萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第58話 双壁act.12―side story「陽はまた昇る」

2012-11-20 23:51:14 | 陽はまた昇るside story
頂点に立つこと、そして想いは



第58話 双壁act.12―side story「陽はまた昇る」

山頂は、白銀と蒼穹の世界だった。

ゆるやかにナイフエッジの風は吹き、まばゆい夏の太陽は標高3,970mを輝かす。
いま眼下に落ちる垂直は平均斜度60度、通常は2日間かけて登る高度差1,800mの壁。
それを3時間弱で登頂して見渡すアイガーの稜線は、方角により山容を変えることが納得できる。

「東西と南は稜線があるけれど、北だけが切れ落ちてるんだな。断面図みたいだ、」

登ってきた岩壁を頂上から見おろしながら、この山への畏敬を想う。
山を抉り取った半分が遺された、そんな山容に北壁は山の内部を晒したようでいる。
寛げた山の懐へ深く抱かれ、そこから自分たちは登ってきたのかな?そんな想いに微笑んだ隣からシャッター音が響いた。

「イイ貌だね、おまえって山だと絶世の別嬪になってる瞬間が多いよ。でも、ここ、」

明るいテノールは笑いながらカメラをOFFにし、その指で英二の頬をそっと小突く。
指先ふれて微かな痛みが奔る、その指先を離して光一は訊いてくれた。

「ちょっと赤くなってるね、雪を滑ったときに打ったか擦ったのかね?」
「うん、たぶんな。でも大丈夫だよ、メンヒヨッホの小屋で診てみるな、」

気軽に答え笑いかけると、透明な目が安心したよう笑ってくれる。
そしてカメラを仕舞い、左手首の『MANASUL』をチェックすると光一は南を指さした。

「さ、下山するよ?ミッテルレギ稜チームより先に、グリンデルワルトへ帰ろう、」
「それもタイムアタックなんだ?」

登りだけじゃなくて下りもなんだ?
可笑しくて笑った英二に、底抜けに明るい目は愉しげに微笑んだ。

「だよ?俺はね、なんでも1番が好きなんだ。せっかく登りも一番なんだからね、下りも一番で行こ?」

愉快に歌うよう言って踵返すと、光一は南稜ルートへと踏み出した。
白銀と黒い岩、蒼い翳が織りなす世界は遥かに連なり涯へと青空を広がらす。
冷厳の永遠、そのモノクロと青の世界は人間の範疇から遠い。そこに自分は今、息をしている。

「英二、体調は平気?」
「うん、高度障害は出てない、」
「よかったよ、おまえも俺と同じタイプで、」

前後なって話しながら雪を下り、懸垂下降と登攀を繰り返し高度を下げていく。
細く狭まる稜線の銀いろ輝く連なりは刃のようで、ナイフエッジと言うにふさわしい。
その行く手に穂高連峰のジャンダルムと似た稜線を見て、英二は微笑んだ。

―雅樹さん、似ていますね?ここは、

光一と雅樹の想い出深い、穂高連峰。
母国の中心部を奔らす稜線を今、遥か遠い異国の山に見つめてしまう。
あの場所は自分にとっても大切な想い出がある、この記憶の相手は今、自分の前を歩き白銀と青の世界できらめく。
前を行く青いウェアの背中は軽やかで、山の難所も楽しいと心から笑って「山」の時を歩いている。

―いつか俺も、あんなふうに山を歩けるかな、

この今だって山を登ることに単純な「好き」は勿論ある、けれど「目的」のために今は登っている。
それを山ヤとして不純だと言われたら反論など出来ない、だから頂上雪田で風に捕まった時もどこか納得していた。
こんな自分でもいつか純粋に「山」を楽しみ敬愛する、そんな無垢を抱いて生きられるだろうか?
いつか「50年の束縛」を全て壊す瞬間を迎えたら、そのとき自分は何を想う?

―すべてが終わったら、単純に山ヤで男として生きたい。大切なひとを守りながら、普通の日常に帰りながら、

いつか訪れる「普通の日常」が毎日待ってくれる日々。
いつも周太が帰りを待ってくれる家、そこに帰ることが毎日の日常になる日々は訪れる?
毎日の夜と朝を同じ瞬間を見つめて「いってらっしゃい」と送られ山に向かい、帰れば「お帰りなさい」と笑顔が迎えてくれる。
そんな日々が飽きるほどに続く時の始まり、その瞬間を願いながら永久凍土のアイガーを後にする。
この祈り見つめる横顔に、ナイフエッジの風はゆるやかに吹いていく。



グリンデルワルトのホテルで着いた夕食は、遠征訓練チームの全員が揃った。
ミッテルレギ稜を登った6人も予定通りに下山が出来ている、この互いの無事に光一は微笑んだ。

「全員無事に帰還ですね、後藤副隊長も喜んでいました。予備日の明日は休暇扱いですし、羽を伸ばせと伝言です、」
「連絡ありがとうございます、それと記録おめでとうございます。3時間切るなんて後藤さん、喜んだでしょう?」

第七機動隊の加藤が率直に祝辞を言うと、他の皆も祝福の言葉を掛けてくれる。
ひとめぐり祝いの言葉を聴き終えて、光一はグラスを持って莞爾と笑った。

「はい、よくやったって泣いていました。まずは無事に乾杯しましょう?で、食いながら話しましょう、」

気さくな物言いと後藤らしい人柄のエピソードに、空気が和やかになる。
そうして食事と談笑は始まって、七機の村木が光一に尋ねた。

「後藤副隊長、記録の事とか他に何か仰っていましたか?」
「よくやったな、羽を伸ばせと伝言しろ、の次はね?宮田に替れって言われちゃったんです、あの方は宮田を大好きなんでね、」

からり笑った光一の言葉に、愉しげな笑い声が起きる。
けれど言われた方は面映ゆくて困る、すこし困りながら微笑んだ英二に高尾署の三枝が笑いかけてくれた。

「後藤さんが宮田さんを好きなのって、解かります。前に講習会でお会いした時、帰りの電車で嬉しそうに話してくれましたよ。
山のセンスもあって努力家で真面目、息子ならいいのにって仰ってました。その通りだなって今回、一緒のチームになって思いますね、」

そんなふうに後藤が話してくれた事が、素直に嬉しい。
そして想ってしまう、もし後藤が父親だったら自分はもっと早く山に出逢えていた。
それに後藤の護る家庭ならば温かい両親の愛情がある、それを後藤の亡妻と娘への想いに知っている。

―きっと幸せだったろうな、いつも山の話をして、両親が仲良いところ見て、

本当に後藤が父親なら良いのにと、自分の方こそ思ってしまう。
こんな仮定のなかに、求めて得られなかった幸せを垣間見ながら英二は綺麗に微笑んだ。

「褒めて下さって、ありがとうございます。でも、恐縮で困りそうです、」
「そんな困らないで下さい、それで電話では何て話したんですか?」

笑って三枝が訊いてくれる質問に、すこし記憶を辿らせる。
すぐ幾つかの台詞を想いだし、そのままを英二は口にした。

「どこも怪我は無いか、体調はどうだ、って最初に訊かれました。あと風呂でしっかりマッサージして、明日はきちんと休むんだぞ。
気持ちは元気でも体は疲れている、そこらの山を登ったりするな、国村が言いだしたらブレーキかけてくれ。そんなふうに釘刺されました」

後藤には行動を読まれているな?
そんな感想に自分で可笑しい、つい笑った英二に皆も笑いだした。
いつも周到な後藤らしいと皆が思っている、そんな笑顔のなか加藤は隣の国村へと訊いてくれた。

「国村さん?もしかして明日の予備日は宮田さんと、メンヒかユングフラウに登るつもりでした?」
「あれ、ばれちゃいました?」

底抜けに明るい目が愉快に笑って、グラスに口付ける。
悪戯っ子が仕掛けをバレてしまった、そんな雰囲気に高尾署の松山が愉しげに尋ねた。

「本当にタフですね、明日は登るんですか?だったら全員で箝口令しますよ、」
「宮田にお目付け役が言い渡されちゃいましたからね、もうダメです。宮田は真面目で堅物なんですよ、ね?」

おまえには敵わないよ?そんなふう明るい目が英二を見、笑いかけてくれる。
こういう親近と信頼が嬉しい、英二は綺麗に微笑んで答えた。

「はい、堅物です。だから明日は、副隊長の言葉に従ってくださいね?俺に実力行使はさせないで下さい、」
「はいはい、明日はノンビリ昼寝と散歩にしますよ、」

仕方ないなあ?そんな目で光一は笑ってくれる。
けれど油断は出来ないな?そんな覚悟した向かいから五日市署の佐久間が訊いてきた。

「宮田さんの実力行使って、どんなですか?」

訊かれて、ひと呼吸を英二は考えた。
そして浮んだ答えに綺麗に笑って、口を開いた。

「たぶん、登山靴を隠しても脱出するでしょうしね?酒を呑ませながら一日中、抱え込むしかないでしょうね、」

きっと光一は登ろうと思ったら、スリッパでも街に出て登山靴を買ってしまうだろう。
そこから気を逸らせるには好きな酒を呑ますのが一番良い、そんな考え微笑んだ英二に加藤が感心したよう訊いた。

「国村さんって酒、相当強いですよね?宮田さんは互角に呑めるんですか、」
「互角かは解かりません、でも愉しい酒は好きですよ。国村と呑むのは愉しいので、」

そう答える隣から、透明な瞳が見つめている事に気がついた。
その眼差しが何か気恥ずかしげで、いつに無い貌に気が留められる。
どうしたのかな?そう不思議に思う向うから、村木が光一に質問をした。

「国村さん、マッターホルン北壁を速く登るには、注意する点はなんですか?」
「うん?ああ、マッターホルンですか?」

すこし上の空に返事して、光一は軽く頭を振った。
グラスに口付け酒をひとくち飲みこむと、いつもどおりテノールは明快に話しだした。

「最初に氷河がありましたよね、あそこを前もって見ると良いです。クレパスやプラトーの位置を把握すれば早朝の昏さで迷わない。
あと下部の三分の一を覆ってる氷壁がありますけど、必ず夜明け前には通過することです、太陽の光で溶けだすと落石が増えます。
大氷壁の取付点にも注意してください。右側のツムット寄りに登ると傾斜がきつく、落石の直撃を受ける位置となるので危険です。
あと早めに左側を登ってしまえば氷壁の上の方で、危なっかしいトラバースを右へしなくてはいけないポイントが出てきます、」

もう16年間ずっと光一は、マッターホルン北壁を研究し尽くしてきた。
その初登は高校1年の夏休みだから8年前、そのときも8年間の成果を積んで登ったのだろう。
おそらく高校生の光一も今回と同じよう、雅樹が遺した山図と自分が調べたデータを照合している。

―8年前の時は光一、何を想ったのだろう?

8年前のタイムは今回より遅い、けれど当時の光一は準備の為に登ったのだろう。
いつか雅樹に代るアンザイレンパートナーと出会い、雅樹と約束した「2時間」を叶える。
その準備として高校1年生の光一は、後藤副隊長と共にマッターホルン北壁を登攀した。
そんな光一の想いに考え廻らすうちに食事は終わり、席を立った英二は五日市署の橋本に呼び止められた。

「宮田さん、一昨日はありがとうございました、」
「え、」

なんのお礼だろう?
そう見た英二に橋本は、率直な笑顔で言ってくれた。

「マッターホルン、高尾署が予定より遅れた下山になりましたよね、無線も壊して。その所為で予定が変更になるかもしれませんでした。
それは国村さんと宮田さんにとって、北壁へのアタックをダメにする可能性だったと思います。でも、それを一言も責めませんでした、」

言ってくれる言葉に、自分への呼び方が変わっている事に気がつかされる。
一昨日のミーティングまで誰もが「宮田くん」と英二を呼んでいる、けれど今夜は「さん」になっていた。
こういうのは何だか面映ゆい、すこし困りながら英二は橋本へと笑いかけた。

「当たり前のことです、責める資格なんて私にはありません、」

鋸尾根の遭難事故、あの経験が自分にもある。
あの事故を知る人は誰もが不可抗力だと言う、それは昨日の高尾署も同じ状況だった。
なにより自分は実質1年も山の経験が無い、警視庁山岳会で最も後輩の自分が何を言えるのだろう?
そんな想い素直に笑った英二に、橋本は敬愛の眼差しで笑ってくれた。

「宮田さんって噂通りですね、能力があるのに謙虚で優しくて。名前で国村さんと呼びあうの、納得です」

やっぱりその件だったんだ?
そんな予想通りに心で笑いながら視線を廻らすと、光一は加藤と明後日の帰国について話している。
今なら注意は逸れて聴いていないだろうな?そう考えながら英二は橋本に謝った。

「本当は良くないですよね?4年も年次が違って階級も2つ上なのに、すみません」

警察の縦社会では、年次と階級が尊重される。
だから光一と英二が名前で呼び合うことは、容認され難いのが当然だろう。
この理解に素直に謝った英二に、橋本は軽く手を振りながら笑ってくれた。

「謝ること無いですよ。同じ齢だから呼び捨てにしようって、国村さんが命令したって聴きました。それくらい信頼があるのは納得です、
あんな記録を作れるパートナーなんですから。それに宮田さん、一昨日のミーティング前に国村さんのブレーキかけてくれましたよね?」

光一のブレーキ、そんな英二の役割は青梅署では有名でいる。
さっきの食事の席でも後藤の話でそれは出た、けれど橋本の言い方は前から知っているふうでいる。
どこで聴いたのかな?そんな疑問にただ微笑んだ英二に、橋本は教えてくれた。

「国村さん、K2の遠征にも行ってるでしょう?あのとき富山県警から行った男が、俺の大学時代からの友達なんです。
最初は登頂隊に入っていたんですけど、体調を崩して登れなくなって。そのときに友達は、国村さんから怒られたんですよ。
あのとき国村さん、まだ卒配期間で19歳だったけれど威厳っていうのかな?そういうのがあって、凄く怖かったって言ってました」

なぜ光一が怒ったのか?その理由は訊かなくても解かる気がする。
きっと本人とチームと、光一自身の誇りの為に怒ったのだろうな?
そう廻らせた考えの前から、橋本は率直に言ってくれた。

「だから今回の高尾署についても国村さん、凄く怒るんじゃないかって思っていたんです。でも笑って、労ってくれました。
食事しながら気さくに話して、下山に時間が掛かった原因をきちんと聴いてましたよね?それを解決する方法も話してくれて。
責めずに言うべき事を伝えて、ミスの解決に導いてました。そういう国村さんを見て、若いけど良い上司になる人だなって思ったんです。
そういう国村さんになったのは、宮田さんが傍にいるからかな?そんなふうに感じたんですよ、だから今、声かけさせて貰いました、」

皆が光一を次期リーダーに相応しいのか視ている、そう感じてはいた。
それを今、こうして話してくれる内容が嬉しい。うれしくて英二は綺麗に笑った。

「国村をそう言って下さって、ありがとうございます。パートナーを褒めるのは恥ずかしいですけど、私も良い上司だと思います、」

笑いかけて、英二は端正に礼をした。
そんな英二に橋本は温かに笑んで、嬉しそうに言ってくれた。

「やっぱり宮田さん、国村さんのパートナーに相応しい人ですね。マッターホルンの北壁でも見ていて皆、驚いたんですよ?
あの国村さんのスピードを止めることなく付いて登って、ハーケンも全部回収しましたよね?普通なら1年の経験では出来ない。
きっと本当に才能と努力があるんだろうなって、昨夜もミッテルレギヒュッテで話していたんです。セカンドに相応しいなってね、」

こんなふうに自分も認めてもらえた、それが素直に今、嬉しい。
嬉しいまま英二はもう一度、端正に礼をした。

「ありがとうございます、」
「いや、こちらこそ。俺も負けないようトレーニングします、」

楽しそうに笑って橋本は、またと手を上げて加藤たちの方へ歩いて行った。
それと入れ替わりに光一がこちらに来ると、底抜けに明るい目で微笑んだ。

「いま俺のこと喋ってたね?で、おまえも褒められていただろ?」
「あ、聴いてた?」

打合せしながらも、よく聴いていたな?
感心して微笑んだ英二に、山っ子は愉快に笑ってくれた。

「俺の聴覚は、風の音だって聴き分けるよ?しかも自分とおまえの話なら聞えちゃうね、」

謳うよう言って廊下を歩き、階段を上がっていく。
いつもの軽やかな挙措に疲労の影は見えない、細身でも強靭な体躯に見惚れながら英二は微笑んだ。

「光一って細いけど、ほんとタフだよな?疲れることってあるの?」
「そりゃあるよね、格式ばっちゃってるトコとかさ?でも山のことなら疲れは少ないね、」

からり笑って階段を昇っていく、その横顔は愉しげでいる。
そんな笑顔に嬉しさと快い山の疲労感を思いながら、階段を昇りきって部屋に入った。
窓からの空はまだ青い、夏7月のスイスは夕暮れが21時とゆっくり星空は訪れる。
この明るい夜空も明日が見納めだな、微笑んだ頬を白い指がそっと突いた。

「おまえ、やっぱりちょっと頬、赤いね?大丈夫?」
「風呂出てからも薬、塗ったんだけど。また塗った方が良いかな、」

答えながらザックから救命救急ケースを出し、ファスナーを開く。
納められている消炎剤を取出す指先、器具カバーが触れてその中身に意識が留まった。
救命救急に使うシュリンジや聴診器、ピンセットにハサミ、人工呼吸器、こうした金属製の器具たち。
そのカバーで2組あるものは、片方の中には救命器具など入っていない。

『WALTHER P38』

そう呼ばれる拳銃が分解されて入っている。
ドイツのC・ワルサー社が製造した、酷寒など過酷な状況下で荒い使用に耐える量産式の戦闘用拳銃。
これを晉は第二次世界大戦中に遣い、そして50年前に放った一発が畸形連鎖を惹き起すトリガーになった。
いま人命を救う器具のカバーに包まれた殺人道具、その姿を見つめて英二は穏やかに微笑んだ。

「今日登ったルートの『ヘックマイアー』って初登頂したドイツの人だけど、これが造られた頃の人なんだよな、」

ドイツ製の拳銃を背負って自分は、ドイツ人が開拓したルートを登攀した。
自分が拳銃を個人所有して背負い、山を登るだなんて思ったこと無かったのに?
そんな想い微笑んだ向かいからテノールが少し笑った。

「ソレ、普通なら空港で通れなかったろね?警察のレスキューって肩書と、お墨付きのお蔭だな」
「うん、」

頷いて英二はケースのポケットからカードを取出した。
吉村医師の直筆サインが記された医療行為者である証明のカード、これが荷物検査で役立っている。
普通なら金属性の器具を機内に持ち込むことは拒否される、けれど医師など医療関係者が医療目的で持ちこむ場合は許可される。
その配慮に吉村医師は英二の証明カードを作ってくれた、この感謝と自責が切ないままを英二は口にした。

「レスキューが主務の警察官で警察医の助手。そういう俺を信用して先生、救命具を肌身離さず持てるようにって書いてくれたんだ。
それを利用して俺は、これを持ち歩くために利用している。本当のことを先生が知ったら、俺のこと呆れても仕方ないよな。雅樹さんも、」

晉の拳銃を保管する場所は、今は自分には無い。
そして発見されたら晉の銃刀法違反が公になる、けれど警察官の自分が所持する分には幾らでも理由を作れる。
そう考えて今回もスイスまで分解したまま持って来た、そんな自分の行動と軍用銃に英二は自嘲気味に微笑んだ。

「これって量産式だからタフなんだろ?量産タイプが酷寒地で使えるなんて、ありふれた上っ面の家庭に育って雪山好きの俺みたいだ、」

『上っ面』

この言葉に父と母への本音が吐かれて、自分で痛くて、自分で可笑しい。
確かに父も祖父も法曹のエリートで物質的には恵まれた家庭だろう、けれど周太や光一のような両親たちの愛は無い。
いくらか裕福で両親は不仲、そんな今時ありふれた家庭事情に生まれ育った自分は、現代社会に量産されるタイプだろう。
そんな自覚に父と周太の母への感情が綯い混ざり笑顔が歪む、そんな英二の手元に白い指が伸ばされ消炎剤を取った。

「そこ座んな、手当してやる、」

透明な声が微笑んで、窓に近い椅子を指さしてくれる。
向けてくれる笑顔の温もりが優しい、その静けさに自分の未熟を気づかされてしまう。
詮無いことを自分は言った、そう反省に深い溜息を吐いて椅子に座ると、穏やかな笑顔へ素直に謝った。

「ごめん、変なこと言って。アイガーも終わって気が緩んでるな、俺、」
「謝るな。俺に気を遣うんじゃない、」

さらりテノールの声は微笑んで、白い指に軟膏をとってくれる。
そして白い手を英二の頬に添え、そっと白い指が頬をなぞっていく。
冷たい軟膏の感触ふれてすぐ温もりに変り、なめらかな指先が優しく頬を労わってくれる。

―なんか、ほっとするな

ふれてくれる指の温もりが、ささくれ掛けた心を撫でつけていく。
そんな想いに解かれながら手当は終わり、片づけて手を洗うと光一は前に座ってくれた。

「おまえ、この間は川崎の家でも溜息が多かったね?それと同じ溜息を今もしてたよ、本当は吐き出したいコトあるんだろ?」

本庁での山岳講習を担当した時、川崎の家に光一と帰って留守番をした。
あのとき晉の拳銃を掘りだしている、そんな合間には美幸の気配への傷みがあった。
そのことを光一は気づいてあの晩も訊いてくれた、けれど話すことを拒絶してしまった。
美幸の、周太の、そして馨の気配が温かい家。その家で話すことが罪に想えて躊躇われて、言えなかった。
その躊躇いのまま今も唇は披かれない、そんな沈黙に佇んだ英二へと無垢な瞳は温かに微笑んだ。

「おまえさ、実家に車ひき取りに行ってから葉山に周太と行ったろ?あれから帰った後、たまに張りつめた貌してるね。
だから俺はね、おまえが今回の北壁を集中できるか心配だったんだ。でも、ちゃんと集中しておまえは遣り遂げたよ。
だからもう、話したいコトここで吐いていい。おまえ言ったよね、俺はおまえの世界の全てで、俺はおまえと同じなんだって、」

ツェルマットの草原で、マッターホルンを見上げ告げた想い。
自分にとって光一は山への夢そのもので憧れ、だから光一が世界の全て。
そう告白した想いは今も同じ、その想いに今、そっと優しいテノールが笑いかけてくれた。

「俺に話すことはね、英二の独り言と同じだろ?だったら俺の前で愚痴っても泣いても、ノーカウントだね。だから遠慮は要らない。
もうマッターホルンもアイガーも終わったね、緊張も緩ませて大丈夫だ。今、日本からも遠くで俺とだけ向きあってる、誰にも知られない。
想ってること何でも好きに言えばいい、泣いていい、英二が溜め込んでること言って良いんだ。ちゃんと俺が受けとめるから、吐いちまいな?」

ゆっくり太陽が傾いていく窓の光に、雪白の貌が優しい。
大らかな温もりに明るい瞳が見つめてくれる、その眼差しに全て打ち明けたい。
いま家族と故郷から遥か遠い異郷にいる、この場所でなら話しても許されるだろうか?
そんな想い溜息ひとつ吐いて、かすかな笑みと一緒に英二は口を開いた。

「俺の父さんは恋してる、周太のお母さんに…俺の母さんのことはもう想ってくれない」

告げた言葉に、涙ひとすじ頬を伝った。






(to be continued)

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秋夜日記:黄昏、日常の幻想

2012-11-20 18:43:07 | 雑談
一瞬の光芒、その幻に 



こんばんわ、おつかれさまです。
いま第58話「双壁11」加筆校正が終わりました、3日掛かりとは。笑

写真は近所の屋上から撮影した、ある日の黄昏です。
暁も夕暮れも太陽の光は高度を低くして、その光彩は壮麗な瞬間を見せます。
刻々と移ろう一瞬の変化、光と影の織りなす刹那の姿は「幻影」という単語が合うなあと。
こういうシーンを絵にするの、好きなんですよね。写真もイラストも瞬間を切り取り、残せるのが面白い。

今夜は本篇の続きを22時頃までにUPの予定です。
このターンは後半部について賛否両論が巻き起こりそうだななあと、ややオッカナイ。笑
まだ描くべきかどうか?ちょっと迷ってもいます、後半部は今夜遅くに加筆となるかもしれません。
または今夜のターンでは描ききれず、待て次号かもしれないのですが。必要な部分なので、いつかは描く所なのですけどね。
もし書いたら賛否ともご感想、一言頂けると嬉しいです。

取り急ぎ予告まで、




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secret talk11 建申月act.6―dead of night

2012-11-20 08:33:09 | dead of night 陽はまた昇る
第58話「双壁」10と11の幕間、アイガー東山稜ミッテルレギヒュッテにて。
銀嶺、大正10年の夢



secret talk11 建申月act.6―dead of night

標高3,026mミッテルレギヒュッテ、東山稜を登る者はこの山小屋に1泊して出発する。
今回の遠征訓練で青梅署の英二と光一の他はここで1泊し、ミッテルレギ稜をガイドレスで登攀していく。
だから打合せが終われば英二と光一だけはアイスメーア駅に戻り、クライネシャデックからアルピグレンに入る。
そんな予定を控えて今、標高3,000m超えた場所での打ち合わせは進んでいく。

「山頂に8時、下山予定は南稜ルート経由で9時半メンヒヨッホ、30分ほど休憩してユングフラウヨッホ駅に11時です、」
「私たち東山稜は8時半登頂の予定ですから、若干、国村さん達の方が速いな。でもアルピグレンBCのデポ回収は行きましょうか?」
「自分たちでやります、それも訓練の内なので。でも疲れてダメそうだったら、お願いするかもしれません、」

からり雪白の貌が明るく笑って、頼るかもしれないと一歩退く。
そんな光一に第七機動隊第一小隊の加藤は、敬意の眼差しで笑いかけた。

「本当に国村さんはタフだな、さすがです。俺たちも8時を目指して登頂しますが、遅れたら予定通りグリンデルワルトのホテルに集合で、」
「はい、登頂したら無線の連絡は入れますが、出れない状況なら無視してください、」

2人の会話を聴いていて、加藤の言葉遣いの変化に英二は気がついた。
昨夜、ツェルマットのホテルでミーティングした時は殆ど敬語を遣っていなかった、けれど今は違う。
今回の海外遠征訓練のリーダーである加藤は29歳、自分たちより5歳上の大卒で、年次は高卒任官の光一より1年上になる。
階級は光一の方が1つ上の警部補だけれど、警視庁山岳会でも加藤は1年先輩だから当然のよう態度は「先輩」だった。
けれど今は後輩の光一に対して素直な敬意を示す、昨夜の高尾署に対する光一の態度の所為だろうか?
そんなことを考えながら会話の内容を記憶するうち、打合せは終わった。

「宮田さん、コーヒーいかがですか?今、小屋番の方が淹れて下さったんですけど、お時間よろしかったら、」

声かけられて振向くと、第七機動隊の村木が笑いかけてくれる。
その笑顔と呼びかけに昨日との違いを見ながら、英二は綺麗に笑いかけた。

「ありがとうございます、あと15分はあるので大丈夫です、」
「良かった、どうぞ、」

笑って渡してくれるマグカップを受けとると、温かい。
いま7月下旬とはいえ標高3,000mを超えるアルプスの山は寒い、啜ると熱い香がご馳走だった。
うまいな、そう素直に微笑んだ英二に村木は提案してくれた。

「宮田さん、良かったらテラスに出て飲みませんか?アイガーが目の前に見えて絶景なんです、」
「いいですね、」

気軽に笑って立ち上がると、光一も加藤たちとコーヒーを飲みながらテーブルで笑っている。
きっと昨日のマッターホルン北壁か明日のアイガー北壁の話題だろうな?そんな予想に微笑んで村木とテラスへの扉を開いた。
開かれる扉から冷気が頬を撫で、ゆるやかな風に雪と氷の匂いが透り抜けていく。
その開かれた視界には、蒼穹を突く氷食鋭鋒が聳え立った。

「すごい、」

蒼いナイフエッジの断面が、目の前に大きく見おろしてくる。
見上げる頂点の雪は午後の太陽に輝き、銀嶺という言葉を想いだす。
いま足元は鋭く切れ落ちテラスの下は何も無い、断崖から噴き上げる大気の流れが床面から昇っていく。
このミッテルレギヒュッテは狭い稜線上に立ち、両側の崖下から支柱で土台を広げて建造されている。
その構造が今、大気の流れと高度感に実感されるまま英二は綺麗に笑った。

「すごいですね、こんなふうに小屋を作ろうって考えつくなんて。今から90年前とかですよね?」

アイガーのノーマル・ルートは東山稜、ミッテルレギ稜と呼ばれる尾根沿いの道になる。
そのルートは麓に広がるグリンデルワルドの村落を背にアイガー北壁に面した左、東の稜線を辿って頂上に向かう。
この東山稜の初登頂は1921年に槙有恒が現地ガイド4人と達成、その功績を村人たちは祝福と歓呼で彼の下山を迎えた。
それから3年後に槇は当時1万フランをグリンデルワルドの登山組合に寄付し、ミッテルレギヒュッテは建てられている。
ふるい過去の現実が今、自分の立つ場所に繋がっている。そんな想いの横から村木も一緒に笑ってくれた。

「そうですね、今は建替えてありますけど、最初に建てたのが大正13年ですから。槇さんが東山稜を登った3年後ですね、」
「大正10年に、ここを登るってすごいことですよね、」

相槌を打ちながら、大正10年という年に記憶が起きあがる。
周太の祖父、晉が生まれたのは大正8年だから当時は2歳だろう。
その父親である敦は33歳、山口県の萩から川崎に移住して7年が経っている。
きっと晉と敦は槇有恒の快挙をリアルタイムで聴いただろう、そのとき2人は何を想ったのだろうか?

―晉さん、山が好きだったんだよな

山を愛していた晉は、あの事件の後に招聘されたオックスフォード大学での生活でも登山に行っている。
息子の馨を連れて週末には近郊の山を廻り、父子2人で妻の斗貴子を偲ぶ哀惜を超えようとしていた。
そんな当時、従叔母にあたる英二の祖母、顕子に馨はエアメールを送っている。
葉山にいる祖母を訪れた日に見た馨の幼い筆跡が今、見つめる山に切ない。

―お父さんは子供の頃から山が好きだったんだ…そして大学のとき、この稜線を登ってる

周太の父、馨が遺した紺青色の日記帳。
最初のページから3年間は夢を辿る日々が綴られ、英文学と山に親しむ青年の想いが鮮やかだった。
最初は英文、そしてラテン語まじりになっていく万年筆の筆跡は流麗で、けれどエアメールの日本語を綴った文字の俤がある。
あの2つの筆跡に見つめた馨の夢、その夢を育んだ父親の晉もこの山を登ったのだろうか?

第二次世界大戦が終わった直後、晉はフランスのパリ第三大学ソルボンヌへ留学した。
スイスは国境をフランスと接し、フランス語も公用語として充分に通じる。
だから晉がアイガーやマッターホルンに登った可能性もあるだろう。

―もし登ってるなら晉さん、何を想ったかな…故郷の山より高い場所から

敗戦国、そう日本が言われる時代に晉は戦勝国へ留学した。
その先で登った山は故国のどの山より標高が高い、その現実に何を見つめたのだろう?
けれど、その時に思ったかもしれない、もしこの東山稜ミッテルレギを晉が登ったのだとしたら。
東山稜登攀のベースになるミッテルレギヒュッテは、東山稜を初登頂した日本人により作られた。
このことに晉は敗戦国ではなく、純粋な「日本」という故国への誇りを見つめたかもしれない。

―誇りを抱いて晉さんは、ここを登ったかもしれない…それを支えに勉強したのかもしれない

敗戦国、その名前は現代より遥かに重圧だったろう。
その名前を背負っても晉は留学し、故国へとフランス文学を通して豊かな学問を持ち帰った。
それは単純に学問が好きなだけでは叶わないことだったろう、きっと留学先での差別や罵倒への覚悟が必要だったはずだ。
それでも晉は独りフランスに渡り、自分が志す道を信じて世界最高学府の1つに学び、世界的な学者と呼ばれるまでになった。
そこへ登っていく道程の困難と喜びが今、見上げるミッテルレギ稜のナイフエッジに映りだす。

―晉さんなら登っただろうな、日本人が初めて登ったルートに故郷への誇りを重ねて…きっと、

周太の勉強机に隠されていた古いアルバム、そこに晉の登山姿の写真があった。
あのなかにアイガー山頂らしい写真はあったろうか?もし無くても写真を撮らなかった可能性も大きい。
当時の時代ではカメラ機自体が貴重品で、父親の敦が持っていても息子の晉は無いのが普通だろう。
それでも誰かに頂上で撮影してもらった写真を、持っている可能性もある。

帰ったらアルバムを見直してみよう、そんな想いと一緒に英二はコーヒーを啜りこんだ。






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