Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

福音の働き手の聖性 ― その土台は内的生活である (続き) 【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、 福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き)


(A)内的生活は、使徒的事業につきものの危険にたいして、霊魂を予防してくれる
 「人びとの霊魂の世話をゆだねられたときは、そのたずさわる仕事に付随している外的危険のため、あくまでも善良な生活を生きぬくことが、当人にとっていっそうむずかしくなる」(『神学大全』Ⅱa Ⅱae, q. 184, a. 8)
これは、聖トマスの言葉だが、かれのいわゆる“危険”が、どんなものだかについては、すでに前章で、くわしく述べたとおりである。
 内的精神をもっていない福音の働き手は、使徒的事業から自然におこってくるいろんな危険を、ちっとも感知しない。かれは強盗や追いはぎの横行するぶっそうな山林を、護身用の武器もなにも持たず、丸腰で通過しようとする旅人に、さもよく似ている。これに反して、まことの使徒は、この山賊どもを、大いに恐れる。恐れるから、毎日、まじめな良心の糾明をして、かれらにたいする警戒を怠らない。良心をまじめに糾明してみれば、自分の弱点がどこにあるかが、すぐ目につく。
 「自分は、ひっきりなしに、ある危険にさらされている!」
 内的生活のおかげで、こう身にしみてさとっているだけでも、すでに大きな収穫ではないか。そして、危険を自覚している、というこの事実が、道中、不意に賊どもから襲われるという災難を、未然に防止するうえにおいて、どれほど役にたつことだろうか。なぜなら、危険を、事前に見破るということは、すでに半ば危険を脱したことになるからである。
 だが、内的生活の利益は、ただこれだけではないのだ。使徒的事業にたずさわっている人にとって、内的生活は、完全で精強な霊的“武具”なのだ。
 「兄弟たちよ、悪魔の策略に対抗して立ちうるために、天主の武具で身をかためなさい。……悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ちぬいて、かたく立ちうるために、天主の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理のおびを腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音のそなえを足にはき、信仰のタテを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ矢を消すことができるであろう。また、救いのカブトをかぶり、聖霊の剣、すなわち、天主の言葉を取りなさい」(エフェゾ6・10~17)
 これこそは、霊的武具――天主からたまわった武具なのだ。この武具によって、内的使徒は、ただ悪魔の誘惑と策略にむかって抵抗することができるばかりだけでなく、さらに一歩すすんで、おのれのすべての行為を聖化することもできる。

 内的生活は、“純潔な意向”を、腰におびさせる。“多くのこと”について、思いわずらわねばならぬ活動的生活の人たちにとって、ただ“唯一の必要事”なる天主にのみ、おのれの思いも、望みも、愛情も、集中させ、定着させておくことは、きわめて大切である。そして、“純潔な意向”こそは、このすぐれた仕事を、みごとにやりとげてくれる。そればかりではない。純潔な意向のおかげで、霊魂は、活動面で、脱線しない。自然の安逸を求めたり、人間的な楽しみにふけったり、世間的な娯楽に、時間を浪費しない。“真理のおびを腰にしめる”とは、このことをいうのである。

 内的生活はさらに、使徒の身に、“愛徳”のヨロイをつけてくれる。愛徳のヨロイを身につける人は、剛毅の精神が霊魂にみなぎる。それで、被造物の魅惑にたいして、世間的精神にたいして、悪魔の攻撃にたいして、勇ましく抵抗することができる。“正義の胸当てを胸につける”とは、このことをいうのだ。

 内的生活はまた、“用心”と“控え目”という二つの徳を、使徒にあたえる。この二つの徳のおかげで、使徒職にたずさわる人たちは、おのれのすべての行動において、「ハトのように正直」であると同時に、「ヘビのように慎重」でもある。“平和の福音のそなえを足にはく”とは、このことをいうのである。

 悪魔と世間は、福音の働き手のあたまに、まちがった教えをたたきこんでやろうと、詭弁をろうしてやまない。かれらを、腐敗した世間の悪習に感染させ、そのエネルギーを消耗させてやろうと、必死になっている。この欺瞞にむかって、内的生活は、“信仰”のタテを取って戦わせる。信仰のタテのかげで、霊魂の目には、天主的理想のともしびが、あかあかと照りかがやく。“信仰のタテを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう”とは、このことをいうのである。

 霊魂は、おのれの無力を、心からさとっている。自分の救霊にかんしては、恐れおののいて、万全のそなえと配慮を怠らない。天主のお助けがなければ、自分は絶対に何もできないのだ、と確信している。この確信から、たえまなく祈りが生まれる。嘆願にみちた、しばしばの祈りが。この祈りは、おのれの無能を自覚し、天主のお助けのみに信頼するから、それだけいっそうゆたかな効果に富んでいる。これこそは、つよい青銅のカブトではないだろうか。“傲慢”の強打が、いかに頭上にふりそそいでも、傲慢自体が自滅するばかりだ。“救いのカブトをかぶれ”とは、このことをいうのである。

 このように、使徒は、足の爪さきから、頭のてっぺんまで、完全に武装してこそはじめて、なんのおそれもなく、事業に身をゆだねることができるのだ。福音書の黙想によって、かれの奮発心は火と燃える。ご聖体の秘跡によって、かれの霊的エネルギーは増進する。そうなると、使徒職はかれにとって、一つの強力な武器となる。一方においては、かれの霊魂の敵を“撃破”することができると同時に、他方においては、多くの霊魂を“征服”して、これをキリストのものとなすことができる。“聖霊の剣、すなわち、天主の言葉をとりなさい”とは、このことをいうのである。

(B)内的生活は、使徒的活動によって消耗された、心身のエネルギーを回復してくれる

 前にも一言したとおり、多忙な仕事の混乱の中にあっても、また、たえまなく世間と交わっていても、すこしも霊魂に害をうけない、りっぱに内的精神を確保している、その考えも、その意向も、いつもタダ天主のなかにだけ集中し固定しておく――ということは、ただ聖人にだけできる仕事である。聖人においては、そのいっさいの外的活動のいとなみが、高度に超自然化され、天主の愛の燃えさかりから出ているので、それはすこしも、心身のエネルギーの減退とはならない。それどころか、かえって、それを機会に、恩寵の増進ともなるのである。
 他の人たちにおいては、そうではない。熱心な人たちにおいてさえも。
多少ながいあいだ、外面的な仕事にたずさわれば、末は超自然的生命の衰退におわるようである。
 隣人に善をほどこすのは、いいことにはちがいないが、かれらはあまりに、それに没頭しすぎる。他人の惨状に同情し、これを救済するのは殊勝なことだが、この同情も、あまり超自然的動機からは出ておらず、そのうえ、あまりにそのことに気を奪われている。かくてかれらの心は、あまたの不完全のスモッグのために黒ずんだ、純すいでない愛情の炎しか、天主にささげることができないのである。
 天主は、霊魂のこの弱さをごらんになっても、怒ってすぐ罰をくだすようなことはなさらない。その恩寵を減らすようなこともなさらない。――もしこの霊魂が、仕事をしているあいだ、よく警戒し、よく祈ろうと、まじめに努力してさえいるなら。また、仕事がおわったら、ご自分のみもとに帰ってきて、休息し、その消耗したエネルギーを回復しようと、常に心がけてさえいるなら。かようにして、霊魂は、活動的生活と内的生活の交錯によってひきおこされる“天主への立ち帰り”を、いつでも、どこでも、くり返していく。そして、この“くり返し”こそは、天父のみ心を、このうえなく、およろこばせするのである。
 不完全とたたかう人は、さいわいである。 
 霊魂は、うむことなく、キリストのみもとに馳せていくことを知るにつれ、不完全そのものもだんだんに減り、それにおちいる回数も、だんだん少なくなっていく。ご自分のもとに馳せてくる霊魂にむかって、イエズスはいつも仰せられるであろう――
 「私のもとにおいで。へとへとに疲れきった小鹿のような、あわれな霊魂よ。
 巡礼のみちの長く、険しいために、のどは渇き、谷間の水にあえいでいる。
 私のもとに来て、生ける水をお飲み。この水のなかにこそ、新たに道をたどるための、新たな力の秘訣を、見いだすだろう。
 しばらく、人ごみのさわがしさから遠ざかりなさい。かれらは、あなたの消耗しつくされた力が求めている旅のかてを、あなたにあたえることはできない。
 「さあ、あなたは、人をさけて寂しい処へ行って、しばらく休むがよい」(マルコ6・30)
 私のところには、静けさがある。平和がある。
 まもなくあなたは、最初の若さを、失われた青春をとりもどすだろう。
 そればかりではない。あなたはそこに、より少ない苦労をもって、より大きな働きをする秘訣を、手段を見いだすだろう。
 エリヤは、旅に疲れて、半死半生だった。暗い気持ちにとざされていた。
 だが、あのふしぎなパンを食べるとすぐに、失われた気力を回復したではないか。
 そのように、私は、自分の使徒なるあなたにも、――私と共同の救い主として、人類救済のいともうらやましい聖業に協力させるため、私自身が選んだあなたにも、同様の旅のかてをあたえる。
 生命そのものなる私の言葉こそは、万物をいのちづける私の恩寵こそは、すなわち、私の血肉こそは、まさしく、このかてなのだ。
 これを食べ、これを飲むがいい。そうしたら、あなたは新たな気力を恵まれて、精神を高く、永遠の彼岸にあげることができよう。あなたの心と私の心のあいだに、親しい友情のちぎりを結ぶことができよう。
 私のもとにおいで。あなたは旅路に疲れて、しおれている。
 幻滅の悲しみに、現実の裏切りに、おしつぶされている。
 私は、あなたを、慰めてあげよう。
 私の心は、あなたをいつくしむその愛に、燃えさかっている。
 私の愛のかまどのなかで、あなたの再起の決心を、きたえあげるがよい。
 『すべて重荷をせおって、苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを、休ませてあげよう』(マテオ11・28)……」

(この章 続く)

聖ピオ十世会:聖伝のミサ(ラテン語のミサ)の報告 平和のために祈りましょう。私たちの最強のICBM 聖母マリアの汚れなき御心

2018年02月14日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は灰の水曜日ですね。四旬節が始まります。
 先日の聖伝のミサのレポートを皆様からいただきましたのでご紹介いたします。

 大阪では、2月12日(月)に「憐みを乞い求める聖体降福式」を行いました。2月17日のミサの直後にも、大阪では公教要理に代わって「憐みを乞い求める聖体降福式 第二回目」を行いたいと思います。

 東京では、2月18日の四旬節第一主日のミサの後で、灰の式を行います。灰の式の後、四旬節をよく過ごすために、日本と世界の平和のために、朝鮮半島での平和のために、共産化による統一が避けられるために、中国のカトリック信徒の方々のために、コロンビアのために、御聖体降福式を行う予定です。

 私たちは平和のために祈ります。私たちには最強のICBMがあります。私たちのICBMは、Immaculatum Cor Beatae Mariae Virginis 童貞聖母マリアの汚れなき御心です。核(カク)の脅威に対抗するために、私たちは天主(カミ)の傘のもとに守られようと思います。私たちは天主の御母である聖母マリアにより頼みましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪での2月11日主日のミサの報告をお送りいたします。

2月11日 五旬節の主日には24名が、
2月12日 聖母マリアの僕の7人の創立者のミサには17名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

主日のお説教を通して、四旬節をよく過ごすためのウォーミングアップを仕上げて、灰の水曜日のスタートラインに立てるよう教会が私達を導いて下さっている事が良くわかりました。

また、その教会がペトロの岩の上に建てられている事の意味はイエズス様が三度「私を愛するか?」とペトロに尋ねられてペトロが三度「御身を愛しています」と宣言した、その「愛の宣誓」の上に教会が建っていて、それはこの日の書簡の聖パウロのいう「愛がなければ無」とこだましているように思いました。

聖福音に登場した盲目の乞食のように「憐れんで下さい!!」と、「私を憐れんでください」「私達日本を、韓国を、中国の教友を、憐れんで下さい!!」と今年が最初で最後の四旬節だという覚悟で叫びたいと思いました。

私の犠牲や祈りはあまりにも小さく、そのみじめな声はイエズス様に聞こえないかも知れないけれどマリア様の汚れなき御心をとおして叫べばイエズス様は最優先で聞いて下さることを私は小野田神父様から長い月日をかけて教えて頂きましたのでそのように叫ぼうと決心しました。

12日の御ミサの後には、憐みを乞い求める聖体降福式がありました。
これは、日本にとってどれほど大きなお恵みでしょうか!!
御聖体の前で跪きながら、私達が憐みを乞う機会をお与え下さったイエズス様の大きな愛に感動していました。
きっとこの大きなお恵みもマリア様がお取次ぎ下さって準備してくださったに違いないとも思いました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
イエズス様の神殿への奉献とマリア様のお潔めの意義について

昨日は公教要理のお時間の中で、イエズス様の神殿への奉献とマリア様のお潔めの意義、必要性に対する異論に対する聖トマス・アクイナスの論じた解答について学ぶことができました。
この場を借りまして、まずもって、小野田神父様に対しまして、お忙しい中、私たちの公教要理のために、たくさんの準備を含めて、貴重なお時間をさいていただいたことに深く感謝いたします。

さて、今回の質問は、聖トマス・アクイナスの未完の大著である「神学大全」の中で論じられているということですが、
まず、イエズス様が神殿に奉献されたということに対する異論としては、次の3つ、すなわち、
(1)イエズス様は天主の御子であり、神殿に奉献される必要はそもそもなかったのになぜ奉献されたか、
(2)イエズス様の奉献において、律法に従い、鳩が用いられたのだが、イエズス様ご自身が真の生贄なので、鳩のようないわばイエズス様の「影法師」は必要なかったのではないか、
(3)イエズス様は天主の羔(こひつじ)であり、鳩は生贄としてふさわしくなかったのではないか、
が挙げられるということです。

聖トマス・アクイナスによればこの理由は「律法の下にある人々を購うために律法を果たしたのであり、これにより、イエズス様の神殿への奉献の意義、必要性、必然性が説明されるというようなことでした。
この御摂理は皮相的にとらえると先の異論が生じるのですが、よくよく、考えれば、「律法」が同時代において天主様がユダヤ人に与えた至高のメッセージであり、最高ランクの掟であったことからすれば、むしろ、律法に従わないということは、天主たるイエズス様が自ら定めたことを自ら侵してしまうということになり、サタンの攻撃材料を与えることにもなりかねなかったということもあるのではないかと自分なりに思いました。

次にマリア様のお潔めの意義、必要性に対する異論ですが、やはり次の3つ、すなわち、
(1)そもそも潔めとは汚いものがきれいになるためにすることであるのにもかかわらず、マリア様は無原罪であり、汚くないのだから、お潔めは不要であったのではないか、
(2)レビ記12章3-4節は現在を持つ一般の女性に対する教えであり、マリア様は聖霊によって身籠ったのだから、マリア様に適用するのは前提を欠くのではないか、
(3)潔めは「聖寵」により為されるものであるが、旧約の秘跡は聖寵を与えないし、また、マリア様はその聖寵の与え主たるイエズス様を有していたので、おかしくないか、
が挙げられるということでした。
これについては、キリストには潔めも奉献も要らなかったが、「謙遜と従順」の模範を示すことで、律法を承認、確認し、したがって、マリア様もそのようにされたということでありました。
ヤコブの書第4章6節に「神は高ぶるものをしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」にあるとおりということからも、神の嘉する行いは謙遜と従順であり、私たちはこのことからその重要性をよくよく理解し、実践しなければならないと思いました。
以上、私の理解するところを一言で言い表すと、「律法の成就」と「謙遜と従順」がそれらを根拠づけたということになります。

私は、かりにイエズス様の神殿への奉献がなかりせば、マリア様のお潔めがなかりせばということを想起するとその果たした意味がわかるのではないかとも思いました。

乱筆乱文お許しくださいませ。また私の理解が不足あるいは違っていればご指摘くださいませ。

至聖なるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え!
天主の聖母、我らのために祈りたまえ!
聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ!


【手紙】
中国のカトリック信徒の方々の為にお祈りさせて頂きます。大変です。避難所であるマリア様の汚れ無き御心が中国のカトリック信徒の方々を守り導いて下さいますように!


【手紙】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

안녕하세요! 내일 올림픽 개막식 네요.
ケンティの聖ヨハネのお話、とても良かったです!
神父様のお説教でケンティの聖ヨハネという聖人さまのことを初めて知りました。
いつもありがとうございます。

【手紙】
使徒職の秘訣、いつも興味深く読ませて頂いております!ありがとうございます!
ヨゼフ様の初水曜日の信心もブログで毎月仰って下さってありがとうございます!


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聖霊降臨後第23主日の固有文 昇階唱 Liberasti nos, Domine 「主よ、御身は私たちを解放し給うた」を黙想する。これは六旬節の主日の入祭唱の祈りに答えているかのようです。

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愛を込めた祈りと、犠牲について。ー「百夫長」の信仰に倣うにはー

四旬節第2主日 説教「御変容」とは一体何なのか。その教えとは?私たちのなすべきことは何か。

四旬節第一主日のミサの後で日本と世界の平和のために、朝鮮半島での平和のため共産化による統一が避けられるために、中国のカトリック信徒の方々のために御聖体降福式を行う予定です。

2018年02月13日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日2月14日は灰の水曜日です。大小斎の日です。

 大阪では2月16日は四旬節の金曜日ですから、ミサの前のロザリオの代わりに「十字架の道行き」を行いましょう。

 東京では、2月18日の四旬節第一主日のミサの後で、灰の式を行います。灰の式の後、四旬節をよく過ごすために、日本と世界の平和のために、朝鮮半島での平和のために、共産化による統一が避けられるために、中国のカトリック信徒の方々のために、コロンビアのために、御聖体降福式を行う予定です。


天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2月18日は四旬節第一主日で、東京で10時半から聖伝のミサがあります。典礼のテキストをご紹介いたします。

2018年02月13日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日、2月14日は灰の水曜日で大小斎の日です。
 2月18日は四旬節第一主日で、東京で10時半から聖伝のミサがあります。典礼のテキストをご紹介いたします。

Dominica Prima in Quadragesima 四旬節第一主日  
I Classis 一級主日 紫
Statio ad S. Ioannem in Laterano (指定巡礼聖堂。ラテラノの聖ヨハネ大聖堂)
Ant. ad Introitum. Ps. 90, 15 et 16. 入祭文(詩篇、90ノ15-16)
Invocábit me, et ego exáudiam eum : erípiam eum, et glorificábo eum : longitúdine diérum adimplébo eum. かれが私に願えば、私はかれの願いをきき、かれをすくい出し、かれに光栄を与え、長い生命を与えるであろう。*
Ps. ibid., 1. (詩篇、90ノ1)
Qui hábitat in adiutório Altíssimi, in protectióne Dei cæli commorábitur. いと高き者に守られて住む者、天の保護の下にある者は、幸いである。
V/.Glória Patri. ℣. 願わくは、聖父と・・・・(栄誦)。
Invocábit me, et ego exáudiam eum : erípiam eum, et glorificábo eum : longitúdine diérum adimplébo eum. かれが私に願えば・・・・(*までくりかえす)

Oratio. 集祷文
Deus, qui Ecclésiam tuam ánnua quadragesimáli observatióne puríficas : præsta famíliæ tuæ ; ut, quod a te obtinére abstinéndo nítitur, hoc bonis opéribus exsequátur. Per Dóminum. 天主よ、御身は、年毎に行う四旬節をもって主の教会を浄め給う。願わくは、主の家族が断食を行って御身から求めんとすることを、善業によっても得させ給え。天主として・・・・。
Léctio Epístolæ beáti Páuli Apóstoli ad Corínthios. 使徒聖パウロの、コリント人への書簡の朗読
2 Cor. 6, 1-10. (コリント後書、6ノ1-10)
Fratres : Exhortámur vos, ne in vácuum grátiam Dei recipiátis. Ait enim : Témpore accépto exaudívi te, et in die salútis adiúvi te. Ecce, nunc tempus acceptábile, ecce, nunc dies salútis. Némini dantes ullam offensiónem, ut non vituperétur ministérium nostrum : sed in ómnibus exhibeámus nosmetípsos sicut Dei minístros, in multa patiéntia, in tribulatiónibus, in necessitátibus, in angústiis, in plagis, in carcéribus, in seditiónibus, in labóribus, in vigíliis, in ieiúniis, in castitáte, in sciéntia, in longanimitáte, in suavitáte, in Spíritu Sancto, in caritáte non ficta, in verbo veritátis, in virtúte Dei, per arma iustítiæ a dextris et a sinístris : per glóriam et ignobilitátem : per infámiam et bonam famam : ut seductóres et veráces : sicut qui ignóti et cógniti : quasi moriéntes et ecce, vívimus : ut castigáti et non mortificáti : quasi tristes, semper autem gaudéntes : sicut egéntes, multos autem locupletántes : tamquam nihil habéntes et ómnia possidéntes. 兄弟たちよ、我々は天主の協力者であるから、あなたたちが、天主の聖寵を無駄に受けないようにとすすめる。「私は恵の時に汝にこたえ、救の日に汝を助けた」と天主はいい給うた。実に、今は恵のとき、今は救の日である。どんな場合にも、どんな人にも、我々の職がけなされないように、我々は躓きをあたえない。かえって、どんな場合でも、我々は、天主の役者としての自分を示す。患難のときも、窮乏のときも、苦悩のときも、傷つけられたときも、牢に入れられるときも、騒動のときも、労働のときも、徹夜のときも、断食のときも、大いに忍耐し、廉潔・学識・寛容・仁慈・聖霊・偽りなき愛徳と、真理の言葉と、天主の力と、攻撃と防禦との正義の武器によって、光栄と、恥辱と、悪評と、好評とによって表わす。人をだます者と思われても真実であり、知られざる人のようであるが人に知られ、死に赴く人のようであるが、見よ、生きており、懲罰される者のようであるが殺されず、悲しみにしずむ者のようであるが常に喜び、貧しい者のようであるが多くの人を富ませ、何ももたない者のようであるが、すべての物をもっている。
Graduale. Ps. 90,11-1 2. 昇階誦 (詩篇、90ノ11-12)
Angelis suis Deus mandávit de te, ut custódiant te in ómnibus viis tuis. 天主は、その天使らに、あなたのすべての道を守れと命じ給うた。
V/. In mánibus portábunt te, ne umquam offéndas ad lápidem pedem tuum. ℣. かれらは、あなたの足が石につき当らぬように、手でささえるであろう。

Tractus. Ibid., 1-7 et 11-16. 詠誦 (詩篇、90ノ1-7、11-16)
Qui hábitat in adiutório Altíssimi, in protectióne Dei cæli commorántur. いと高きものに守られて住む者、天の保護の下にある者は、幸いである。
V/. Dicet Dómino : Suscéptor meus es tu et refúgium meum : Deus meus, sperábo in eum. ℣. かれは、主にいうであろう、主は私の守り手、私のひなん所である。主よ、私は御身によりたのみ奉る。
V/. Quóniam ipse liberávit me de láqueo venántium et a verbo áspero. ℣. なぜなら、私を、かりうどのわなから救い出し、悪口から守り給うからである。
V/. Scápulis suis obumbrábit tibi, et sub pennis eius sperábis. ℣. 主は、そのつばさであなたを守り給い、そのつばさの下にあなたは避難する。
V/. Scuto circúmdabit te véritas eius : non timébis a timóre noctúrno. ℣. 主の真実は、あなたを保護する楯である。あなたは夜をおそれないであろう。
V/. A sagítta volánte per diem, a negótio perambulánte in ténebris, a ruína et dæmónio meridiáno. ℣. あなたは、ひる飛ぶ矢も、くらやみの企みも、ひるの悪魔もおそれることはない。
V/. Cadent a látere tuo mille, et decem mília a dextris tuis : tibi autem non appropinquábit. ℣. 左に千人がたおれ、右に万人がたおれても、あなたはたおれないであろう。
V/. Quóniam Angelis suis mandávit de te, ut custódiant te in ómnibus viis tuis. ℣. 天主は、その天使らに、あなたのすべての道を守れと命じ給うた。
V/. In mánibus portábunt te, ne umquam offéndas ad lápidem pedem tuum. ℣. かれらは、あなたの足が石につき当らぬように、手で支えるであろう。
V/. Super áspidem et basilíscum ambulábis, et conculcábis leónem et dracónem. ℣. あなたは、へびとまむしとの上を歩き、獅子と龍とをふみくだくことができよう。
V/. Quóniam in me sperávit, liberábo eum : prótegam eum, quóniam cognóvit nomen meum. ℣. かれらは私によりたのんだから、私はかれを助けよう。かれは私を礼拝するから、私はかれを救おう。
V/. Invocábit me, et ego exáudiam eum : cum ipso sum in tribulatióne. ℣. かれは私に願い、私はかれの願いをきく。かれの苦しみのとき、私はともにいるであろう。
V/. Erípiam eum et glorificábo eum : longitúdine diérum adimplébo eum, et osténdam illi salutáre meum. ℣. かれをすくい出し、かれに光栄を与えるために。また、かれに長く生命を与え、私のすくいを示すであろう。

Sequentia Evangelii decundum Matthaeum マテオによる聖福音の続誦
Matth. 4, 1-11. (マテオ4:1-11)
In illo témpore : Ductus est Iesus in desértum a Spíritu, ut tentarétur a diábolo. Et cum ieiunásset quadragínta diébus et quadragínta nóctibus, postea esúriit. Et accédens tentátor, dixit ei : Si Fílius Dei es, dic, ut lápides isti panes fiant. Qui respóndens, dixit : Scriptum est : Non in solo pane vivit homo, sed in omni verbo, quod procédit de ore Dei. Tunc assúmpsit eum diábolus in sanctam civitátem, et státuit eum super pinnáculum templi, et dixit ei : Si Fílius Dei es, mitte te deórsum. Scriptum est enim : Quia Angelis suis mandávit de te, et in mánibus tollent te, ne forte offéndas ad lápidem pedem tuum. Ait illi Iesus : Rursum scriptum est : Non tentábis Dóminum, Deum tuum. Iterum assúmpsit eum diábolus in montem excélsum valde : et ostendit ei ómnia regna mundi et glóriam eórum, et dixit ei : Hæc ómnia tibi dabo, si cadens adoráveris me. Tunc dicit ei Iesus : Vade, Sátana ; scriptum est enim : Dóminum, Deum tuum, adorábis, et illi soli sérvies. Tunc relíquit eum diábolus : et ecce, Angeli accessérunt et ministrábant ei. そのときイエズスは、悪魔に試みられるために、御霊によって荒野に導かれ給うた。四十日四十夜断食して後、飢え給うた。試みる者が来て、「もしあなたが天主の子ならば、命じてこれらの石をパンにせよ」といった。答えていい給う。「“人はパンだけで生きるのではない、天主の口から出るすべての言による”とかきしるされてある。」 そこで、悪魔は、彼を聖なる都につれゆき、神殿の頂に立たせて、「あなたがもし天主の子ならば、身を下に投げよ、それは、“天主はあなたのために天使達に命じ給うであろう。あなたの足が石にうち当る事のないよう、彼らが手であなたを支えるであろう”と記されているからである」といった。イエズスはいいたもうた。「また、“主なるあなたの天主を試みるな”と記してある。」 悪魔はまたかれを、非常に高い山につれゆき、世のもろもろの国とその栄華とを示して、「あなたがもし平伏して私を拝むならば、これらを皆あなたに与えよう」といった。そのときイエズスはいいたもうた、「サタン、退け、“主なる天主を拝み、ただ彼にのみつかえ奉らねばならぬ”と記されてある。」 ここにおいて悪魔ははなれ去り、見よ、天使たちが近づいて彼に仕えた。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 90, 4-5. 奉献文(詩篇、90ノ4-5)
Scápulis suis obumbrábit tibi Dóminus, et sub pennis eius sperábis : scuto circúmdabit te véritas eius. 主は、その翼であなたを守り給い、その翼の下にあなたは避難する。主の真実は、あなたを保護する楯である。

Secreta. 密誦
Sacrifícium quadragesimális inítii sollémniter immolámus, te, Dómine, deprecántes : ut, cum epulárum restrictióne carnálium, a noxiis quoque voluptátibus temperémus. Per Dóminum. 主よ、四旬節をはじめるに当り、われらが聖なるいけにえを主にささげ、肉身のかてをつつしみ、有害な快楽をも遠ざけうるよう守り給え。天主として・・・・。
Præfatio de Quadragesima. 四旬節の序誦
Ant. ad Communionem. Ps. 90,4-5. 聖体拝領誦(詩篇、90ノ4-5)
Scápulis suis obumbrábit tibi Dóminus, et sub pennis eius sperábis : scuto circúmdabit te véritas eius. 主は、その翼であなたを守り給い、その翼の下にあなたは避難する。主の真実は、あなたを保護する楯である。

Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Qui nos, Dómine, sacraménti libátio sancta restáuret : et a vetustáte purgátos, in mystérii salutáris fáciat transíre consórtium. Per Dóminum. 主よ、主の秘蹟にあずかって、強められ、古い人間のけがれより浄められたわれらを、救霊の玄義にあずからせ給え。天主として・・・・。

晩課

Hymnus ad Vesperas 四旬節の晩課の讃歌
Audi, benígne Cónditor, Nóstras préces cum flétibus, In hoc sácro jejúnio Fúsas quadragenário. 良き造り主よ、聞き給え、この四十日間の 聖なる断食において涙と共に 注がれた我らの祈りを
Scrutátor álme córdium, Infírma tu scis vírium: Ad te revérsis éxhibe Remissiónis grátiam. 人々の心を養い探る方よ、御身は人間らの病を知り給う、御身にたち戻る者たちに、赦しの聖寵を示し給え。
Multum quidem peccávimus, Sed párce confiténtibus: Ad nóminis láudem túi, Cónfer medélam lánguidis. 我らは多く罪を犯せり、されど告白する者らを容赦し給え、御身の聖名の賛美のため病める者に薬を授け給え。
Concéde nóstrum cónteri Córpus per abstinéntiam, Cúlpæ ut relínquant pábulum Jejúna córda críminum. 我らの体を節制を通し、克己を与え給え、犯罪を断食せし心は、罪悪の飼料を捨て去らんことを。
Praésta beáta Trínitas, Concéde símplex Unitas: Ut fructuósa sint túis Jejuniórum múnera. Amen. 至福の三位一体よ、単純なる一者よ、願わくは御身の聖寵により、断食の勤めが実り豊かならんことを。アメン



福音の働き手の聖性 ― その土台は内的生活である 第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である その三、【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である

 聖性とは、人間の意志が天主のみ旨と極めて密接に一致合体するまでにおし進められた内的生活、これ以外のなにものでもないのだから、恩寵の奇跡でもないかぎり、一般には、霊魂はこの内的生活の絶頂に、多くの苦しい努力をはらって、浄化の道と照明の道との段階を全て通ってでなければたどり着かない。
La sainteté n’étant autre chose que la vie intérieure poussée jusqu’à l’union très étroite de la volonté avec celle de Dieu, d’ordinaire et sauf un miracle de la grâce, l’âme n’arrive à ce terme qu’après avoir parcouru au milieu de multiples et pénibles efforts, toutes les étapes de la vie purgative et illuminative.

 霊魂の聖化の過程において、これは霊生の常則としてとおっていることだが、天主のお働きと霊魂の働きは、逆比例して進行する。天主のお働きが、霊魂の聖化の役割において、日に日に、勢力をましていくにつれ、霊魂の働きは逆に、聖化のイニシャチブをとる役割においては、日に日に、すこしずつ減少していく。それも、初心者の聖化において、また完全者の聖化において、天主のお働きはそれぞれちがってくる。

 初心者の聖化において、天主のお働きは、そんなに目にみえて明らかではない。それは、とりわけ、霊魂に、被造物への“警戒”(la vigilance)と、天主の探求の“嘆願”(la supplication)をしげきし、これを支え、確保させる、恩寵のすすめの形であらわれる。このようにして、天主は、霊魂に、新たな努力をさそう恩寵を獲得させるための手段を、お与えになる。
 完全者の聖化において、天主はより強く、より深く、より広範囲に、お働きになる。そして、ときとしては、霊魂を、ご自分のお働きに一致させるために、霊魂にはただごく簡単な、内心の承諾しかお求めにならない。

 初心者も、冷淡者も、そして罪びとまでも、聖主がこれをご自分にお近づけになろうとする時には、まず、天主を求めるように仕向けられる衝動を、心のなかに実感する。次に、天主をおよろこばせしたいとの誠意を、すこしずつ証拠だてようとする。最後に、自愛心の偶像をほふって、その代わりに、イエズス・キリストだけを、おのれの心に君臨させるために、天主からおくられるいっさいの出来ごとを、心から歓迎する。このばあい、天主のお働きは、霊魂をはげますことに、霊魂を助けることに、限定されている。

 “聖人”の内的生活において、天主のお働きは、前記の二者よりも、いっそうはるかに強い。そして、いっそうはるかに全面的である。あらゆる疲労、あらゆる苦悩のさなかにあっても、あらゆる屈辱のさかずきを飲み、あらゆる病苦の重圧のもとにあっても、聖人は、ただ天主のお働きにおのれを打ちまかせ、天主からされるままになっている。このおまかせの精神がないなら、死の苦しみにもひとしい毎日の十字架をたえしのぶことは、とうていできない。そして、この十字架こそは、天主が彼の霊魂を、超自然の生命に成熟させるおぼし召しから、み摂理の計画として与えられる。
 完全者の霊魂においてこそ、「天主は万物を、キリストの足もとに従わせた。それは、天主がすべての者にあって、すべてとなられるためである」Deus subjicit sibi omnia, ut sit Deus omnia in omnibus(コリント前15・28)という聖パウロの言葉が、みごとに実現する。

 この霊魂は、ただイエズス・キリストによって生きる。「生きているのは、もはや、私ではない。キリストこそ、私のうちに生きておられるのである」Vivo autem jam non ego; vivit vero in me Christus(ガラツィヤ2・20)という聖パウロの証言を、かれもまた、おのが一身に、実現している。かれにおいて、考え、判断し、行動するものは、ただイエズスのご精神だけであって、かれ自身ではない。むろん、栄光の生命なる天国で、はじめて達成される完全天主化の境地には、まだ達してはいないだろう。だが、霊魂はすでに、至福直観による天主との一致の性格を、おのれのうちに、ほかのに反映している。

 いうまでもないことだが、初心者や冷淡者、さらにただの信心家は、こんなに高い、天主との一致にとどまっている者ではない。かれらの霊生の状態には、それにあてはまる独特の、一連の手段があるのだから、この手段を用いて、霊生をいとなめばよい。しかし、初心者は、なんといっても、内的生活の見習者であるから、つらい苦労をする。進歩も、いたって緩慢である。おぼつかない手つきでやるものだから、内的生活の仕事も、きわめてお粗末である。

 これに反して、完全者はすでに、内的生活の熟練工なのだから、仕事も手っとり早く、そして立派にやってのける。困難も、ないことはないが、あってもわずかで、とにかくすばらしいものを作りあげる。天主との一致の殿堂を、やすやすと築きあげるのである。

 しかし、使徒的事業にたずさわる人たちが、その内的生活の深い浅いによって、右に述べた種類に区別されはしても、その各自にたいする天主のご意図に変化はないのだ。天主は、かれらのだれにたいしても、そしていつも、そのたずさわる事業が、当人にとって、聖化の手段であることを、お望みになるのである。

 だが、使徒職というものは、すでに聖性の域に達している人びとにとっては、なんの危険もない。その心身のエネルギーを無駄に消耗させることもない。かえって善徳に進歩し、功徳をます機会をゆたかに提供する一方において、前にも述べたように、天主との一致の度合いがまだ弱く浅い人たち――念禱にさしたる興味もなく、犠牲の精神も、とりわけ、心の取り締まりの習慣もさほど発達していないひとたちにとっては、かえって、たやすく霊的貧血症をおこす原因となる、したがって、完徳修業の道程において、くじけ折れる機縁ともなる、という悲しむべき事実が厳存するということを、心に銘記していただきたい。

 心をよく取り締まる――という、この立派な習慣は、これを熱心に祈り、切に願いさえすれば、天主から与えられる。機会あるごとに、天主におのが奉仕の忠実さを、証拠だてさえしたら、天主もきっとこのよい習性を、お与えになるであろう。天主への奉仕に、いかなる犠牲も惜しまぬ大きな心の持ち主だったら、天主はこの霊魂に、心の取り締まりのよい習慣を、あふれるほどお与えになるであろう。

 かくて、霊魂は、幾度となく努力を重ね、何度も失敗をくりかえしたのち、彼の能力をすこしずつ刷新して、キリストのそれに変容させ、かようにして、聖霊のインスピレーションによくなびくもの、よくきき従うものとなす。したがって、いかなる反対も、不成功も、失敗も、幻滅も、これをよろこんで天主のみ手から、受けとることができるようになる。

 内的生活が、霊魂の深部に根ざしたとき、いかようにして、彼をまことの善徳に定着させるか――以下にそれを、六つの項目にわけて、説明することにしよう。

(この章 続く)

内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き3)第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である その二【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き3)
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き3)

さて、これから、この霊魂の秘奥を、もっと深くさぐってみよう。
 およそ人の頭のなかにある“考え”ぐらい、その人の超自然的生活、道徳的生活、知的生活において、圧倒的役割を演ずるものはない。さて、われわれの主人公の脳裏を支配している“考え”は、どんなものだろうか。

 人間的な、あまりに人間的な考えである。地上的な、空虚な、軽薄な、利己的な考えである。かれの考えはみんな、“自己”にむかって、被造物にむかって、集中されている。しかも、それはしばしば、神聖な奮発心とか、犠牲心とかいう、りっぱな仮面をかぶっている。
Humaines, terrestres, vaines, superficielles, égoïstes, elles convergent de plus en plus vers le moi ou les créatures, et cela souvent avec l’apparence du dévouement et du sacrifice.

 知性が、このように乱れているので、当然の結果、“想像”があばれ放題となる。およそ人間の能力のなかで、想像にもまして、抑制の必要のあるものはない。ところが、霊魂はここまでくると、想像のあばれ馬に、くつわをはめようとの考えすらない。だから、想像は、どんな禁制の小みちにも、どんなに危険な秘境にも、平気で足をふみ入れる。視覚の抑制もたるんで、だんだんに目のつつしみを欠くようなる。そうなると、大聖テレジアが、“わが家の気ちがい”と呼んだこの想像は、いたるところに暴威をふるう。あばれだしたら最後、どこまで行くかわからない。【かくて、混乱は、知性から想像へ、想像から愛情へと移行する。】
Elle court à tous les écarts, à toutes les folies. La suppression progressive de la mortification de la vue permet à la folle du logis de trouver large pâture un peu partout.

こんどは、愛情(les affections)の領域が侵される。
 心は浮き世のはかなく、つまらない物に愛着して、そこから愛情の養分を吸収する。空虚な、ちぢにかき乱された心の惨状は、じつに目もあてられない。内心の“天主の国”にたいしては、ほとんどいかなる考慮も払われていない。イエズスと差し向かいになって生きることは、いかなる実感も伴っていない。天主の崇高な奥義にたいして、典礼の荘厳な美にたいして、ご聖体の中にいます天主のお招きにたいして、そのおひきよせにたいして、心はいかなる反応も示さない。一言で申せば、超自然の世界からくる神秘の作用にたいして、心は全く無感覚である。

 それなら愛情の対象をうしなった心は、“自己”のうちに、それを見いだせるのだろうか。
 “自己”のうちに、すべての愛情を集中し、自己以外に何ものも求めず、自己のうちにいっさいの満足を、見いだせるのだろうか。
 とんでもない、それは自殺行為にひとしい。
 心は、他に愛情を求めてやまないのだ。
 自己をささげつくして、愛しつらぬく何ものかがほしいのだ。
 愛し愛されたいのだ。Amare et Amari.
 それだから、天主のうちにおのれの幸福を見いだせないかれは、どうしても被造物を愛するようになる。被造物に愛情をもの乞いせねばならぬようになる。これは、自然の論理である。

 ある日、突然、美しい被造物が、面前に現われる。かれの心は、一瞬のためらいもなく、この被造物のとりこになる。そのいうがままになる。この被造物のふところに飛びこむ。どんなぎせいを支払っても。
 このさい、天主にちかった神聖な誓願がなんだろう。
 教会の利害がなんだろう。
 自分の名誉がなんだろう。
 かれはいっさいをぎせいにしても、悔いないのだ。
 背教者になったって、かまうもんか!
 だが、そこまではまだ行っていないだろう。このままでいけば、背教者となるのではなかろうか、と考えただけで、かれは身ぶるいし、心は深い悲しみにしめつけられるのだから。しかし、自分のふしだらに、信者がつまずこうと、未信者が眉をひそめようと、そんなことにはいっこう頓着しない。

 むろん、天主の恩寵のおかげで、トコトンまで堕落してしまうことは、きわめてまれだろう。
 だが、天主のうちに幸福を見いだせない、いや、むしろ、天主のことに倦怠を感じている、禁断の実には平気で手をふれる――このような霊魂の落ちゆくさきは、きまって最悪の不幸である。堕落のドン底である。
 「肉的人物は、天主の霊のことをうけいれない」animalis autem homo, non percipit ea quae sunt Spiritus Dei.(コリント前2・14)に始まった霊魂の堕落は、ついに、「むらさきの着物で育てられた者が、今では灰だまりの上に伏している」(イエレミアの哀歌4・5)とイエレミア預言者がうたった、あの最もみじめな境涯までいった。
 精神はしつこい迷いの雲にとざされている。
 霊魂は、スッカリめくらになっている。
 心は、石のように、かたくなっている。
 そして、日に日に、すさんでいく。しまいには、どこまでいくか。

かれの不幸は、“意志”の堕落によって、頂点に達する。
 かれの意志はまだ、完全にはダメにはなっていないだろう。
 しかし、力つきて、衰弱しきっている。ほとんど、無力化している。
 「元気をだして、勇ましく立ち上がらなきゃ、ダメじゃないか」
 かれに忠告しても、ムダである。
 「さあ、ちょっとだけでもいい、力をだすんだ」essayer un simple effort 
 こうでもいったら、かれはきっと絶望的な口調で、
 「いや、その“ちょっと”が、わたしにはできっこないんだよ!」« Je ne puis pas. »
と答えるにちがいない。さて、この“ちょっと”だけの力が出せないということ――これこそは、最悪の不幸に、とりかえしのつかぬ破滅の谷底に、堕落することではないのか。
 ある有名な無神論者のいったことばが、ここにある。
 「そのたずさわっている事業のために、いきおい、世間とまじわって生活することを余儀なくされている人たちが、はたして自分らの修道誓願にたいして、自分らの修道者としての義務にたいして、ほんとうに忠実であり得るだろうか。――わたしにはどうも、それが信じられない」
 さらに、かれはつけ加えて、こういっている。
 「この人たちは、ちょうど、サーカスの芸人のように、あぶない綱渡りをしている。かれらの堕落は、必然の運命だ!」
« Elles marchent sur une corde tendue. Leurs chutes sont forcées.»

 これは、天主にたいして、教会にたいして、たいへんな侮辱である。
 だが、これにたいする解答は、ごく簡単だ。いわく、
 「かれらの堕落は、あなたがおっしゃるような、必然の運命ではない。もしかれらが、内的生活という貴重な平均とり棒で、精神のバランスを保つすべを心得ているなら(そしてかれらは、そのことを心得ているはずだ)[lorsqu’on sait se servir du précieux balancier de la vie intérieure]。
 内的生活だけが、かれらの堕落をくいとめる唯一の手段なのだ。したがって、これを放棄したら最後、かれらは立ちどころに、目まいがする。酔っぱらいのように、足もとがぐらつく。そして、あなたがおっしゃるように、まっさかさまに、墜落するのである」

 それはまさに、霊魂の破滅だ。
 何がこの破滅の、最終的原因だったのか。
 霊生の大家で有名な、イエズス会員ラルマン師(P. Lallemant)が、それを次のように述べている。
 「使徒的事業にたずさわっている人たちのなかで、その多くは、ただひとすじに、天主のためにだけ働いている、とはいえない。かれらは、あらゆることにおいて、“おのれ”をさがしている。いちばんりっぱな仕事にたずさわっていながら、天主の光栄とともに、おのれ自身の利益も求めているのだ。――いつも、そして、こっそりと。だからして、かれらは、自然と恩寵に、おのれと天主に、かね仕えた中途半端な、不徹底な生活をいとなんでいる。最後に、死がやってくる。そのとき、そのときはじめて、目がさめる。自分が、だまされていた、ということを、はじめてさとる。恐るべき天主の審判は、刻一刻、近づいてくる。それをおもって、かれらは戦慄するのだ」(ラルマン師『霊的指針』)
Nombre d'hommes apostoliques ne font rien purement pour Dieu. Ils se cherchent en tout et mêlent toujours secrètement leur propre intérêt avec la gloire de Dieu dans leurs meilleures entreprises. Ils passent ainsi leur vie dans ce mélange de nature et de grâce. Enfin la mort vient et alors seulement ils ouvrent les yeux, voient leur illusion, et tremblent à l'approche du redoutable tribunal de Dieu.

 真理の伝道者の美名のもとに、おのれを吹聴してあるく使徒の末路や、あわれ!

 奮発心にもえ、たいへんな活動家であった、有名な宣教師コンバロ神父にかんして、かれが臨終の床で語ったという秘話が、ここにある。コンバロ神父(abbé Combalot)を、引き合いにだすからといって、なにもかれを、前記のニセ使徒たちと同類に取り扱う考えは、筆者には毛頭ないのだが、かれの臨終の一言が、われわれに大きな教訓をあたえるので、そうするまでである。最後の秘跡を授けおえた司祭は、かれにむかって、こういうのだった。

 「神父様、ご安心なさいませ。あなたは、司祭としての生涯を、神聖に、無キズに、保ちました。それから、たくさん、お説教もなされたでしょう。あなたは、ご自分の内的生活がじゅうぶんでなかったと、そのことをざんげされましたが、神父様のなさったすばらしい、かずかずのお説教こそは、天主さまのみまえに、内生不足の弁護を、ひきうけてくれましょう……」
 「わたしの説教が……?」死になんなんとしている老宣教師は、深いためいきの下から、無量の感慨に声をふるわせて、こういうのである。

「わたしの説教が、わたしを弁護してくれるんですって? ああ、わたしはいま、どんなに強い光に照らされて、自分のした説教の正体を見きわめていることでしょう! ああ、わたしの説教! もしイエズスさまが審判のとき、それをさきにいい出してくださらないなら、わたしのほうからは絶対に申し上げません……」
« Mes sermons! Oh! à quelle lumière je les aperçois maintenant! Mes sermons!
Ah ! si Notre-Seigneur ne m'en parle pas le premier, ce n'est pas moi qui commencerai. »

 永遠の光りに照らし出された老司祭が、この光りのなかに見たものは何だったろうか。
――福音伝道という、いちばん神聖な、いちばんすぐれた仕事の中にさえ、“自我”の追求から生じる不完全が、軽い罪が、混入していた、ということである。死にのぞんではじめて、かれの良心はそれに気がついた。そして、かれをとがめた。内的生活が足りないために、この不幸にまつわれていたのだと、死にのぞんではじめて、さとったのである。

 ペロン枢機卿(Le cardinal du Perron)が、臨終の床で語ったざんげ話も、これによく似ている。
 「自分は、一生のあいだ、内的生活の実行によって、意志の完成をはかることよりむしろ、学問の研究によって、知性の完成をはかる仕事に、いっそう愛着を感じていた。死の関門に立っているいま、心からそれを残念におもう……」

 ああ、イエズス、いともすぐれたる使徒よ!
 わたしたちとともに、涙の谷にお住まいになっていらしたとき、だれがあなたにもまして、人びとへの奉仕に、身も心もささげつくした者があったでしょう。しかし、あなたは天にお昇りになった今日でも、あなたの地上生涯の延長なるご聖体の秘跡によって、以前にもましていっそうおおらかに、ご自身を人びとにおあたえになります。それでいて、あなたはけっして“御父のふところ”を、すこしもお離れになりません。どうぞ、お恵みをたれて、わたしどもにさとらせてください――。
 「わたしどもの事業が、あなたに認められ、あなたに受け入れていただくための唯一の条件は、それが超自然の原理に生かされているということ、いいかえれば、それがあなたの聖心に、深く根ざしているということ――この条件を果たすときにのみ、わたしどもの事業は、あなたによろこばれるものとなる」という真理を、ゆめゆめ忘れさせないでください!
Puissions-nous ne jamais oublier que vous ne voudrez connaître nos travaux que s'ils sont animés d’un principe vraiment surnaturel et plongent leurs racines dans votre Coeur adorable.

(この章 終わり)

2月12日(月曜)振替休日には大阪でのミサの直後に「憐れみを乞う聖体降福式」があります

2018年02月10日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2月12日(月曜)振替休日には大阪で午前9時30分からミサがあります。

ミサの直後に「憐れみを乞う聖体降福式」(聖時間)を行います。日本のために、世界のために、平和を祈りましょう。
朝鮮半島での平和を祈りましょう。
中国でのカトリック信者(教友)のために祈りましょう!
カーニヴァルで犯される罪の償いを捧げましょう。
台湾の地震の被災者の方々のために祈りましょう。
堕胎の罪の償いを捧げましょう。

多くの兄弟姉妹の方々のご参加を期待しております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父@ソウル

【続編】うるわしくも 咲きいでにし奇しき薔薇の はなよたぐいもなき そのかおりに

2018年02月10日 | カトリック・クイズ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「うるわしくも 咲きいでにし奇しき薔薇の はなよたぐいもなき そのかおりに・・・」
これは何だと思いますか?

正解は・・・
カトリック聖歌集 304番 「うるわしくも」 の歌詞でした!
とても美しい歌詞ですね!!

公教会聖歌集 304番 「うるわしくも」 



カトリック聖歌集 304番 「うるわしくも」 

1番
うるわしくも 咲きいでにし
奇しき薔薇の はなよ  (←公教会聖歌集では、「とげなき薔薇」となっています)
たぐいもなき そのかおりに
われらが こころ和む
みいつくしみ 満ちあふるる
もろびとの はは マリア
ときわに たたえまつる

2番
みちのほとり みどりふかく
しげれる そのときわ木
あえぎあえぐ わが たび路の
やすらいの すずかげよ
みははマリア 汝がまもりに
よろこび いさみたちて
みくにを 指してぞ ゆく

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年10月21日 ファチマ100周年。これで終わったのではなく、目が開いた、だからすべきこと。

2018年02月09日 | お説教・霊的講話
2017年10月21日(土)聖母の土曜日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年10月21日、聖母の土曜日のミサをしております。今日のこの御ミサの後に、いつものように公教要理の続きを致しましょう。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン

愛する兄弟の皆さん、今年はファチマのマリア様の御出現100周年ですから、ファチマでマリア様は一体何を私たちに求めておられるのかを一緒に黙想する事に致しましょう。
もしもマリア様の要求に応えることができたらどのような事があって、もしもそれをしなかったらどのような事になるか、

次に私たちはマリア様から一体、特に何が求められていて、私たちは何をしなければならないのか、その為に一つ提案するのをお許し下さい。

私の思ったのは、天主様の選み、天主様から特別のお恵みを受けるという事、その憐れみの深さです。

この憐れみを受けておきながら、それに応えれば更に憐れみの報いを受けるし、もしもそれに応えなければ、私たちはその天主の憐れみさえも受けることができずに、私たちには惨めな状態におかれてしまうこと、天主の憐れみをどうしても受ける事ができるように、天主様が私たちを目覚ませてくれる為に、惨めな状態に置かれてしまう、という事です。

どういう事かという事を説明させて下さい。

天主は私たちを無から創造されました。アダムとエヴァを完壁な状態において創り、幸せの中において創り、苦しみも悲しみも、病も死もない状態で創りました。そして地上の楽園に置いて下さり、遂には簡単な事を通して天主様の御旨を果たして、天国の永遠の至福を受ける為に、地上に置かれました。ところがこのアダムとエヴァは、その簡単な試験さえも、あえて踏みにじってしまいました。この地上の楽園に死をもたらしてしまいました。天主の御旨を果たさなかったからです。

選ばれたユダヤの民。アブラハムという立派な男を基礎として、唯一の天主を信じ、そしてそれに礼拝し、希望し、唯一の主を愛したアブラハム。

「そこから多くの子孫が出るだろう、そこから救い主が生まれるだろう」と約束された特別の民族、ユダヤ民族。この民族は特別に天主から選ばれて、愛されて、「救い主がそこから生まれる」という特別の憐れみの選びを受けました。しかし残念な事にこのユダヤの民族は、救い主を認めようとせずに、却って殺害をさえもしてしまいました。この民族はしたがって、国を奪われ、そして離散をしなければなりませんでした。

この選ばれた民の為に、特別の宗教の施設が与えられました。それは唯一、ここでのみ生贄を捧げる事ができるという神殿でした。エルサレムに建てられた神殿、ソロモンが建てた神殿でした。そしてそのソロモンが建てた神殿が70年間破壊されて、神殿が失われてしまったとしても、ゾロバベルがもう一度立て直し、そしてヘロデが拡張リフォームして、豪華絢爛にソロモンのようにまた復興して、その中で常に天主の心に気に入る、来たるべき救い主を意味するがゆえに、天主に嘉される生贄が捧げ続けられていた神殿、イエズス様も訪問したし、マリア様も行かれたし、その聖なる神殿も、イエズス様を受け入れなかったがために粉々に、跡形もなく消えて無くなってしまいました。

「エルサレム」という名前は、ローマ人によって名前さえも変えられてしまいました。平和な町エルサレムは、エリア・カピトリーナという名前に変えられました。聖ヘレナが来てその名をエルサレムに変えるまで、元に戻すまでそうでした。

これを思うと、主の選みを受けたにもかかわらず、憐れみを受けたにもかかわらず、それを拒否するという事には、恐ろしい結果が待っているという事が分かります。

この前フランスの王についても一緒に黙想しました。フランスの王ルイ14世、太陽王に特別に、イエズス様の聖心が償いの為にフランス王国の奉献を求めました。

その特別のお恵みを、フランス王の聴罪司祭であったイエズス会のド・ラ・シェーズ(de la Chaise)神父様に委ねる、とイエズス様は仰いました。ところがド・ラ・シェーズ神父様はそれをしようとしませんでした。おそらくしたとしても、王にその事をするように励ましませんでした。その結果何が起こったかというと、イエズス会全体が廃止されました。しかも教皇様によって。フランス王国も、あれほど愛された王国も、革命によって無くなってしまいました、共和国が起こりました。

イエズス様の、確かな、「どうしてもこれが本物だ」と分かっていた望みであったと分かっていたにもかかわらず、それを拒否した国、あるいは拒否した修道会は、あるいは神殿は、全くそのそれの為に苦い思いをしなければなりませんでした。

特にフランス王も投獄され処刑され、死刑されなければなりませんでした。イエズス会の総長も廃止された当時、リッチ(Ricci)神父様でしたが、投獄され、死ぬまで監獄にいなければなりませんでした。ちょうどイエズス様が罪無きにもかかわらず、投獄され処刑されたというのと同じ事をしなければならなかったかのようです。でももっと簡単な、「イエズス様の聖心への信心」という簡単な方法でそれを捧げる事ができたにもかかわらず、別の方法でそれを償わなければなりませんでした。

しかし、本当なら人類の罪の為に当然受けるべき罰があったにもかかわらず、その天から特別に与えられた簡単な方法を実践した所では、多くの恵みを受けました。

ポルトガルの国は、ファチマのマリア様の汚れなき御心を実践しました。するとお隣の国では市民革命があって、地続きでしたから革命の火がすぐ飛んでくる恐れがあったにもかかわらず、平和を保ちました。第二次世界大戦からも免れました。それ以前までは、ポルトガルは社会的にも経済的にも政治的にも非常に不安定で、もう無政府状態にあったにもかかわらず、安定と繁栄を取り戻しました。

3人の子供たちもファチマの子供たちも、普通の子供のようだったのに、ロザリオもめでたしだけで終わっていた、「めでたし」という一言で天使祝詞全部の代わりにしていた、そして数分でロザリオを唱えてしまっていた子供たちも、大聖人になりました。

ピオ十二世教皇様のもとで、聖母の汚れなき御心に対する信心の動きが非常に高まりました。するとその当時多くの人々が世界中で回心して、このままいくと世界中の人々がカトリック信者になると思われるほどでした。

シスタールチアによると、「この世に最後の救いの手段として、イエズス様は震える手で私たちに与えた、非常に簡単なこの世を救う手段がある」と言っています。「この最後の手段をなぜ震える手で与えるかというと、これを受けるか受けないかに、人類がかかっている、人類の救いがかかっているから」と説明しています。

ファチマでは仰いました、7月13日、マリア様の言葉によれば、「ロシアは戦争を挑発して、教会に対する迫害を挑発するだろう。多くの国々が色々な国々が無くなってしまうだろう。教皇様はたくさん苦しまなければならないだろう」と。

もしも国々が無くなってしまうのであれば、多くの修道会たちも無くなってしまうしれません、イエズス会のように。フランス王国が無くなったように、多くの国々が無くなってしまうかもしれません。

しかしこの最後の手段を使えば、おそらく聖母の汚れなき御心の見本として、ショーケースとして全世界に輝く手本として、あるいはポルトガルのように、あるいはファチマの3人の子供たちのように、多くの聖徳と保護を受けるに違いありません。

そこで私の思うには、ファチマ100周年でこれで終わったのではなくて、ファチマ100周年で私たちは目が開いた、私たちはよく理解したのです。

汚れなき御心に対する信心は私たちに与えられた最後の手段で、ロザリオの祈りと共にこの2つは最後の手段であって、これを取る事に私たちの生き残りがかかっている、という事を理解しました。

もしもこれをするならば実践するならば、私たちの聖徳と発展とが保証されている。しかしもしもこれさえもできなければ、私たちはこのまま惨めに消えて無くなるしかない。

どのような力強い国であれ、どのような力強い修道会であれ、どのような力強い人であれ同じだ、という事です。

では私たちはどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

ぜひ、特にこの聖母の汚れなき御心の聖堂では、マリア様の汚れなき御心の信心をますます深めていく事に致しましょう。

どのようにしたら良いでしょうか?私の思うには、この初土の信心を特によくするという事です。特に初土の15分の黙想をよくするという事を提案します。

ところで、1ヶ月に一度、初土に15分間だけ「さぁ」と言われても、その15分をうまく過ごす事ができないかもしれません。そこで私の提案したいのは、初土の15分をマリア様と一緒に過ごす為に、ロザリオの玄義を黙想しながらよく過ごす事ができる為に、毎日練習するという事です。どういう事かというと、「今度の初土の時には、この黙想をしよう」とすでに1ヶ月前から決めていて、そしてこの初土の為に例えば、「聖母の御告げを、喜びの第1玄義を黙想しよう」と思っていれば、その御告げについて常に毎日1ヶ月間考えて黙想して、夜も昼も、寝る時も起きた時も、学校に通う時も仕事に行く時も、いつも考えていて、マリア様の御心の中に深く入る事ができるように、マリア様の事を深く知る事ができるように、イエズス様の事を深く知る事ができるようにと、いつもそのお恵みを求めているならば、「イエズス様の聖心をもってマリア様の御心を慰めたい、だからそのお恵みを特別に求めたい、お願いする」という事をいつも思っているならば、この初土の15分は非常にきれいに過ごす事ができるのではないかと思います。

マリア様は、天使が現れた時に、「はい」と答えました、「フィアット“Fiat.”」天主の御母となる、救い主の母となるという事は、非常に名誉な事でした。ですからマリア様はマニフィカト、「わが魂は主を崇めて、高揚して、」と喜びと感謝の祈りをした事もできたかもしれません。

しかしおそらくマリア様は、救い主の母となるという事が、苦しみの母となるという事をよく知っていたに違いありません。ですから、「あなたは苦しみますけれども、良いですか?」という事を、その事の同意を求められたのです。

イエズス様は、ゲッセマニの園で、「もしもできるならば、この杯が私から遠ざかりますように。しかし私の意志ではなく、主の御旨がなりますように。“Fiat voluntas tua.”」と言われました。

ちょうどそのゲッセマ二の言葉と同じ言葉が、マリア様の口から出ます、「私は主の婢女です。仰せのご如く我になれかし。フィアット。」十字架を受け入れるという事です。

アルメニアにリヴィウ(Lviv)司教座聖堂がありますが、そこにはヤン・ヘンリック・デ・ロセン(Jan Henryk de Rosen)の有名な御告げの絵が描かれています。それにはマリア様の御告げの背後に、イエズス様の十字架の道行が描かれているので有名です。

なぜかというと、マリア様は「我になれかし」と言った時に、すでに苦しみをも受け入れたからです。マリア様はもちろん全く自由でした。「自分の苦しみは嫌だから、断る」と言う事もできました。もしもマリア様がその苦しみを受け入れなかったならば、フィアットと答えなかったならば、マリア様は苦しまなかったかもしれませんが、しかし全人類はもう、救い主を受ける事ができませんでした。ユダヤ教、あるいはフランスの王国、あるいはイエズス会が廃止されたように、このまま人類も真っ暗闇の中に、ずっと留まらなければなりませんでした。

人類の救いと光と命が、ナザレトという貧しい村の、小さなマリア様の家の、マリア様の「はい」という言葉から始まった、というのは何と素晴らしい事でしょうか。マリア様の「はい」という言葉を見ると、私たちもこれに促されて、ファチマのマリア様からの最後の手段が与えられているので、「はい」と答えるように強く促されているように思われます。

ですから特に私たちは、ロザリオの玄義を深く黙想して、初土の準備を良くしながら、深くマリア様の御心に入り初土の信心をする、という事をこのファチマ100周年の決心として、遷善の決心として取る事を提案したいと思っています。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


うるわしくも 咲きいでにし奇しき薔薇の はなよたぐいもなき そのかおりに

2018年02月09日 | カトリック・クイズ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

うるわしくも 咲きいでにし
奇しき薔薇の はなよ
たぐいもなき そのかおりに
われらが こころ和む
みいつくしみ 満ちあふるる
もろびとの はは マリア
ときわに たたえまつる

みちのほとり みどりふかく
しげれる そのときわ木
あえぎあえぐ わが たび路の
やすらいの すずかげよ
みははマリア 汝がまもりに
よろこび いさみたちて
みくにを 指してぞ ゆく

第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である その二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き2)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」 】

2018年02月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き2)
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き2)



第三の過程――この過程の病状は、聖務日課を、おろそかにとなえることである。
 教会の公式祈禱である聖務日課は、キリストの兵士に、かれがときどき戦場で倒れるさい、すぐに立ちあがるための、喜びと力をあたえる特効薬である。聖務日課はまた、霊魂にとっては、感覚の世界を超越して、高く天主の生命のいとなみにまで雄飛し、そこで静かにいこうためのツバサともなる。

 それなのに、こんなにありがたい聖務日課が、かれにとっては、やまらなくいやな重荷となる。典礼生活こそは、かれにとっても、信者たちにとっても、光りと喜び、気力と功徳、および天主の恩寵の源泉であるはずなのに、あわれかれ自身にとっては、いやで仕方のない義務でしかなくなる。そして、いやいやながら、この義務を果たすのである。――それは、敬神徳に抵触している、というだけでは足りないのだ。事業熱が、この美しい善徳を枯渇させてしまったのである。かれが、典礼のなかに見るものは、天主への礼拝、崇敬よりはむしろ、人目をひく祭典美であり、芸術美である。
 世に知られず、ただ独りでする、しかし誠意のこもった「くちびるのいけにえ」(聖パウロの言葉)である、聖務日課の祈りは、かれの心に、なんの反響も呼ばない。――賛美も、嘆願も、感謝も、赦罪も、祈願も、かれにとっては全く無意味である。
 つい最近までは、まじめに、聖務日課をとなえていたかれである。そのころ、よくかれは心のなかで、誇らしげにいったものだ。「自分だって、聖務日課を専門にとなえる、修道院の歌隊修道者におとらず、『天主よ、わたしは天使たちの前で、あなたをほめ歌います』(詩編137・2)と、天主さまに申し上げることができるのだ」と。それは正しい誇りであったにちがいない。むかしは、かぐわしい典礼生活の芳香で、かれの霊魂の聖所は、かんばしい香りをただよわせていたのに、いまはもう騒々しい、町のちまたと化してしまった。
 事業への余計な心配と、ふだんにふけっている放心が、かれの雑念を倍加して、心をからっぽにしてしまったのである。そのうえ、かれはこの憂慮すべき状態から救われようと、すこしも努力しない。心の戦いをあえてしない。
 「天主は、激動のなかには、いらっしゃらない」Non in commotions Dominus.(列王の書19・11)
 心が、激しくゆれ動いているとき、ほんとうの祈りができるはずがない。大いそぎでとなえる。わけもないのに、途中でやめて、ほかの仕事をする。なおざりにとなえる。いねむりをする。あとまわしにする。そんなことをすれば睡魔におそわれて、とうていとなえきれないと知りながら、いちばん最後の時間まで持ち越す。……たぶん、ときどきは、省略することもあろう。
 こうなれば、せっかくの霊薬も、毒になるだけ。賛美のいけにえも、罪の連禱になるだけだ。
 しかも、おそらく、小罪だけではすまないようになるだろう。
 
第四の過程――前のと、つながっている。
 ふちは、ふちを呼ぶ!
 こんどは、聖務日課どころではない。
大切な秘跡にまで、堕落の手をのばす。
 むろん、聖物だと思って、受けもし、授けもするだろう。
 だが、秘跡に含まれ、そこに鼓動している超自然の生命は、すこしも実感できない。
 イエズスが、聖櫃の中に現存しておいでになる、告解場にも臨在しておいでになる、とはタダ書物のなかの知識であって、この信仰が、かれの霊魂の深奥までしみとおっていないのである。
 カルワリオのいけにえたるミサ聖祭までが、かれにとっては、“閉ざされた園”である。たしかにまだ、汚聖にまでは行っていないだろう。すくなくとも、そう信じたい。だが、かれはもはやキリストの生ける御血の愛熱を、すこしも実感しない。聖変化のときも、心は氷のようにつめたい。聖体拝領も、冷淡で、気を散らしたまま、そして上べだけである。聖の聖なる儀式とスッカリ慣れっこになって、尊敬心などみじんもない。ただ仕来たりで、なんの気乗りもなしに執行している。おそらくいやがってさえいるのではなかろうか。
 こうまで格好悪い使徒の生活は、あきらかに、イエズスのご生命から遠く、かけはなれている。したがって、イエズスが、その親しい、ほんとうの友にでなければおささやきにならない内的なお言葉も、かれにとってはなんの興味もない。
 それでも、天主なる友のイエズスは、この不信の弟子に呼びかけることを、かたときもおやめにならない。かれの良心の空に、あるときは、おしかりのカミナリをとどろかし、あるときは、照明の稲妻を、お放ちになる。
 イエズスは、反響を待っておいでになる。心のとびらを、たたいておいでになる。 
 内に入れてくれ、と願っておいでになる。

 「わたしのもとにおいで、傷ついたあわれな霊魂よ、ただわたしのもとに来なさい。来さえすれば、なおしてあげよう。『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』(マテオ11・28)……『わたしこそは、あなたの救いである』(詩編34篇)……『わたしのもとに来なさい。人の子が来たのは、失われたものをたずねだして、救うためである』(ルカ19・10)……」
 イエズスは、こういっておいでになる。
 ああ、そのお言葉の、心にも耳にも、甘美なこと!
 やさしくも哀切なこと! それは、涙なしにはききえない。
 ああ、そのお言葉の、迫力にみちてること!
 「心を入れかえなければならぬ。もっとりっぱにならなければならぬ!」
 かれは、スッカリ感激して、心にこう誓うのである。

 ああ、しかし、心のとびらが、わずかしか開かれていないので、イエズスはおはいりになれない。冷えきった霊魂の園には、あたたかい良い考えのタネがたくさんまかれたが、明日の収穫はとうてい期待できない。天主の恩寵はいたずらに通りすぎて、霊魂にもたらしたものは、ただ忘恩という負債だけだ。

 それでも、イエズスは憐れみ深い。霊魂が天主の復しゅうを呼ばないために、その心に語り続けられるだろう。「イエズスを、おそれなさい。イエズスは、ひとたび通りすぎたら、二度とは帰ってこられないのだから」Time Jesum transeuntem et non revertentem と。

(この章 続く)

第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である その二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命 (続き)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命 (続き)
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命 (続き)


どのようにして、この霊魂は、これほど嘆かわしい状態におちていったのだろうか。
 無経験だったからである。
 あんまりおのれに、頼みすぎたからである。
 向こう見ずだったからである。
 虚栄心が強かったからである。
 臆病だったからである。
 持っている霊的資産は、ごくわずかだった。かまうものか!
 かれはただメクラめっぽう、危険にむかって突進していった。
 こうして、内的生活のたくわえは、みんな使い果たした。霊魂は、ちょうど、あまり泳げないくせに、激流に身をおどらせた、無鉄砲な人のようだ。激流に抗して泳ぐちからは、自分には全然ない。ものすごいうず巻きにまかれて、おぼれ死んでしまうのがオチである。
 いったい、かれはどのような経路をたどって、こんなにひどい堕落におちていったのか。
 今しばらく、ふりかえって、それを眺めてみよう。順序を追って、堕落の過程を、しらべてみよう。

第一の過程――霊魂は、福音の働き手の内的生活と、そのたずさわっている事業との関係において、超自然の生命が、超自然の世界が、天主の摂理が、イエズス・キリストのご活動が、どんなに重要な役割を果たすか、という点にかんして、ハッキリした、力づよい信念を、だんだんに失っていった。(もし初めに、それを持っていたとすれば!)
 おのれの事業を、信仰の目でみないで、欺むかれやすい世間的な目でみる。虚栄心そのものが、かれのいわゆるりっぱな目的を、たくみにおだてる。「どんな話を、お望みですか。天主さまはわたしに、雄弁の賜ものを、おあたえくださったんです。ほんとにありがたいことです」――ウヌぼれで、スッカリ世間的になった、ある説教師は、自分にへつらう人たちに、傲然とこう言い放ったものである。
 かれが求めるものは、天主よりむしろ、自分自身である。自分の名声を、自分の光栄を、自分自身の利益を、第一にしているのだ。「もしわたしが、今もなお、人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストのしもべではあるまい」(ガラツィヤ1・10)という聖パウロの言葉は、かれにとって、もはやなんの意味もないのだ。
 内的生活の諸原理を知らない、ということのほかに、いまひとつ、この堕落行の第一の過程を特徴づけるのは、かれの内的生活に、超自然的土台がない、ということである。超自然的土台がないからこそ、それが直接の原因となって、霊魂は、この過程にみられるような状態にまで堕落したのである。また、この土台がないためにこそ、その直接の結果として、放心におちいるとか、天主の現存を忘れ果てるとか、射禱を放棄してしまうとか、心の取り締まりを投げだしてしまうとか、良心の鋭敏さを欠くとか、規則正しい生活を捨ててしまうとか、とにかくこんなみじめな状態におちこむのである。
 ここから、冷淡は、もう近い。まだ始まってはいないが。
 
 第二の過程――内的な人は、自分の義務を、きちょうめんに果たす。それで、時間をひじょうに惜しむ。きちんと時間割をつくり、日課表をもうけて、それを正確にまもる。そうしないなら、朝起きてから晩寝るまでの一日は、ただ浮雲の生活にすぎない。らくな生活、気ままな生活、失われた生活にすぎない――と、かれは考えている。
 活動的生活にたずさわる人で、その活動に超自然的土台がないなら、遠からず、右にいった浮雲のような生活をするようになる。時間の使い分けに、信仰の精神がないものだから、じきに霊的読書をやめてしまう。たとえ読んだにしても、ちっとも勉強にはならない。――教会博士たちだったら、主日の福音の解説に、まる一週間もかけて準備してもよかったろう。だが、自分は、この忙しさではね……。

 偉い人たちが見えていないときには、好んでインスタント説教をする。インスタント説教だったら、お手のものだ、と独りぎめにして得意になっている。まじめな書物より雑誌のほうが好きである。固定した、長続きのする考えなど、かれにはない。蝶蝶のように、目は雑誌の口絵から、講談物へと飛びまわっている。
 まじめな知的仕事――すなわち、勉強は、人間に課せられた、天主のおきてである。小人だって、勉強もすれば閑居しないのだから、したがって不善をなさない。勉強は、徳にもなるし、苦業にもなる。それなのに、かれは時間がありあまるほどあっても、つまらぬことに費してしまう。気晴らしの時間を、できるだけたくさん都合しようと、くだらぬ心配ばかりしている。――何をやろうと、こっちの勝手だ! 手足まで縛られる法はない。自分には、これほど神聖な事業がある。これほどの社会的義務がある。時間はいくらあっても足りはしない。健康のため、気晴らしのために、これだけはどうしても必要だと思うのだが、その最小限の時間さえ、容易に見いだせない。それなのに、信心業に消費される時間ときたら、あまりに長すぎる。黙想、聖務日課、ミサ聖祭、信徒司牧、などなど――なんとかして、これをけずらなければならぬ!

 さっそく、かれは黙想を、短縮してかかる。黙想の時間も、不規則がちになる。すこしずつ短縮していったのが、あとでは全然やめてしまう。黙想を忠実にするためには、どうしても早起きしなければならない。かれは夜ふかしをする。それで、朝寝坊をする。早く起きるためには、早く寝なければならぬ。ところが、りっぱな理由があるので、夜おそくまで起きている。

 さて、活動的生活に従事する人で、黙想を全然やめてしまうか、または十分ないしは十五分に短縮してしまうなら、それは敵の前で武装を解除するにひとしい。「奇跡でもおきないかぎり、黙想をしない人は、大罪におちこむようになります」とは、聖アルフォンソの言葉である。
« A moins d’un miracle, dit saint Alphonse, sans oraison, on finit par tomber dans le péché mortel. »



「黙想をしない人は、超自然的に、なにもできません。どんなことにおいても、おのれにうち勝つことができません。黙想をしない人の生活は、純然たる動物的生活です」
« Un homme sans oraison n'est capable de rien, pas même de se renoncer en quoi que ce soit : c’est la vie animale toute pure. »
これは、聖ビンセンチオ・ア・パウロの言葉である。


 「一日に、タッタ十分間しか、黙想をしない者がありましたら、わたしはかれの救霊について、ハッキリしたことを、いいきることができます。黙想をしない人は、まもなく、けだものか、悪魔かになってしまいます。もしあなたが、黙想をしませんなら、あなたを地獄に投げこむために、悪魔は必要ではありません。あなた自身が、あなたを地獄に投げこむのです。これに反して、世界最大の罪人が、ここにいます。もしかれが、一日にタッタ十五分の黙想をしましたら、きっと天主さまから、回心の恵みをいただくでしょう。もしかれが、一日に十五分の黙想を、最後までつづけますなら――わたしは断言します――かれはまちがいなく天国にいくでしょう」 
« Sans oraison, on devient bientôt une brute ou un démon. Si vous ne faites pas oraison, vous n’avez pas besoin du démon pour vous jeter en enfer, vous vous y jetez de vous-même. Au contraire, donnez-moi le plus grand pécheur, s’il fait oraison seulement un quart d’heure par jour, il se convertira; s’il persévère, il est sûr de son salut éternel. »

 これは、大聖テレジアの言葉だといわれているが、これらの言葉の理論的当否は別として、本書の著者のわたしは、活動的生活に従事する司祭、修道者たちの霊魂についての、自分自身の経験から割りだして、次の一事を、自信をもって断言できると思う。すなわち、もし福音の働き手が、一日にせめて半時間の黙想をしないなら――様式にしたがった、まじめな黙想、――おのれに全然信頼をおかず、ただ祈りのみに信頼をおく、という土台のうえにすえられた、真実な決心をとらせる黙想をしないなら、――これこれの悪徳と戦わねばならぬ、これこれの善徳を獲得しなければならぬ、そのためには明日をたのまず、きょうこの日、これこれのことを――ずいぶん骨の折れる努力を要するこれこれの修業をしなければならぬ、というふうに、実生活にまでその効果をおよぼす、まじめな黙想をしないなら、わたしは断言する、このような福音の働き手は、必然的に、意志の冷淡へと落ち込んでいく。
 そうなると、不完全を避けることなど、眼中にはない。平気で、小罪をおかす。
 ちょうど水でも飲むように、小罪をおかすのである。
 注意して、心の取り締まり(la garde du coeur)を実行しないものだから、どんなに過ちをおかしても、良心は一向それに気がつかない。

 霊魂は、もはや何も見えない、メクラの状態である。
 過ちと思っていないものを避けるために、どうして戦う必要があるだろうか。
 霊魂は、わずらっている。病勢は、もうずいぶん進んでいる。
 黙想を捨てるから、いっさいの規則正しい生活を捨てるから(そして、これこそは、第二の過程の特長である)、当然の結果として、こんな憂慮すべき状態におちこんでしまうのである。

(この章 続く)


2017年10月20日 証聖者ケンティの聖ヨハネの生涯とファチマ

2018年02月07日 | お説教・霊的講話
2017年10月20日(金)証聖者ケンティの聖ヨハネのミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年10月20日、ケンティの聖ヨハネの祝日です。
今日のこの御ミサの後に、感謝の祈りの後に、いつものように一緒に終課を唱える事に致しましょう。明日も10時30分からミサがあります。



「憐れみのある人は、羊の牧者がその群れにするように教えて、道を示す。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はケンティの聖ヨハネの祝日です。ポーランドの守護の聖人です。

そこで今日、ケンティの聖ヨハネという人はどういう人だったのかという事を黙想して、その人生を垣間見て、

私たちはその聖ヨハネの一体、人生の中心の原理は何に基づいて生活していたのかを見る事に致しましょう。

最後に、私たちは聖ヨハネに倣ってどうすれば良いか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

聖フランシスコ・ザヴェリオが日本に到着して、まだ数年経つか経たないか、20年経つか経たないか、ポーランドのクラクフという街のケンティという村で、聖ヨハネは生まれました。

お父さんはスタニスラオ、お母さんはアンナという、とても敬虔な家族に生まれました。子供の頃から敬虔で、とても落ち着いていて、軽薄な所がなく、罪を知らない子供で、とても優しい良い子で、「きっとこの子は大きくなったら大聖人になるだろう」という事を思わせる子供でした。

頭が非常に良かったので、学校で学んだ後には、クラクフの大学まで進んで、哲学と神学を勉強しました。大学では勧められて教授になり、聴講生たちをその教えと、模範と、実際の生活態度や、あるいはその話す内容で、イエズス様への愛と信心で、聞いた人の心は必ず燃え立たせるようなものでした。

学徳も聖徳も認められて、ついに司祭に叙階されます。司祭になると、ますます司祭としての務めとして、天主様に対して罪の償いと、イエズス様、これほどまで私たちを愛するイエズス様、十字架の苦しみ、御血を流し、御聖体に留まり、私たちを日々、日夜愛して待っておられるイエズス様があまりにも愛されていないので、その罪の償いの為に聖務日課や、あるいはミサ聖祭、祈りと犠牲をたくさん捧げて、罪の償いをしていました。特にミサ聖祭を一生懸命真剣に立てて、罪の償いの為に、天主聖父にイエズス様のいけにえを捧げていました。

イクシーという所の小教区の主任司祭を数年していたのですけれども、あまりにも人々がイエズス様への愛から遠ざかっているという事を嘆いて、それを見るあまりに、そこでの主任司祭を続ける事ができなくなってしまいました。また学校からの要請があり、「ぜひ教授として、学生たちを指導してもらいたい」というひたすらのお願いを受けたので、そこに天主の御摂理を見て、愛の為に、この教授の職務を受け取りました。

もちろん授業を一生懸命準備して、講義して、神学・哲学を教えたのみならず、余った時間には燃え立たせるような火の付くような御説教をして、人々にイエズス様への愛を訴えて、あるいは燃え立つような祈りをいつもして、人々が天主様に立ち返るように、イエズス様をお愛しするように、イエズス様の愛がどれほど素晴らしいか、イエズス様を知るというのがどれほどの事か、という事をいつも訴えて、祈っていました。

聖ヨハネはおそらく、イエズス様と親しい、緊密な祈りを会話をしていたに違いありません。聖ヨハネがお祈りをする時にはきっと間近に、王であるイエズス様の現存を思い浮かべて、その現存の中に、全能の王の前に御前に出て、目と目を合わせて、天主様のその愛の深い眼差しに、ヨハネの愛の眼差しをもって、イエズス様に懇願して、特にイエズス様の御受難を黙想してそれに、イエズス様に祈りを捧げていた、との事です。特にイエズス様の御受難を黙想すると、ついつい時間を忘れて、夜通し黙想し、お祈りし、気が付くと朝になっていた、という事がよくあったそうです。

言い伝えによると、聖務日課によると、聖ヨハネの伝記によると、イエズス様を時々ビジョンで見たり、あるいは親しい会話を、天上の会話をしていた、との事です。天主様の御前にこうやって出て、霊魂の為に、「この霊魂を救ってください」「あの苦しい霊魂を助けてください」「あの私の友のあの霊魂を」「あの霊魂の為にこれを御捧げします」「あぁ、この霊魂を」と、イエズス様にお願いしていたのだと思います。

遂に、「イエズス様のこの御受難をぜひもっとよく知りたい、もっと黙想したい、もっとどうだったろうか」というその情熱のあまりに、エルサレムに巡礼さえもします。イエズス様の巡礼の地に詣でて、その血が流されたその聖なる地に行って、イエズス様の事だけに浸っていました。その情熱のあまりに、本当は非常に危険だったのですけれども、イスラム教徒たちに、イエズス様の十字架に付けられた事、その私たちに対する愛、その価値の尊さ、その真のいけにえについて、説教して回ったそうです。

エルサレムに行った後にはローマにも、エルサレムに行った他にもローマにも4回ポーランドから巡礼に行きました。使徒たちのお墓を巡り、きっと私たちがローマに行った時に受けたその感動を、更に大きなものを、大きな感謝と讃美のうちに、使徒聖ペトロ、聖パウロ、諸聖人のお墓のもとに行って、取り次ぎをお祈りされたのだと思います。

特にそのような巡礼を、自分の愛する隣人や煉獄の霊魂たちの為に捧げた、と言います、煉獄の霊魂たちがその苦しみが短くなりますように。

ある時には、ローマで泥棒に遭いました。身ぐるみを剥がれてしまうのですけれども、その時に盗賊はヨハネに「さぁ、お金はまだあるか!?」「ない。」「そうか」と言って帰ったそうです。すると、いざという時の為に金貨を隠して縫ってあったのを思い出して、「あれ?あ、ここにある、あった!」という事で、盗賊を呼び戻して、「おーい!友よ、ここにまだあった!あげる」と言ったら、その盗賊が、あまりにもこのヨハネが単純で、憐れに満ちた事を言うので、それにびっくりして、「そこまでしたら、本当にお前がかわいそうだ」という事で、自分の取ったものを全部返して、「お前、これで行け。ありがとう」とそのまま自分の取ったものを返した、という逸話があります。

あるいは聖ヨハネは、特に罪人、あるいは貧しい人、病の人に対する、あるいは弱い人に対する特別の優しさがあったので、自分の部屋にはあるいは食卓には、聖アウグスティヌスの部屋に食卓にあった格言と同じものが書かれてあったそうです、「ここでは他人の悪口を言わない。」聖ヨハネは決して他人の悪口を陰口を言わなかったそうです。貧しい人がいれば自分の食べ物を与えて、あるいは服がない人がいればその人に服を買ってあげたり、あるいは自分の持っている服をあげたり、ある時には必要なものをあげてしまったので、その隠す為にマントを覆って足を隠して家に帰ってきて、善行をしたという事が分からないように帰ってきた、とても控えめだった。

自分については非常に厳しくて、いつも床に、寝台も使わずに床にそのまま地べたに寝ていて、食べ物も着る物も、最低限だけで非常に満足していた。それだけではなく、いつも身に荒々しい毛皮のようなチクチクする物を着ていて、体には鞭打ちをしたり、非常にしばしば断食をしていて、特にこのような肉体での苦行は、貞潔を守る為に非常に熱心に行った。それから最後の死ぬ前の35年間は肉を絶って、小斎をずっと守っていた。いつも「この人生は短い」という事を知っていて、「この儚い、短い人生の後に、永遠の巨大な、長い長い終わる事のない幸せが待っている」という事をよく知っていたので、長い間人生のすべてを使って、良い死を迎えるように準備をしていた。

準備をしていて、準備をして準備をして、良い死を迎える事ができるように、いつも成聖の状態を保っていたのですけれども、自分の健康が衰えてきて、「あぁ、死期が近付いた」と分かると、自分の持ち物を全部貧しい人に配ってしまった。「いつもイエズス様と一致していたい」という願いだけしか持っていなかった。そこで聖ヨハネは1473年の12月24日、クリスマス・イブに亡くなりました。

聖ヨハネの取り次ぎによって、生きていた時もそうだったのですが、死後ものすごい多くの奇跡が起こって、そのお墓にお参りする来る人の数がますます増えていったのです。遂には、教皇様クレメンテ十三世は1767年に列聖して、ポーランドとリトアニアの守護の聖人と定めました。

では聖ヨハネの関心事というのは何だったのでしょうか?

それは、「天主様の憐れみ」であって、「天主がこれほども私たちを愛して下さってるのもかかわらず、愛されていない。だからその天主をお慰めしたい。その罪を償いたい」という願いでした。その為に、祈りと犠牲と苦行の一生を送りました。

もう1つは、「天主様のこの御望みは、霊魂の救いだ」という事で、「多くの隣人が、この霊魂が救われるように、特に弱い人や、かわいそうな人や、貧しい人を助けたい。無知の人、知らない人に、イエズス様の事を教えたい」という憐れみで燃えていました。特に「隣人の霊魂を救いたい、その隣人を助けたい」という事によって、隣人に接しておられました。この2つは結局は1つでした、「天主への愛」と、「天主を愛するが為に、多くの隣人を救いたい」という事でした。

ケンティの聖ヨハネの生涯を見ると、ちょうどファチマの二人の子供たちの生涯や、ファチマでマリア様が私たちにお願いした事とぴったり重なってきます。ケンティの聖ヨハネもマリア様も、私たちに同じ事を教えているようです。

「天主様は私たちを救いたい、永遠の命を与えたいと思っている。その為に全てをしたのだけれども、その愛は愛されていない。全く無視されて、それどころかもう既に極限まで侮辱され続けている。人類はこれ以上、罪を犯してはいけない。誰かがその罪の償いをしなければならない。その罪の償いというのは、単なるお祈りの口先だけで唱えるだけではなく、私たちがイエズス様の御前に行って、目と目を合わせて、イエズス様の天主の御稜威の前に、『マリア様と共に出ることができる』という特別の特権を使って、ぜひマリア様を通して、イエズス様に御憐れみと御赦しとを乞い求めて償いを果たす。天主に対する罪の償いを果たすと同時に、多くの霊魂が救われるように私たちが祈る、犠牲をする」という事ではないでしょうか。

では私たちも、マリア様の御心に入る事ができますように、ケンティの聖ヨハネの真似をする事ができますように、御取り次ぎを求めて、このミサを捧げていきましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日、2月7日は初水曜日(月の初めての水曜日)です「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」

2018年02月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2月7日は初水曜日(月の初めての水曜日)であります。

「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。



なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

2018年に聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
2018年に聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である 二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命

2018年02月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命

内的生活をいとなまない、使徒的事業家の落ちていく運命!
 それがどんなものだかは、一言でいいきることができる。――そういう事業家は、かりにまだ冷淡(tiède)におちいっていないとしても、しかしそれは、時間の問題である。宿命的に、必然的に、ひどい、とりかえしのつかぬ冷淡におちこんでいく。

 さて、内的生活において、冷淡であること、――感情や、自然の弱さからの冷淡ではなしに、“意識的な、故意的な冷淡”に沈んでいること、それはいったい、どういうことなのか。――霊魂が、習慣的に、しかも自分で承諾して、何の抵抗もなしに、放念とか、怠慢とか、そういったものに、好んでおちいっている、ということだ。自分で知りながらおかす小罪と仲よしになる、ということだ。それは同時に、霊魂から、救霊の保証をうばい取る、ということだ。大罪までもおかす気持ちになる、大罪にまで引きずられていく、ということだ。

 聖アルフォンソは、冷淡について、右のように教えている。そして、弟子のデシュルモン師(P. Desumont)は、それをみごとに解説している。

 内的生活をいとなまない使徒的事業家は、はたして必然的に、冷淡におちこむのか。――必然的におちこむのだ、といわざるをえない。この事実を証明するためには、司教で宣教師でもあったラビジェリ枢機卿(cardinal Lavigerie)が、その司祭たちにあてた次の言葉を引用すれば足りると思う。語る人が、使徒的事業への奮発心にもえる心から、それを発していることと、静寂主義をにおわせるものにたいしては、真っ向から反対する傾向のある性格の持ち主であっただけに、そのくちびるをついて出るものは、いっそう恐るべき強力な真理の言葉となって、ひびきわたる。
 枢機卿は、こういっている。
「この一事を、心に納得させておかねばならぬ。――すべて使徒たる者にとって、完全な聖性(すでに達成した聖性、という意味ではないが、すくなくとも、心でそれを望み、忠実に勇敢に、その達成を追及している聖性)と、完全な堕落とのあいだには、うす紙ひとえの距離しかない!」
« Il faut en être bien persuadé: pour un apôtre, il n'y a pas de milieu entre la sainteté complète au moins désirée et poursuivie avec fidélité et courage, ou la perversion absolue.»

 上の言葉を完全に理解するために、まず思いださねばならぬことは、原罪の結果、三つの邪欲が、われわれの人間性に、すでに堕落のタネをまいている事実である。霊魂の内にも外にも、敵が群がっているから、これとたえまなく戦わねばならぬ。危険は、四方八方から、霊魂をおびやかしている。これが、一方の事実だ。
 他方、使徒職にたずさわっている人で、もしかれが、おのれをとりまく危険にたいして、十分に備えをなし、十分に心をかためていなかったら、どんな運命におちこんでいくかを、研究しておく必要がある。

 Nというカトリック信者が、ここにいる。
使徒的事業に、一身をささげたい、という望みが、かれの心に芽ばえる。ところが、Nはまだ、この方面の経験がない。使徒的人物にあこがれ、使徒職に興味をもっているのだから、情熱の人である。血気にはやる性格である、と信じてもよかろう。活動に興味をもっている、おそらく教会の敵とのたたかいにも、興味をもっている、と想像してよかろう。さらに、仮定をゆるしていただくなら、かれの品行は、方正である。信心もある。熱心な信心家ですらある。だが、かれの信心は、天主のおきてを完全に、忠実に実行する意志の信心というよりむしろ、感情的信心である。さらに、かれの信心は、ただ天主のみをおよろこばせしよう、と決意している霊魂の反映ではなくて、いわば信心家らしい習慣の惰性(だせい)である。それは、賞賛すべき習慣ではある。だが、たんなる仕来たりにすぎない。
 黙想――もしかれが、それをしているとすれば――は、かれにとって、一種の空想、一種の知的遊戯でしかない。霊的読書も、一種の精神的気休めでしかない。好奇心のたわむれでしかない。したがって、かれの実生活にプラスするような効果は、なにひとつ生じない。おそらく、悪魔にだまされたのだろう、つまらぬ霊魂たちがよくそうしているように、かれもまた、ただ芸術的感興だけをもって、内的生活を味わっている。
 天主との一致について、高遠な、異常な道を論述している書物に、ことのほか興味をおぼえる。そしておのれもまた、著者の口まねをして、情熱的にそれを賛美し、それを論じる。せんじつめれば、この人は、ほんとうの内的生活はすこしも持っていないのである。持っているとしても、ごくごくわずかである。よい習慣は、いくらも持っている。自然の美質、自然の長所も、たくさん持っている。感心するほどの良い願望も、いくらかは持っている。だが、それはあまりに漠然と取りとめもない願望なので、天主と忠実に一致して生きる内的生活を、ささえてくれるほどに強烈ではない。
 これが、われわれの主人公Nさんの、ありのままの姿である。 

 いまやかれは、使徒的事業のために働きたい一心から、奮発心にもえて、いよいよこの新しい仕事にとりかかるのである。やがて、新しい仕事は、また新しい環境をいくつも作りだした。そして、この環境のゆえに、かれはだんだんおのれの外にでて、うわッつらな生活をせざるをえなくなった。そのために都合のよい機会が、次から次へと起きてくる。(使徒的事業にたずさわっている人だったら、だれでも、筆者のいっていることが理解できよう!)

 生まれつき物好きにできている、かれの性格を満足させるために、世間はよくしたものだ。浮き世の魅惑が、くびすを接して、面前に姿をあらわす。堕落の機会は、かぞえきれないほどやってくる。今までは、家庭とか、神学校とか、修練院の静かな敬けんなふんい気のなかにあって、または少なくとも、賢明な指導者の保護のもとにあって、なかば安全に守護されていたろうが、今は丸腰で、単身敵地にとびこんだようなもの。

 放心は、ますますひどくなる。なんでも見たい、なんでも知りたい、という危険な好奇心は、ますます強くなる。ちょっとした不愉快な出来ごとにも、がまんできない。すぐに腹を立てる。虚栄心は強くなる。嫉妬心はますます深くなる。あまりにおのれを頼みすぎる自負心、困難を前にしてしりごみする卑きょうな心、不公平、他人の悪口――こういう欠点がふえてくる。

 そればかりでない。心の弱さとか、多少にかかわらず、あらゆる種類の過度の愛情が、――活動の対象たる異性にたいする、または同性にたいする、あまりに自然的な情愛がだんだん心のなかに侵入してくる。かれの霊魂は、こういうことにはあまり訓練されていないので、そのはげしい絶えまない襲撃にむかって、間断なく戦わねばならぬ。かくて、霊魂は、しばしば深い痛手をこうむるのだ。

 そればかりならまだしも、かれはいったい、誘惑と戦うことを、まじめに考えているのだろうか。――うわッつらな信心しかもたないこの霊魂が。すでに自然的な、あまりに自然的な満足に、おぼれきっているかれが。自分は、たいへんりっぱな、たいへん高尚な目的のために働いている。自分の全活動を、全精力を、全能力を、そのためにささげつくし、消耗しつくしている、とウヌぼれているかれが……。

 そのうえ、悪魔は、注意ぶかく、かれの霊魂をねらっている。すでに、うまい餌をかぎつけたからだ。かれの自然的な、人間的な満足に反対するような、ヤボな悪魔ではない。それどころか、かえってその満足の炎に、油をそそぐ。全力をつくして、ますますかれを、おだてる。

 ある日、突然に、かれの目がさめる。シグナルは赤だ! 危険信号が、かれの目の前に出ている。守護の天使が、かれの耳にささやいたのだ。良心が、かれをとがめたのだ。――黙想をして静かに自分の生活を、反省しなければならぬ。自身の内部に、しりぞかねばならぬ。日常生活を取り締まる、なにかの規則を定めて、万難を排しても、それをまもりとおすように、強い決心をとろう。けっしてそれを破らないようにする。こんなにまで可愛くなったこの仕事、あの職務が、たといそのために、台なしになったとしても。

 ここまでは、殊勝な考えである。
 ああ、しかし、もうおそい。

 霊魂は、事業にそそぎこんだ努力が、はなばなしい成功によって、報いられるのをみて、スッカリ有頂天になっている。歓喜の美酒に、酔いしれている。
 「明日、明日になったらやろう。きょうはダメだ!」霊魂はこうさけぶ。「きょうは、とてもできない。だいいち、時間がない。前からやりかけているこの説教を、したくしなければならぬ。あの記事を書かなければならぬ。この信心会を組織し、あの慈善事業を起こさねばならぬ。この演劇会、あの音楽会の準備をしなければならぬ。そうそうこの旅行もしなければならぬ。もらった手紙には、返事を出さなければならぬ。しかもそれが、山のようにたまっている……」
Demain, demain, s’écrie-t-elle. Aujourd’hui, impossible; le temps manque, car je dois continuer cette série de sermons, écrire cet article, organiser ce syndicat, cette société charitable, préparer cette représentation, faire ce voyage, mettre à jour ma correspondance, etc...

 これはりっぱな、いいわけになる。かれは安心する。幸福にさえ感じる。自分の良心とさしむかいにならねばならぬ、と考えただけで、暗い気もちになるかれだ。まじめにおのれを反省するなんて、とうていがまんできることではない。

 悪魔が全力をふるって、思うぞんぶん、破壊と堕落の仕事をするのに、絶好のチャンスである。その時が、いよいよきた。かれの心はもはや、悪魔の加担者になりきっている。堕落のしたじは、もうりっぱにできあがっている。悪魔のぎせいになり終わったかれにとって、いそがしく立ち働くということは、すでに一種の情熱、一種の熱病とさえなっている。アヘン喫煙者が、アヘンなしには生きていかれないように、かれもまた、活動という刺激剤がなければ、すぐにさびしさを感じる。仕事につきものの喧騒を忘れる、おのれの心奥に沈潜する――こういうことは、とうていがまんできない。悪魔がその嫌気をふきこむのだ。そのうえ、悪魔は、次から次へと、新しい計画を、かれの頭にそそのかしてやまない。天主の光栄のためだ、世の人びとの大いなる利益のためだ、といって。じじつ、悪魔がもちだす動機は、いつもきまって、このうえなくりっぱである。

 これが、偉大な使徒を夢みていた、われわれの主人公のなれの果てなのだ! しばらく前までは、善良な習慣もたくさん持っていたのに、今ではもう弱さから弱さへと、さ迷いあるき、その弱さも、いっそうひどくなってゆくばかり。かれはいま、すべりやすい急な坂に、片足をのせているのだ。どうして谷底に、ころげ落ちないですむだろうか。

 不幸な人よ、あなたは良心がくもっているために、自分の活動が、それから生じる心身の焦燥が、すこしも天主のみ心にかなっていないことを、さとらずにいる。あなたは良心の声をちっ息させるため,良心の苛責をまぎらわすために、常にもまして活動へ活動へと、死に物ぐるいになっている。活動の渦巻きの中へとびこんでいく。胸中の苦悶を忘れるために!

 だが、そうすればするほど、必然的に過ちはふえていく。以前は、良心の苛責なしにはやれなかったことも、いまでは平気で、軽べつしながらやってのける。「なあに、自分が細心だから、いけないんだ!」心はそういっている。「時勢におくれをとらないように、注意しなければならぬ。当世の教敵とたたかうには、敵とおなじ武器を使用せねばならぬ!」

 そのために、かれは、いわゆる“積極的善徳”なるものを、さかんに礼賛する。謙遜とか、制欲とか、従順とか、克己とか、そういった消極的善徳は、時代おくれの信心である、中世紀の残骸である、といって軽べつし、排せきする。そのうえ、事業は、いつもよりずっと繁栄するものだから、人びとはかれをほめそやす。毎日毎日、新しい成功が、かれを訪れる。「天主さまは、わたしの事業を、祝福しておいでになる!」あざむかれた霊魂は、こうさけんでホクホクしている。「明日、明日になったらやろう……」といっていたその“明日”は、なるほど、いつものようにやってはくるだろう。だが、その明日は、大きな過ちにおちいっているかれ自身の、みじめな姿をたずさえてやってくるだけだ。――天使たちを号泣させるような、堕落におちこんでいるかれの姿を!
(この章 続く)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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