Blanche araignee 生死を分かつもの

第58話 双壁act.11―side story「陽はまた昇る」
「人を食う壁」それがアイガー北壁の別名。
ユングフラウ、メンヒ、アイガーをベルナーオーバーランド三山と呼び、この山群は大西洋からの荒天を直に受け止める。
このため突発的に発生する嵐は凄まじい猛威をふるい、この悪天候に捕まって数々のクライマーが命を落としてきた。
なかでもアイガー北壁はヨーロッパ平原の北東風をまともに受け、太陽も当たらず夏も吹雪き凍死の危険が蹲る。
その傾斜は急すぎて雪もあまり積もらない、そんなアイガー北壁は冬でも黒い山として佇む。
この冷厳な死の軌跡がアイガー北壁を「人を食う壁」死の壁と呼ばせている。
“Eeger” アイガー
標高3,975m、北壁の標高差1,800m。
グランドジョラス北壁ウォーカーバットレス、マッターホルン北壁と並ぶ三大北壁として知られる。
アイガーの初登頂は1858年チャールズ・バリントン、日本人は1921年の槇有恒による初登攀の北東稜。
北壁の初登頂は1938年7月24日、ドイツ隊のヘックマイヤーとフェルク、オーストリア隊のハラーとカスパレクの4人。
このハインリッヒ・ハラーは北壁登頂の後、ナンガ・パルバット遠征中に勃発した第二次世界大戦により下山したパキスタンで拘束された。
そして脱出した先のチベットで、最高指導者ダライ・ラマの家庭教師として過ごし『Seven years in Tibet』を書き残した事で知られる。
日本人のアイガー北壁初登頂は1965年8月16日 高田光政。この記録は光と影に充ちている。
山頂下300mでザイルパートナーの渡部恒明が墜落、この救助を求める際に高田が山頂を経由し、登頂は達成された。
けれど渡部はその間に墜落し救助が来た時は息絶えている、このとき渡部が自らザイルを外した痕跡があった。
負傷の激痛に耐えきれなかったのか、低体温症の幻覚症状に因るのか、その真相は誰にも解からない。
数々の栄光と悲劇の舞台、その場所を登っていく横、朝が光射す。
頭上のしかかるようハングする岩に感覚は鋭利に覚めだし、集中は深く意識野は広くなる。
三点確保で登攀し岩壁からハーケンを抜いていく、その手元グローブを透かす手応えを記憶する。
朝陽ふれる岩肌には岩紋があわく浮かぶ、その楔が撃たれたポイントに意識を刺し他との違いを見る。
その意識を岩壁に繋げたままの目の端、刻々と鮮明になる青へ岩稜の隆起は黒を描きだしていく。
―時間は、
心つぶやいて岩をつかむ左手を見る。
手首にはクライマーウォッチが時を刻み、タイムと高度を示す。
その青いフレームラインに微笑んで、英二は蒼灰色の壁を見上げた。
視界に曙光が明るんで、青いウェアの背中は蒼穹へ輝く。この眩しさに心つぶやいた。
―空に駈けていくみたいだ、
遥か1,800m、東京タワー5個分の高度に続く垂直の壁。
聳える蒼い影を確実なムーブメントに登りあがり、光一は蒼穹へ駈けていく。
長い腕、黒いパンツ伸びやかな脚、どちらも慎重で軽快な動きに岩壁を捉え、登る。
迷わないルートファインディングと素早いランニングビレイ、その的確な技術が迅速な登攀を続けさす。
このスピードに天候の安定を掴んだまま完登を目指していく、その意思と集中力が強靭な肢体に目映い。
ここまで予定タイム通りの登攀で来られた、けれどアイガー北壁は終盤に関門が待ち受けている。
そのポイントを無事に超えられず落命する者も多く、一瞬の意識の逸れが生死の分岐点になってしまう。
こうしたアルパインクライミングで重要なのは集中力、それを試される場所が見上げる先へ近づいてくる。
そして終盤のリスクポイントの1つ「神々のトラバース」狭い急峻な岩棚に光一は踏みこんだ。
この急勾配のバンドを通って西へ平行移動をし、その先には氷壁地帯が広がらす。
垂壁の窪みは雪が吹き溜まり永久に凍りつき、遠目に見ると蜘蛛が巣を張る姿に似ている。
ここを通過する時タイミングが悪ければ、落石が砲弾のよう降り注ぎ蜘蛛が補食するようクライマーを捕えてしまう。
そうした特徴から「白い蜘蛛」と名づけられる氷壁に、神々のトラバースを超えた青いウェアは入っていく。
―石よ、降るな
祈りを右手方向へ飛ばす意識に、雅樹の微笑がよぎる。
穏やかな美しい青年の笑顔、その強靭で優しい不屈の魂に祈らずにいられない。
どうか光一の無事を護ってほしい、そんな願いを心に抱いて英二は岩棚を右へと移動し氷壁へ入った。
その頭上、青いウェアの背中はハーケンを撃ちランニングビレイをとって、蒼く白い壁を登りあげていく。
コンコン、カンッ、キン、キンッ。
太古から凍れる氷壁にハーケンが謳う、それは生命が通過する聲だと聴こえだす。
誇らかにハーケンは謳いあげ、赤いザイルに軌跡を描かせ蒼い壁へと光一のアイゼンが立つ。
ただ「山」を登っていく光一の背中、その赤い軌跡をたどり追いかけ、蒼い冷厳を共に登っていく。
登る都度ザイルを回収しながら氷壁からハーケンを抜く、けれど指先は凍えることなく金具は無事収められる。
―マッターホルンと同じだ
心に呟く想いが、頭上を行く山っ子への祝福を感じさす。
このアイガーは北壁に限らず落石も多い、それはマッターホルンと同じ岩を氷で固めた地質に因る。
遥かな昔から凍りついた岩の山、けれど気まぐれに氷は溶けて、抱擁を解かれた岩は落石となって降りそそぐ。
そんな気まぐれを起こし生命を捕える「白い蜘蛛」、でも今は凍れる石も落ちることなく青いウェアは登っていく。
―やっぱり護られている、
きっと光一は護られている、その確信に肚の底を温めながら冷厳の世界を登攀する。
頂上へ抜けるクラックは凍れる岩壁と氷雪が繰り返し、太陽の光は遠く、陰翳の冷たい空気が頬なでる。
nordwand北壁は、一字違いでmordwand殺人岩壁となる。その意味が冷気と凍壁に思い知らされていく。
それでもこの巨壁に挑むことをクライマーたちは止めず「妄執の塊」とすら呼んでいる。
そんな場所に今、自分の体は登って頂上を目指していく。
―現実なのか、夢なのか
ときおり瞬間よぎらす想いに、一年前の夏が通り過ぎる。
警察学校の山岳訓練、谷底へ滑落した周太の救助に向かうとき自分は、初めてザイルを掴んだ。
まだ技術も何も知らなかった、それでも周太を背負って雨後の斜面を登りきり、肩には擦過傷の痕が残された。
あれから一年程しか経っていない、けれど10ヶ月前から毎日を山に登り奥多摩の岩壁を訓練してきた。
そんな日々に訪れた冬は、高難度と呼ばれる山と壁に幾つも登り続けて、そして今の瞬間がある。
―これが俺の夢で現実なんだ、
この今が幸せだ、そんな思いにカラビナを外しハーケンを抜く。
いつも通りに手を動かし回収していく、その指先触れる金属は冷えていない。
ほとんど太陽の当らないアイガー北壁、それでも今日もまた光一が撃ちこんだハーケンは凍っていない。
あのマッターホルン北壁と同じ現象がここでも起きている、こんなことは非科学的だと思う、けれど現実に冷たくない。
この今も、雅樹が一緒に登っている。
そんな確信は肚の底から坐って「普通」になってしまった。
この確信を裏付けるかのように、登りはじめて2時間半を過ぎても風の変化は無い。
この北壁は狂風の巣窟、荒天に晒される危険の高さに登攀禁止となったことすらある。
それでも光一は「絶対に風が吹かない」と今日のことを予告していた、その通りに殆ど風は無い。
あの言葉は天気図や過去のデータを綿密に調査した結果だった、そして「運」でもあるだろう。
その運を引き寄せるものは何なのか?
その答えが16年前に槍ヶ岳で眠りについた、山ヤの医学生だと想えてならない。
昨日は東山稜ミッテルレギヒュッテで高度馴化し、今回の遠征チームで打合せを行った。
そのあと光一とアイスメーア駅からクライネシャデックに戻り、アルピグレンで北壁を仰ぎテント泊をしている。
そこまで至る氷河のトラバースもテント泊も、北壁の取り付に向かい今この瞬間まで、全て予定通りに進んでいく。
そうした順調さも護られているよう想えて、青梅署警察医のデスクに佇んでいる写真の笑顔を想いだす。
今も雅樹は共に登る、だから光一は無事に完登できる。この信頼が一挙手一投足を平常通り動かしていく。
この信頼を光一も抱いて今「死の壁」を登る、その想いと意思は繋ぎあうザイルに熱い。
このまま風が捕えに来なければ、光一は最後のオーバーハングも無事に超えるだろう。
そう信じる意識は集中を切らさず確保点を回収し、登っていく。
支点からカラビナを外し、ハンマーのカラビナに繋ぎなおしたハーケンを平行に叩く。
このアイガーでも光一のハーケンは的確に撃たれて、いつものよう岩に罅は入っていない。
アイガー北壁は「mordwand」人を殺す岩壁と呼ばれ、数多のクライマーが「征服」を挑んできた。
けれど山っ子は故郷の山々と同じように、この岩壁にも労わりを籠めた確保点を撃っていく。
この端正で優しいハーケンの撃たれ方に光一の、深い「山」への敬愛を英二は見た。
―光一は「山」を征服しようなんて思っていない、ただ愛してるんだ
今あらためて気づかされる、山っ子の「山」への深い愛。
光一は「山」を傷付けない為にハーケンを適確に撃ち、岩も小石も蹴り落とさない。
そんな一つ一つの動作の意味を今、この生死の際に立つ垂直の壁の懐で気づかされる。
征服ではなく敬愛を捧げるために光一は「山」に登り、山に遊べる幸せに笑って愛している。
大切に自分を登る相手を山は愛するだろう、そういう光一だから「山」は受容れ護り、登らせる。
―きっとそうだ、だから今も風は吹かない。
いま登っていく垂壁の山も、この愛を受入れている。
この敬愛を抱くからこそ、最高の山ヤの魂として光一は輝いている。
そういう男だから雅樹も年齢に関係なく、1人の山ヤとして幼い光一を尊敬していた。
山に愛され、山ヤに愛される光一。そんな光一はきっと無事に完登する、そしてアイガーの頂点に立つだろう。
そう信じる集中の中ひたすらに、光一の軌跡を辿り赤いザイルを回収していく。
三点確保で登攀し、光一が新たな支点を撃ち終えると手許のハーケンを抜く。
いつもの繰り返す動作、その手とハーネスに伝わるザイルの動きに顔を上げる。
ゴーグルを透かし見上げる垂直の黒、その向こうに抜けたアイゼンの足が見えた。
「雪田に着いたな、」
ほっと独り言こぼれて、英二は微笑んだ。
あと少しで頂上に光一は立てる、この確信にハンマーを使いハーケンを抜く。
無事に回収してハーネスのウェストに提げ、赤いザイルを辿り雪田に向かって登りあげていく。
そして白銀まばゆい氷雪に視界は開け、そこに見た青い背中にリッフェルホルンのフランス語が映った。
“Tu es un amant de montagne” 山の恋人
マッターホルンの岩壁登攀テストを兼ねたリッフェルホルンのガイド登攀。
あのとき同行した現地ガイドがフランス語で笑って、光一に贈った言祝ぎの言葉。
あの言葉の通りなのだと今、蒼穹の点へ登っていく青いウェアの背中に見つめてしまう。
―…幸せだよ、今から山にキスするんだからね
ガイドの笑顔に答えた光一の言葉は、本当だ。
あの言葉通りに楽しげな喜びが今、白銀を進む青い背中にあふれている。
もうじき頂上へ辿り着ける、その緊張感と幸福がアンザイレンパートナーを充たす。
―きっと今、光一は真剣で愉快に笑っているだろうな?
そんな想い微笑んで岩壁から雪田へと英二は登りあげた。
登ってきた黒く蒼い壁は足元に切れ落ちる、高度1,800mがアイゼンの下に広がらす。
朝に発ったクライネシャデックは夏の緑に輝き、この冷厳な氷雪が異世界なのだと実感させる。
ここから墜ちれば死、その現実から離れようと起きあがりかけた瞬間、突風が壁から噴き上げた。
「…っ、」
オーバーハングが捕える豪風が、起こしかけた体のバランスを突き崩す。
巨大な平手打ちのよう空気の塊が激突し、英二の体は氷原に押し倒された。
―滑落する!
意識が一瞬で戻され、ピッケルを滑落停止体勢に持ち替えた。
いま山頂へ登る氷雪は東へ傾斜し、その重力に掴まれ滑りだす瞬間を冷静が捉える。
右手で親指側にブレード、小指側にピックが来るように持ち、左手はシャフトの中程を握りこむ。
そして右手を右肩口に、シャフトを握る左を脇腹に保持し胸に引きつけ、一瞬で体勢を整えていく。
胸部とウェスト両方のハーネスから繋がるザイル、その先にいる相手を引き摺りたくない。
― 光一を巻きこむのは嫌だ!
自分は確保者、ビレイヤーとして光一をサポートする為に共に登ってきた。
それなのに自分の事故に光一を巻き込むことだけは嫌だ、そんな失敗は赦せない。
そんな想いとブレードを握る拳を鎖骨に当て、ピックの刃が体と水平になるよう保つ。
そして思い切り体を反転させ、英二はピッケルを氷雪に立てた。
ザリッ、ガリリッ…
硬い氷壁に、刃は滑る。
永久凍土ふり積った新雪は舞い、白い紗に染められた視界は反転して蒼い雪面に変る。
頬に冷厳がふれゴーグルの向こうに雪の結晶きらめいていく、滑りだす体の下にザイルが攣られだす。
回収してきたメインザイルが解けだし雪田の彼方へ延びていく、そしてアンザイレンザイルの弛みが張りだす。
滑りだす始めにピッケルを立てた、けれど体はまだ止まらない、このままザイルの向こうを引き摺りこんでしまう?
―ザイルを外せばいい、
アンザイレンザイルを外せば、光一を引き摺りこまずに済む。
その一瞬の判断に、シャフトを握る指先でチェストハーネスの金具に触れた。
チェストハーネスとザイルの繋留を解きだす、その指先にザイルの動きがふれテノールが叫んだ。
「ザイルを外すなっ!」
透明な声が跳んで、ザイルが停止を始めだす。
ゆるやかな制動にザイルは止まり、体の滑りが止まった。
「…っは、」
氷雪の斜面にうつ伏したまま、英二は吐息に微笑んだ。
死なずに済んだ、その想いに頬ふれる雪の冷たさが生きている実感に変る。
ピッケルのシャフトを握ったまま胸ポケットに触れ、守袋と合鍵の感触をウェア越し握りしめた。
―周太、生きてるよ、俺
こみあげる実感に、故郷の恋人へと想いが呼びかける。
いま一瞬で光一のために死も覚悟した、けれど生きていれば婚約者への想いあふれだす。
スイスに来る直前、新宿のいつものベンチで交わした約束とキスの記憶が懐かしく、愛おしい。
そして一昨日に架けてくれた電話でも約束をした、その言葉が氷雪の実感に蘇える。
―…無事に帰ってきて?家も掃除して、おふとん干しておくから
ごく普通な日常の幸福、そんなありきたりの約束。
けれど自分にとってそれは本当に得難い、それが今の滑落を起こした突風に解る。
こんなふうに危険に晒される瞬間が「山」の現実、それでも自分は止めたいと欠片も想えない。
「ごめん、周太…」
そっと愛しい名前に謝って、雪から顔をあげ空を見る。
この空の遥か東で婚約者は待っている、自分の約束を信じてくれている。
こんな危険だらけの場所に夢を見つめ、その美しさに惹かれ離れない自分がここに居る。
そんな自分なのに周太は必ず帰ると信じてくれる、そして帰る場所で居てくれている。
その信頼をずっと抱き続けて、だから今回も周太は笑って送りだしてくれた。
―約束を信じて待ってくれてる、いつも
まだ、死ぬわけにいかない。
自分は光一と周太と両方の約束を叶える為に今、この岩壁も登ったのだから。
いま超えた先にも約束は続く、そして周太を廻る「50年の束縛」もまだ終わってはいない。
周太の運命を歪ませ、馨を死なせ晉と敦を殺し、斗貴子を美幸を悲哀に沈ませた「あの男」はまだ生きている。
―あの男だけは赦せない、
赦せない、あんな理不尽な「法の正義」など壊してやる。
そして自分が見つけた帰る場所を、大切な伴侶と家を護りぬく。
そのために辛い訓練も積みあげて自分は今、不可能と言われた北壁を登りきった。
マッターホルンとアイガー、この2つの北壁を登頂した実績を持って帰り自分は「あの男」と闘う。
「死ねない、こんなところで…これからなんだ、」
独り言と慎重に起きあがり雪上に座りこむ、そのまま雪を払いながら体の確認をしていく。
ヘルメットもゴーグルも壊れておらず装備は落としていない、手も脚も痛みは無く異常はない。
ハーネスで体が擦られた感覚もなく骨に異常もない、光一の制動が巧みだったお蔭だろう。
ありがたいな、ほっと微笑んだ向こうから雪を踏む音が近づき、テノールが怒鳴った。
「馬鹿野郎っ!」
声に見上げると青空のした、雪白の貌が怒っている。
いま登ったアイガー北壁のHeckmair route、ヘックマイアールートの最速記録はソロで2時間28分。
これに対して光一は3時間のタイムアタックをしていた、それなのに英二の転倒で時間を食ってしまった。
今回のタイムアタックも光一は以前から練り上げている、それをサポートするべき自分が不注意で邪魔してしまった。
こんなのは怒られて当然だ、心から申し訳なくて英二は素直に謝った。
「ごめん、こんなところで転んで。俺の不注意でタイム遅くして、すまない」
「そんなこと言ってんじゃないよっ!」
怒鳴って青いウェア姿は隣に座りこむ。
そして英二の肩を掴んで、ゴーグル越しに透明な目が真直ぐ見つめた。
「アンザイレン外すんじゃないよっ!馬鹿野郎っ、何のためにザイル繋いでんだよっ!」
真直ぐ見つめる瞳は怒って睨みつける、その奥にある涙に英二は気がついた。
いま自分がしようとした判断は、この誇り高いアンザイレンパートナーを傷つけた。
「ごめん、」
謝って見つめた先、薄紅の唇がふるえている。
やっぱり傷つけてしまった、この想い素直に英二は微笑んだ。
「光一を巻き込むの、どうしても嫌だったんだ。俺は光一のサポートをするビレイヤーだ、光一の無事を守るっていうプライドがあるんだ。
だから巻き込みたくなくて俺、ザイルを外そうって思ったんだ。だけど、ごめんな?絶対に止めてくれるって光一のこと、信じるべきだな、」
光一のロープワークの技術と力、それを信用していないからザイルを外そうとした。
そういう事に光一にとってはなるだろう、それは最高の山ヤとしてプライドが傷つくことだ。
この理解に謝った英二に、ふるえる薄紅の唇は想いを吐き出した。
「そうだよっ…信じろよ!俺のこと信じて約束を守れよっ…俺と最高峰、行くんだろ?八千メートル峰に登るって約束したじゃないか!」
なのにこんなとこで勝手なことすんなっ!か、風に煽られて転ぶなよっ、こんな風になんか捕まるんじゃないよ、英二まで風に捕まるな!」
『風に捕まるな』
この言葉に、北鎌尾根の風と雅樹の運命がふれた。
雅樹は槍ヶ岳が吹かすナイフリッジの風に捕まって、北鎌尾根から滑落した。
あの遭難事故を今、光一の前で自分は再現する所だった?そう気づいたゴーグルの向こう透明な瞳に涙あふれた。
「な、なんでだよ…っ、お、俺のパートナーは風に攫われるんだよ?や、山の風に雅樹さ…おまえまで今っ…」
ゆれる瞳に動揺は広がっていく、透明な無垢に罅割れが生まれだす。
いまアイガー北壁を超えて頂上を前にする、この高度4,000mに近い世界で集中を欠いてしまう?
そんな危険を自分が原因で起こしてしまった、その悔恨とパートナーへの想いに英二は大らかに微笑んだ。
「大丈夫だ、光一。俺は生きてるよ?俺には最高峰の竜の爪痕がある、これって最高の御守なんだろ?だから今も無事だった、だろ?」
笑いかけ、自分の左頬を光一に示して見せる。
今の雪との摩擦で頬は少し熱を持った、きっと傷痕は熱に浮きあがっているだろう。
そう思い見せた頬へと青いグローブの指先はふれ、透明な瞳は微笑んだ。
「うん、だね…いま爪痕が浮んでる、おまえはコレがあったよね…俺のキスだけじゃなくって、富士の竜の御守があったね、」
俺のキスだけじゃない、そう言った光一の想いに切なくなる。
昨夜に話してくれた光一と雅樹のファーストキス、そして吉村医師が語ってくれた事実が想いだされた。
―…寝ている時のキスマークは、無意識だと思いますよ。彼はずっと雅樹にしていましたから
だからね…雅樹の首には、可愛いキスマークが残っていました。薄いけれど、ちゃんと、あったんです
山っ子のキスマークつけたまま、雅樹は逝ったんですよ。山と医学ばかりの男には光栄で幸せだった、そんなふうに想います
最期のキスマークはきっと、無意識じゃなかった。
最後にふたりが逢った夜、光一は雅樹の運命に何かを感じていた、そう槍ヶ岳で話してくれた。
きっと自分のキスを御守として雅樹に無事帰ってきてほしい、そんな祈りを籠めてキスしたのだろう。
いま気づかされた光一の哀しみに、英二は綺麗に笑って願い出た。
「そうだよ、俺には爪痕がある。これに山っ子がキスしたら最強の御守になるだろ?だから今、またしてくれる?」
春3月に起きた鋸尾根での英二の遭難事故、あのとき光一が言った言葉で笑いかける。
その想い出に山っ子は綺麗に笑って、透明な瞳を幸せに笑ませてくれた。
「うんっ、だね、追加しとこっかね、」
嬉しそうに笑った薄紅の唇よせられて、頬に温もり触れてくれる。
いつものよう光一の空気はあまく高雅に香り、やわらかなキスが傷痕を温めていく。
冷厳の壁を超え座りこんでいる天空の雪原、この生命の無い世界に温もりのキスが刻まれる。
「なんか俺、今、幸せだな、」
素直な想い微笑んで、アンザイレンパートナーに笑いかける。
この想いは自分ひとりではない、きっともう1人のアンザイレンパートナーの喜びだろう。
そんな想いと笑いかけた先、山っ子は幸せに微笑んで英二の掌をとり一緒に立ちあがってくれた。
「だね、でも天辺に行ったらもっと幸せだよ?行こう、英二、」
綺麗な笑顔を山頂へ向け、青い背中が歩き出す。
もう落着いて普段どおり陽気になった、そんな気配に微笑んで英二も歩き出した。
白銀まばゆい雪田を登り、蒼穹の点へと青いウェア姿が辿り着く。
その隣に並び立ち、遥か東の空へと英二は笑いかけた。
―周太、今、アイガーの北壁を超えたよ?
午前8時前の標高3,975m、聳える岩壁の上に望郷の恋はナイフエッジの風に駈けていく。

(to be continued)
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第58話 双壁act.11―side story「陽はまた昇る」
「人を食う壁」それがアイガー北壁の別名。
ユングフラウ、メンヒ、アイガーをベルナーオーバーランド三山と呼び、この山群は大西洋からの荒天を直に受け止める。
このため突発的に発生する嵐は凄まじい猛威をふるい、この悪天候に捕まって数々のクライマーが命を落としてきた。
なかでもアイガー北壁はヨーロッパ平原の北東風をまともに受け、太陽も当たらず夏も吹雪き凍死の危険が蹲る。
その傾斜は急すぎて雪もあまり積もらない、そんなアイガー北壁は冬でも黒い山として佇む。
この冷厳な死の軌跡がアイガー北壁を「人を食う壁」死の壁と呼ばせている。
“Eeger” アイガー
標高3,975m、北壁の標高差1,800m。
グランドジョラス北壁ウォーカーバットレス、マッターホルン北壁と並ぶ三大北壁として知られる。
アイガーの初登頂は1858年チャールズ・バリントン、日本人は1921年の槇有恒による初登攀の北東稜。
北壁の初登頂は1938年7月24日、ドイツ隊のヘックマイヤーとフェルク、オーストリア隊のハラーとカスパレクの4人。
このハインリッヒ・ハラーは北壁登頂の後、ナンガ・パルバット遠征中に勃発した第二次世界大戦により下山したパキスタンで拘束された。
そして脱出した先のチベットで、最高指導者ダライ・ラマの家庭教師として過ごし『Seven years in Tibet』を書き残した事で知られる。
日本人のアイガー北壁初登頂は1965年8月16日 高田光政。この記録は光と影に充ちている。
山頂下300mでザイルパートナーの渡部恒明が墜落、この救助を求める際に高田が山頂を経由し、登頂は達成された。
けれど渡部はその間に墜落し救助が来た時は息絶えている、このとき渡部が自らザイルを外した痕跡があった。
負傷の激痛に耐えきれなかったのか、低体温症の幻覚症状に因るのか、その真相は誰にも解からない。
数々の栄光と悲劇の舞台、その場所を登っていく横、朝が光射す。
頭上のしかかるようハングする岩に感覚は鋭利に覚めだし、集中は深く意識野は広くなる。
三点確保で登攀し岩壁からハーケンを抜いていく、その手元グローブを透かす手応えを記憶する。
朝陽ふれる岩肌には岩紋があわく浮かぶ、その楔が撃たれたポイントに意識を刺し他との違いを見る。
その意識を岩壁に繋げたままの目の端、刻々と鮮明になる青へ岩稜の隆起は黒を描きだしていく。
―時間は、
心つぶやいて岩をつかむ左手を見る。
手首にはクライマーウォッチが時を刻み、タイムと高度を示す。
その青いフレームラインに微笑んで、英二は蒼灰色の壁を見上げた。
視界に曙光が明るんで、青いウェアの背中は蒼穹へ輝く。この眩しさに心つぶやいた。
―空に駈けていくみたいだ、
遥か1,800m、東京タワー5個分の高度に続く垂直の壁。
聳える蒼い影を確実なムーブメントに登りあがり、光一は蒼穹へ駈けていく。
長い腕、黒いパンツ伸びやかな脚、どちらも慎重で軽快な動きに岩壁を捉え、登る。
迷わないルートファインディングと素早いランニングビレイ、その的確な技術が迅速な登攀を続けさす。
このスピードに天候の安定を掴んだまま完登を目指していく、その意思と集中力が強靭な肢体に目映い。
ここまで予定タイム通りの登攀で来られた、けれどアイガー北壁は終盤に関門が待ち受けている。
そのポイントを無事に超えられず落命する者も多く、一瞬の意識の逸れが生死の分岐点になってしまう。
こうしたアルパインクライミングで重要なのは集中力、それを試される場所が見上げる先へ近づいてくる。
そして終盤のリスクポイントの1つ「神々のトラバース」狭い急峻な岩棚に光一は踏みこんだ。
この急勾配のバンドを通って西へ平行移動をし、その先には氷壁地帯が広がらす。
垂壁の窪みは雪が吹き溜まり永久に凍りつき、遠目に見ると蜘蛛が巣を張る姿に似ている。
ここを通過する時タイミングが悪ければ、落石が砲弾のよう降り注ぎ蜘蛛が補食するようクライマーを捕えてしまう。
そうした特徴から「白い蜘蛛」と名づけられる氷壁に、神々のトラバースを超えた青いウェアは入っていく。
―石よ、降るな
祈りを右手方向へ飛ばす意識に、雅樹の微笑がよぎる。
穏やかな美しい青年の笑顔、その強靭で優しい不屈の魂に祈らずにいられない。
どうか光一の無事を護ってほしい、そんな願いを心に抱いて英二は岩棚を右へと移動し氷壁へ入った。
その頭上、青いウェアの背中はハーケンを撃ちランニングビレイをとって、蒼く白い壁を登りあげていく。
コンコン、カンッ、キン、キンッ。
太古から凍れる氷壁にハーケンが謳う、それは生命が通過する聲だと聴こえだす。
誇らかにハーケンは謳いあげ、赤いザイルに軌跡を描かせ蒼い壁へと光一のアイゼンが立つ。
ただ「山」を登っていく光一の背中、その赤い軌跡をたどり追いかけ、蒼い冷厳を共に登っていく。
登る都度ザイルを回収しながら氷壁からハーケンを抜く、けれど指先は凍えることなく金具は無事収められる。
―マッターホルンと同じだ
心に呟く想いが、頭上を行く山っ子への祝福を感じさす。
このアイガーは北壁に限らず落石も多い、それはマッターホルンと同じ岩を氷で固めた地質に因る。
遥かな昔から凍りついた岩の山、けれど気まぐれに氷は溶けて、抱擁を解かれた岩は落石となって降りそそぐ。
そんな気まぐれを起こし生命を捕える「白い蜘蛛」、でも今は凍れる石も落ちることなく青いウェアは登っていく。
―やっぱり護られている、
きっと光一は護られている、その確信に肚の底を温めながら冷厳の世界を登攀する。
頂上へ抜けるクラックは凍れる岩壁と氷雪が繰り返し、太陽の光は遠く、陰翳の冷たい空気が頬なでる。
nordwand北壁は、一字違いでmordwand殺人岩壁となる。その意味が冷気と凍壁に思い知らされていく。
それでもこの巨壁に挑むことをクライマーたちは止めず「妄執の塊」とすら呼んでいる。
そんな場所に今、自分の体は登って頂上を目指していく。
―現実なのか、夢なのか
ときおり瞬間よぎらす想いに、一年前の夏が通り過ぎる。
警察学校の山岳訓練、谷底へ滑落した周太の救助に向かうとき自分は、初めてザイルを掴んだ。
まだ技術も何も知らなかった、それでも周太を背負って雨後の斜面を登りきり、肩には擦過傷の痕が残された。
あれから一年程しか経っていない、けれど10ヶ月前から毎日を山に登り奥多摩の岩壁を訓練してきた。
そんな日々に訪れた冬は、高難度と呼ばれる山と壁に幾つも登り続けて、そして今の瞬間がある。
―これが俺の夢で現実なんだ、
この今が幸せだ、そんな思いにカラビナを外しハーケンを抜く。
いつも通りに手を動かし回収していく、その指先触れる金属は冷えていない。
ほとんど太陽の当らないアイガー北壁、それでも今日もまた光一が撃ちこんだハーケンは凍っていない。
あのマッターホルン北壁と同じ現象がここでも起きている、こんなことは非科学的だと思う、けれど現実に冷たくない。
この今も、雅樹が一緒に登っている。
そんな確信は肚の底から坐って「普通」になってしまった。
この確信を裏付けるかのように、登りはじめて2時間半を過ぎても風の変化は無い。
この北壁は狂風の巣窟、荒天に晒される危険の高さに登攀禁止となったことすらある。
それでも光一は「絶対に風が吹かない」と今日のことを予告していた、その通りに殆ど風は無い。
あの言葉は天気図や過去のデータを綿密に調査した結果だった、そして「運」でもあるだろう。
その運を引き寄せるものは何なのか?
その答えが16年前に槍ヶ岳で眠りについた、山ヤの医学生だと想えてならない。
昨日は東山稜ミッテルレギヒュッテで高度馴化し、今回の遠征チームで打合せを行った。
そのあと光一とアイスメーア駅からクライネシャデックに戻り、アルピグレンで北壁を仰ぎテント泊をしている。
そこまで至る氷河のトラバースもテント泊も、北壁の取り付に向かい今この瞬間まで、全て予定通りに進んでいく。
そうした順調さも護られているよう想えて、青梅署警察医のデスクに佇んでいる写真の笑顔を想いだす。
今も雅樹は共に登る、だから光一は無事に完登できる。この信頼が一挙手一投足を平常通り動かしていく。
この信頼を光一も抱いて今「死の壁」を登る、その想いと意思は繋ぎあうザイルに熱い。
このまま風が捕えに来なければ、光一は最後のオーバーハングも無事に超えるだろう。
そう信じる意識は集中を切らさず確保点を回収し、登っていく。
支点からカラビナを外し、ハンマーのカラビナに繋ぎなおしたハーケンを平行に叩く。
このアイガーでも光一のハーケンは的確に撃たれて、いつものよう岩に罅は入っていない。
アイガー北壁は「mordwand」人を殺す岩壁と呼ばれ、数多のクライマーが「征服」を挑んできた。
けれど山っ子は故郷の山々と同じように、この岩壁にも労わりを籠めた確保点を撃っていく。
この端正で優しいハーケンの撃たれ方に光一の、深い「山」への敬愛を英二は見た。
―光一は「山」を征服しようなんて思っていない、ただ愛してるんだ
今あらためて気づかされる、山っ子の「山」への深い愛。
光一は「山」を傷付けない為にハーケンを適確に撃ち、岩も小石も蹴り落とさない。
そんな一つ一つの動作の意味を今、この生死の際に立つ垂直の壁の懐で気づかされる。
征服ではなく敬愛を捧げるために光一は「山」に登り、山に遊べる幸せに笑って愛している。
大切に自分を登る相手を山は愛するだろう、そういう光一だから「山」は受容れ護り、登らせる。
―きっとそうだ、だから今も風は吹かない。
いま登っていく垂壁の山も、この愛を受入れている。
この敬愛を抱くからこそ、最高の山ヤの魂として光一は輝いている。
そういう男だから雅樹も年齢に関係なく、1人の山ヤとして幼い光一を尊敬していた。
山に愛され、山ヤに愛される光一。そんな光一はきっと無事に完登する、そしてアイガーの頂点に立つだろう。
そう信じる集中の中ひたすらに、光一の軌跡を辿り赤いザイルを回収していく。
三点確保で登攀し、光一が新たな支点を撃ち終えると手許のハーケンを抜く。
いつもの繰り返す動作、その手とハーネスに伝わるザイルの動きに顔を上げる。
ゴーグルを透かし見上げる垂直の黒、その向こうに抜けたアイゼンの足が見えた。
「雪田に着いたな、」
ほっと独り言こぼれて、英二は微笑んだ。
あと少しで頂上に光一は立てる、この確信にハンマーを使いハーケンを抜く。
無事に回収してハーネスのウェストに提げ、赤いザイルを辿り雪田に向かって登りあげていく。
そして白銀まばゆい氷雪に視界は開け、そこに見た青い背中にリッフェルホルンのフランス語が映った。
“Tu es un amant de montagne” 山の恋人
マッターホルンの岩壁登攀テストを兼ねたリッフェルホルンのガイド登攀。
あのとき同行した現地ガイドがフランス語で笑って、光一に贈った言祝ぎの言葉。
あの言葉の通りなのだと今、蒼穹の点へ登っていく青いウェアの背中に見つめてしまう。
―…幸せだよ、今から山にキスするんだからね
ガイドの笑顔に答えた光一の言葉は、本当だ。
あの言葉通りに楽しげな喜びが今、白銀を進む青い背中にあふれている。
もうじき頂上へ辿り着ける、その緊張感と幸福がアンザイレンパートナーを充たす。
―きっと今、光一は真剣で愉快に笑っているだろうな?
そんな想い微笑んで岩壁から雪田へと英二は登りあげた。
登ってきた黒く蒼い壁は足元に切れ落ちる、高度1,800mがアイゼンの下に広がらす。
朝に発ったクライネシャデックは夏の緑に輝き、この冷厳な氷雪が異世界なのだと実感させる。
ここから墜ちれば死、その現実から離れようと起きあがりかけた瞬間、突風が壁から噴き上げた。
「…っ、」
オーバーハングが捕える豪風が、起こしかけた体のバランスを突き崩す。
巨大な平手打ちのよう空気の塊が激突し、英二の体は氷原に押し倒された。
―滑落する!
意識が一瞬で戻され、ピッケルを滑落停止体勢に持ち替えた。
いま山頂へ登る氷雪は東へ傾斜し、その重力に掴まれ滑りだす瞬間を冷静が捉える。
右手で親指側にブレード、小指側にピックが来るように持ち、左手はシャフトの中程を握りこむ。
そして右手を右肩口に、シャフトを握る左を脇腹に保持し胸に引きつけ、一瞬で体勢を整えていく。
胸部とウェスト両方のハーネスから繋がるザイル、その先にいる相手を引き摺りたくない。
― 光一を巻きこむのは嫌だ!
自分は確保者、ビレイヤーとして光一をサポートする為に共に登ってきた。
それなのに自分の事故に光一を巻き込むことだけは嫌だ、そんな失敗は赦せない。
そんな想いとブレードを握る拳を鎖骨に当て、ピックの刃が体と水平になるよう保つ。
そして思い切り体を反転させ、英二はピッケルを氷雪に立てた。
ザリッ、ガリリッ…
硬い氷壁に、刃は滑る。
永久凍土ふり積った新雪は舞い、白い紗に染められた視界は反転して蒼い雪面に変る。
頬に冷厳がふれゴーグルの向こうに雪の結晶きらめいていく、滑りだす体の下にザイルが攣られだす。
回収してきたメインザイルが解けだし雪田の彼方へ延びていく、そしてアンザイレンザイルの弛みが張りだす。
滑りだす始めにピッケルを立てた、けれど体はまだ止まらない、このままザイルの向こうを引き摺りこんでしまう?
―ザイルを外せばいい、
アンザイレンザイルを外せば、光一を引き摺りこまずに済む。
その一瞬の判断に、シャフトを握る指先でチェストハーネスの金具に触れた。
チェストハーネスとザイルの繋留を解きだす、その指先にザイルの動きがふれテノールが叫んだ。
「ザイルを外すなっ!」
透明な声が跳んで、ザイルが停止を始めだす。
ゆるやかな制動にザイルは止まり、体の滑りが止まった。
「…っは、」
氷雪の斜面にうつ伏したまま、英二は吐息に微笑んだ。
死なずに済んだ、その想いに頬ふれる雪の冷たさが生きている実感に変る。
ピッケルのシャフトを握ったまま胸ポケットに触れ、守袋と合鍵の感触をウェア越し握りしめた。
―周太、生きてるよ、俺
こみあげる実感に、故郷の恋人へと想いが呼びかける。
いま一瞬で光一のために死も覚悟した、けれど生きていれば婚約者への想いあふれだす。
スイスに来る直前、新宿のいつものベンチで交わした約束とキスの記憶が懐かしく、愛おしい。
そして一昨日に架けてくれた電話でも約束をした、その言葉が氷雪の実感に蘇える。
―…無事に帰ってきて?家も掃除して、おふとん干しておくから
ごく普通な日常の幸福、そんなありきたりの約束。
けれど自分にとってそれは本当に得難い、それが今の滑落を起こした突風に解る。
こんなふうに危険に晒される瞬間が「山」の現実、それでも自分は止めたいと欠片も想えない。
「ごめん、周太…」
そっと愛しい名前に謝って、雪から顔をあげ空を見る。
この空の遥か東で婚約者は待っている、自分の約束を信じてくれている。
こんな危険だらけの場所に夢を見つめ、その美しさに惹かれ離れない自分がここに居る。
そんな自分なのに周太は必ず帰ると信じてくれる、そして帰る場所で居てくれている。
その信頼をずっと抱き続けて、だから今回も周太は笑って送りだしてくれた。
―約束を信じて待ってくれてる、いつも
まだ、死ぬわけにいかない。
自分は光一と周太と両方の約束を叶える為に今、この岩壁も登ったのだから。
いま超えた先にも約束は続く、そして周太を廻る「50年の束縛」もまだ終わってはいない。
周太の運命を歪ませ、馨を死なせ晉と敦を殺し、斗貴子を美幸を悲哀に沈ませた「あの男」はまだ生きている。
―あの男だけは赦せない、
赦せない、あんな理不尽な「法の正義」など壊してやる。
そして自分が見つけた帰る場所を、大切な伴侶と家を護りぬく。
そのために辛い訓練も積みあげて自分は今、不可能と言われた北壁を登りきった。
マッターホルンとアイガー、この2つの北壁を登頂した実績を持って帰り自分は「あの男」と闘う。
「死ねない、こんなところで…これからなんだ、」
独り言と慎重に起きあがり雪上に座りこむ、そのまま雪を払いながら体の確認をしていく。
ヘルメットもゴーグルも壊れておらず装備は落としていない、手も脚も痛みは無く異常はない。
ハーネスで体が擦られた感覚もなく骨に異常もない、光一の制動が巧みだったお蔭だろう。
ありがたいな、ほっと微笑んだ向こうから雪を踏む音が近づき、テノールが怒鳴った。
「馬鹿野郎っ!」
声に見上げると青空のした、雪白の貌が怒っている。
いま登ったアイガー北壁のHeckmair route、ヘックマイアールートの最速記録はソロで2時間28分。
これに対して光一は3時間のタイムアタックをしていた、それなのに英二の転倒で時間を食ってしまった。
今回のタイムアタックも光一は以前から練り上げている、それをサポートするべき自分が不注意で邪魔してしまった。
こんなのは怒られて当然だ、心から申し訳なくて英二は素直に謝った。
「ごめん、こんなところで転んで。俺の不注意でタイム遅くして、すまない」
「そんなこと言ってんじゃないよっ!」
怒鳴って青いウェア姿は隣に座りこむ。
そして英二の肩を掴んで、ゴーグル越しに透明な目が真直ぐ見つめた。
「アンザイレン外すんじゃないよっ!馬鹿野郎っ、何のためにザイル繋いでんだよっ!」
真直ぐ見つめる瞳は怒って睨みつける、その奥にある涙に英二は気がついた。
いま自分がしようとした判断は、この誇り高いアンザイレンパートナーを傷つけた。
「ごめん、」
謝って見つめた先、薄紅の唇がふるえている。
やっぱり傷つけてしまった、この想い素直に英二は微笑んだ。
「光一を巻き込むの、どうしても嫌だったんだ。俺は光一のサポートをするビレイヤーだ、光一の無事を守るっていうプライドがあるんだ。
だから巻き込みたくなくて俺、ザイルを外そうって思ったんだ。だけど、ごめんな?絶対に止めてくれるって光一のこと、信じるべきだな、」
光一のロープワークの技術と力、それを信用していないからザイルを外そうとした。
そういう事に光一にとってはなるだろう、それは最高の山ヤとしてプライドが傷つくことだ。
この理解に謝った英二に、ふるえる薄紅の唇は想いを吐き出した。
「そうだよっ…信じろよ!俺のこと信じて約束を守れよっ…俺と最高峰、行くんだろ?八千メートル峰に登るって約束したじゃないか!」
なのにこんなとこで勝手なことすんなっ!か、風に煽られて転ぶなよっ、こんな風になんか捕まるんじゃないよ、英二まで風に捕まるな!」
『風に捕まるな』
この言葉に、北鎌尾根の風と雅樹の運命がふれた。
雅樹は槍ヶ岳が吹かすナイフリッジの風に捕まって、北鎌尾根から滑落した。
あの遭難事故を今、光一の前で自分は再現する所だった?そう気づいたゴーグルの向こう透明な瞳に涙あふれた。
「な、なんでだよ…っ、お、俺のパートナーは風に攫われるんだよ?や、山の風に雅樹さ…おまえまで今っ…」
ゆれる瞳に動揺は広がっていく、透明な無垢に罅割れが生まれだす。
いまアイガー北壁を超えて頂上を前にする、この高度4,000mに近い世界で集中を欠いてしまう?
そんな危険を自分が原因で起こしてしまった、その悔恨とパートナーへの想いに英二は大らかに微笑んだ。
「大丈夫だ、光一。俺は生きてるよ?俺には最高峰の竜の爪痕がある、これって最高の御守なんだろ?だから今も無事だった、だろ?」
笑いかけ、自分の左頬を光一に示して見せる。
今の雪との摩擦で頬は少し熱を持った、きっと傷痕は熱に浮きあがっているだろう。
そう思い見せた頬へと青いグローブの指先はふれ、透明な瞳は微笑んだ。
「うん、だね…いま爪痕が浮んでる、おまえはコレがあったよね…俺のキスだけじゃなくって、富士の竜の御守があったね、」
俺のキスだけじゃない、そう言った光一の想いに切なくなる。
昨夜に話してくれた光一と雅樹のファーストキス、そして吉村医師が語ってくれた事実が想いだされた。
―…寝ている時のキスマークは、無意識だと思いますよ。彼はずっと雅樹にしていましたから
だからね…雅樹の首には、可愛いキスマークが残っていました。薄いけれど、ちゃんと、あったんです
山っ子のキスマークつけたまま、雅樹は逝ったんですよ。山と医学ばかりの男には光栄で幸せだった、そんなふうに想います
最期のキスマークはきっと、無意識じゃなかった。
最後にふたりが逢った夜、光一は雅樹の運命に何かを感じていた、そう槍ヶ岳で話してくれた。
きっと自分のキスを御守として雅樹に無事帰ってきてほしい、そんな祈りを籠めてキスしたのだろう。
いま気づかされた光一の哀しみに、英二は綺麗に笑って願い出た。
「そうだよ、俺には爪痕がある。これに山っ子がキスしたら最強の御守になるだろ?だから今、またしてくれる?」
春3月に起きた鋸尾根での英二の遭難事故、あのとき光一が言った言葉で笑いかける。
その想い出に山っ子は綺麗に笑って、透明な瞳を幸せに笑ませてくれた。
「うんっ、だね、追加しとこっかね、」
嬉しそうに笑った薄紅の唇よせられて、頬に温もり触れてくれる。
いつものよう光一の空気はあまく高雅に香り、やわらかなキスが傷痕を温めていく。
冷厳の壁を超え座りこんでいる天空の雪原、この生命の無い世界に温もりのキスが刻まれる。
「なんか俺、今、幸せだな、」
素直な想い微笑んで、アンザイレンパートナーに笑いかける。
この想いは自分ひとりではない、きっともう1人のアンザイレンパートナーの喜びだろう。
そんな想いと笑いかけた先、山っ子は幸せに微笑んで英二の掌をとり一緒に立ちあがってくれた。
「だね、でも天辺に行ったらもっと幸せだよ?行こう、英二、」
綺麗な笑顔を山頂へ向け、青い背中が歩き出す。
もう落着いて普段どおり陽気になった、そんな気配に微笑んで英二も歩き出した。
白銀まばゆい雪田を登り、蒼穹の点へと青いウェア姿が辿り着く。
その隣に並び立ち、遥か東の空へと英二は笑いかけた。
―周太、今、アイガーの北壁を超えたよ?
午前8時前の標高3,975m、聳える岩壁の上に望郷の恋はナイフエッジの風に駈けていく。

(to be continued)
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