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?
【質問2に対する 答え】
答えは(2)です。
【質問3】
ここにカトリック信者のヨハネさんがいます。彼は天主の十戒を守る男性で、特に第四戒を大切にしています。さて、この教皇様は、カトリック信仰と道徳に反するようなことをするように説教したり(例えば近代主義)、模範を示したり(例えばカトリック以外の宗教行事に参加する)するのですが、今回は、どのような理由なのかは分かりませんが、「聖伝のミサは決して廃止されたことがなかった」「ルフェーブル大司教の聖別した司教たちのいわゆる "破門" など無い、撤回する。」と主張したとします。
ヨハネさんは、教皇様のこの主張に対してどのような態度を取るべきでしょうか?
(1)どのような教皇であろうと、教皇は絶対である。しかし、聖伝のミサとか、聖ピオ十世会、などということはどうでも良いことだ。口だけは「はい、はい」と答えておいて、実際は行動には移したくない。「教皇様、分かりました、尊敬します」と口先では言っておこう。しかし、このような良い命令は実行しない。
(2)近代主義の考えに染まっている教皇様であろうと、教皇様として尊敬する。もしも天主の掟に反することならそれをすることは出来ないが、幸福なことに、この命令は良い命令だ。その良い命令を受け入れて、従わうことこそが真の従順だ。
(3)天主の掟に反するような悪事を説教し行動し命令するような人は、カトリック教皇として認めない。彼は私の上にいかなる権威も無い。たとえミサの中で「我らの教皇、だれそれ」と名前を挙げて祈ったとしても、それは口先だけで、事実上は教皇でも何でもない。彼を全く無視して行動する。彼の悪い行動の全てを非難をすることが信者として正しい態度だ。
上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?
【質問2に対する 答え】
答えは(2)です。
最初の(1)の態度は、多くのNovus Ordoの司教様や神父様たちの態度のような感じがしますが、そのような感じについては私が間違っていることを祈ります。
最後の(3)の態度は、たとえ口先だけでは教皇を教皇として認めている、と主張したとしても、実際上はセデヴァカンティストの態度です。教皇が存在しようがしまいが、良い発言をしようがしまいが、彼の原理は近代主義とエキュメニズムだからすべては悪い(に決まっている)、と色眼鏡を通して見る態度です。
真ん中の(2)が、現在、フェレー司教様の下で、聖ピオ十世会が取っている態度です。この態度を取り続けるために、聖ピオ十世会は多くの苦しみがありました。
ルフェーブル大司教様は、第二バチカン公会議で発布された神学校運営に関する規定(ratio fundamentalis)を忠実に適用させました。エコンの神学校はそれを適用させている数少ない神学校のうちの一つです。ルフェーブル大司教様は、第二バチカン公会議の文章のどれが良く、どれが間違っているかを区別することをよく知っていました。
ルフェーブル大司教様は、アシジの集会をしたローマと交渉して、一人の司教を聖別して良いというローマの同意を得ることさえもしました。たとえアシジの集会をした当局でも、カトリック聖伝をまもる司教を聖別して良いというのは良い命令です。すでに書いたことですが、繰り返せば、ルフェーブル大司教様は「もう手遅れだ、私たちには天罰を待つしかない、天罰で現代文明が滅びることだけが解決策だ」とは言いませんでした。ルフェーブル大司教様は、ローマと交渉し、ローマの権威を認めつつも、しかし、生き残り手段として、1988年にカトリックの司教を聖別したのです。
ルフェーブル大司教様は、「単なる一カトリック司教」として、カトリック教会の中に聖伝が戻ってくるように働きかけていたのです。ルフェーブル大司教様はローマに、聖伝に自由を与えてくれることを求めていました。もしも新規なこと、革新的なこと、ありとあらゆる「実験」が許されるのなら、聖伝にも「実験」する自由を与えてほしいと。
聖ピオ十世会は、すでに1970年教会から公式の認可を受け、ローマの枢機卿らから賞賛の手紙を受け取っています。スイスの一司教が教会法に反してそのような権限がないにもかかわらず、聖ピオ十世会の認可を取り下げたとき、ルフェーブル大司教様はローマの教会裁判所に訴えて判決をお願いし、それが受理されたにもかかわらず、その裁判はすることをブロックされました。すべての迫害は聖伝のミサを捧げ続けていたからです。従って、この迫害は全く不法であり、聖ピオ十世会は教会法上、存在し続けています。
ところで数年前から、ベネディクト十六世の方から自主的に、聖ピオ十世会に対して次のような要求がありました。「聖ピオ十世会は、カトリック教会のまっただ中にある、カトリック教会の正真正銘の正しい修道会である、と私は宣言したい。その宣言のために聖ピオ十世会は何らの条件を受け入れる必要が無い。そのままの聖ピオ十世会に教会法による教区を任せたい。聖ピオ十世会を無条件で属人区としたい」と。
バチカンでは聖伝のミサを捧げている高位聖職者たちがいます。信憑性のあるそのような保守派の高位聖職者たちから、聖ピオ十世会の神学的立場に同意するということを伝えてきます。これらのバチカンの保守派高位聖職者が言うには「教皇様は、破門撤回のときと同じように、見返りに何の要求なしに【第二バチカン公会議や新しいミサを受け入れるという要求など一切無しに】聖ピオ十世会を承認するつもりだ、公式ルートからの内容は、教皇様の意向ではない、バチカンにはどんな手を使ってでも教皇の計画を潰そうという人々がいる、今後も聖ピオ十世会は、今と同じように思う存分[第二バチカン公会議への]攻撃を続けることができる、教皇は教理聖省よりも上にある、教皇様が聖ピオ十世会を守る」云々と。(これについてはすでに「私たちはどうしてカトリック教会に聖伝を復興させる手伝いができるかという試練」において詳細に書きました。)
聖ピオ十世会とエクレジア・デイ委員会傘下の修道会らの違いはどこにあるかというと、今回、ローマの方から聖ピオ十世会に接近があったのに比べ、エクレジア・デイ委員会の傘下にある修道会らは、皆、自分たちの方からローマに行って聖伝のミサをすることができる修道会として公式の認可を受けるために働きかけました。そして、バチカンの反聖伝の勢力は、今まで聖ピオ十世会を中心に一つとなっていた聖伝の勢力を分断することを試み、エクレジア・デイ委員会傘下の修道会たちを作り上げることによって聖伝の分裂化を成功させました。
もう一つの違いは、ローマが、非公式的には、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議の改革を受け入れる必要が無い、第二バチカン公会議や新しいミサを受け入れるという要求など一切無しに、聖ピオ十世会を承認したい、という要望を出してきたに比べ、エクレジア・デイ委員会傘下の修道会らには、第二バチカン公会議や新しいミサの受け入れを要求したことです。
聖ピオ十世会の昨年の苦しみはここにありました。確かに近代主義に染まってはいるけれども、ベネディクト十六世は、正当な教皇様なのなら、もしも教皇様が聖ピオ十世会に関して正当な、良い望みを示すなら、どうしてそれを拒むことが出来るでしょうか?
教皇様が聖ピオ十世会の活動にお墨付きを与えたい、聖ピオ十世会が現在の教会の危機からカトリック教会を救うために教皇様を助けることを教皇様が望んでいる、だから、聖ピオ十世会が第二バチカン公会議を受け入れる必要はない、この聖ピオ十世会の活動の「公認」は、聖ピオ十世会をして第二バチカン公会議を飲み込ませる罠ではない、のであれば、本当のことが本当であると宣言されることは、それ自体で善であるのですから、私たちはいったいどうしてそれに従わないことができるでしょうか?
これについては、一年前に、記事を書いたことがあります。
ベネディクト十六世は、正当な教皇様です。イエズス・キリストはベネディクト十六世の口を通して今でも語り続けることができます。だから、もしも良い望みであるのならば、それに従うべきです。結局、去年の6月には、最後の最後に、ローマは聖ピオ十世会が第二バチカン公会議とその後の改革を受け入れることを要求したので、その命令には従うことができませんでした。
私たちは、カトリック教会がイエズス・キリストの真の唯一の教会であると信じています。にがにがしさもなく、乱暴にならず、祈り、苦しみ、試練を受け入れる。天主が私たちに送り給う全ての十字架を忍従する。教皇職に信頼すること。ペトロの後継者としてのペトロの後継者に信頼し続けます。聖ピオ十世会は、天主様から贈られる全ての十字架と苦しみを、教皇様のために、カトリック教会のために捧げます。
願わくは、教皇様が聖伝に立ち戻りますように! 教皇様が、カトリック教会をその聖伝に立ち戻らせますように!
聖母の汚れなき御心よ、教皇様のために祈り給え!教皇様を助け給え!教皇様を守り給え!
聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
聖ペトロとパウロ、教皇フランシスコのために祈り給え!
聖ペトロとパウロ、聖ピオ十世会のために祈り給え!
聖ペトロとパウロ、日本のために祈り給え!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は初金曜日ですね。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?
今回は、「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰」と「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その2」の続きです。
ルフェーブル大司教様と聖ピオ十世会とは、イエズス・キリストがそう創立したが故に、カトリック教会が君主制的組織であり、地上におけるキリストの代理者たる教皇のみが、普遍的教会を統治する至高権力を持つ(従って第二バチカン公会議の主張する「司教団体主義」は受け入れられない)というカトリック信仰を宣言し続け、教皇様のために祈り闘っています。そして私たちの教皇様は、今ローマにいるフランシスコ教皇様です。
もしも、フランシスコが教皇ではなかったのなら、ではキリストの教会は可視的存在としていったいどこにあるのでしょうか? もしもフランシスコが教皇ではないのなら、この事実をいったい誰が全キリスト教世界において公式に・正式に宣言することができるのでしょうか? 全キリスト教世界は、彼を本当の教皇であると認識し続けているのが現実です。カトリック教会において、個人的な判断は、いかなる司法的な・教会法的な価値を持っていません。
ある個人が、ヨハネ二十三世、あるいはパウロ六世、あるいはヨハネ・パウロ二世、あるいはベネディクト十六世、あるいはフランシスコを、個人として判断する権利があると主張し、全教会を前にだれそれは教皇ではないと宣言する権利があると主張した、だれそれは教皇ではないと主張したとしても、自分の主張は絶対的に確かで証明されていると言い続けたとしても、しかし、カトリック教会においてそのような主張はいかなる法的価値を持っていません。そう主張する主体が、単なる個人に過ぎないからです。
もしも「この世に存在する本当のカトリックたち」と主張する方々が、自分の権威で「聖座が空位だ」と宣言することができると信じたとすると、この同じ人々は教会に本当の教皇を与える力と義務があると思い込むかもしれません。そうして、キリストの教会に、キリストが約束した可視性と不可崩壊性(indefectibility)とを保証しようとするかもしれません。そのような人々は、自分たちの論理と、誠実な意図をもって、教会を救おうと自らコンクラーベを開いて「教皇」を選出するかもしれません。実際に、すでに、いかなる教会法根拠もなく、選挙権もなく、自分たちの「教皇」を選んでしまった人々もいます。そのようにして選ばれた自称「教皇」たちも複数存在します。正気を失ってしまったように私たちには見えますが、これは「自分の権威で「聖座が空位だ」と宣言する権利と義務がある」と信じたその論理的結論にすぎません。何故なら、それは、自分たちにこそ、教会に本当の教皇を与える権利と義務があると思い込むことだからです。
たとえそこまでの極端な論理的結論にいかなくとも、ローマにいる教皇が本物の教皇ではないということは、あたかも信仰箇条の一つであるかのように行動する人々もいます。ローマにいる教皇を教皇としてそのために祈ることも拒否する人々もいます。
私たちは、ルフェーブル大司教様とともに、「教皇が教皇であるかないかを判断するのは私たちの義務でも権利でもない、もしもそれをすることがあるとするならば、ひょっとしたら将来の教皇が発言することがあるかもしれない、しかし、私たちは自分の義務をよく果たそう、つまりカトリック信仰を守るという義務を」、という態度をとり続けています。
さて、前回は、父親から悪事を命じられた場合との類比で、教皇様が誤謬を含んでいる、あるいは/かつ悪を促進することを命じられた場合、どうすれば良いか?ということを考察しました。ところで、9年前に『マニラのeそよ風』第236号を書いていたその時は、あまりにも自明だと思ったので言及しませんでしたが、今回は、言及しなかったことを考察することを提案します。つまりそれは、「悪い父親が良いことを命令したら?」という場合です。
「悪い父親」から、良いことを命令されたら私たちはどうしなければならないのでしょうか? ある人(ここでは仮にヨハネさんと呼ぶことにしましょう)の父親はカトリック信徒ではないのですが、カトリック信仰と道徳に合致することをするように命令した(例えば、ロザリオを唱えなさい、聖伝のミサに与りなさい、など)場合を考察しましょう。ヨハネさんは、自分の父親に対してどのような態度を取るべきでしょうか? 答えは、あまりにも明らかです。もちろん、良き命令に従う、です。
【質問1】父親がカトリック信仰と道徳に合致することを命令した場合、自分の父親に対してどのような態度を取るべきか?
このヨハネさんのお父さんが、仮に、とても悪い父親であった、酒におぼれギャンブルにおぼれ家庭を顧みずに放蕩の父親だった、悪事をするように子供たちに命令したりすることもあった、と仮定します。そしてこの「悪い父親」が、カトリック信仰と道徳に合致することをするように命令した(例えば、勉強しなさい、悪い猥褻な雑誌を読んではいけない、ロザリオを唱えなさい、聖伝のミサに与りなさい、など)場合、私たちはどうすべきでしょうか?
(1)悪い親であろうが父親の望みは絶対である。しかし、勉強するとか、ロザリオの祈りとか聖伝のミサなどは、めんどくさいし古くさい、口だけは「はい、はい」と答えておいて、実際は行動には移したくない。「お父さん、お父さん、尊敬します」と口先では言っておこう。しかし、このような良い命令は実行しない。
(2)悪い親であろうが父親として尊敬する。もしも天主の掟に反することならそれをすることは出来ないが、幸福なことに、この命令は良い命令だ。その良い命令を受け入れて、従わうことこそが真の従順だ。
(3)酒におぼれギャンブルにおぼれ家庭を顧みずに放蕩をするのは、父親とは言えない。悪事をするように子供たちに命令するような人は、父親として認めない。彼は私の上にいかなる権威も無い。口では「父」と呼んだとしても、それは名前だけで、事実上は父親でも何でもない。彼を全く無視して行動する。彼の悪い行動の全てを非難をすることが子供として正しい態度だ。父親の地位を自ら辞任し放棄するように彼を訴えて行動すべきだ。
上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?
【質問1に対する 答え】
正しい答えは(2)です。
弱い人間性を纏った親は、私たちにとって天主の代理者であります。罪人である親も、天主の御摂理によって、私たちにとっては天主の代理者であるが故に、天主を愛するために、親に従順であるべきです。親の命令が天主の戒律に合致している場合には、もちろん従うべきです。
【質問2】
ここにカトリック信者のヨハネさんがいます。彼は天主の十戒を守る男性で、特に第四戒を大切にしています。さて、彼の属する司教区の司教様は、カトリック信仰と道徳に反するようなことをするように説教したり(例えば共産主義、近代主義)、模範を示したり(例えばカトリック以外の宗教行事に参加する)、命令したり(例えば御聖体に対する崇敬の態度の禁止)するのですが、今回は、どのような理由なのかは分かりませんが、日本の全ての司教様たちと一致して日本を聖母の汚れなき御心に奉献するように積極的に働いて、平信徒たちにも聖母の汚れなき御心に自分を奉献するように勧告したり、東京都議会選挙の前には、共産党に投票してはならない、と訴えていた、とします。
ヨハネさんは、自分の司教様のこの命令に対してどのような態度を取るべきでしょうか?
(1)悪い司教であろうと、司教様は絶対である。しかし、聖母の汚れなき御心への奉献だとか、共産党に投票してはならない、などということは古くさいことだ。口だけは「はい、はい」と答えておいて、実際は行動には移したくない。「司教様、分かりました、尊敬します」と口先では言っておこう。しかし、このような良い命令は実行しない。
(2)悪い司教様であろうと、司教様として尊敬する。もしも天主の掟に反することならそれをすることは出来ないが、幸福なことに、この命令は良い命令だ。その良い命令を受け入れて、従わうことこそが真の従順だ。
(3)天主の掟に反するような悪事を説教し行動し命令するような人は、カトリック司教として認めない。彼は私の上にいかなる権威も無い。たとえミサの中で「我らの司教、だれそれ」と名前を挙げて祈ったとしても、それは口先だけで、事実上は司教でも何でもない。彼を全く無視して行動する。彼の悪い行動の全てを非難をすることが信者として正しい態度だ。司教の地位を自ら辞任し放棄するように彼を訴えて行動すべきだ。
上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?
【質問2に対する 答え】
答えは(2)です。
【質問3】
ここにカトリック信者のヨハネさんがいます。彼は天主の十戒を守る男性で、特に第四戒を大切にしています。さて、この教皇様は、カトリック信仰と道徳に反するようなことをするように説教したり(例えば近代主義)、模範を示したり(例えばカトリック以外の宗教行事に参加する)するのですが、今回は、どのような理由なのかは分かりませんが、「聖伝のミサは決して廃止されたことがなかった」「ルフェーブル大司教の聖別した司教たちのいわゆる "破門" など無い、撤回する。」と主張したとします。
ヨハネさんは、教皇様のこの主張に対してどのような態度を取るべきでしょうか?
(1)どのような教皇であろうと、教皇は絶対である。しかし、聖伝のミサとか、聖ピオ十世会、などということはどうでも良いことだ。口だけは「はい、はい」と答えておいて、実際は行動には移したくない。「教皇様、分かりました、尊敬します」と口先では言っておこう。しかし、このような良い命令は実行しない。
(2)近代主義の考えに染まっている教皇様であろうと、教皇様として尊敬する。もしも天主の掟に反することならそれをすることは出来ないが、幸福なことに、この命令は良い命令だ。その良い命令を受け入れて、従わうことこそが真の従順だ。
(3)天主の掟に反するような悪事を説教し行動し命令するような人は、カトリック教皇として認めない。彼は私の上にいかなる権威も無い。たとえミサの中で「我らの教皇、だれそれ」と名前を挙げて祈ったとしても、それは口先だけで、事実上は教皇でも何でもない。彼を全く無視して行動する。彼の悪い行動の全てを非難をすることが信者として正しい態度だ。
上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?
【質問2に対する 答え】
答えは(2)です。
最初の(1)の態度は、多くのNovus Ordoの司教様や神父様たちの態度のような感じがしますが、そのような感じについては私が間違っていることを祈ります。
最後の(3)の態度は、たとえ口先だけでは教皇を教皇として認めている、と主張したとしても、実際上はセデヴァカンティストの態度です。教皇が存在しようがしまいが、良い発言をしようがしまいが、彼の原理は近代主義とエキュメニズムだからすべては悪い(に決まっている)、と色眼鏡を通して見る態度です。
真ん中の(2)が、現在、フェレー司教様の下で、聖ピオ十世会が取っている態度です。この態度を取り続けるために、聖ピオ十世会は多くの苦しみがありました。
ルフェーブル大司教様は、第二バチカン公会議で発布された神学校運営に関する規定(ratio fundamentalis)を忠実に適用させました。エコンの神学校はそれを適用させている数少ない神学校のうちの一つです。ルフェーブル大司教様は、第二バチカン公会議の文章のどれが良く、どれが間違っているかを区別することをよく知っていました。
ルフェーブル大司教様は、アシジの集会をしたローマと交渉して、一人の司教を聖別して良いというローマの同意を得ることさえもしました。たとえアシジの集会をした当局でも、カトリック聖伝をまもる司教を聖別して良いというのは良い命令です。すでに書いたことですが、繰り返せば、ルフェーブル大司教様は「もう手遅れだ、私たちには天罰を待つしかない、天罰で現代文明が滅びることだけが解決策だ」とは言いませんでした。ルフェーブル大司教様は、ローマと交渉し、ローマの権威を認めつつも、しかし、生き残り手段として、1988年にカトリックの司教を聖別したのです。
ルフェーブル大司教様は、「単なる一カトリック司教」として、カトリック教会の中に聖伝が戻ってくるように働きかけていたのです。ルフェーブル大司教様はローマに、聖伝に自由を与えてくれることを求めていました。もしも新規なこと、革新的なこと、ありとあらゆる「実験」が許されるのなら、聖伝にも「実験」する自由を与えてほしいと。
聖ピオ十世会は、すでに1970年教会から公式の認可を受け、ローマの枢機卿らから賞賛の手紙を受け取っています。スイスの一司教が教会法に反してそのような権限がないにもかかわらず、聖ピオ十世会の認可を取り下げたとき、ルフェーブル大司教様はローマの教会裁判所に訴えて判決をお願いし、それが受理されたにもかかわらず、その裁判はすることをブロックされました。すべての迫害は聖伝のミサを捧げ続けていたからです。従って、この迫害は全く不法であり、聖ピオ十世会は教会法上、存在し続けています。
ところで数年前から、ベネディクト十六世の方から自主的に、聖ピオ十世会に対して次のような要求がありました。「聖ピオ十世会は、カトリック教会のまっただ中にある、カトリック教会の正真正銘の正しい修道会である、と私は宣言したい。その宣言のために聖ピオ十世会は何らの条件を受け入れる必要が無い。そのままの聖ピオ十世会に教会法による教区を任せたい。聖ピオ十世会を無条件で属人区としたい」と。
バチカンでは聖伝のミサを捧げている高位聖職者たちがいます。信憑性のあるそのような保守派の高位聖職者たちから、聖ピオ十世会の神学的立場に同意するということを伝えてきます。これらのバチカンの保守派高位聖職者が言うには「教皇様は、破門撤回のときと同じように、見返りに何の要求なしに【第二バチカン公会議や新しいミサを受け入れるという要求など一切無しに】聖ピオ十世会を承認するつもりだ、公式ルートからの内容は、教皇様の意向ではない、バチカンにはどんな手を使ってでも教皇の計画を潰そうという人々がいる、今後も聖ピオ十世会は、今と同じように思う存分[第二バチカン公会議への]攻撃を続けることができる、教皇は教理聖省よりも上にある、教皇様が聖ピオ十世会を守る」云々と。(これについてはすでに「私たちはどうしてカトリック教会に聖伝を復興させる手伝いができるかという試練」において詳細に書きました。)
聖ピオ十世会とエクレジア・デイ委員会傘下の修道会らの違いはどこにあるかというと、今回、ローマの方から聖ピオ十世会に接近があったのに比べ、エクレジア・デイ委員会の傘下にある修道会らは、皆、自分たちの方からローマに行って聖伝のミサをすることができる修道会として公式の認可を受けるために働きかけました。そして、バチカンの反聖伝の勢力は、今まで聖ピオ十世会を中心に一つとなっていた聖伝の勢力を分断することを試み、エクレジア・デイ委員会傘下の修道会たちを作り上げることによって聖伝の分裂化を成功させました。
もう一つの違いは、ローマが、非公式的には、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議の改革を受け入れる必要が無い、第二バチカン公会議や新しいミサを受け入れるという要求など一切無しに、聖ピオ十世会を承認したい、という要望を出してきたに比べ、エクレジア・デイ委員会傘下の修道会らには、第二バチカン公会議や新しいミサの受け入れを要求したことです。
聖ピオ十世会の昨年の苦しみはここにありました。確かに近代主義に染まってはいるけれども、ベネディクト十六世は、正当な教皇様なのなら、もしも教皇様が聖ピオ十世会に関して正当な、良い望みを示すなら、どうしてそれを拒むことが出来るでしょうか?
教皇様が聖ピオ十世会の活動にお墨付きを与えたい、聖ピオ十世会が現在の教会の危機からカトリック教会を救うために教皇様を助けることを教皇様が望んでいる、だから、聖ピオ十世会が第二バチカン公会議を受け入れる必要はない、この聖ピオ十世会の活動の「公認」は、聖ピオ十世会をして第二バチカン公会議を飲み込ませる罠ではない、のであれば、本当のことが本当であると宣言されることは、それ自体で善であるのですから、私たちはいったいどうしてそれに従わないことができるでしょうか?
これについては、一年前に、記事を書いたことがあります。
【質問】「あまりに多くの失望を味わったので罠かもしれないという疑い」とはどういうことなのでしょうか?
アヴェ・マリア!愛する兄弟姉妹の皆様、 今回は御質問に答えることをお許しください。御質問については、少し私が編集しました。【質問】聖ピオ十世会の総長であるフェレー司教様...
ベネディクト十六世は、正当な教皇様です。イエズス・キリストはベネディクト十六世の口を通して今でも語り続けることができます。だから、もしも良い望みであるのならば、それに従うべきです。結局、去年の6月には、最後の最後に、ローマは聖ピオ十世会が第二バチカン公会議とその後の改革を受け入れることを要求したので、その命令には従うことができませんでした。
私たちは、カトリック教会がイエズス・キリストの真の唯一の教会であると信じています。にがにがしさもなく、乱暴にならず、祈り、苦しみ、試練を受け入れる。天主が私たちに送り給う全ての十字架を忍従する。教皇職に信頼すること。ペトロの後継者としてのペトロの後継者に信頼し続けます。聖ピオ十世会は、天主様から贈られる全ての十字架と苦しみを、教皇様のために、カトリック教会のために捧げます。
願わくは、教皇様が聖伝に立ち戻りますように! 教皇様が、カトリック教会をその聖伝に立ち戻らせますように!
聖母の汚れなき御心よ、教皇様のために祈り給え!教皇様を助け給え!教皇様を守り給え!
聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
聖ペトロとパウロ、教皇フランシスコのために祈り給え!
聖ペトロとパウロ、聖ピオ十世会のために祈り給え!
聖ペトロとパウロ、日本のために祈り給え!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)