萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第57話 共鳴act.6―another,side story「陽はまた昇る」

2012-11-01 23:30:23 | 陽はまた昇るanother,side story
祈り、再生の森へ



第57話 共鳴act.6―another,side story「陽はまた昇る」

窓の向こうに闇が優しい。
漆黒に佇む梢のシルエットに星の銀いろ灯されて、深い藍染めの夜に瞬く。
静かな山小屋の夜、けれど壁を透かして人の話す気配がほんのり明るい。

…静かで温かい感じで、いいな

ゆるやかな夜にクライマーウォッチを見ると、まだ21時すぎ。
けれど早めの消灯時間に山荘は静まって、穏やかな空気に座りページを捲る。
その隣では美代がヘッドライトの灯にシャーペンを走らす、そのペン先はノートの受験問題を解き直していく。
そっと解答を覗きこんで、友達の勉強進度に周太は微笑んだ。

…ん、正解だね?…美代さんやっぱり頭良い

今回も受験勉強の相談をしようと、美代は疑問点や苦手な問題をノートにまとめて持って来た。
美代が大学受験を決めて4ヶ月、夏を迎えて本腰の時期へ入った上に仕事との両立では寸暇も惜しいのだろう。
これだけの努力と4ヶ月前から今までの進度から考えると、この調子で伸びれば合格圏内へ入る可能性がある。
そろそろ模試も受けたら良いだろうな?そんなことを考えながら周太は、抱えた膝の本に視線を移した。
ヘッドライトのまるい光に広げたページには、若いブナ林の物語が綴られている。
その行間に今日、堂平で見た光景があざやかに映りだす。

…きれいだった、優しくて、静かで明るい

若木と中木が織りなす翡翠いろの世界は、静穏の底に命の息吹きが明るかった。
あの息吹きは樹幹を奔る水の鼓動かな?そんな考え巡らせる背中は木の壁が温かい。
こうして山の上で樹木のことを考えていると、警察官であることが遠く異世界に想えてしまう。

…でも明日は戻るんだ、お父さんのこと知るために…そして俺のために、

明日の今頃は、ネオン華やかな不夜城の交番に自分は立っている。
明日からまた始まる父の軌跡を追う時間、それは危険への不安と孤独が寂しい。
そして今ここで座って過ごす植物学と山の時間は温かで、夢への明るい昂揚が楽しい。
そんな比較には植物学の時間だけなら良いのにと想うだろう、けれど、このどちらも大切な時間だと信じられる。

どんなに厳しい時間でも、真直ぐ超えたなら必ず前より大きな自分になれる。
そのことを自分は13年間の孤独な時間と、父を撃ってしまった男の姿から教えてもらった。
父を失った後の哀しい時間があったから自分は強くなれた、その涯には大切な人との出逢いと今座る夢が待っていた。
それは父を殺害した男も同じ、自暴自棄に犯した罪の向こうには、人を温かな食事で癒していく喜びに今は生きている。
こんなふうに人は与えられた苦難の時を逃げずに超えたなら、きっと時間たちの意味を知る優しい瞬間が訪れる。
だから明日も自分は新宿に帰る、そして父の軌跡の涯を見つめる瞬間から目を逸らさない。

…きっと、その意味が解るときがくる…そのとき隣に英二、いてくれるかな

ライト照らすページの行間、そんな想いに微笑める。
ゆるやかな夜に過ごす今、母も職場の仲間たちと笑いながらも「時間」を見つめているだろう。
たぶん母も今この7月という瞬間、息子が夫の世界へと向かうカウントダウンに様々な想いを抱いている。
それでも母はもう揺るがないでくれる、それは警察学校に入ると決めた時にしてくれた覚悟から、変わらない。

…お母さん、ありがとう…

いま山の星を見上げる窓、その向こう遥かな空に母も星を見ているだろうか?
そんな想いに14年前の「銀河鉄道の夜」が窓に映りだし、父と、父に似た俤に心が廻りだす。
幼い日に屋根裏部屋の天窓に見つめた、命が眠る場所に向かう列車の幻と父への愛慕が、英二への想いと重ならす。
いまごろ英二は何をしているのだろう、光一とビールを飲んでくれているだろうか?

「…宮田くんのこと、考えてるの?」

静かな可愛い声に笑いかけられて、周太は隣を振り向いた。
夜空からヘッドライトに移った視線がまぶしい、すこし目を細めて周太は素直に微笑んだ。

「ん、光一のことも考えてたよ?…ふたりで今ごろ、ビール飲んでるかなって、」
「きっと飲んでるね?でも、ふたりには私と湯原くんが何をしているのか、想像できません。はい、お願いします、」

可笑しそうに笑って美代は、解き終えたノートを差し出してくれた。
受けとってすぐ目を通していく解答は、全部きちんと出来ている。嬉しくて周太は小さな声で微笑んだ。

「全部正解です、美代さんって頭良い…大学の受験勉強してるって、英二も光一も知ったら驚くだろうね?」
「ね?合格したときに言うけど、どんな顔するか見モノね、」

楽しげに笑って美代はノートとペンを片づけていく。
ヘッドライトを外し布団に転がると、嬉しそうに明るい目が笑いかけてくれた。

「ね、こっから内緒話の時間よ?布団に転がってお喋りしよう、」

さあ存分にお喋りを楽しもう?
そんなふう綺麗な明るい目は笑ってくれる。
なんだか嬉しくなって周太は、素直に頷いて本をしまうとライトを消した。

「ん、おしゃべり良いね?…なにか話したいことあるの?」

隣の布団へ横になると、周太は枕に頬杖ついた。
すぐ隣で美代も楽しそうに頬杖ついてくれる、そして悪戯っ子の目で微笑んだ。

「話したいことのトップは、宮田くんネタです」
「あ…、そうなの?」

いきなり核心から話すんだ?
気恥ずかしくなって首筋が熱くなってくる、でも暗いから見えないだろう。
山の闇に感謝しながら羞んだ周太に、美代もすこし気恥ずかしそうに笑ってくれた。

「あのね、森の匂いって、宮田くんの香と似てるなあって思ったの。今日、堂平でブナの純林を歩いたとき、」
「あ…美代さんもそう思ったんだ、」

同じように美代も感じたんだな?
そう感心しながら答えて、やっぱり首筋が熱くなってしまう。
恥ずかしくて困る、けれど美代と英二のことを話すのは楽しくて微笑んだ周太に、美代も気恥ずかしげに答えてくれた。

「うん、思ったの。だからね、あのとき湯原くんも、宮田くんのこと考えているのかなあって想ったの」
「美代さんも英二のこと、考えていたの?」

静かな小屋の夜に、お互い小さな声で話しあう。
低めた声に聴いた隣、美代は羞みながらも楽しそうに頷いた。

「うん、考えてたの。それでね、光ちゃんが羨ましいって、思っちゃった、」
「光一を?」

どういうことかな?
そう見つめた周太に美代は、星灯りのなか綺麗に微笑んだ。

「私ね、最初は宮田くんが羨ましかったの。私と光ちゃんって幼馴染で、生まれた時から一緒でしょ?一番近い相手が光ちゃんだったの。
ずっと一緒に大きくなって、高校まで一緒だったでしょ?でも私には、光ちゃんの夢の世界には、雪山や最高峰には一緒に行けないから。
だから光ちゃんと一緒にどこまでも行ける宮田くんが、正直なところ羨ましかったの。でも宮田くんなら良いやって想えたけど、ね?」

低めた声で話してくれる想いが、自分には解る。
この同じ気持ちに周太は、そっと微笑んだ。

「ん…俺も同じように、光一に想ったよ?同じだね、」
「ほんと?良かった、やっぱり私たちって同じなのね?」

うれしそうに綺麗な明るい目が笑ってくれる、その笑顔が嬉しい。
こんな感情も同じと共有できる、それが何だか幸せで微笑んだ周太に美代は続けてくれた。

「宮田くん、御岳でも初日から評判が良かったの。初めての巡回で、もう秀介ちゃんを助けてくれたでしょ?
しかもイケメンで王子様みたいって、町の人たちの噂になっててね?そういう人が光ちゃんのパートナーになって。
どんな人なんだろうって私、ちょっと嫉妬しながら思っていたのよ。そうしたら光ちゃんに一緒に飲むからって誘われて。
その場所が、いつもの河原の所だったからね?いつも家族しか入れなかった場所に呼ぶなんて大事なんだろうって思ったの、」

薄闇と星明りのなか、美代が本音を話してくれる。
実直で明るい、綺麗な瞳の友人が初めて聴かせてくれる想いに、周太はそっと寄添った。

「会って話してみたら、見た目も良いけれど、それ以上に心がすてきなんだって納得しちゃって。だって光ちゃんの笑顔が違うのよ?
すごく幸せな貌で光ちゃん笑ってて、その笑顔がね、雅樹さんと一緒にいるときより楽しそうだったの。だから納得できちゃってね?
こんな貌で光ちゃんを笑わせてくれるなら、8,000mっていう高い危険なところでも光ちゃんを支えてくれるんだろうな、って想えて。
それで素直に思えたのよ、このひとは光ちゃんのアンザイレンパートナーになるべき人なんだなって。そして、富士山の雪崩でしょう?」

優しい闇のなか、そっと美代はため息を吐いた。
その貌がきれいで、静かに見惚れながら周太は友達の聲を聴いた。

「あのときのこと、光ちゃんは一言も私には話してくれないの。でも雪崩に遭って怪我した位はニュースと光ちゃんの様子で解かる。
話してくれないのはね、私には弱点を見せたくないし、理解も出来ないって光ちゃんが考えるからだって、もう解かっているのよ?
でもね、そういう光ちゃんの態度でよけいに解かっちゃって…やっぱり私は光ちゃんと一緒にいられないし、解かり合う事も難しい。
もう私から遠くに光ちゃんは行くんだな、って諦めみたいな覚悟が出来たの。私たちは大人になって、もう別の世界に行くんだって…」

もう別の世界に行く。
そう告げた美代の瞳から、すっと一滴の光が夜に煌めいた。
ずっと一緒に居られると想った相手が離れて、置き去りにされる寂しさ。そして他に選択肢が無い覚悟。
その想いの涙に美代の切ない覚悟が見えて、周太はそっと友人の頬へと指を伸ばし涙を拭った。

「ん…別の世界って気持ち、解かるよ?…俺もね、英二が山ヤの警察官になったとき、遠くなるなって寂しかったのも本当だから」

これは本音の想い。
英二が夢を見つけた事は嬉しくて、けれど自分の世界と遠いと想った。
この距離感が切なくて寂しくて、光一への嫉妬すら抱いてしまった。その想い微笑んだ周太に、美代も一緒に微笑んだ。

「ほんと?ありがとう、私だけじゃないのね?」
「ん、俺も一緒だよ?…おんなじに嫉妬してるよ?」

何度も自分も見つめた想いに、周太は微笑んだ。
そんな周太に美代も笑いかけて、楽しそうに続けてくれた。

「よかった、なんか安心しちゃうね?…それでね、私には出来ないことを叶えてくれる宮田くんに、羨ましくて憧れたの。
光ちゃんと同じ男で才能もあって、一緒に行けるのって良いなって。そしたら宮田くんは約束をくれたでしょう?絶対に大丈夫って。
絶対に光ちゃんを無事に帰らせるって約束してくれて、その通りに今もずっと光ちゃんと山に登って帰ってきてくれる。それが嬉しいの、」

英二は必ず約束を守ってくれる。
それは自分がいちばん知っている、その信頼に微笑んだ周太に美代は笑ってくれた。

「そういう宮田くんのこと、やっぱり好きです。だから今は光ちゃんが羨ましいの、いつも一緒に居られていいなって、」
「ん、その気持ちも一緒だよ?…俺も光一が羨ましいから、」

そっと告げて、笑ってしまう。
こんなことも一緒で同じなんて可笑しい、そう笑った周太に美代も笑ってくれた。

「光ちゃん、ふたりから羨ましがられて大変ね?でも私、光ちゃんと同じひと好きになるだなんて、想わなかったな、」

それは普通そうだろう、今の日本の感覚なら。
美代は女性で光一は男性、異性同士なら恋する相手も別だと普通は考える。
けれど現実はそうではなかった、そんな普通と違う「今」に周太は素直な想いと微笑んだ。

「ん、そうだね?きっと気が合うんだね、光一と美代さん…でも英二だったら仕方ないよね、」
「そうよね、宮田くんだもの?」

薄闇のなか美代はちいさな声に笑ってくれる。
可笑しそうに笑いながら、静めた声で周太に教えてくれた。

「光ちゃんが宮田くんを好きってこと、私はちっとも不思議じゃないの。男の人同士って普通と違うかもしれないけどね?
でも私も宮田くんのこと好きだから、光ちゃんが好きになるのも当然だって想っちゃう…それと同じに宮田くんの気持ちもね?
私は湯原くんのことすごく好きだから、宮田くんが湯原くんを大好きなことは本当に納得できるの。そういう宮田くんだから好きよ、」

ひそやかな声と綺麗な明るい目が周太を見つめてくれる。
その明るい眼差しをすこし羞かませ、真直ぐ見つめたまま美代は言ってくれた。

「私ね、宮田くんに恋して楽しいの。ごめんなさい、ひとの婚約者に横恋慕しちゃって…でも信じてほしいの、私の一番は違うの。
私が一番に大好きな人は、湯原くんです。恋愛でも家族でもないけれど、でも一番に解かってくれる、大切で信頼して、大好きよ?」

きれいな明るい瞳に、真直ぐ周太が映っている。
鏡のよう澄明な瞳は周太を見つめ、そして約束と笑ってくれた。

「だから一緒に夢も追いかけたいの、ずっと一緒に森林学を勉強しよう?いちばんの友達でライバルで、大好きな人でいて下さい、」

こんなこと言って貰えて嬉しい、そして切ない。
この切ない喜びに、心の底でそっと溜息こぼしながらも周太は、綺麗に微笑んだ。

「ありがとう、俺もね、美代さんのこと大好きだよ?…夢を見る仲間で、いちばんの友達でライバルだよ?」

こんなに信じて好きだと言ってくれる、夢を追う仲間と想ってくれる。
けれど自分は本当は、もうじき夢から遠い世界へと立ちに行ってしまう。
そこは間違えばもう二度と会えなくなる世界、それなのに美代は将来を託す夢の仲間と呼んでくれる。

…ほんとうに嬉しい、でも、ごめんね…

心の底で謝りながら、本音が泣いている。
それでも自分は希望を見つめられる、この友人の約束が本当になる日を信じている。
この約束を「いつか」必ず、約束しようと心から言える瞬間が来る。そう信じて、明日も新宿に帰りたい。



森は光に目覚めだす。

あわく白い紗のかかる森は水の大気に充ちて、頬に優しくふれる。
足元に気を付けて歩く登山靴は雫きらめき、踏み分ける下草の緑が瑞々しい。
ゆっくりと今日に昇りだす最初の陽光が、静かに樹幹から射し込んで周太は微笑んだ。

「…きれい、」

あわい靄に、光の梯子きらめく。
翡翠色の朝はブナ林に瞳を披き、静謐の輝きに鳥のさえずりが起きていく。
ふっと流れる山風に梢はゆれる、細やかな夜露が霧の雫になって森へ鏤められる。
輝く銀色の水玉に見上げた視界、ふわり、あわい緑の影ひとひら翳した掌に舞い降りた。

「きれい、ブナの葉っぱね。森がくれたのね、」

隣から覗きこんで美代が笑ってくれる。
その笑顔に微笑んで周太は、ウェアのポケットから手帳を出した。

「ん、そうだね…押し葉にさせてもらうね、」

綺麗な緑の葉を白いページに挟みこむ。
丁寧に綴じこむ自分の掌に、冬2月あのブナの巨樹に籠めた想いが重なった。

―…生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?

雪のなか英二が見守ってくれるブナの下、涙ごと古木へと想いを籠めた。
あのときの答えは今、すこし見え始めているかもしれない?
そう明るい想い見上げた梢に、透明な翠の暁が降りそそぐ。

明るい翡翠色の靄、穏やかで清澄な樹木の息吹。
水源林めざめる瞬間へと周太は、そっとカメラのファインダーを覗いた。
見つめる四角い空間には、純林の端で一本立ちに佇むブナの巨樹が映りこむ。
ひろやかに梢ひろげて朝を抱く、その壮麗な緑の冠に今日初めての風が吹いていく。
静かに朝露を幹から地中へと送りこむ、その雫の輝きに太陽の七色がきらめいた。

…あ、虹が

ちいさな溜息が心に微笑んで、シャッターを押す。
潔い機械音が指先ふるえて、ファインダーが切られ閉じられる。
そうして視界が閉じられる瞬間、森にふる光の梯子は虹を輝かせて樹肌の雫に耀いた。
ブナが水を廻らす瞬間のワンシーン、その一瞬のきらめきが周太のカメラに収まってゆく。
その映像に、静かな共鳴が心の深くに起きて周太は、ファインダーから目を離して森を見た。

…この景色は知ってる、実際に見たのと…詩のなか?

森ふる光の梯子、輝いていく虹の雫、翡翠いろの靄。
こんな山の朝を遥か幼い日に見つめた、そんな確信が静かに起きていく。
その光景に記憶のひとかけらが映りこんで、一篇の詩を記憶の声は謳いだす。


My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man
So be it when I shall grow old Or let me die!
The Child is father of the Man : 
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.

私の心は弾む 空に虹がかかるのを見るとき
私の幼い頃も そうだった
大人の今も そうである 
年経て老いたときもそうでありたい さもなくば私に死を!
子供は大人の父
われ生きる日々が願わくば 自然への畏敬で結ばれんことを


幼い日、幾度も読み聴かせてくれた優しいテノール、大好きな父の聲。
この詩を謳う父の想いは、祈りは、そして自分の願いは?

―…人の命は短いけど、もっと強い命を援けることも出来るんだね?それが樹医なんだろうね

幼い自分の声が、心深くから語りだす。
いま見つめる森の古木、その梢に声は続いて微笑んだ。

―…僕が樹医になって木を援けたら、木は喜んでくれる?…誰かも喜んでくれるかな?僕が今、この木を見て嬉しいみたいに
 …もし周が木を援けたら、木も嬉しいって喜んで周を憶えてくれるよ?その嬉しい心が、誰かを元気に出来るね
 …お父さん、僕ね?お祖父さん達を知らないでしょう?でもね、庭の木を見てると会っている気持になるの。なんか元気になれるの。
 山で初めて会う木も皆、そんなふうに優しいよ?…だから僕、木のお手伝いが出来たら良いなって思ってたんだ…ね、僕にも出来る?

新聞記事に見つめた巨樹、あのとき父と交わした会話?
そう気がついた意識から、幼い自分の声が笑った。

―…お父さん、僕、樹医になりたい。僕が元気をもらうお返しをしたい。誰かが木に元気をもらう、お手伝いしたいな

こんな自分にも出来る?

自分は人間で儚い命しかない、小さな存在。
しかも泣き虫で弱虫の甘えん坊、そう自分で解かっている。
だから何百年も生きる強い存在を、こんな自分が援けられるとしたら嬉しい。
木や花が好きだから見ているのに「男なのに変」だと言われてしまう、そんな時は哀しくて、でも好きな気持は誤魔化せない。
その「好き」が、強い存在を援けることが出来る?この命が尽きた後も、誰かの心を受けとめ励ますことが出来る?

「周なら、きっとなれるよ?周は木も花も本当に大好きだから、大丈夫、」

いまブナを見上げる想いの真中で、記憶の切長い目が明るんでいく。
綺麗な眼差しが見つめてくれる、そして穏やかなテノールが幸せに微笑んだ。

「きっと周なら、立派な樹医になれるよ、」

綺麗な明るい笑顔が、心から嬉しそうに笑いかけてくれる。
いつも、どこか寂しげな切長い目は今、隈なく明るい微笑にまばゆい。
あんなふうに父が笑ってくれるのは初めてで、幸せで、本当に嬉しかった。

「周、誰かを元気にするために生きるのは、本当に綺麗なんだ…周はその為に樹医になろうとしてるね、それは立派なことだよ。
そういう周がお父さんは大好きだよ?だから信じてるよ、きっと周太は立派な樹医になれる、必ず木の魔法使いに君はなれるよ、」

今、記憶に蘇える優しい祈りが、温かい。

この祈りを信じてくれる父がいる、だから自分も信じられる。
この祈りが幸せで、記憶のなか自分は笑って父の小指に指を絡めた。

―…じゃあ約束するね?僕、樹医になるよ…きっと難しいだろうけど、頑張る。ね、山に連れて行って?山で木を見て、勉強したい

あのとき自分は、父にねだった。
そして父は幸せに笑って、約束を応えてくれた。

「フィールドワークしたいんだね?良いよ、連れて行ってあげる。本も買いに行こうね、」

いま、自分は森にいる。
いま自分はフィールドワークに来て、昨夜は樹医に贈られた本も読んだ。
その全てが、どうして与えられたのか?この「今」を願ってくれた、遠い祈りの記憶が共鳴して瞳の奥が熱い。
熱ゆるやかに緑の視界へ紗をかけだす、それでも見つめる記憶の聲は切長い目と微笑んだ。

「周、きっと立派な樹医になれるよ?本当に自分が好きなこと、大切なことを忘れたらダメだよ?…諦めないで夢を叶えるんだよ」

木洩陽ふる暖かいテラス、樹医の記事と古木の写真。
あまいココアの香と母の快活な笑顔、父の優しいテノールと嬉しそうな笑顔。
遠い冬の日の記憶があふれだす意識の底から、ゆっくり湧き起こる熱がもう瞳にあふれだす。
あふれる瞳の熱が記憶を呼ぶ、そして、幼い自分の声が記憶から今の自分に微笑んだ。

―…諦めない。忘れないよ?…もし忘れても、絶対に想い出すから大丈夫。約束だよ?

約束は、樹医になる夢を想いだし叶えること。
この夢は愛する植物への想いと、大切な山桜への想いが生みだした。
あの日に見つけた夢への記憶がこみあげる、そして一滴の涙はブナの水源林へと降った。

「おとうさん、おもいだせたよ…約束、」

約束が呼ぶ名前に今、夢は目覚め、よみがえる。




The Child is father of the Man :
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.

子供は大人の父
われ生きる日々が願わくば 自然への畏敬で結ばれんことを





【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』】

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