祈り、その向こうから訪うもの
第58話 双璧act.1―another,side story「陽はまた昇る」
轟音、そして蒼い硝煙の煙。
斜め上方の視線の先に、標的は10点を点灯させる。
それを確認しながら匍匐の姿勢から身を起こし、片膝付きでブースの壁に背をつけた。
そのまま両目で的を捕らえた視線上、拳銃のサイトを突き出すように構え引き金を絞る。
轟音の後ふたたび標的は10点を示し、再び匍匐の姿勢に戻り拳銃を握る右手を構えた。
右片手撃ちノンサイト射撃、この操法を周太は大学時代から射程距離に関係なく使う。
普通、拳銃射撃では銃身の尖端にあるフロントサイトを照準に合わせ狙いを定める。
それを行う時間と手間を省くため、ノンサイト射撃は自身の視線上にサイトを合わせて狙撃を行う。
これは射程10mまでの近距離で用い、25m先の標的を狙うセンターファイアピストル競技では普通使わない。
それでも周太は距離に関係なくノンサイト射撃を使う、けれど以前はCP競技の規定に準拠した姿勢が多かった。
でも、もう今は「規定」通りばかりで練習していられない。
…もうすぐ現場に立つんだ、そうしたら姿勢なんて現場次第だ
心よぎらす近い未来への想い、それが様々な姿勢からの狙撃を訓練させる。
いま標的を見つめながらも想いは廻ってしまう、それでも右手は正確に動き両目に標的を補足する。
銃身はぶれることなく真直ぐ狙うがままに、ふわりトリガーは弾かれて10点が点灯した。
もう何も考えなくても右手は動き、視線は容易く標的をロックオンしてくれる。
こんなふうに動いていく自分の体が頼もしく、そして哀しい。
『生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?』
10点が灯る標的を見つめながら、心に問いかけは廻る。
この解答をずっと自分は探してきた、そして今、ようやく解かりかけているかもしれない。
フィールドワークで見つめたブナの純林の世界、あの場所に息づく全てが自分に応え始めている。
いま立っているのは術科センター射撃場、拳銃発射の轟音が響き蒼い硝煙は嗅覚から突き刺していく。
それでも自分の心にはブナの森からずっと、懐かしい、深いテノールの声が聞こえて途切れない。
―…誰かを元気にするために生きるのは、本当に綺麗なんだ。周はその為に樹医になろうとしてるね、それは立派なことだよ
きっと立派な樹医になれるよ?本当に自分が好きなこと、大切なことを忘れたらダメだよ?諦めないで夢を叶えるんだよ
懐かしい父の声と夢は、丹沢のブナ林に甦った。
大学の公開講座で行ったフィールドワーク、その朝に佇んだブナの森で見た、梢ふる虹の雫。
あの雫に映った懐かしいワーズワスの詩、その詩に宿る父の声が引金になって夢は目覚め、もう心に温かい。
My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man
So be it when I shall grow old Or let me die!
The Child is father of the Man :
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.
私の心は弾む 空に虹がかかるのを見るとき
私の幼い頃も そうだった
大人の今も そうである
年経て老いたときもそうでありたい さもなくば私に死を!
子供は大人の父
われ生きる日々が願わくば 自然への畏敬で結ばれんことを
幼い日に幾度も読み聴かせてくれた優しいテノール、cut glassの発音、大好きな父の聲。
この詩を謳う父の想いと祈り、そして自分の願いは二度と心から離れることはない。
―…人の命は短いけど、もっと強い命を援けることも出来るんだね?それが樹医なんだろうね…僕、樹医になるよ。
きっと難しいだろうけど頑張る、諦めない、もし忘れても絶対に想い出すから大丈夫。約束だよ?
幼い自分の声が、心深くから語りかける。
この声が教えてくれる、この掌の運命をどう動かすべきなのか?
…約束を叶えるんだ、大丈夫…もう何があっても忘れない、諦めない
父との約束を、必ず叶える。
この決意はもう、心と意識の深い底から熱く温かい。
この夢を見つめて自分は生きていく、だから今この掌に拳銃を操っても迷わない。
この想い真直ぐ見つめながら周太は立ちあがり、最後の標的を規定通りの姿勢から正中を撃ちぬいた。
「…ん、終り、」
微笑んで右腕をおろし、シリンダーから空薬莢を抜いていく。
きちんとケースに納めて数を確認すると、イヤーマフを頭から外しながら周太は振向いた。
「…ん?」
視界の端、映りこんだ姿に意識が止められる。
視線を動かさないで見つめる先、白髪ゆらしたスーツ姿が遠ざかっていく。
その真白い頭が動いた軌跡の残像に、周太は心裡に首を傾げた。
…あのひと、俺の方を見ていた?
なぜ、自分の方を見ていたのだろう?
考えながら記憶のファイルが捲られて、現在の警視庁幹部の顔写真が浮んでは消える。
練習日の今日は警察関係者以外の入場は無い、そしてあの白髪なら65歳以上だろう。
あの年齢でこの場所に今日、来るのは警視庁幹部と考える方が自然だ。
それなのに記憶に綴った警視庁幹部のファイルに該当者はいない。
けれど、見覚えがある。
白い雲がまばゆい。
陽射しふる歩道、見上げる空は青く晴れ渡る。
明るい陽光は半袖シャツの腕に暑い、けれど歩いて起きる風が涼やかに感じさす。
この4時間後には当番勤務へと就く、だから制服のままの方が楽かもしれない。
けれど今から逢う人の前では、出来るだけ私服姿でいたくて着替えてきた。
…英二には普段着の俺を憶えていて欲しい、今日の次はいつ逢えるか解からないから…
今から英二に逢える、3時間を一緒に過ごせる。
この3時間が終れば3日後、英二はスイスへと遠征訓練に行ってしまう。
そして帰国する頃にはもう、自分は第七機動隊銃器対策レンジャーへと異動している。
そうなれば休暇もいつ取れるのか解らない、だから今日の次はいつ自分を見つめて貰えるのか解らない。
「これを着ている周太を連れて歩きたいんだ、」
そんなふうに英二は言っていつも服を選び、贈ってくれる。
だから着ている姿で逢いたくて、今着ているシャツもデニムパンツも靴も、少しでも喜んでほしくて着替えてきた。
こんな望みも英二が願ってくれるのなら大切にして、逢っている瞬間をひと時でも多く幸せに近づけたい。
それに今回の遠征訓練は普通の「訓練」とは言えない、そのことをもう自分は知っている。
…英二も光一も言わないけれど、マッターホルンもアイガーも北壁は、
三大北壁の内、2つに英二たちはアタックする。
この北壁について書かれた本を、家の書斎から持ってきて読んだ。
山を愛した父が遺した2冊の本、それは2つの北壁を初登頂したクライマーの手記になる。
それぞれ140年前と70年前に著された記録たち、もちろん彼らの装備は現代とまるで違う、それでも危険は変わらない。
…装備は違う、でも山は変わっていないんだ
気象や地形は経年変化もしているだろう、けれど厳しいことは何も変わっていない。
むしろ温暖化の影響で岩壁が脆くなっているという、そんな現実が本当は不安で、怖くて苦しい。
不安で苦しくて心配で、それは日が迫るごと心を重たく濡らしてしまう。けれど、そんな本音は見せたくない。
英二が向かう「北壁の踏破」がクライマーに何を意味するのか?それを示すよう父の本には幾度も読んだ跡が刻まれているのだから。
…この訓練は英二の夢なんだ、だから絶対に止めたくない、
三大北壁を踏破することは、クライマーにとっての夢。
そのことが父の本から解った、ページを幾度も開いた痕跡と記された登山家の想いに読みとれた。
だから自分は止めない、本当は「行かないで」と言いたくても、同じ男として英二の想いは解かるから止めない。
もしも本気で望むなら危険を冒しても追いかけたい、その情熱は男にとって幸福な夢だと解かるから止めたくない。
そんな理解は自分が同性だからこそ出来る、そのことを誇りたいから止めない。
それに、信じている。
英二とザイルを組むのは光一、だから信じられる。
ふたりの繋がりはアンザイレンパートナーだけじゃない、それ以上に強く繋がれている。
だから大丈夫、英二は光一と援けあい巨壁を登頂出来る、そして夢を叶えて山頂に笑顔は輝くだろう。
いま自分が歩く場所から遥かに高く広い世界で、なにより大切な笑顔は幸せに咲いてくれる。
それこそが自分の望む姿だから、ふたりを信じたい。
「…ん、笑って送ろう?」
そっと呟いた独り言に、これからの3時間へ覚悟を見つめ直す。
ひとつでも多く英二に笑ってもらいたい、それにはどうしたらいい?
そんな考え廻らせながら歩いて駅に着き、いつもどおりに花屋を覗きこんだ。
やわらかなアイボリーの店内から彩やさしい花々は迎えてくれる、その一輪ずつへ周太は微笑んだ。
「きれいだね、みんな」
優雅に咲いた夏薔薇は香り高く、元気な向日葵の黄色はまぶしくて、あわい紅色の秋桜がもう涼しい。
撫子の華奢なブーケは可愛くて、白百合は清らかに芳香をこぼし、桔梗の青紫いろ凛と端正に清々しい。
穏やかで優しい花の空気は心を和ませてくれる、いつものよう寛ぐまま素直に微笑んだとき優しい声が迎えてくれた。
「こんにちは、今日は早いのね?」
落着いたアルトに顔をあげると、いつもの女主人が笑いかけてくれた。
ふわりと彼女が醸す、穏やかで清楚な気配が嬉しくて、気恥ずかしさと一緒に周太は微笑んだ。
「こんにちは、ちょっと時間があったので寄らせて貰って…今日もみんな綺麗ですね、」
「でしょう?君はどの子が気になるかしら、」
嬉しそうに笑って彼女は、いつものよう質問してくれる。
こんな「いつも」が素直に嬉しくて、すこし考えてから周太は華奢なブーケを指さした。
「この白い撫子が気になります、可愛いのに凛としていて、すてきだなって、」
「私も、その子が今日いちばんの美人だと思うわ、」
深いアルトが微笑んで「その子」と花を呼んでくれる。
その笑顔の温かい美しさが嬉しくて、周太は笑いかけた。
「撫子、家の庭にも咲くんです。このブーケと同じに白と赤と、うすい紅色と、」
「素敵ね、撫子のお庭。この子の花言葉は知ってる?」
穏やかなトーンで愉しげに訊いてくれる。
その質問に記憶を辿らせて、幼い日に父から教わった言葉を口にした。
「純愛…ですか?」
言って、気恥ずかしくなって首筋が熱くなっていく。
こんなこと言うのは照れてしまう、困りながら首に掌当てた周太に彼女は笑いかけてくれた。
「当たり、あと勇敢って言葉もあるのよ。撫子は強い花だから、似合うでしょう?」
勇敢と純愛。
この2つの言葉に周太は、可憐な白い花を見た。
華奢で嫋やかな細い茎、繊細な縁どりの薄い花びら、あまい優しい香。
どれもが細やかに可憐で強さから遠く想える、けれど、この花は夏の炎天にこそ咲く強さがある。
そんな本質に「勇敢」という言葉を見つめて、ゆっくり花に想いが廻りだす。
…繊細できれいなものって勇敢じゃなかったら守れない、恋愛もきっとそう、
大切な英二への恋愛は、なにより綺麗で温かい。
この想いが輝く時は、英二にまつわることを「幸せだ」と感じる瞬間でいる。
それならば、想いを美しいまま見つめるのなら、この恋愛の全てを幸せと喜ぶことが輝きになる。
そんなふうに全ての時を喜びに捉えることは、心に強い覚悟と決意が無かったら出来ない。
…でも出来る、だって英二が生きていてくれるから感じられる事なんだ、
もしも英二が生きていなければ、喜びもなく哀しみも無いだろう。
哀しいと沈む瞬間も、辛いと泣きたい瞬間も、全て「英二」が居てくれるから。
どんな時でも何があっても生きていてくれるなら、それだけで嬉しいと自分は想えるはず。
あの3月に起きた鋸尾根の遭難事故、あのとき自分は一夜に哀しみも感謝も見つめたのだから。
…大丈夫、俺はすこし強くなってるから、ね?
きっと今回も大丈夫、自分は笑って英二を北壁へと送りだせるだろう。
そうして今、この心に抱いている覚悟も決意も「勇敢」と言えるようになる。
こうして少しまた強くなって英二を、そして光一も支えていきたい、ふたり夢の場所で輝いてほしいから。
ずっと幼い日から光一は離れていても周太を想ってくれた、そして再会に護り続けると約束をして罪まで背負ってしまった。
そんな光一の想いには全て応えることが出来なくて、それでも光一に幸せになってほしいと心から祈っている。
…光一に幸せになってほしい、出来る事なら何でもしてあげたい
ずっと光一が願ってくれた「周太との恋愛」だけは、どうしても叶えることが出来ない。
それでも今これから出来る事がきっと廻ってくる、そのときは今までの感謝と想い全てで応えたい。
大切な婚約者と幼馴染、この2人には幸せでいてほしい。そんな願いのまま素直に周太は女主人へと笑いかけた。
「撫子の花言葉…どちらの言葉も似合いますね?勇敢じゃなかったら、きっと恋愛は出来ないから、」
言った言葉に、きれいな瞳ひとつ瞬いた。
すこし驚いたような女主人の貌が不思議で、首傾げてしまう。
何か変なことを言ったろうか?そう困りかけたとき彼女は朗らかに笑ってくれた。
「ええ、その通りだわ。恋愛は勇敢じゃないと、きっかけすら掴めないものね?」
笑ってくれる瞳は明るい、その明るさが嬉しい。
嬉しくて笑いかけながら、けれど白い壁の時計に気付いて周太は頭を下げた。
「あの、今日もお邪魔しました、ありがとうございました、」
「こちらこそ、今日もありがとうございました。楽しかったわ、また来てね、」
本当に楽しそうに笑ってくれる、その笑顔を記憶の絵と重ねてしまう。
幼い日に父と読んだ絵本に描かれた、花々に囲まれた女神の慈愛に満ちた笑顔。
あの頃も懐かしく慕わしいと想った笑顔へと、綺麗に笑いかけて周太は踵を返した。
往来の交錯を歩いて改札口の前に着き、左手首のクライマーウォッチに時間を確認する。
まだ約束の時間には5分はある、安心して壁に凭れたときポケットの携帯電話が振動した。
…英二かな?
遅れる、そんな連絡だろうか?
英二は今日の非番を利用して、大学病院で用事があるため新宿に来る。
その前に青梅署警察医の吉村医師を手伝うと言っていた、この仕事に時間が掛かったのかもしれない?
そんな想いと携帯電話を取出し画面を開いて、けれど予想外の送信人名に周太は微笑んだ。
「ん、手塚だ、」
東京大学農学部3年生で、周太が聴講生でいる森林学講座の仲間。
この新しい友人からのメールが嬉しい、嬉しい気持ち素直に微笑んでメールを開封した。
From :手塚賢弥
subject:ノート
本 文 :おつかれさま、来週の講座は出席する?
ノート出来たから持ってくよ、講義の後で渡せばいいかな?
昼飯一緒しながら見てもらえれば、質問その場で答えられるし。どう?
嬉しい文章に、楽しみがまた1つ生まれる。
すぐに返信の画面に切替えて、周太は返事を綴り始めた。
T o :手塚賢弥
subject: Re:ノート
本 文 :おつかれさま、ノートありがとう。来週の講座は出席します。
昼ご飯、そう出来たら嬉しいです。青木先生と小嶌さんも一緒してもらって良いかな?
返事と提案をまとめて、送信ボタンを押す。
その手元に時計の文字盤を見、改札へと視線を投げた。
まだ2分も約束の時間まである、長い2分に感じてすぐ携帯電話は再び振動して、画面を開いた。
From :手塚賢弥
subject: Re:Re:ノート
本 文 :もちろん一緒してほしいよ、ノートにご意見欲しいんだ。よろしくな、
短い一文、けれど手塚の想いと夢が伝わってくる。
きっと自分や美代と同じに森林学を見つめて、真剣に向き合い学んでいく。
そんな意思が感じられる文面に、綺麗に笑いかけて周太は短く返事した。
T o :手塚賢弥
subject: Re:Re:Re:ノート
本 文 :ありがとう、楽しみにしてるね
本当に楽しみだな?
そんな想いと携帯電話を閉じて、改札口に視線を向けた。
その視界をダークブラウンの髪ゆれて、長身のワイシャツ姿が歩いてくる。
「あ、」
うれしくて笑顔と声がこぼれだす。
もうじき自分の隣に帰ってきてくれる、その想い綺麗に笑った向う切長い目が周太を見た。
「周太!」
名前を呼んでくれる綺麗な低い声、その透る声に道行く人が振向く。
そんな衆目の中心を英二は通り抜けて、すぐ周太の前に立って笑いかけてくれた。
「おはよう、周太。待たせてごめん、でも周太が待っててくれる姿、嬉しかったよ?」
綺麗な笑顔で話しかけてくれる、その幸せそうな貌が嬉しい。
嬉しい想い見上げていると、指先にそっと長い指がふれて周太はひっこめた。
きっと手を繋いでくれようとした、本当は嬉しいけれど今は困りながら微笑んだ。
「うれしいって言ってくれるの嬉しいんだけど、大声でよばれるのはずかしいよ…あとてをつなぐのいまはだめです」
【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』】
(to be continued)
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第58話 双璧act.1―another,side story「陽はまた昇る」
轟音、そして蒼い硝煙の煙。
斜め上方の視線の先に、標的は10点を点灯させる。
それを確認しながら匍匐の姿勢から身を起こし、片膝付きでブースの壁に背をつけた。
そのまま両目で的を捕らえた視線上、拳銃のサイトを突き出すように構え引き金を絞る。
轟音の後ふたたび標的は10点を示し、再び匍匐の姿勢に戻り拳銃を握る右手を構えた。
右片手撃ちノンサイト射撃、この操法を周太は大学時代から射程距離に関係なく使う。
普通、拳銃射撃では銃身の尖端にあるフロントサイトを照準に合わせ狙いを定める。
それを行う時間と手間を省くため、ノンサイト射撃は自身の視線上にサイトを合わせて狙撃を行う。
これは射程10mまでの近距離で用い、25m先の標的を狙うセンターファイアピストル競技では普通使わない。
それでも周太は距離に関係なくノンサイト射撃を使う、けれど以前はCP競技の規定に準拠した姿勢が多かった。
でも、もう今は「規定」通りばかりで練習していられない。
…もうすぐ現場に立つんだ、そうしたら姿勢なんて現場次第だ
心よぎらす近い未来への想い、それが様々な姿勢からの狙撃を訓練させる。
いま標的を見つめながらも想いは廻ってしまう、それでも右手は正確に動き両目に標的を補足する。
銃身はぶれることなく真直ぐ狙うがままに、ふわりトリガーは弾かれて10点が点灯した。
もう何も考えなくても右手は動き、視線は容易く標的をロックオンしてくれる。
こんなふうに動いていく自分の体が頼もしく、そして哀しい。
『生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?』
10点が灯る標的を見つめながら、心に問いかけは廻る。
この解答をずっと自分は探してきた、そして今、ようやく解かりかけているかもしれない。
フィールドワークで見つめたブナの純林の世界、あの場所に息づく全てが自分に応え始めている。
いま立っているのは術科センター射撃場、拳銃発射の轟音が響き蒼い硝煙は嗅覚から突き刺していく。
それでも自分の心にはブナの森からずっと、懐かしい、深いテノールの声が聞こえて途切れない。
―…誰かを元気にするために生きるのは、本当に綺麗なんだ。周はその為に樹医になろうとしてるね、それは立派なことだよ
きっと立派な樹医になれるよ?本当に自分が好きなこと、大切なことを忘れたらダメだよ?諦めないで夢を叶えるんだよ
懐かしい父の声と夢は、丹沢のブナ林に甦った。
大学の公開講座で行ったフィールドワーク、その朝に佇んだブナの森で見た、梢ふる虹の雫。
あの雫に映った懐かしいワーズワスの詩、その詩に宿る父の声が引金になって夢は目覚め、もう心に温かい。
My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man
So be it when I shall grow old Or let me die!
The Child is father of the Man :
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.
私の心は弾む 空に虹がかかるのを見るとき
私の幼い頃も そうだった
大人の今も そうである
年経て老いたときもそうでありたい さもなくば私に死を!
子供は大人の父
われ生きる日々が願わくば 自然への畏敬で結ばれんことを
幼い日に幾度も読み聴かせてくれた優しいテノール、cut glassの発音、大好きな父の聲。
この詩を謳う父の想いと祈り、そして自分の願いは二度と心から離れることはない。
―…人の命は短いけど、もっと強い命を援けることも出来るんだね?それが樹医なんだろうね…僕、樹医になるよ。
きっと難しいだろうけど頑張る、諦めない、もし忘れても絶対に想い出すから大丈夫。約束だよ?
幼い自分の声が、心深くから語りかける。
この声が教えてくれる、この掌の運命をどう動かすべきなのか?
…約束を叶えるんだ、大丈夫…もう何があっても忘れない、諦めない
父との約束を、必ず叶える。
この決意はもう、心と意識の深い底から熱く温かい。
この夢を見つめて自分は生きていく、だから今この掌に拳銃を操っても迷わない。
この想い真直ぐ見つめながら周太は立ちあがり、最後の標的を規定通りの姿勢から正中を撃ちぬいた。
「…ん、終り、」
微笑んで右腕をおろし、シリンダーから空薬莢を抜いていく。
きちんとケースに納めて数を確認すると、イヤーマフを頭から外しながら周太は振向いた。
「…ん?」
視界の端、映りこんだ姿に意識が止められる。
視線を動かさないで見つめる先、白髪ゆらしたスーツ姿が遠ざかっていく。
その真白い頭が動いた軌跡の残像に、周太は心裡に首を傾げた。
…あのひと、俺の方を見ていた?
なぜ、自分の方を見ていたのだろう?
考えながら記憶のファイルが捲られて、現在の警視庁幹部の顔写真が浮んでは消える。
練習日の今日は警察関係者以外の入場は無い、そしてあの白髪なら65歳以上だろう。
あの年齢でこの場所に今日、来るのは警視庁幹部と考える方が自然だ。
それなのに記憶に綴った警視庁幹部のファイルに該当者はいない。
けれど、見覚えがある。
白い雲がまばゆい。
陽射しふる歩道、見上げる空は青く晴れ渡る。
明るい陽光は半袖シャツの腕に暑い、けれど歩いて起きる風が涼やかに感じさす。
この4時間後には当番勤務へと就く、だから制服のままの方が楽かもしれない。
けれど今から逢う人の前では、出来るだけ私服姿でいたくて着替えてきた。
…英二には普段着の俺を憶えていて欲しい、今日の次はいつ逢えるか解からないから…
今から英二に逢える、3時間を一緒に過ごせる。
この3時間が終れば3日後、英二はスイスへと遠征訓練に行ってしまう。
そして帰国する頃にはもう、自分は第七機動隊銃器対策レンジャーへと異動している。
そうなれば休暇もいつ取れるのか解らない、だから今日の次はいつ自分を見つめて貰えるのか解らない。
「これを着ている周太を連れて歩きたいんだ、」
そんなふうに英二は言っていつも服を選び、贈ってくれる。
だから着ている姿で逢いたくて、今着ているシャツもデニムパンツも靴も、少しでも喜んでほしくて着替えてきた。
こんな望みも英二が願ってくれるのなら大切にして、逢っている瞬間をひと時でも多く幸せに近づけたい。
それに今回の遠征訓練は普通の「訓練」とは言えない、そのことをもう自分は知っている。
…英二も光一も言わないけれど、マッターホルンもアイガーも北壁は、
三大北壁の内、2つに英二たちはアタックする。
この北壁について書かれた本を、家の書斎から持ってきて読んだ。
山を愛した父が遺した2冊の本、それは2つの北壁を初登頂したクライマーの手記になる。
それぞれ140年前と70年前に著された記録たち、もちろん彼らの装備は現代とまるで違う、それでも危険は変わらない。
…装備は違う、でも山は変わっていないんだ
気象や地形は経年変化もしているだろう、けれど厳しいことは何も変わっていない。
むしろ温暖化の影響で岩壁が脆くなっているという、そんな現実が本当は不安で、怖くて苦しい。
不安で苦しくて心配で、それは日が迫るごと心を重たく濡らしてしまう。けれど、そんな本音は見せたくない。
英二が向かう「北壁の踏破」がクライマーに何を意味するのか?それを示すよう父の本には幾度も読んだ跡が刻まれているのだから。
…この訓練は英二の夢なんだ、だから絶対に止めたくない、
三大北壁を踏破することは、クライマーにとっての夢。
そのことが父の本から解った、ページを幾度も開いた痕跡と記された登山家の想いに読みとれた。
だから自分は止めない、本当は「行かないで」と言いたくても、同じ男として英二の想いは解かるから止めない。
もしも本気で望むなら危険を冒しても追いかけたい、その情熱は男にとって幸福な夢だと解かるから止めたくない。
そんな理解は自分が同性だからこそ出来る、そのことを誇りたいから止めない。
それに、信じている。
英二とザイルを組むのは光一、だから信じられる。
ふたりの繋がりはアンザイレンパートナーだけじゃない、それ以上に強く繋がれている。
だから大丈夫、英二は光一と援けあい巨壁を登頂出来る、そして夢を叶えて山頂に笑顔は輝くだろう。
いま自分が歩く場所から遥かに高く広い世界で、なにより大切な笑顔は幸せに咲いてくれる。
それこそが自分の望む姿だから、ふたりを信じたい。
「…ん、笑って送ろう?」
そっと呟いた独り言に、これからの3時間へ覚悟を見つめ直す。
ひとつでも多く英二に笑ってもらいたい、それにはどうしたらいい?
そんな考え廻らせながら歩いて駅に着き、いつもどおりに花屋を覗きこんだ。
やわらかなアイボリーの店内から彩やさしい花々は迎えてくれる、その一輪ずつへ周太は微笑んだ。
「きれいだね、みんな」
優雅に咲いた夏薔薇は香り高く、元気な向日葵の黄色はまぶしくて、あわい紅色の秋桜がもう涼しい。
撫子の華奢なブーケは可愛くて、白百合は清らかに芳香をこぼし、桔梗の青紫いろ凛と端正に清々しい。
穏やかで優しい花の空気は心を和ませてくれる、いつものよう寛ぐまま素直に微笑んだとき優しい声が迎えてくれた。
「こんにちは、今日は早いのね?」
落着いたアルトに顔をあげると、いつもの女主人が笑いかけてくれた。
ふわりと彼女が醸す、穏やかで清楚な気配が嬉しくて、気恥ずかしさと一緒に周太は微笑んだ。
「こんにちは、ちょっと時間があったので寄らせて貰って…今日もみんな綺麗ですね、」
「でしょう?君はどの子が気になるかしら、」
嬉しそうに笑って彼女は、いつものよう質問してくれる。
こんな「いつも」が素直に嬉しくて、すこし考えてから周太は華奢なブーケを指さした。
「この白い撫子が気になります、可愛いのに凛としていて、すてきだなって、」
「私も、その子が今日いちばんの美人だと思うわ、」
深いアルトが微笑んで「その子」と花を呼んでくれる。
その笑顔の温かい美しさが嬉しくて、周太は笑いかけた。
「撫子、家の庭にも咲くんです。このブーケと同じに白と赤と、うすい紅色と、」
「素敵ね、撫子のお庭。この子の花言葉は知ってる?」
穏やかなトーンで愉しげに訊いてくれる。
その質問に記憶を辿らせて、幼い日に父から教わった言葉を口にした。
「純愛…ですか?」
言って、気恥ずかしくなって首筋が熱くなっていく。
こんなこと言うのは照れてしまう、困りながら首に掌当てた周太に彼女は笑いかけてくれた。
「当たり、あと勇敢って言葉もあるのよ。撫子は強い花だから、似合うでしょう?」
勇敢と純愛。
この2つの言葉に周太は、可憐な白い花を見た。
華奢で嫋やかな細い茎、繊細な縁どりの薄い花びら、あまい優しい香。
どれもが細やかに可憐で強さから遠く想える、けれど、この花は夏の炎天にこそ咲く強さがある。
そんな本質に「勇敢」という言葉を見つめて、ゆっくり花に想いが廻りだす。
…繊細できれいなものって勇敢じゃなかったら守れない、恋愛もきっとそう、
大切な英二への恋愛は、なにより綺麗で温かい。
この想いが輝く時は、英二にまつわることを「幸せだ」と感じる瞬間でいる。
それならば、想いを美しいまま見つめるのなら、この恋愛の全てを幸せと喜ぶことが輝きになる。
そんなふうに全ての時を喜びに捉えることは、心に強い覚悟と決意が無かったら出来ない。
…でも出来る、だって英二が生きていてくれるから感じられる事なんだ、
もしも英二が生きていなければ、喜びもなく哀しみも無いだろう。
哀しいと沈む瞬間も、辛いと泣きたい瞬間も、全て「英二」が居てくれるから。
どんな時でも何があっても生きていてくれるなら、それだけで嬉しいと自分は想えるはず。
あの3月に起きた鋸尾根の遭難事故、あのとき自分は一夜に哀しみも感謝も見つめたのだから。
…大丈夫、俺はすこし強くなってるから、ね?
きっと今回も大丈夫、自分は笑って英二を北壁へと送りだせるだろう。
そうして今、この心に抱いている覚悟も決意も「勇敢」と言えるようになる。
こうして少しまた強くなって英二を、そして光一も支えていきたい、ふたり夢の場所で輝いてほしいから。
ずっと幼い日から光一は離れていても周太を想ってくれた、そして再会に護り続けると約束をして罪まで背負ってしまった。
そんな光一の想いには全て応えることが出来なくて、それでも光一に幸せになってほしいと心から祈っている。
…光一に幸せになってほしい、出来る事なら何でもしてあげたい
ずっと光一が願ってくれた「周太との恋愛」だけは、どうしても叶えることが出来ない。
それでも今これから出来る事がきっと廻ってくる、そのときは今までの感謝と想い全てで応えたい。
大切な婚約者と幼馴染、この2人には幸せでいてほしい。そんな願いのまま素直に周太は女主人へと笑いかけた。
「撫子の花言葉…どちらの言葉も似合いますね?勇敢じゃなかったら、きっと恋愛は出来ないから、」
言った言葉に、きれいな瞳ひとつ瞬いた。
すこし驚いたような女主人の貌が不思議で、首傾げてしまう。
何か変なことを言ったろうか?そう困りかけたとき彼女は朗らかに笑ってくれた。
「ええ、その通りだわ。恋愛は勇敢じゃないと、きっかけすら掴めないものね?」
笑ってくれる瞳は明るい、その明るさが嬉しい。
嬉しくて笑いかけながら、けれど白い壁の時計に気付いて周太は頭を下げた。
「あの、今日もお邪魔しました、ありがとうございました、」
「こちらこそ、今日もありがとうございました。楽しかったわ、また来てね、」
本当に楽しそうに笑ってくれる、その笑顔を記憶の絵と重ねてしまう。
幼い日に父と読んだ絵本に描かれた、花々に囲まれた女神の慈愛に満ちた笑顔。
あの頃も懐かしく慕わしいと想った笑顔へと、綺麗に笑いかけて周太は踵を返した。
往来の交錯を歩いて改札口の前に着き、左手首のクライマーウォッチに時間を確認する。
まだ約束の時間には5分はある、安心して壁に凭れたときポケットの携帯電話が振動した。
…英二かな?
遅れる、そんな連絡だろうか?
英二は今日の非番を利用して、大学病院で用事があるため新宿に来る。
その前に青梅署警察医の吉村医師を手伝うと言っていた、この仕事に時間が掛かったのかもしれない?
そんな想いと携帯電話を取出し画面を開いて、けれど予想外の送信人名に周太は微笑んだ。
「ん、手塚だ、」
東京大学農学部3年生で、周太が聴講生でいる森林学講座の仲間。
この新しい友人からのメールが嬉しい、嬉しい気持ち素直に微笑んでメールを開封した。
From :手塚賢弥
subject:ノート
本 文 :おつかれさま、来週の講座は出席する?
ノート出来たから持ってくよ、講義の後で渡せばいいかな?
昼飯一緒しながら見てもらえれば、質問その場で答えられるし。どう?
嬉しい文章に、楽しみがまた1つ生まれる。
すぐに返信の画面に切替えて、周太は返事を綴り始めた。
T o :手塚賢弥
subject: Re:ノート
本 文 :おつかれさま、ノートありがとう。来週の講座は出席します。
昼ご飯、そう出来たら嬉しいです。青木先生と小嶌さんも一緒してもらって良いかな?
返事と提案をまとめて、送信ボタンを押す。
その手元に時計の文字盤を見、改札へと視線を投げた。
まだ2分も約束の時間まである、長い2分に感じてすぐ携帯電話は再び振動して、画面を開いた。
From :手塚賢弥
subject: Re:Re:ノート
本 文 :もちろん一緒してほしいよ、ノートにご意見欲しいんだ。よろしくな、
短い一文、けれど手塚の想いと夢が伝わってくる。
きっと自分や美代と同じに森林学を見つめて、真剣に向き合い学んでいく。
そんな意思が感じられる文面に、綺麗に笑いかけて周太は短く返事した。
T o :手塚賢弥
subject: Re:Re:Re:ノート
本 文 :ありがとう、楽しみにしてるね
本当に楽しみだな?
そんな想いと携帯電話を閉じて、改札口に視線を向けた。
その視界をダークブラウンの髪ゆれて、長身のワイシャツ姿が歩いてくる。
「あ、」
うれしくて笑顔と声がこぼれだす。
もうじき自分の隣に帰ってきてくれる、その想い綺麗に笑った向う切長い目が周太を見た。
「周太!」
名前を呼んでくれる綺麗な低い声、その透る声に道行く人が振向く。
そんな衆目の中心を英二は通り抜けて、すぐ周太の前に立って笑いかけてくれた。
「おはよう、周太。待たせてごめん、でも周太が待っててくれる姿、嬉しかったよ?」
綺麗な笑顔で話しかけてくれる、その幸せそうな貌が嬉しい。
嬉しい想い見上げていると、指先にそっと長い指がふれて周太はひっこめた。
きっと手を繋いでくれようとした、本当は嬉しいけれど今は困りながら微笑んだ。
「うれしいって言ってくれるの嬉しいんだけど、大声でよばれるのはずかしいよ…あとてをつなぐのいまはだめです」
【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』】
(to be continued)
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