雨の日曜日
姑のパジャマがくたびれてきたし、フリースも買ってあげたいから選んでくれというオットの依頼で、車でちょっと郊外の大きなユニクロへ。
買い物が済んで、雨でなかったら紅葉も見ごろだったろうにねえと言いながら芦花公園のわき道を通り過ぎたところで近くに世田谷文学館があることを思い出した。
「今年は没後80周年で企画展やってるわ~ ここまで来たんだからついでに寄って行こうよ」
とついで扱いしてすみませんが、寄りました。
「自衛隊の次は朔太郎かよ 局ってまったく節操ねえなあ」と思われるでしょうね。自分でもそう思わないでもない。
世田谷文学館です。穴場っぽいけど好きな空間。カフェも素敵です。
こちらのパーキングは車ごとエレベーターに入って地下のパーキングに降りていく。閉所恐怖が多少あるワタシにはちょっときついパーキングです
ワタシの一番好きな詩人です
1886~1942幼少時は学校に居場所がなく色々な学校を放校になったりするが、本や音楽に親しんだ少年期。故郷を離れた東京で家庭生活が崩壊、再び帰郷した成年期。40代後半になって世田谷に居を構えてやっと人との交際を楽しむようになり、詩やエッセイや評論を執筆。
短編小説「猫町」なんとも不思議な文。違う世界に引き込まれるような・・・
裕福な開業医の家に生まれて、父には期待され母からは溺愛されながらも周囲になじめず、孤独な少年だった。
従兄弟のから短歌の作法を学び注目を集めるも、中学は一年落第し卒業したあとは高等学校は落第と入退学を繰り返し帰郷する。
次第に短歌の代わりに詩作に傾倒していく。
いかにも周りになじめず居場所がなかったんだろうな~と思われる。地方で周りに理解者もいないで孤独でもあったんだろうな~
28歳から32歳頃 詩を通じて 室生犀星、北原白秋、山村暮鳥などと親交が始まったころ
第一詩集「月に吠える」は彼らからの序文や後書きが添えられ、版画家田中恭吉と恩地孝四郎による挿絵の入った美しい本
ホントに美しい装丁。朔太郎氏の自筆の絵葉書も展示されてあったが、美意識の塊みたいな人だったんですね。
その後唐突に作品発表を中断し、マンドリン演奏などにいそしみ 一年後に次作「青猫」を発表。
朔太郎氏とマンドリンのつながりは有名です。故郷では彼にちなんだ音楽祭も開催されていたはず。
天性の才能がありすぎて周囲と馴染めなった人だったかもですね。
33歳から43歳 タイトルの青猫は「物憂げなる猫」を表すという。全体的にも憂鬱な色調。私生活も「一番陰鬱な梅雨時」だったらしい。
就職もせずに前橋の実家で暮らしていて、周囲から厳しい視線を浴びて妻子と上京
その後 東京でも転居を繰り返し、夫人と離婚して再び帰郷
父が死去した後は家督をついで、妹と共に上京、続いて母と二人の娘も加えて世田谷に移り住み終のすみかとする。
音楽、写真、デザイン・・・100年以上前に生まれてこういう分野に触れられたのは裕福な育ちで文化的な背景もあったのだろう。それらが結集して彼の詩や評論となっているんだなあと展示を見て思った。
彼の作品にインスパイアされた 絵画や漫画、自動からくり人形などの展示もあり、死後80年経った詩人が今もなお芸術家たちに影響を与えているのかと驚いたり・・・
雨だったし、お地味な文学館なので、そんなに見る人も多くはなかったが、熱心に見るカップルや世田谷っぽいマダムたちも数人。
そんな中、私が詩や評論の抜粋のパネルを眺めていたら
「お前、こういう文体が好きなんだなあ」というオット。ここまではいいんですよ。
その後
「だから お前は村〇春〇が嫌いなのかあ 確かに全然違うわなあ」ってデカい声で言うなってのよ。
こんなところに来る人の中にはハ〇キストがいるに違いないじゃないか・・・
このブログをお読みの方の中にも村〇ファンもいらっしゃるでしょうが、言い訳すると内容はともかくあの文体がダメってだけなのよ。
特に会話文を読むと 「うへぇ~~」って思うだけなのよ(あっ 言っちゃった)
と、いつものごとく「空気読んでよ~」とオットに小声で言って退散したのであった。
まあ、こういうのにつきあってくれるだけ良しとしよう。
つまるところ、文学は 顔文一致が望ましい。
そうそう 我が家のコーヒーカップの銘は「月に吠える」です
追記
このQRコードを読み取ると 毎日朔太郎さんの詩の朗読を聞けますよ
姑のパジャマがくたびれてきたし、フリースも買ってあげたいから選んでくれというオットの依頼で、車でちょっと郊外の大きなユニクロへ。
買い物が済んで、雨でなかったら紅葉も見ごろだったろうにねえと言いながら芦花公園のわき道を通り過ぎたところで近くに世田谷文学館があることを思い出した。
「今年は没後80周年で企画展やってるわ~ ここまで来たんだからついでに寄って行こうよ」
とついで扱いしてすみませんが、寄りました。
「自衛隊の次は朔太郎かよ 局ってまったく節操ねえなあ」と思われるでしょうね。自分でもそう思わないでもない。
世田谷文学館です。穴場っぽいけど好きな空間。カフェも素敵です。
こちらのパーキングは車ごとエレベーターに入って地下のパーキングに降りていく。閉所恐怖が多少あるワタシにはちょっときついパーキングです
ワタシの一番好きな詩人です
1886~1942幼少時は学校に居場所がなく色々な学校を放校になったりするが、本や音楽に親しんだ少年期。故郷を離れた東京で家庭生活が崩壊、再び帰郷した成年期。40代後半になって世田谷に居を構えてやっと人との交際を楽しむようになり、詩やエッセイや評論を執筆。
短編小説「猫町」なんとも不思議な文。違う世界に引き込まれるような・・・
裕福な開業医の家に生まれて、父には期待され母からは溺愛されながらも周囲になじめず、孤独な少年だった。
従兄弟のから短歌の作法を学び注目を集めるも、中学は一年落第し卒業したあとは高等学校は落第と入退学を繰り返し帰郷する。
次第に短歌の代わりに詩作に傾倒していく。
いかにも周りになじめず居場所がなかったんだろうな~と思われる。地方で周りに理解者もいないで孤独でもあったんだろうな~
28歳から32歳頃 詩を通じて 室生犀星、北原白秋、山村暮鳥などと親交が始まったころ
第一詩集「月に吠える」は彼らからの序文や後書きが添えられ、版画家田中恭吉と恩地孝四郎による挿絵の入った美しい本
ホントに美しい装丁。朔太郎氏の自筆の絵葉書も展示されてあったが、美意識の塊みたいな人だったんですね。
その後唐突に作品発表を中断し、マンドリン演奏などにいそしみ 一年後に次作「青猫」を発表。
朔太郎氏とマンドリンのつながりは有名です。故郷では彼にちなんだ音楽祭も開催されていたはず。
天性の才能がありすぎて周囲と馴染めなった人だったかもですね。
33歳から43歳 タイトルの青猫は「物憂げなる猫」を表すという。全体的にも憂鬱な色調。私生活も「一番陰鬱な梅雨時」だったらしい。
就職もせずに前橋の実家で暮らしていて、周囲から厳しい視線を浴びて妻子と上京
その後 東京でも転居を繰り返し、夫人と離婚して再び帰郷
父が死去した後は家督をついで、妹と共に上京、続いて母と二人の娘も加えて世田谷に移り住み終のすみかとする。
音楽、写真、デザイン・・・100年以上前に生まれてこういう分野に触れられたのは裕福な育ちで文化的な背景もあったのだろう。それらが結集して彼の詩や評論となっているんだなあと展示を見て思った。
彼の作品にインスパイアされた 絵画や漫画、自動からくり人形などの展示もあり、死後80年経った詩人が今もなお芸術家たちに影響を与えているのかと驚いたり・・・
雨だったし、お地味な文学館なので、そんなに見る人も多くはなかったが、熱心に見るカップルや世田谷っぽいマダムたちも数人。
そんな中、私が詩や評論の抜粋のパネルを眺めていたら
「お前、こういう文体が好きなんだなあ」というオット。ここまではいいんですよ。
その後
「だから お前は村〇春〇が嫌いなのかあ 確かに全然違うわなあ」ってデカい声で言うなってのよ。
こんなところに来る人の中にはハ〇キストがいるに違いないじゃないか・・・
このブログをお読みの方の中にも村〇ファンもいらっしゃるでしょうが、言い訳すると内容はともかくあの文体がダメってだけなのよ。
特に会話文を読むと 「うへぇ~~」って思うだけなのよ(あっ 言っちゃった)
と、いつものごとく「空気読んでよ~」とオットに小声で言って退散したのであった。
まあ、こういうのにつきあってくれるだけ良しとしよう。
つまるところ、文学は 顔文一致が望ましい。
そうそう 我が家のコーヒーカップの銘は「月に吠える」です
追記
このQRコードを読み取ると 毎日朔太郎さんの詩の朗読を聞けますよ