高壁を超え、見つめる想いは

第58話 双壁act.9―side story「陽はまた昇る」
こんな顔は見られたくない、誰にも。
微笑が消えた顔は俯き廊下を歩く、その足取りが速くなっていく。
すぐ階段に辿り着いて軽く駆け降りる、周りを見ずロビーを通り抜ける。
そして外へ出ると足早なまま歩いて街を抜け、草原に立った。
「っ、…ぅっ、」
誰もいない草地に、かすかな嗚咽がこぼれだす。
もう捨てたはずの涙が瞳あふれて、草原に墜ちていく。
落とした視界に緑は靡き花はゆれる、その青い花へ涙と想い零れた。
―俺は結局、自分だけでは何も出来ない、誰かを利用してばかりだ、あの男と変わらない
こんな現実が、悔しい。
高低差1,124m、マッターホルン北壁シュミッドルート。
そこを2時間で自分は登頂し無事に下山した、それを誰もが褒め讃えてくれる。
けれど、それだって光一がトップを務めたから出来たのだと、自分がいちばん解かっている。
―俺はただ付いていっただけだ、あんなルートファインディングは俺には出来ない、
巨壁の登攀でルートファインディングを失敗すれば、時間ロスと体力消耗の危険を招く。
垂直の壁に在るとき人は身を護る術が限られ、高度の冷風に晒される疲労凍死の可能性も高い。
だからこそスピード勝負にもなるアルパインクライミングは、ルートを見極め迅速に行動する集中力が才能になる。
この集中力の凄まじさを今日、北壁の蒼い闇のなかで自分は、光一の背中に見つめていた。
そして思い知らされる、幾ら同等の体格と体力を持っていても、自分に才能は無い。
―ただ付いて行けるだけだ、自分では何も出来ない。山でも警察でも
さっき光一に告げた言葉も、同じことだ。
警察組織で自分の力を手に入れるためには、光一に付いていくしかない。
そうして光一の援けが無ければ「50年の束縛」は壊せない、周太を護り自由にすることは光一が居なければ出来ない。
―俺は、自分だけでは何も出来ない、大切なひとを護ることすら出来ない
そして泣くことすらも、自分は止められない。
もう周太だって泣いていない、嬉しい涙は見せても決して苦しい涙は見せない。
自分が護りたい人は強く泣かない、それなのに護ろうとしている自分は泣いた、あんなタイミングで。
『今日、北壁を登っているとき、おまえは何を考えていた?』
そう問いかけた光一の目は、真直ぐな山ヤの誇りが眩しかった。
警察官という肩書も、山岳救助隊の役職すらも関係が無い、ただ山ヤで男として立っていた。
なにも持たずに自分だけで立っている、そんな誇らかな自由と自信が輝いて、美しかった。
あの輝きを自分も欲しい、そう素直に憧れて見つめていた。
―それなのに俺は泣いたんだ、
悔しい、男として恥ずかしい。
あの誇らかな視線の答えを「泣く」にしてしまった自分が悔しい。
悔しくて、不甲斐ない自分が悔しくて、泣き止むことも出来ないでいる。
こんな自分の非力が悔しい、自分だけでは何の力も無いと思い知らされる。
「…っ、ぅ…ぅぅ…」
俯いて泣く、その頬を涙は止まってくれない。
この涙は悔しい涙、その悔しさは自分への怒りでもある。
こんなふうに泣く自分は狡い、子供じみている、そして「相応しくない」と思い知らされる。
あの美しく強靭な山ヤの、誇らかな眼差しを見られない。最高のクライマーのアンザイレンパートナーではもう、いられない。
そんな想いに自分から「相応しくない」と卑下して泣いて、泣顔を見せたくなくて逃げてしまった。
―もう光一は俺に呆れただろうな…化けの皮が剥がれたってやつだ、もう駄目かな
もう元には戻れないかもしれない、今日が最期のザイルだった?
そうしたら自分はこれから誰と山に登ればいい?もう山に登る資格すらない?
廻っていく考えは光りを失っていく、ただ昏い思考が廻って止まらない。
そんな根暗な自己に沈みだす意識に、ポケットの携帯が振動した。
こんな時に誰だろう?
そう想う余裕もないまま、反射運動に携帯を手にする。
ぼんやりとした視界のなか画面を開いて、ちいさな息を呑んだ。
「周太、」
着信の名前を呼んで、通話を繋ぐ。
そして耳元に当てた受話口から、懐かしい声が微笑んだ。
「英二、マッターホルンの北壁、おめでとう…お昼ごはん、ちゃんと食べられた?」
穏やかで優しい声が、温かい。
いま沈みかけた心が温もりに救い上げられる。
この声に寛がされた心が笑って、涙ひとつと英二は綺麗に微笑んだ。
「ありがとう、周太。昼飯ちゃんと食ったよ、体調も良いから安心して?」
「良かった…メールありがとうね、写真きれいだった。あ、今、電話していて大丈夫?」
ちゃんと英二の状況も心配してくれる、そういう細やかさが嬉しい。
こちらに来てから声を聴いていなかった、ずっと聴きたかった声が幸せで笑いかけた。
「うん、大丈夫。今、外で風に当ってるとこだから。久しぶりだね、周太の声。嬉しいよ、」
「ん、おれもうれしいよ?…あのね、後藤さんと吉村先生からも電話頂いたよ。あと美代さんからも、」
気恥ずかしげな声が笑ってくれる。
こんなふうに声のトーンだけでも表情が解かってしまう、そして逢いたい。
いま逢いたい想いに涙は頬を伝う、けれど英二は明るく微笑んだ。
「副隊長には下山して、すぐに報告の電話したんだ。吉村先生はメールしてさ、美代さんには光一が、」
呼び慣れた名前を言いかけて、息が止められる。
いつも呼んできた名前、ずっと憧れて大切にしてきた相手の名前、けれど今、名前を呼ぶのすら辛い。
この数分前の現実が喉に硬く重たい、現実の塊に塞がれて今、言葉が出ない。
―異動したら公には「国村さん」って呼ぶから…もう、プライベートでも呼ぶ機会なんて無いかもな、
もう2度と、名前を呼ぶことも出来なくなるかもしれない。
そんな未来への想い軋みあげ声が留められ、英二は硬く目を閉じた。
―泣くな、
心ひと声かけて、固い嗚咽を呑みこんだ。
けれど携帯電話の向こう、穏やかな声はいつものトーンで訊いてくれた。
「英二、光一と喧嘩でもしたの?」
「え、…」
どうして解かるのだろう?
いま遥か遠い場所にいて、8時間の時差がある。
いま真昼の太陽に立つ自分と夜に座っている周太、それでも解ってくれる。
ただ一本の電話を繋いだだけ、それでも心ごと繋いでくれた婚約者へ素直に笑った。
「うん、喧嘩したんだ。もう俺、光一に嫌われたかもしれない、」
「ん…そうなの?」
ゆるやかなトーンが微笑んで、「よかったら話して?」と伝わらす。
この言葉のいらない伝心が嬉しくて自分は、周太に恋をした。
もう1年以上前の夜の記憶に笑って、英二は口を開いた。
「天才の光一には俺なんか釣り合わない、俺は大した才能も無い。こんな俺は光一のパートナーには相応しくない、そう言ったんだ、俺、」
電話の向こう、ちいさな溜息こぼれる。
かすかな吐息だけ、けれど哀しそうな気配が伝わって静かな声が訊いてくれた。
「どうして、そんなこと言ったの?…光一のパートナーは俺だけって、英二言ってたのに、」
「うん…そう思いたかっただけなんだ、」
本音に微笑んだ頬を、涙が伝いおちる。
電話のむこう大好きな気配を感じ、草原のなか歩きだす。
その足元の花を避けながら歩いて、英二は微笑んだ。
「俺は何でも出来るって皆、思ってるけど。俺は真似っこする要領が良いだけなんだ、何でも巧い人の物真似しているだけ。
周太や光一みたいなオリジナルは、俺には何も無い。誰かの力を借りなきゃ俺は、なんにも出来ないんだ。今日もそうだったよ、」
今日も、そうだった。
その場所を見上げた視界、白雲まとわす山は蒼穹に佇んでいる。
青い虚空そびえるアルプスの女王、その壮麗な姿を見ながら英二は、草原の岩根に座りこんだ。
「今日はね、周太。朝の4時から登りはじめたんだ。まだ昏くて、ヘッドライトの明りだけの岩の壁は真っ黒で、雪のところは蒼く見えた。
俺には全部、同じ壁だったよ。でも光一は迷わずに登って、すごいスピードで綺麗にハーケンを撃っていくんだ。これって難しいんだよ。
ハーケンは下手に急いで撃ちこめば岩が割れるんだ、でも光一が撃ったハーケンには岩の罅割れが無いんだ。岩の目ってポイントがある、
そう光一は教えてくれるけど、光一みたいには中々出来ない。それに光一って、登るとき絶対に岩を蹴り落とさないんだ、小石も落とさないよ」
夜間のルートファインディング、ハーケンを撃ちこむ的確なポイントとスピード、的確な足と岩の使い方。
いつもセカンドとして登るからこそ知れる光一の才能と技術、その凄まじさが眩しい。
あの凄絶に砥がれた集中力と技術、それに敵わない自分の現実に英二は微笑んだ。
「光一は本当にすごいクライマーだって思う。今日、2時間ずっと一緒に壁を登っていて、俺との差が本当によく解かったんだ。
今日も本当は光一、ソロで登った方が速かったかもしれない。だけど光一は雅樹さんとの約束を叶えたくて、代りに俺と登ってくれたんだ」
今日も見つめた、光一の雅樹への想い。
最初に光一がアイザイレンパートナーに望んだ男、その俤を自分は抱いて登った。
誰に聴いても「いい男で良い山ヤだった」と言われる雅樹、その言葉たちに重ねて今、もう気づいている。
「それで俺、気付いたんだ。雅樹さんはクライマーの才能が本当にあった人だ、きっと光一にとって一番のザイルパートナーだよ。
俺はね、周太。雅樹さんの身代わりも出来ることが誇らしかった、でも身代わりなんて出来ないよ?俺と雅樹さんじゃ才能が違うんだ、
確かに顔とか背格好は似てるかもしれない、でも…俺は、雅樹さんみたいには登れない、性格だって雅樹さんみたいに綺麗じゃないんだ」
誰もいない草原から、蒼穹を指す峰を仰ぐ。
白雲のはざま凍れる岩は輝いて、8時間前に立っていた頂点を示す。
あの場所に立つべきだったのは、本当は誰なのか?その本音に涙ひとつ零れて、英二は微笑んだ。
「周太。今日、光一と北壁を登ったのは本当は俺じゃない、雅樹さんだよ。あの山の点に立つべきは雅樹さんだ、俺じゃない、」
こんな自分は光一に相応しくない、そう改めて思い知らされた。
この北壁を2時間を切るスピードで登る最高のクライマー、最高の山ヤの魂をもつ男。
それは天与の才能を持つ特別な存在、そんな相手に自分は今まで何をさせてきたのか?
―信頼させて巻き込んだんだ、周太の為にって言い訳して光一を巻き込んだんだ、
その全ては「利用する」目的だけじゃない、そう断言できる。
そこに素直な憧れがあった、本当に友達になりたくてパートナーでいたくて、ずっと一緒に山に登りたかった。
けれど結局は利用している、いつも光一の能力と立場を利用して、自分の思い通りに動かしてしまう。
そんな共犯者の日々に信頼を積み上げて、そして結局は何をしようとしている?
―共犯者になって信頼させて、惚れさせて、体まで手に入れようとしてる…結局はそういうことなんだ
初めて光一を見たのは、青いウィンドブレーカーの後姿だった。
警察学校の資料で見た山岳救助隊の訓練風景、その写真に誇らかな背中は輝いていた。
あの背中に憧れて夢を見つめた、あんな背中になれる道が周太を救う道になる、それが嬉しかった。
あのとき純粋な憧れだけがあった、けれど今は自責が泣きそうに微笑んで溜息こぼれだす。
ただ哀しくて悔しい、そんな溜息の向こうから穏やかな声は静かに微笑んだ。
「そうかもしれないね、でも英二…光一は本当に英二のこと大好きだよ、そんなこと言ったら哀しむよ?…光一を傷つけないで?」
優しいトーンは温かで、告げてくれる言葉が嬉しい。
きっと周太の言葉は真実だろう、そういう聡明さを周太は持っているから。
けれど今、崩れかけている自負と自信に、涙ひとつ頬伝って英二は微笑んだ。
「ありがとう、周太。だけど光一はもう、俺のこと愛想尽かしたかもしれない。そしたらごめんな、」
「そんなこと言わないで、謝らなくて良いから…その代り英二、約束して?」
「約束?」
言葉に微笑んで、訊き返す。
その向こうから大好きな声は、いつものトーンのまま微笑んだ。
「光一の言いたいこと、ちゃんと全部を聴いて?光一の気持ちを素直に受けとめて、心も体も全部、ね…そう約束して?」
ゆるやかに落ち着いた声は、明るく温かい。
温もりふれる懐かしい声、けれど告げられた言葉の意味に心揺らされる。
それは前にも言ってくれたこと、それでも今も確認したくて婚約者に問いかけた。
「周太、教えて?周太がいま言ったことって、光一が望んだらセックスしてってこと?」
問いかけに、ふっと電話の向こうが微笑んだ。
いつもの優しい微笑にほっと和まされる、そして愛しい声は言ってくれた。
「はい、そうです…でもね、しても俺に何も言わなくて良いからね?…ふたりが幸せだったら、それで良いから…ね、約束してくれる?」
やわらかな声は、揺るがない。
ただ温かく微笑んで優しい声は、約束をねだってくれた。
「光一の話を聴いて受けとめて?本当の気持ちで向きあって、ふたりで夢を追いかけて?そう約束して英二、俺のお願いを聴いて?」
お願いを聴いて?
そう周太に言われたら、自分には断れない。
それにこの「お願い」は英二の為に願ってくれる、いつも周太はそう。
この優しすぎる婚約者へと精一杯の恋と愛を伝えるには、どうしたら良いのだろう?
「周太、お願い聴いたら俺のこと、もっと好きになってくれる?ずっと傍にいてくれる?」
素直な想い、そのまま声になって伝えてしまう。
もっと好きになってほしい、ずっと傍にいて待っていてほしい。
そんなシンプルで単純な幸せを求めている、その願い素直に笑いかけた先で婚約者は笑ってくれた。
「ん、すきになる…だから言うこと聴いて?それで無事に帰ってきて?家も掃除して、おふとん干しておくから、」
言ってくれる約束は幸せで、けれど切ない。
いま周太は異動を控えて休暇も解からない、だから前より約束が減った。
この約束に我儘を言いたくて、正直に英二は婚約者にねだった。
「周太の作ってくれた飯、食べたい。約束してよ、周太?また俺に飯、作るって約束して?そうしたら言うこと聴くよ、」
「ん、…約束する、だから光一と話してね?この電話を切ったらすぐに、ね?」
微笑んで約束をくれた、そして背中を押してくれる。
こんなふうに結局自分は、いつも護るつもりが護られている。
あまい優しい抱擁、そんな穏やかな時間に電話を通しても繋いでくれる自分の婚約者。
その人への想いも北壁にいる時間は忘れていた、それほど集中した危険と幸福の時間を自分に与えた人。
その人への想いと二つながら見つめる心に涙は消えて、ひとつ肚に落ちた覚悟へと英二は綺麗に笑った。
「うん、すぐ話すよ。ありがとう周太、大好きだよ?ここから今、周太にキスしたい、」
キスしたい、大好きな大切な婚約者に。
そんな想いの向こう、羞んだトーンが楽しそうに笑ってくれた。
「ん、俺も大好きだよ?…またきすしてね、おやすみなさい」
「うん、キスするよ。おやすみ周太、夢で逢ったらキスさせてね?」
電話と8時間の時差越しに笑い合って、そっと通話を切った。
携帯電話をポケットにしまい仰いだ先、マッターホルンは午後の陽まばゆい。
ひろやかな空に雲を靡かせ翼のようにも見える、その美しい光景の渦中は今、風雪の冷厳に晒される。
あの場所に取り残されている者は今、生と死の際を見つめているだろう。それを見上げるここは花が咲き、陽光まぶしいのに?
―それが山の世界なんだ、美しくて厳しくて。光一も同じだ、
改めて山の世界を想い、草原に座りこんでいる。
膝元には青い花が光ゆれて、一昨日に見た花の名前を記憶に探る。
確か竜胆の一種だと光一が教えてくれた、けれど何という名前だったろう?
そう廻らす意識には高尾署の仲間を想う、あの雲から逃れていることを祈ってしまう。
今朝、一緒にヘルンリヒュッテを出発した時は2人とも元気だった。
けれど標高4,000mを超えた世界では高度障害も起きやすい、むしろ高度馴化が速い光一と英二が特異とも言える。
そうした体調変化に消耗しても北壁では逃場も少ない、もうヘルンリ稜の折返しに入っていると信じたい。
どうか無事に下山してほしい、祈りながら尖峰を見上げる背後、透明な声が叫んだ。
「…英二!」
ふっと風に名前を呼ばれて、肩越し振り返る。
その視線の先に草原の向こう、白いカットソー姿が駈けだした。
緑の海をカーゴパンツの脚が走り、伸びやかな長身はすぐ傍らに立つとテノールが叫んだ。
「だった、とか言うなよっ!」
叫んだ唇かすかに震えて、透明な瞳が見つめてくれる。
そして英二の傍らに膝を落し、白いカットソーの腕が抱きついた。
「か、過去形で言うなよっ、パートナーで登るの幸せだった、って…過去形で言うんじゃないよっ…ぅ、っぅ…」
抱きついて、透明な声が怒ったよう泣き出していく。
その声に瞳の底へ熱は共鳴して、熱が頬を伝い英二は微笑んだ。
「ごめん、光一。でも俺、本当に幸せだったんだ。おまえとザイル繋いで登れるの、幸せだったよ?」
「だから過去形で言うなっ!」
耳元に怒鳴って、きつく抱きしめてくれる。
高雅な花の香が頬ふれて体をくるむ、澄んだ馥郁のなかテノールが訊いてくれた。
「俺のこと…おまえの世界の全てだったって言ったな?…あれは北壁にいた時だけか?」
「違う、さっき言ったろ?」
頬を涙は伝う、けれど声はいつものトーンでいる。
もう嗚咽のない自分の声に微笑んで、英二は想うままを答えた。
「光一は俺の夢なんだ。俺が憧れて、俺が生きたい世界は山だ。その世界は光一が俺に教えたんだ、だから光一は俺の世界なんだ、」
自分を山に導いた、青いウィンドブレーカーの背中。
あの写真を見た瞬間から憧れて、山ヤの世界に夢を懸けて山の警察官になった。
あの瞬間から見つめ続ける相手と今、抱きあっている。この現実に微笑んだ英二に夢の人は訊いてくれた。
「おまえの世界の全てが俺って、さ…それって、俺の世界とおまえの世界が同じモノで、同じ世界に生きているってことか?」
「そうだよ、光一は俺の憧れで、俺が生きていたい世界の全てだ。だけど俺は、周太の隣に帰りたいんだ、」
正直なまま告げて、白い肩を抱きしめる。
広やかな青空のもと抱き合ったまま、草と花の香に英二は微笑んだ。
「周太がいてくれるから俺は、生きようって想えるんだ。笑って迎えてくれる、待っていてくれる笑顔が嬉しいんだよ。
周太を愛してる、周太無しなんて俺は嫌だ…周太がいない世界になんて俺は生きられない。だから世界の全てを懸けても護りたいよ。
光一は俺の全てで俺の夢だ、それを懸けても俺は周太を救けたい。だから光一のこと利用しようとする…こんなの光一には迷惑なのにな?」
勝手に周太を愛して恋して、勝手に光一を夢にして自分の世界にしている。
こんな勝手ばかりの自分が可笑しくて、涙のまま英二は綺麗に笑った。
「ごめん光一、俺の独りよがりだよ?本当に俺は情けない男でさ、人前で泣かないって俺は決めてたのに、でも今も泣いてるだろ?
こんなダメな男なんだ、俺。光一が俺の全てなのは本当だ、でも光一の一番のパートナーは雅樹さんだ。俺は相応しくないよ、ごめん、」
自分の弱さに身勝手さに、自分で呆れて可笑しい。
可笑しくて情けなくて涙は頬を伝わっていく、その涙にもう1つ涙を重ねて光一は言ってくれた。
「俺がおまえの全てだって言うんならね、俺の前では泣いてもいいだろ?だって俺はおまえなんだ、他人様に見せたワケじゃないね?
そしてね、俺とアンザイレン出来るのは英二しかいない、俺をビレイできるのは英二だけだ、だから過去形なんかにしないでよ、約束だろ?」
白いカットソーの腕が抱きしめて、透明な目が英二を見つめた。
真直ぐ誇らかな目が英二に笑う、そして透明な声は告げてくれた。
「英二が俺をビレイしてくれるから、俺は安心して全力で登れるんだ。俺にはおまえが必要だよ、俺を支えられるのは英二だけだね。
確かに雅樹さんを俺は忘れられない、でも生きて一緒に山に登ってるのは、こうして抱きしめて笑いあえるのは、俺には英二だけなんだ、」
光一には英二だけ、そう言ってくれる。
唯ひとりと認められて嬉しい、そう素直に微笑んだ英二にテノールは微笑んだ。
「俺のこと、過去形なんかにしないでよ?俺、英二がいなかったら独りぼっちだ、そんなの嫌だね、俺は英二と一緒がいい、ずっと、」
「うん、俺も一緒が良いよ、」
素直な想い笑って、英二は綺麗に微笑んだ。
涙の跡を拭わないで笑いかけた先、底抜けに明るい目が笑ってくれた。
「良かった、やっぱり俺たち相思相愛のパートナーだね?俺、さっき焦ったよ?泣いて出て行っちゃって、それも過去形で言って…俺、」
笑った明るい目から、涙またあふれだす。
涙と見つめてくれる透明な目は微笑んで、けれど声はふるえて想いを言葉に変えた。
「俺、英二が遠くに行っちゃうって…おも、って…怖くて必死で探したんだよ?…おまえの行きそうなトコ探して、訊いて回って…っ、
駅にも行った、カフェとか本屋とか…氷河の入口と、かさ…それでここに来て見つけたんだよ?俺を置いてなんか行くなよ…約束まもれよ、」
ぎゅっと背中に回した手がジャケットを掴んでくれる。
その震えがジャケット越しにも伝わって、腕のなか英二は抱きしめた。
「うん、約束だ。光一、俺たちは生涯のアンザイレンパートナーで、血の契だ。もう置いて行かない、さっきはごめん、」
「っ、…俺こそ、だね?」
嗚咽と一緒にテノールが言ってくれる。
すこし離れて英二を見つめ、ひとつ呼吸してから光一は口を開いた。
「さっき英二が言ってくれた明日のこと、おまえの言う通りだ。俺は高尾署を待つよ、」
言った声は落着いて、透明な瞳は笑っている。
すこし無念な想いは見える、それでも微笑んで光一は言ってくれた。
「今回のチームで警部補は俺だけだ。加藤さんは年次も齢も上だし、今回リーダーだけど階級は俺が上だね。ナンカあったら責任は俺だ。
このコト俺は、アイガーでいっぱいになっちゃって忘れてた、俺も未熟だね?コンナこと忘れちまうなんてさ、異動後はマジでアウトだよな、」
今回、英二の他は巡査部長で警部補は光一しかいない。
年齢は英二と共に最年少、それでも光一は階級と役職の責務がある。
その現実と、けれど英二自身の利己のために傷む想いに、光一は軽やかに笑ってくれた。
「あとね、周太を護るってコトについては俺、おまえに利用されてるなんざ思っちゃいないね。だって俺も周太を護りたいんだ。
俺の恋人が同じ目的で、しかも婚約者として大事にしてくれてるなんてね?俺にとっちゃ好都合だって前も言ったと思うんだけど。
だから変に罪悪感とか感じてんじゃないよ、そんなモン感じるんならね、俺に色っぽい貌でも見せて眼福を楽しませて欲しいよね、」
率直な言葉は信頼と恋愛と、そして純粋な優しさが温かい。
この温もりに心は切なく滲んで、熱は瞳の底から眦をきらめかせた。

夕刻、ホテルでの夕食で席に着いたのは七機と五日市署、英二と光一の6人だった。
それぞれが北壁で見た光景と、課題点を話しながら食事に笑いあう。
地元の食材を使った料理が半分ほど減ったとき、テーブルに2人案内された。
「遅くなって申し訳ありません、無線機が故障して連絡も出来ず、すみませんでした」
日本語で詫びた男たちは、高尾署のコンビだった。
すこし赤くなった雪焼けの顔は疲れて、けれど目は明るい。
それでも遅れたことへの緊張と謝罪が見える、その空気に英二は綺麗に微笑んだ。
「ご無事で良かったです、あの雲だと無線も難しいですよね?今、席を用意してもらいますね、」
無事な笑顔に笑い返し、英二はギャルソンに視線を合わせて呼んだ。
英語で話しかけ2つの席とメニューを用意するよう頼む、その隣から落着いたテノールの声が陽気に笑ってくれた。
「おつかれさまでした、まず飯にしてください。食いながら話しましょう、ちょうど明後日のミーティングしようかってトコです、」
明朗な言葉の労いは、大らかに温かい。
そんな光一の態度にテーブルは寛いで、食事の席は8人になった。
和やかでも一本の緊張にミーティングは始められ、予定と詳細の計画が決っていく。
そうして2時間ほどの談笑をすごして、部屋に戻ると窓の向こうは黄昏の時がゆっくり始まっていた。
「太陽と山のショータイムだね?英二、アレ飲も?」
楽しげに光一は笑って、グラスとワインボトルを冷蔵庫から出してくれる。
その横顔に笑いかけて、英二は素直な敬意を言葉にした。
「光一、さっきテーブルでカッコよかったよ?こういう上司と仕事したいって俺、想ってた、」
これは本音の想い、同じ男として素直に想えた。
こういう男を異動後は上司と呼べる、その幸せに微笑んだ英二に明るい笑顔ほころんだ。
「ありがとね、でも俺さ?あの二人がテーブルに来た時、おまえが口火を切ってくれたから話しやすくなったんだ。
俺にとって英二は最高の補佐役で、最高のアンザイレンパートナーだよ?別嬪で体力馬鹿で、頭も良くって言うこと無しだね」
そう言ってくれる笑顔は前より深くて、誇らかな自由と寛容が温かい。
その貌にふっと懐かしい山の姿を見て、英二は綺麗に微笑んだ。

(to be continued)
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第58話 双壁act.9―side story「陽はまた昇る」
こんな顔は見られたくない、誰にも。
微笑が消えた顔は俯き廊下を歩く、その足取りが速くなっていく。
すぐ階段に辿り着いて軽く駆け降りる、周りを見ずロビーを通り抜ける。
そして外へ出ると足早なまま歩いて街を抜け、草原に立った。
「っ、…ぅっ、」
誰もいない草地に、かすかな嗚咽がこぼれだす。
もう捨てたはずの涙が瞳あふれて、草原に墜ちていく。
落とした視界に緑は靡き花はゆれる、その青い花へ涙と想い零れた。
―俺は結局、自分だけでは何も出来ない、誰かを利用してばかりだ、あの男と変わらない
こんな現実が、悔しい。
高低差1,124m、マッターホルン北壁シュミッドルート。
そこを2時間で自分は登頂し無事に下山した、それを誰もが褒め讃えてくれる。
けれど、それだって光一がトップを務めたから出来たのだと、自分がいちばん解かっている。
―俺はただ付いていっただけだ、あんなルートファインディングは俺には出来ない、
巨壁の登攀でルートファインディングを失敗すれば、時間ロスと体力消耗の危険を招く。
垂直の壁に在るとき人は身を護る術が限られ、高度の冷風に晒される疲労凍死の可能性も高い。
だからこそスピード勝負にもなるアルパインクライミングは、ルートを見極め迅速に行動する集中力が才能になる。
この集中力の凄まじさを今日、北壁の蒼い闇のなかで自分は、光一の背中に見つめていた。
そして思い知らされる、幾ら同等の体格と体力を持っていても、自分に才能は無い。
―ただ付いて行けるだけだ、自分では何も出来ない。山でも警察でも
さっき光一に告げた言葉も、同じことだ。
警察組織で自分の力を手に入れるためには、光一に付いていくしかない。
そうして光一の援けが無ければ「50年の束縛」は壊せない、周太を護り自由にすることは光一が居なければ出来ない。
―俺は、自分だけでは何も出来ない、大切なひとを護ることすら出来ない
そして泣くことすらも、自分は止められない。
もう周太だって泣いていない、嬉しい涙は見せても決して苦しい涙は見せない。
自分が護りたい人は強く泣かない、それなのに護ろうとしている自分は泣いた、あんなタイミングで。
『今日、北壁を登っているとき、おまえは何を考えていた?』
そう問いかけた光一の目は、真直ぐな山ヤの誇りが眩しかった。
警察官という肩書も、山岳救助隊の役職すらも関係が無い、ただ山ヤで男として立っていた。
なにも持たずに自分だけで立っている、そんな誇らかな自由と自信が輝いて、美しかった。
あの輝きを自分も欲しい、そう素直に憧れて見つめていた。
―それなのに俺は泣いたんだ、
悔しい、男として恥ずかしい。
あの誇らかな視線の答えを「泣く」にしてしまった自分が悔しい。
悔しくて、不甲斐ない自分が悔しくて、泣き止むことも出来ないでいる。
こんな自分の非力が悔しい、自分だけでは何の力も無いと思い知らされる。
「…っ、ぅ…ぅぅ…」
俯いて泣く、その頬を涙は止まってくれない。
この涙は悔しい涙、その悔しさは自分への怒りでもある。
こんなふうに泣く自分は狡い、子供じみている、そして「相応しくない」と思い知らされる。
あの美しく強靭な山ヤの、誇らかな眼差しを見られない。最高のクライマーのアンザイレンパートナーではもう、いられない。
そんな想いに自分から「相応しくない」と卑下して泣いて、泣顔を見せたくなくて逃げてしまった。
―もう光一は俺に呆れただろうな…化けの皮が剥がれたってやつだ、もう駄目かな
もう元には戻れないかもしれない、今日が最期のザイルだった?
そうしたら自分はこれから誰と山に登ればいい?もう山に登る資格すらない?
廻っていく考えは光りを失っていく、ただ昏い思考が廻って止まらない。
そんな根暗な自己に沈みだす意識に、ポケットの携帯が振動した。
こんな時に誰だろう?
そう想う余裕もないまま、反射運動に携帯を手にする。
ぼんやりとした視界のなか画面を開いて、ちいさな息を呑んだ。
「周太、」
着信の名前を呼んで、通話を繋ぐ。
そして耳元に当てた受話口から、懐かしい声が微笑んだ。
「英二、マッターホルンの北壁、おめでとう…お昼ごはん、ちゃんと食べられた?」
穏やかで優しい声が、温かい。
いま沈みかけた心が温もりに救い上げられる。
この声に寛がされた心が笑って、涙ひとつと英二は綺麗に微笑んだ。
「ありがとう、周太。昼飯ちゃんと食ったよ、体調も良いから安心して?」
「良かった…メールありがとうね、写真きれいだった。あ、今、電話していて大丈夫?」
ちゃんと英二の状況も心配してくれる、そういう細やかさが嬉しい。
こちらに来てから声を聴いていなかった、ずっと聴きたかった声が幸せで笑いかけた。
「うん、大丈夫。今、外で風に当ってるとこだから。久しぶりだね、周太の声。嬉しいよ、」
「ん、おれもうれしいよ?…あのね、後藤さんと吉村先生からも電話頂いたよ。あと美代さんからも、」
気恥ずかしげな声が笑ってくれる。
こんなふうに声のトーンだけでも表情が解かってしまう、そして逢いたい。
いま逢いたい想いに涙は頬を伝う、けれど英二は明るく微笑んだ。
「副隊長には下山して、すぐに報告の電話したんだ。吉村先生はメールしてさ、美代さんには光一が、」
呼び慣れた名前を言いかけて、息が止められる。
いつも呼んできた名前、ずっと憧れて大切にしてきた相手の名前、けれど今、名前を呼ぶのすら辛い。
この数分前の現実が喉に硬く重たい、現実の塊に塞がれて今、言葉が出ない。
―異動したら公には「国村さん」って呼ぶから…もう、プライベートでも呼ぶ機会なんて無いかもな、
もう2度と、名前を呼ぶことも出来なくなるかもしれない。
そんな未来への想い軋みあげ声が留められ、英二は硬く目を閉じた。
―泣くな、
心ひと声かけて、固い嗚咽を呑みこんだ。
けれど携帯電話の向こう、穏やかな声はいつものトーンで訊いてくれた。
「英二、光一と喧嘩でもしたの?」
「え、…」
どうして解かるのだろう?
いま遥か遠い場所にいて、8時間の時差がある。
いま真昼の太陽に立つ自分と夜に座っている周太、それでも解ってくれる。
ただ一本の電話を繋いだだけ、それでも心ごと繋いでくれた婚約者へ素直に笑った。
「うん、喧嘩したんだ。もう俺、光一に嫌われたかもしれない、」
「ん…そうなの?」
ゆるやかなトーンが微笑んで、「よかったら話して?」と伝わらす。
この言葉のいらない伝心が嬉しくて自分は、周太に恋をした。
もう1年以上前の夜の記憶に笑って、英二は口を開いた。
「天才の光一には俺なんか釣り合わない、俺は大した才能も無い。こんな俺は光一のパートナーには相応しくない、そう言ったんだ、俺、」
電話の向こう、ちいさな溜息こぼれる。
かすかな吐息だけ、けれど哀しそうな気配が伝わって静かな声が訊いてくれた。
「どうして、そんなこと言ったの?…光一のパートナーは俺だけって、英二言ってたのに、」
「うん…そう思いたかっただけなんだ、」
本音に微笑んだ頬を、涙が伝いおちる。
電話のむこう大好きな気配を感じ、草原のなか歩きだす。
その足元の花を避けながら歩いて、英二は微笑んだ。
「俺は何でも出来るって皆、思ってるけど。俺は真似っこする要領が良いだけなんだ、何でも巧い人の物真似しているだけ。
周太や光一みたいなオリジナルは、俺には何も無い。誰かの力を借りなきゃ俺は、なんにも出来ないんだ。今日もそうだったよ、」
今日も、そうだった。
その場所を見上げた視界、白雲まとわす山は蒼穹に佇んでいる。
青い虚空そびえるアルプスの女王、その壮麗な姿を見ながら英二は、草原の岩根に座りこんだ。
「今日はね、周太。朝の4時から登りはじめたんだ。まだ昏くて、ヘッドライトの明りだけの岩の壁は真っ黒で、雪のところは蒼く見えた。
俺には全部、同じ壁だったよ。でも光一は迷わずに登って、すごいスピードで綺麗にハーケンを撃っていくんだ。これって難しいんだよ。
ハーケンは下手に急いで撃ちこめば岩が割れるんだ、でも光一が撃ったハーケンには岩の罅割れが無いんだ。岩の目ってポイントがある、
そう光一は教えてくれるけど、光一みたいには中々出来ない。それに光一って、登るとき絶対に岩を蹴り落とさないんだ、小石も落とさないよ」
夜間のルートファインディング、ハーケンを撃ちこむ的確なポイントとスピード、的確な足と岩の使い方。
いつもセカンドとして登るからこそ知れる光一の才能と技術、その凄まじさが眩しい。
あの凄絶に砥がれた集中力と技術、それに敵わない自分の現実に英二は微笑んだ。
「光一は本当にすごいクライマーだって思う。今日、2時間ずっと一緒に壁を登っていて、俺との差が本当によく解かったんだ。
今日も本当は光一、ソロで登った方が速かったかもしれない。だけど光一は雅樹さんとの約束を叶えたくて、代りに俺と登ってくれたんだ」
今日も見つめた、光一の雅樹への想い。
最初に光一がアイザイレンパートナーに望んだ男、その俤を自分は抱いて登った。
誰に聴いても「いい男で良い山ヤだった」と言われる雅樹、その言葉たちに重ねて今、もう気づいている。
「それで俺、気付いたんだ。雅樹さんはクライマーの才能が本当にあった人だ、きっと光一にとって一番のザイルパートナーだよ。
俺はね、周太。雅樹さんの身代わりも出来ることが誇らしかった、でも身代わりなんて出来ないよ?俺と雅樹さんじゃ才能が違うんだ、
確かに顔とか背格好は似てるかもしれない、でも…俺は、雅樹さんみたいには登れない、性格だって雅樹さんみたいに綺麗じゃないんだ」
誰もいない草原から、蒼穹を指す峰を仰ぐ。
白雲のはざま凍れる岩は輝いて、8時間前に立っていた頂点を示す。
あの場所に立つべきだったのは、本当は誰なのか?その本音に涙ひとつ零れて、英二は微笑んだ。
「周太。今日、光一と北壁を登ったのは本当は俺じゃない、雅樹さんだよ。あの山の点に立つべきは雅樹さんだ、俺じゃない、」
こんな自分は光一に相応しくない、そう改めて思い知らされた。
この北壁を2時間を切るスピードで登る最高のクライマー、最高の山ヤの魂をもつ男。
それは天与の才能を持つ特別な存在、そんな相手に自分は今まで何をさせてきたのか?
―信頼させて巻き込んだんだ、周太の為にって言い訳して光一を巻き込んだんだ、
その全ては「利用する」目的だけじゃない、そう断言できる。
そこに素直な憧れがあった、本当に友達になりたくてパートナーでいたくて、ずっと一緒に山に登りたかった。
けれど結局は利用している、いつも光一の能力と立場を利用して、自分の思い通りに動かしてしまう。
そんな共犯者の日々に信頼を積み上げて、そして結局は何をしようとしている?
―共犯者になって信頼させて、惚れさせて、体まで手に入れようとしてる…結局はそういうことなんだ
初めて光一を見たのは、青いウィンドブレーカーの後姿だった。
警察学校の資料で見た山岳救助隊の訓練風景、その写真に誇らかな背中は輝いていた。
あの背中に憧れて夢を見つめた、あんな背中になれる道が周太を救う道になる、それが嬉しかった。
あのとき純粋な憧れだけがあった、けれど今は自責が泣きそうに微笑んで溜息こぼれだす。
ただ哀しくて悔しい、そんな溜息の向こうから穏やかな声は静かに微笑んだ。
「そうかもしれないね、でも英二…光一は本当に英二のこと大好きだよ、そんなこと言ったら哀しむよ?…光一を傷つけないで?」
優しいトーンは温かで、告げてくれる言葉が嬉しい。
きっと周太の言葉は真実だろう、そういう聡明さを周太は持っているから。
けれど今、崩れかけている自負と自信に、涙ひとつ頬伝って英二は微笑んだ。
「ありがとう、周太。だけど光一はもう、俺のこと愛想尽かしたかもしれない。そしたらごめんな、」
「そんなこと言わないで、謝らなくて良いから…その代り英二、約束して?」
「約束?」
言葉に微笑んで、訊き返す。
その向こうから大好きな声は、いつものトーンのまま微笑んだ。
「光一の言いたいこと、ちゃんと全部を聴いて?光一の気持ちを素直に受けとめて、心も体も全部、ね…そう約束して?」
ゆるやかに落ち着いた声は、明るく温かい。
温もりふれる懐かしい声、けれど告げられた言葉の意味に心揺らされる。
それは前にも言ってくれたこと、それでも今も確認したくて婚約者に問いかけた。
「周太、教えて?周太がいま言ったことって、光一が望んだらセックスしてってこと?」
問いかけに、ふっと電話の向こうが微笑んだ。
いつもの優しい微笑にほっと和まされる、そして愛しい声は言ってくれた。
「はい、そうです…でもね、しても俺に何も言わなくて良いからね?…ふたりが幸せだったら、それで良いから…ね、約束してくれる?」
やわらかな声は、揺るがない。
ただ温かく微笑んで優しい声は、約束をねだってくれた。
「光一の話を聴いて受けとめて?本当の気持ちで向きあって、ふたりで夢を追いかけて?そう約束して英二、俺のお願いを聴いて?」
お願いを聴いて?
そう周太に言われたら、自分には断れない。
それにこの「お願い」は英二の為に願ってくれる、いつも周太はそう。
この優しすぎる婚約者へと精一杯の恋と愛を伝えるには、どうしたら良いのだろう?
「周太、お願い聴いたら俺のこと、もっと好きになってくれる?ずっと傍にいてくれる?」
素直な想い、そのまま声になって伝えてしまう。
もっと好きになってほしい、ずっと傍にいて待っていてほしい。
そんなシンプルで単純な幸せを求めている、その願い素直に笑いかけた先で婚約者は笑ってくれた。
「ん、すきになる…だから言うこと聴いて?それで無事に帰ってきて?家も掃除して、おふとん干しておくから、」
言ってくれる約束は幸せで、けれど切ない。
いま周太は異動を控えて休暇も解からない、だから前より約束が減った。
この約束に我儘を言いたくて、正直に英二は婚約者にねだった。
「周太の作ってくれた飯、食べたい。約束してよ、周太?また俺に飯、作るって約束して?そうしたら言うこと聴くよ、」
「ん、…約束する、だから光一と話してね?この電話を切ったらすぐに、ね?」
微笑んで約束をくれた、そして背中を押してくれる。
こんなふうに結局自分は、いつも護るつもりが護られている。
あまい優しい抱擁、そんな穏やかな時間に電話を通しても繋いでくれる自分の婚約者。
その人への想いも北壁にいる時間は忘れていた、それほど集中した危険と幸福の時間を自分に与えた人。
その人への想いと二つながら見つめる心に涙は消えて、ひとつ肚に落ちた覚悟へと英二は綺麗に笑った。
「うん、すぐ話すよ。ありがとう周太、大好きだよ?ここから今、周太にキスしたい、」
キスしたい、大好きな大切な婚約者に。
そんな想いの向こう、羞んだトーンが楽しそうに笑ってくれた。
「ん、俺も大好きだよ?…またきすしてね、おやすみなさい」
「うん、キスするよ。おやすみ周太、夢で逢ったらキスさせてね?」
電話と8時間の時差越しに笑い合って、そっと通話を切った。
携帯電話をポケットにしまい仰いだ先、マッターホルンは午後の陽まばゆい。
ひろやかな空に雲を靡かせ翼のようにも見える、その美しい光景の渦中は今、風雪の冷厳に晒される。
あの場所に取り残されている者は今、生と死の際を見つめているだろう。それを見上げるここは花が咲き、陽光まぶしいのに?
―それが山の世界なんだ、美しくて厳しくて。光一も同じだ、
改めて山の世界を想い、草原に座りこんでいる。
膝元には青い花が光ゆれて、一昨日に見た花の名前を記憶に探る。
確か竜胆の一種だと光一が教えてくれた、けれど何という名前だったろう?
そう廻らす意識には高尾署の仲間を想う、あの雲から逃れていることを祈ってしまう。
今朝、一緒にヘルンリヒュッテを出発した時は2人とも元気だった。
けれど標高4,000mを超えた世界では高度障害も起きやすい、むしろ高度馴化が速い光一と英二が特異とも言える。
そうした体調変化に消耗しても北壁では逃場も少ない、もうヘルンリ稜の折返しに入っていると信じたい。
どうか無事に下山してほしい、祈りながら尖峰を見上げる背後、透明な声が叫んだ。
「…英二!」
ふっと風に名前を呼ばれて、肩越し振り返る。
その視線の先に草原の向こう、白いカットソー姿が駈けだした。
緑の海をカーゴパンツの脚が走り、伸びやかな長身はすぐ傍らに立つとテノールが叫んだ。
「だった、とか言うなよっ!」
叫んだ唇かすかに震えて、透明な瞳が見つめてくれる。
そして英二の傍らに膝を落し、白いカットソーの腕が抱きついた。
「か、過去形で言うなよっ、パートナーで登るの幸せだった、って…過去形で言うんじゃないよっ…ぅ、っぅ…」
抱きついて、透明な声が怒ったよう泣き出していく。
その声に瞳の底へ熱は共鳴して、熱が頬を伝い英二は微笑んだ。
「ごめん、光一。でも俺、本当に幸せだったんだ。おまえとザイル繋いで登れるの、幸せだったよ?」
「だから過去形で言うなっ!」
耳元に怒鳴って、きつく抱きしめてくれる。
高雅な花の香が頬ふれて体をくるむ、澄んだ馥郁のなかテノールが訊いてくれた。
「俺のこと…おまえの世界の全てだったって言ったな?…あれは北壁にいた時だけか?」
「違う、さっき言ったろ?」
頬を涙は伝う、けれど声はいつものトーンでいる。
もう嗚咽のない自分の声に微笑んで、英二は想うままを答えた。
「光一は俺の夢なんだ。俺が憧れて、俺が生きたい世界は山だ。その世界は光一が俺に教えたんだ、だから光一は俺の世界なんだ、」
自分を山に導いた、青いウィンドブレーカーの背中。
あの写真を見た瞬間から憧れて、山ヤの世界に夢を懸けて山の警察官になった。
あの瞬間から見つめ続ける相手と今、抱きあっている。この現実に微笑んだ英二に夢の人は訊いてくれた。
「おまえの世界の全てが俺って、さ…それって、俺の世界とおまえの世界が同じモノで、同じ世界に生きているってことか?」
「そうだよ、光一は俺の憧れで、俺が生きていたい世界の全てだ。だけど俺は、周太の隣に帰りたいんだ、」
正直なまま告げて、白い肩を抱きしめる。
広やかな青空のもと抱き合ったまま、草と花の香に英二は微笑んだ。
「周太がいてくれるから俺は、生きようって想えるんだ。笑って迎えてくれる、待っていてくれる笑顔が嬉しいんだよ。
周太を愛してる、周太無しなんて俺は嫌だ…周太がいない世界になんて俺は生きられない。だから世界の全てを懸けても護りたいよ。
光一は俺の全てで俺の夢だ、それを懸けても俺は周太を救けたい。だから光一のこと利用しようとする…こんなの光一には迷惑なのにな?」
勝手に周太を愛して恋して、勝手に光一を夢にして自分の世界にしている。
こんな勝手ばかりの自分が可笑しくて、涙のまま英二は綺麗に笑った。
「ごめん光一、俺の独りよがりだよ?本当に俺は情けない男でさ、人前で泣かないって俺は決めてたのに、でも今も泣いてるだろ?
こんなダメな男なんだ、俺。光一が俺の全てなのは本当だ、でも光一の一番のパートナーは雅樹さんだ。俺は相応しくないよ、ごめん、」
自分の弱さに身勝手さに、自分で呆れて可笑しい。
可笑しくて情けなくて涙は頬を伝わっていく、その涙にもう1つ涙を重ねて光一は言ってくれた。
「俺がおまえの全てだって言うんならね、俺の前では泣いてもいいだろ?だって俺はおまえなんだ、他人様に見せたワケじゃないね?
そしてね、俺とアンザイレン出来るのは英二しかいない、俺をビレイできるのは英二だけだ、だから過去形なんかにしないでよ、約束だろ?」
白いカットソーの腕が抱きしめて、透明な目が英二を見つめた。
真直ぐ誇らかな目が英二に笑う、そして透明な声は告げてくれた。
「英二が俺をビレイしてくれるから、俺は安心して全力で登れるんだ。俺にはおまえが必要だよ、俺を支えられるのは英二だけだね。
確かに雅樹さんを俺は忘れられない、でも生きて一緒に山に登ってるのは、こうして抱きしめて笑いあえるのは、俺には英二だけなんだ、」
光一には英二だけ、そう言ってくれる。
唯ひとりと認められて嬉しい、そう素直に微笑んだ英二にテノールは微笑んだ。
「俺のこと、過去形なんかにしないでよ?俺、英二がいなかったら独りぼっちだ、そんなの嫌だね、俺は英二と一緒がいい、ずっと、」
「うん、俺も一緒が良いよ、」
素直な想い笑って、英二は綺麗に微笑んだ。
涙の跡を拭わないで笑いかけた先、底抜けに明るい目が笑ってくれた。
「良かった、やっぱり俺たち相思相愛のパートナーだね?俺、さっき焦ったよ?泣いて出て行っちゃって、それも過去形で言って…俺、」
笑った明るい目から、涙またあふれだす。
涙と見つめてくれる透明な目は微笑んで、けれど声はふるえて想いを言葉に変えた。
「俺、英二が遠くに行っちゃうって…おも、って…怖くて必死で探したんだよ?…おまえの行きそうなトコ探して、訊いて回って…っ、
駅にも行った、カフェとか本屋とか…氷河の入口と、かさ…それでここに来て見つけたんだよ?俺を置いてなんか行くなよ…約束まもれよ、」
ぎゅっと背中に回した手がジャケットを掴んでくれる。
その震えがジャケット越しにも伝わって、腕のなか英二は抱きしめた。
「うん、約束だ。光一、俺たちは生涯のアンザイレンパートナーで、血の契だ。もう置いて行かない、さっきはごめん、」
「っ、…俺こそ、だね?」
嗚咽と一緒にテノールが言ってくれる。
すこし離れて英二を見つめ、ひとつ呼吸してから光一は口を開いた。
「さっき英二が言ってくれた明日のこと、おまえの言う通りだ。俺は高尾署を待つよ、」
言った声は落着いて、透明な瞳は笑っている。
すこし無念な想いは見える、それでも微笑んで光一は言ってくれた。
「今回のチームで警部補は俺だけだ。加藤さんは年次も齢も上だし、今回リーダーだけど階級は俺が上だね。ナンカあったら責任は俺だ。
このコト俺は、アイガーでいっぱいになっちゃって忘れてた、俺も未熟だね?コンナこと忘れちまうなんてさ、異動後はマジでアウトだよな、」
今回、英二の他は巡査部長で警部補は光一しかいない。
年齢は英二と共に最年少、それでも光一は階級と役職の責務がある。
その現実と、けれど英二自身の利己のために傷む想いに、光一は軽やかに笑ってくれた。
「あとね、周太を護るってコトについては俺、おまえに利用されてるなんざ思っちゃいないね。だって俺も周太を護りたいんだ。
俺の恋人が同じ目的で、しかも婚約者として大事にしてくれてるなんてね?俺にとっちゃ好都合だって前も言ったと思うんだけど。
だから変に罪悪感とか感じてんじゃないよ、そんなモン感じるんならね、俺に色っぽい貌でも見せて眼福を楽しませて欲しいよね、」
率直な言葉は信頼と恋愛と、そして純粋な優しさが温かい。
この温もりに心は切なく滲んで、熱は瞳の底から眦をきらめかせた。

夕刻、ホテルでの夕食で席に着いたのは七機と五日市署、英二と光一の6人だった。
それぞれが北壁で見た光景と、課題点を話しながら食事に笑いあう。
地元の食材を使った料理が半分ほど減ったとき、テーブルに2人案内された。
「遅くなって申し訳ありません、無線機が故障して連絡も出来ず、すみませんでした」
日本語で詫びた男たちは、高尾署のコンビだった。
すこし赤くなった雪焼けの顔は疲れて、けれど目は明るい。
それでも遅れたことへの緊張と謝罪が見える、その空気に英二は綺麗に微笑んだ。
「ご無事で良かったです、あの雲だと無線も難しいですよね?今、席を用意してもらいますね、」
無事な笑顔に笑い返し、英二はギャルソンに視線を合わせて呼んだ。
英語で話しかけ2つの席とメニューを用意するよう頼む、その隣から落着いたテノールの声が陽気に笑ってくれた。
「おつかれさまでした、まず飯にしてください。食いながら話しましょう、ちょうど明後日のミーティングしようかってトコです、」
明朗な言葉の労いは、大らかに温かい。
そんな光一の態度にテーブルは寛いで、食事の席は8人になった。
和やかでも一本の緊張にミーティングは始められ、予定と詳細の計画が決っていく。
そうして2時間ほどの談笑をすごして、部屋に戻ると窓の向こうは黄昏の時がゆっくり始まっていた。
「太陽と山のショータイムだね?英二、アレ飲も?」
楽しげに光一は笑って、グラスとワインボトルを冷蔵庫から出してくれる。
その横顔に笑いかけて、英二は素直な敬意を言葉にした。
「光一、さっきテーブルでカッコよかったよ?こういう上司と仕事したいって俺、想ってた、」
これは本音の想い、同じ男として素直に想えた。
こういう男を異動後は上司と呼べる、その幸せに微笑んだ英二に明るい笑顔ほころんだ。
「ありがとね、でも俺さ?あの二人がテーブルに来た時、おまえが口火を切ってくれたから話しやすくなったんだ。
俺にとって英二は最高の補佐役で、最高のアンザイレンパートナーだよ?別嬪で体力馬鹿で、頭も良くって言うこと無しだね」
そう言ってくれる笑顔は前より深くて、誇らかな自由と寛容が温かい。
その貌にふっと懐かしい山の姿を見て、英二は綺麗に微笑んだ。

(to be continued)
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