萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

深夜日記:彩、深紅に翠

2012-11-11 22:38:55 | 雑談
萬紅の梢、青一閃。



こんばんわ、氷雨の降った神奈川です。
この雨は樹木には恵みだったかもしれません、乾燥つづきですから。

写真は御岳山にて、紅そまる椛に蔓性の植物があざやかでした。
万緑叢中紅一点という言葉がありますが、その逆。陽光透ける紅に翠が彩る梢です。
いま紅葉があちこちで美しいと思いますが、おススメや行きつけの場所ってありますか?

朝一にて最新話・第58話「双壁6」UPしてあります。
マッターホルンを見上げるベランダのシーンからスタートです、加筆ほぼ終わりました。
このあと校正を終えたら、短編か設定閑話をUPしようかなと思っています。

取り急ぎ、


第58話「双壁6」加筆校正が終わりました。




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第58話 双壁act.6―side story「陽はまた昇る」

2012-11-11 04:24:27 | 陽はまた昇るside story
峻峰、その頂点へ



第58話 双壁act.6―side story「陽はまた昇る」

空はブルーから淡紅に色を変えていく。
あわい紫に金色の雲ひるがえり、ゆっくり夜が降りてくる。
時計は午後8時、今7月のスイスは太陽の時間が長い。この明るい夜に、白と黒の壁は屹立して目の前にある。

「良かったよね、マッターホルン見える部屋でさ?ココ泊まっても見えない部屋あるんだよね、」

ベランダに座りこんだ隣、機嫌よく光一が笑っている。
白い手を添えカメラを膝に置き、グラスに口付ける貌は愉しげに明るい。
いま愉快でたまらない、そんな寛いだパートナーの空気に英二は笑いかけた。

「うん、本当によく見えるな、手配とかありがとうな、」
「大したことないね、ちょっと電話しただけだしさ、」

お安い御用だよ?そんなふう光一は愉しげに笑ってくれる。
トップクライマーだった父親の明広がフランス文学を愛した影響で、光一はフランス語の日常会話に支障ない。
そしてスイスはドイツ語とフランス語、イタリア語が公用語として使われている、だから光一のお蔭で言葉に不自由しない。
そういう語学力も世界中を登るなら必要になる、まだイギリス英語しか出来ない自分の語学力を考えながら英二は微笑んだ。

「七機の人は今日、着いたんだろ?そっちも見える部屋だと良いけど、」
「あの人たちはどうだろね?ま、明日の夜はヘルンリヒュッテだから、存分に見れるけど、」

からり笑ってグラスを傾ける指が、夕映えに染まりだす。
雪白の貌も落日の紅あわくさして桜いろ優しい、その瞳は氷食鋭鋒を映している。
いま光一は明後日の登頂だけに集中しているだろう、そういう集中力が強靭で迅速な登攀技術になっている。
きっと明日のロッククライミングテストも、光一は抜群の結果で合格するだろうな?そんな予想に英二は微笑んだ。

「光一、今日の写真はどれがお奨め?」
「うん?ちょっと待ってね、」

笑って光一はグラスをテーブルに置き、カメラを両掌で抱えこんだ。
馴れた手つきで操作していく、そして再生画面をこちらに向けてくれた。

「いちばんのオススメは、やっぱコレだね、」

底抜けに明るい目が笑って白い指が示してくれる。
肩寄せて覗きこんだ画面には、深紅のウェア姿の自分が映っていた。

「なに、俺の写真かよ?」

可笑しくて笑ってしまう、だって雪山の写真を予想していたのに?
この予想外に笑った英二に光一は、涼しい貌で飄々と笑って答えた。

「イイ貌だろ?ブライトンホルンの天辺から、マッターホルンを振り向いて見上げた瞬間だよ、」
「あ、写メ撮った後か?」

数時間前の記憶と微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が頷いてくれる。
また白い指は操作して、画面に雪峰をバックにした花の写真が現れた。

「下山してツェルマットまで歩いた時のだよ、ゲンチアナ・ブラキフィラって言ってさ、竜胆の仲間なんだ、」

青い花の姿と、種別の名前に心がノックされる。
この花に重なる俤への記憶に、英二は穏やかに微笑んだ。

「光一、この写真は田中さんにあげるんだろ?」

山ヤで写真家の田中が最後に撮ったのは、御岳山の竜胆だった。
あの花の撮影中に氷雨に降られた田中は、持病の心臓発作を起こし倒れ込んだ。
そして救助に来た英二と光一に看取られたまま、故郷の御岳山に抱かれて永い眠りについた。
あれから9ヶ月が過ぎる今、英二と光一は三大北壁の一峰を前にアルプスの竜胆を見ている。

「田中のじいさん、昔っから竜胆が好きなんだよね。帰ったら、仏壇に持って行ってやろうと思ってさ、」

笑って頷いてくれる光一の、透明な瞳が温かい。
親戚でもある田中老人は光一にとって、山ヤとしての基礎を鍛え上げた恩人だった。
そして両親を亡くした時も光一を抱きしめて泣かせてくれた、心から信頼する大切なひとだった。
そういう田中を自分も尊敬している、そしてもう一人の田中を敬愛する俤を想いながら、英二は微笑んだ。

「きっと田中さん、喜ぶよ。プリントする時、俺にも1枚くれる?周太にあげたいんだ、田中さんのこと周太も大好きだから、」
「うん、俺もそのつもりだよ?じいさんの竜胆の写真、いつも周太って持ち歩いてるし、花好きだしね、」

答えるテノールが幸せそうに明るんで、寄せた肩ごし英二へと笑いかけてくれる。
笑う秀麗な貌は透けるよう明るい、その透明な瞳が無垢できれいで、愛しさのまま英二は笑いかけた。

「光一、好きだよ」

名前を呼んで、すぐ傍の瞳と見つめあう。
見つめる眼差しに透明な瞳は底抜けに明るくて、そのままに無垢が笑んだ。

「ありがとね、英二。俺の別嬪パートナーは憎たらしいね?」
「どうして憎たらしいんだ?」

どういう意味かな?
そう見た肩越しの至近距離、透明なテノールが応えてくれた。

「いま、周太のコト話してたろ?可愛い奥さんネタの直後に口説くなんてね、浮気男の常套手段みたいだろ?嫌だねえ、」

語尾の「ねえ?」にご不満が現われている。
そんなに拙い事したかな?すこし困りながら英二は正直に口を開いた。

「嫌な思いさせたんなら、ごめん。周太も田中さんも気遣える光一のこと、優しくて好きだなって思ったから言ったんだ、ごめんな?」

本当にそれだけで他意は無い。
そう目でも伝えたすぐ隣、透明な目が真直ぐ見つめてくれる。
その無垢な瞳が笑って、白い指が伸ばされ英二の額を小突いた。

「ありがとね、英二。でもね、状況を考えて口説いてよね?まだ訓練控えてんだからさ、俺を変な気にさせるんじゃないよ、」
「ごめん、だけど俺の言った事いつもと変わらないし、奥多摩でも訓練の前とか言ってると思うけど?」

素直に謝りながらも、思ったままを英二は言った。
けれど隣は首傾げて英二を見、すこし困ったように微笑んだ。

「あのね?いつもは寮か車の中、後は山小屋か雪洞やテントで言ってるだろ?どこも変な気だろうが、不可能だからイイんだよ、」
「不可能?」

短く単語を反復して、英二はすこし考えこんだ。
いま言われた場所では不可能で、今いる場所なら可能なことは何だろう?
いつもなら「変な気だろうが不可能」なことは?そう廻らせた結論に答えが笑った。

「そういえば俺、光一とホテルに泊まるの初めてだな?ホテルだと自由に風呂が使えるから、ってこと?」

いつもの登山では山小屋やテント等か四駆の車中泊、だからホテルや旅館に泊まったことはない。
そのため風呂は日帰り温泉などで済ます、そして寮では共同の大浴場だから大抵は誰か一緒になる。
いずれも風呂を自由なプライバシーの中では使えない、その為に「不可能」なことは何なのか?
つまりそういう事なのかな?そんな予想に口開きかけた時、白い指が英二の頬を小突いた。

「解かったんならね、今は言葉にしないでくれる?今、俺は北壁の踏破に集中したいんだよね。明後日は特にスピード勝負だよ?
予定タイムで登りきるんなら集中力が必要だ、それには雑念になるモンは今、入れたくないんだよね。全部、終わってからにしてくんない?」

白い指で頬を突いたまま、透明な目が真直ぐ見つめて言ってくれる。
この言葉に戒められる通りだと納得して気付かされる、自分は緊張感が少し緩んでいた。
きっとブライトンホルンの標高4,000mを超えたことで、幾らかの満足感が気持ちを弛ませている。

―今日のはスタートに過ぎない、まだ終わりじゃない…この自覚に欠けたら遭難に繋がる、

別に口説くつもりは無かった、けれど今、言って貰えて良かった。
この感謝に英二は素直に微笑んだ。

「解かった、しばらく自重するよ。でも光一、頂上のキスが出来ないってこと?」
「それは良いよ、でも人がいるとこは禁止ね、」

さらっと笑って答えてくれる、その貌はいつもより鎮まっている。
もう感覚から登頂へと意識を集中させた、そういう雰囲気に自分自身も集中力を思い出す。
そんな英二を底抜けに明るい目が見、透明なテノールが明日からの予定へと微笑んだ。

「明日のロッククライミングが終ったらね、アルパインセンター行って手続したらヘンリルヒュッテ行こうね。で、明後日の朝には天辺だ」

言って朗らかに笑った山っ子は、どこまでも明るい。
いま光一は英二への恋慕より「山」への想いが占めている、そんないつも通りが嬉しくて英二も笑った。

「おう、明日は1回で合格するよう集中するな。五日市署と高尾署の人もヘンリルヒュッテで集合だよな?」
「だよ。もし明日が不合格でも、ヘルンリヒュッテに全員集合だからね?ま、今回の面子なら合格するだろうけど、落ちたらモロばれだね?」

言ってくれる底抜けに明るい目が、悪戯っ子に笑っている。
もし不合格だったら恥かいちゃうね?そう言外にふくませる笑顔に、潔く英二は笑いかけた。

「俺の明日と明後日の結果は、七機と五日市、高尾でも話題になるってことだよな?」

青梅署、五日市署、高尾署、第七機動隊山岳レンジャー。この4部署で警視庁の山岳救助隊は構成される。
今回のマッターホルン北壁登攀は、この警視庁山岳救助隊における合同訓練として各部署からパートナーごとに選出された。
だから英二の言動と登山記録は、警視庁山岳救助隊の全てに知られることになる。この現実に光一は軽やかに笑った。

「だよ?おまえにとったら今回は、俺のパートナーと次期セカンドの力試しをされる、公認テストってトコだね、」

本当に光一が言う通り、今回の合同訓練は英二の実力を公認させるためのテストだ。
既に光一は警視庁山岳会でも実績と実力を認められ、バックが後藤と蒔田であることも納得されている。
けれど英二は違う、元は一般枠で採用された上に山の経験すらなかった、この自分が置かれる立場を英二は改めて口にした。

「警視庁でも全国警察でも、日本の山岳会でも光一の実力は認められている。そのアンザイレンパートナーに俺が相応しいかどうか?
それを本当は、皆が危ぶんでるって解かるってるよ。三スラや滝谷とかも完登出来たけど、まだ俺は山の経験がやっと1年ってとこだ。
それに光一とふたりで登ってるから、どれも非公式な記録だよな?だから今回、他の部署の人に俺の完登を見せて公認される必要があるな?」

経験年数は無くても実力は有る、それを英二が示す場として後藤副隊長と蒔田地域部長は参加を決めてくれた。
警視庁山岳会のトップふたり、その意図に山岳界の秘蔵っ子は愉しげに微笑んだ。

「だね、今回は俺たちだけマッターホルンとアイガーの北壁を連登する。他のヤツは北壁アタックは片方だけだ、北壁はキツイからね?
だから宮田の連続アタックは無謀だ、そう皆は言ってるらしいけどさ。でも、後藤のおじさんも蒔田さんも無謀だなんざ思っちゃいない、
青梅署の皆も宮田なら出来るって信じてるよ、おまえの実力と努力を知ってるやつは皆そう思ってる。たぶん富士吉田署も思ってるだろね?」

黄昏そまっていく鋭鋒の壁、その眼前で山っ子が笑ってくれる。
その笑顔の言葉にふと思って、英二はそのまま訊いてみた。

「富士吉田署も?どうして?」

どうして山梨県警の所轄が自分を認めてくれるのだろう?
不思議で見つめた隣、可笑しそうに笑って光一は英二の額を小突いた。

「おまえ、冬富士で遭難救助したよね?あの学生のこと忘れてんの?」
「あ、それか、」

もう半年前の記憶に笑った英二に、アンザイレンパートナーも笑ってくれる。
そして透明なテノールが明確なトーンで言ってくれた。

「おまえの山の姿をいちばん見てるのは、俺だ。英二の実力と運は誰より俺がよく知ってるよ?だから世界で一番に俺がおまえを信じてる、
信じているから明日も明後日も、俺は本気を出させてもらうよ?英二にはお初の山だけどね、だからこそ、本気の俺についてきて欲しいね、」

初めての山、それも三大北壁に数えられるマッターホルン北壁。
そこで本気で登攀する光一のペースに着いていくことは、簡単な事じゃない。その意図へと英二は微笑んだ。

「光一のペースに着いて北壁を登れたら、簡単じゃないアタックを俺が出来たことになるな?そうしたら公認せざるを得ない、その為だろ?」
「そ、このテストに完勝するんならね、いちばん手っ取り早い方法だろ?」

軽やかなトーンで答えて、山っ子が笑ってくれる。
その透明な目は真摯に真直ぐ見つめて、はっきり英二に告げた。

「でも約束してよね?無理だと思ったら必ず、すぐ俺に言え、」

明確なトーンのテノールが、真直ぐに響く。
底抜けに明るい目は深みに澄んで英二を映し、無垢な瞳のままに言ってくれた。

「無理は事故に繋がる、それは却ってマイナスだ。絶対に無理するな、必ず自己申告しろ。それが出来ないなら俺は、最初から手加減する。
英二は正確に自分の調子を把握して、無理のないクライミングが出来る。そう信じているから俺は、本気だして登ろうって決められるね、」
だから約束してよね?少しでも無理があったら、ヤバいって判断したら、必ず自己申告しろ。その判断を信じて俺は、挑戦したいからね、」

英二の判断を信じている、だから本気で挑戦をすることが出来る。
この信頼がザイルパートナーとして嬉しい、嬉しくて英二は素直に微笑んだ。

「うん、無理って思ったら必ず言うよ。必ず無事に帰るって周太とも約束してるから、信じて大丈夫。光一との約束だってあるだろ?」
「だね、俺との約束キッチリ果たしてもらうからね?そのためには自己申告の約束も、ずっと守り続けろよ?」

嬉しそうに笑って光一はグラスに口付けた。
ゆれる白ワインに黄昏きらめき朱がとけて、あわい赤に酒は色彩を変える。
いま岩壁を黒く赤く染めていく最後の陽光を見つめて、英二はアンザイレンパートナーに確認した。

「明後日の北壁、目標タイムは?」
「それ、言っちゃってイイ?」

笑って振向いた声に花のような香があまい。
いつも光一をくるむ不思議な香、この「いつもの」になんだか安心する。
そんな安心が、控える現実への緊張を快くするのを見つめて英二は微笑んだ。

「うん、言っちゃって良いよ?その方が俺も心構えが出来るから、」
「よし、別嬪パートナーのお許しが出たね?」

楽しそうに笑って底抜けに明るい目が英二を見る。
そして透明なテノールは、明後日に懸ける夢を言葉に変えた。

「シュミッドルートを2時間だ。ヘルンリヒュッテを4時に出て、俺をトップにコンティニュアスでいく。ヤってイイ?」

マッターホルン北壁・シュミッドルートは標高差1124m、完登の世界最短記録は1時間56分40秒。
そこへの近似値へ挑戦しようと誘ってくれる、こうした誘惑は「必ず出来る」と確信が無ければ光一は言わない。
この申し出への信頼に、ひとつ呼吸して英二は綺麗に笑った。

「いいよ。速く登った方がマッターホルンは安全だし、とにかく着いていくよ、」

本当に片道2時間で登攀すれば頂上に6時、日の出の頃に到達できる。
それならヘルンリヒュッテに午前中に充分戻れる、この「午前中」がマッターホルンでは安全に繋がらす。
後は天候さえ恵まれたら大丈夫だろう、そんな考え廻らせる隣で光一は愉しげに笑ってくれた。

「よし、決まりだね。で、下山はヘルンリ稜でソルベイ小屋寄ろ?あそこの絶景は眺めないとね、」
「空中に張り出してるみたいな、写真のとこだよな?行ってみたかったんだ、あそこ、」

写真で見た天空の小屋、そこへの想い廻らせながらグラスに口付ける。
冷たさが喉を下って香が昇ってくる、辛口で高雅な香に英二は微笑んだ。

「この白ワイン旨いな?店で見つけたとき光一、すぐ買うの決めていたけど。元から知ってるワインだった?」
「うん。白いメルローって言ってさ、ティッチーノってトコのなんだよ。イタリア語圏だから、ラベルもイタリア語なんだよね、」

機嫌良く答えて光一は、傍らのボトルを英二に示した。
紺青色の降りだす空、それでも明るさ残すベランダでラベルを眺めて英二は訊いてみた。

「普通、メルローって赤ワインが多いよな?」
「だね?ティッチーノってイタリア国境なんだけど、赤だけじゃなくって白もメルローで造ってんだってさ。スイスでも人気らしいよ、」
「そうなんだ?スイスって旨いワインは国内で消費するから、海外には出回らないらしいけど。光一、よく知ってるな?」

パートナーの博学に感心しながら英二は、白い手のグラスへとボトルを傾けた。
ペールカラーのあわい金色ゆれるグラスに目を細め、満足げに光一は笑って言った。

「そりゃね、だって前に来た時、後藤のおじさんが買ってくれたんだよ。それで旨かったからさ、」
「それで知って…あ?」

相槌を打ちかけて英二は、止まってしまった。
いま自分は大変なことを聴いてしまったのではないだろうか?

―いま光一、前に来た時に旨かった、って言ったよな?

前に光一がここに来たのは、高校一年生の夏休みだと聴いている。
亡くなった両親の友人である後藤が、光一に実績を積ませようと連れて北壁を踏破した。
そのときに「買ってくれたんだよ、それで旨かった」と言うのはどういう意味だろう?

―あの真面目な副隊長が、そんなことするのか?

あってはいけない予想に首傾げて、ボトルのラベルを見つめてしまう。
今から8年前当時、すでに後藤は山岳救助隊でも山岳会でも警視庁の前線トップにいた。
奥多摩登山に訪れる皇族などVIPのガイド兼護衛も務め、山岳事故防止啓蒙活動にも取組み、警視総監賞など数々の受賞がある。
誰もが認める山ヤの警察官の鑑。そういう後藤副隊長が、そういう羽目の外し方をするものだろうか?

―これ以上、聴かない方が良いな?

そう決めて英二はグラスに口付けて、銀色の輝きだす空を見上げた。
紺青の空と呼応するよう峻峰は薄紅まばゆい、遅い黄昏にようやく山は眠りの気配を見せる。
この31時間後に登っていく頂を見つめ含む酒の、豊かな香があまく爽やかで辛口でも飲みやすい。
きっと美幸は好きな味だろう、周太も飲めるかもしれない?そんな想い微笑んで英二は隣に訊いた。

「なあ、このワインって土産で持って帰れるかな?」
「大量はアウトだけどね、きちんと梱包してトランクに入れたら大丈夫だと思うよ。周太のおふくろさんに?」

笑って訊いてくれる眼差しが、優しくて温かい。
その笑顔に英二は正直なまま、すこし切ない想いと微笑んだ。

「お母さんと、あと周太にって思ってさ。こういうのなら周太、わりと飲めるんだ。一緒に飲める機会があるか解からないけど、」

遠征訓練から戻ればもう、8月の異動は直ぐに来る。
この移動で周太は第七機動隊銃器レンジャーに配属され、休日が合うか解らない。
そして光一も同じ8月一日に異動する、そのあと9月一日に英二も異動すれば自分たちの関係は変化する。

―この訓練が終れば上司と部下になるんだ、俺たちは…

いま階級は光一が2つ上の警部補でも、役付きは同じ山岳救助隊員でいる。
まだ同僚と今なら呼べる、けれど異動すれば小隊長と隊員という立場に自分たちは分かれていく。
もう公の場では二度と呼び捨て出来なくなる、そんな分岐点の現実に英二は綺麗に笑った。

「光一とも1ヶ月は離れることになるな?異動までの間、出来るだけ一緒に飲んだりしたいな、」

告げた言葉に、透明な瞳が見つめてくれる。
すこし寂しげな瞳、けれど幸せに笑って透明な声は応えてくれた。

「うん、だね?1ヶ月分、今のうちに楽しんじゃいときたいね?英二、」

素直に笑って名前を呼んで、頷いてくれる。
この今が楽しい、そんな朗らかなテノールが正直に笑って、事実を教えてくれた。

「まずは明後日、下山したらまたコレ呑もうね?前に登ったとき、下山後の一杯ってマジ旨かったんだよね、」

言われた「前、下山後の一杯」に、含みかけたワインの香ごと英二は咽こんだ。




午前3時55分、Hornlihutte 標高3,260m。

黎明時、ヘルンリヒュッテは氷点下に凍り、扉を開けた途端に息が白い。
ヘッドライトの明りで見上げた岩壁は黒く沈む、けれど紺青色の天穹には銀の光が瞬いていた。
いま仰ぐ標高4,478mの頂は夜に融けて見えにくい、それでも頂点はそこにある。

―夢の場所の、1つだ

見上げる想いが、頂へ向かいたい想いへと瞳を披く。
これから登るルートは決して易しくない、そこをタイムレースで登っていく。
この難度の危険にすら今、愉しいと思う自分がいる。その横を第七機動隊と五日市署のコンビが笑いあう声が聞える。
その声すらも遠い意識は岩壁に集中していく隣、透明なテノールが笑ってくれた。

「よし、天候もバッチリだね。英二、行けそ?」

いつものよう雪白の貌が笑って、ヘッドライトの下から聴いてくれる。
いつも見つめている瞳は底抜けに明るく、これから挑む夢へと笑う。

―この笑顔を頂上でも見たいな、

誇らかな自由まばゆい山っ子の笑顔、この貌が輝くべき場所に立たせたい。
そのサポートを務めるパートナーとして、専属レスキューとして自分が認められる為に今、ここにいる。
この約束をした昨秋の森を想い今、この願い素直に微笑んで英二は想うまま頷いた。

「大丈夫だ。行こう、光一、」

綺麗に笑って英二は、山っ子のアンザイレンザイルを自分に繋いだ。






(to be continued)

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