北壁、蒼穹へ聳える
第58話 双壁act.5―side story「陽はまた昇る」
白銀まばゆい雪原に、蒼穹が広い。
午前7時半、7月のクライン・マッターホルンは一面の新雪だった。
天空に広がる白銀の平原、その彼方そびえる銀嶺に朝陽きらめき視線を奪う。
青と白の世界は風ゆるやかに冷気を吹かせ、氷雪の4,000mから頬を撫でていく。
いま標高3,884m、富士山の3,776mを超えるこの地点から約300mを一気に登る。
「英二、気分どう?頭痛いとかある?」
テノールの声に振り向くと、サングラスの向こう笑いかけてくれる。
同じようサングラスをかけた雪白の貌へ英二は綺麗に微笑んだ。
「いや、いつも通りだ。高度障害は出ていない、」
「よかった、今日はまだ前哨戦だからね?ほら、」
嬉しそうに笑って光一はザイルの端を渡してくれる。
受けとって、もう何度目かになるアンザイレンを繋ぎあう。
すぐ繋留は終わって、光一を先に雪原へと踏み出した。
「目標タイム1時間で行くからね、もう解ってると思うけどクレバスには要注意だよ、」
「あのコルを迂回するんだよな?それで登り後半は、雪庇に注意でよかった?」
答えながら見る中腹、頂上付近から鞍部左下にかけて氷の裂目クレバスが見える。
そのクレバス真中辺りのスノーブリッジから左上にあるへこみは、トラバースルートだろう。
いま眼前にある白銀のルートに今朝も確認した登山図を描く、その前からテノールの声が答えてくれた。
「当たり、ちゃんと覚えてるね?さ、足元注意で行くよ、」
縦1列で歩きながら、アンザイレンザイルが弛まぬよう進んでいく。
その足取りが少しずつピッチアップをしながら、いつもの光一のペースに乗り出す。
光一はコル、鞍部の最奥を目指し大きく回りこみながら先導していく、その道は未だ誰も歩いていない。
ピッケルで雪面を突きながら新雪を踏んでゆく青いウェアの長身は、前を向いたまま機嫌よく笑った。
「ヒドンクレバスが怖いけど、新雪は嬉しいね、」
言う通り、未踏の新雪を進むのは気持ちが良い。
けれど雪は氷の裂け目を覆い隠してヒドンクレバスを作ってしまう、そこに落ちこむ危険がある。
ふたり雪面をピッケルで慎重に突きながら30分ほど雪原を歩き、銀嶺への取りつきでアイゼンを装着した。
もう慣れた手順を終えてベルトの締りを確かめて、ピッケルを左手側に持つと青と黒のグローブが白銀の頂を指さした。
「さて、標高四千を超えた世界にいくからね?で、絶対にピッケルは谷側には突くんじゃないよ、いいね?」
「こっから急斜面でアイスバーンが怖いんだよな?で、稜線は痩せ尾根になって切り立っている、」
昨日も登山鉄道とホテルで確認したルートを記憶から描き、答えてみる。
その答えに満足げに雪白の貌が笑って、パートナーかつ教師は頷いてくれた。
「そ、ちゃんと解ってるね?こんなとこで滑落なんかするんじゃないよ、まだマッターホルンにも登ってないんだからね?」
言葉に振り返り、英二は向うの岩壁を見た。
いま歩いてきたクラインマッターホルンの彼方、蒼黒い壁は蒼穹へと聳え立つ。
ツェルマットの街から見上げた姿とまた違う、その二等辺三角形に似た山容に英二は微笑んだ。
「俺は滑落なんてしない、絶対にあの天辺に登りたいから。ここまで来て諦めるとか出来ないよ?」
いま目の前に夢見た壁の踏破がある、それを諦めるなんて往生際の悪い自分には出来ない。
いまのところ天候も明後日まで安定の予報、だから今日と明日のテスト登山に問題なければ夢が叶う。
夢の場所に近い今、この瞬間に微笑んだ英二へと山っ子は朗らかに笑ってくれた。
「だね?で、あのマッターホルンだって、夢の途中に過ぎないね。さ、行くよ?」
笑って踵を返すと、光一は斜面を登り始めた。
続いて踏み出した足元、新雪が真白にうずまるアイゼンの下には分厚い氷が刺さる。
標高の気圧を肌感覚に踏みしめる靴底、ブレードの金属が氷削らす感触が伝わらす。
慎重に踏みだしながらも一気に登り詰めていく、その視界が高度を増していく。
―もう富士山よりずっと高い、日本のどの場所より高い場所に今、いるんだ
いつもいる世界より遥かな高み、そこを今この瞬間に登っていく。
その視界は広やかな空の青、連なっていく白銀の嶺、それだけの世界。
いま踏んでいく足元も純白に輝いて、一昨日に立っていた奥多摩の夏が嘘に想える。
―青と白の世界だ、ずっと冷たい風が吹くだけの
いつも想う、高い世界に来ると。
空に近い場所ほど氷雪の気配は鮮やかで、生命は存在すら許されない。
ただ2色が陰翳を描くシンプルで美しい場所、それは体温がある者は赦されざる場所。
その世界にこうして自分の脚は登り、立ちに行くことが出来る。それは誰にでも与えられる訳じゃない。
―父さん、母さん、ふたりのお蔭なんだよ?俺が登れるのは…ふたりが出逢ったから俺は昇れる、だから解ってほしいんだ、
祈るよう想いが映り、剱岳の時間を思い出す。
この今も登って行ける自分の体、それを与えてくれた父と母に祈るよう願う。
この自分の幸せを生んだのは両親の出逢い、それを否定してほしくない、けれど。
―けれど父さんはもう、心の一部は母さんにはあげない
父と自分の性格は似ている、だから解ってしまう。
もう父の心は母に決して与えない部分がある、もう他の人へと向けているから。
そう解っている、それでも剱岳の想いを遥かなこの山でも抱きながら、足元と前方に注視する。
いま5m先を行く青いウェアと登山ザックの背中を見、ずっと見つめ続けていた憧れへと今、登っていく。
この前を行く伸びやかな黒いパンツの脚は怯まない、ルートファインディングも迷うことなく進んでいく。
―憶えているんだ、光一は。ここは一度きり来ただけの筈なのに
いつも光一は山行で迷うことが無い、それは国内を廻った山々どこでもそうだった。
その山はどこも光一は何度も登っている、だから記憶があることに不思議を思わなかった。
けれど、このルートもマッターホルンも、光一は高校一年の夏に踏破して以来は登っていない。
それは何年前の事になる?そう思い至って英二は、光一の記憶力と判断力に息を呑んだ。
―今から8年前のルート、それでも憶えている?
普通なら、ここまで迷わず登れるだろうか?
確かに光一は昨日も、その前からも何度も登山図とルートチェックをしていた。
それでも何も惑うことなく踏み出していく姿は、毎日登っている奥多摩の山々で見る光一と変わらない。
8年ぶり2回目、そういう山でも地元ガイドと変わらず登れる光一の能力に、心裡に素直な賞賛が微笑んだ。
―冷静で豪胆な性格らしい登り方だ…これは判断力と記憶力と、集中力が高いから出来ることだ
意識を足元に向けながら、前を行く男の才能に見惚れてしまう。
こうした才能があるからこそ光一は、ずっと単独行でも無事に山を登り続けていた。
そうした山行スタイルを可能にしていた能力と性質、その凄みを今あらためて見つめさせられる。
このルートも普通なら地元の専門ガイドを付けることが多い、けれど光一は英二と2人の登頂を選択した。
その選択も当然のことだった、そう思い知らされ歩くルートはイタリアよりの雪陵からスイス側の雪庇に近づいていく。
ピッチを緩めず登りつめながら、ピッケルを持った左手のクライマーウォッチを見ると標高4,000mを超えていた。
―4,000の世界だ、
微笑んで英二は、足元に意識を置きながら顔を上げた。
いま歩いていく痩せ尾根は頂点に向かう、その先は青い世界しか見えない。
はるか高みへと延びる白銀の稜線、この雄渾な道に何度も思った山の姿を心つぶやいた。
―白銀の竜の背だ、いま歩いていくのは
白銀の竜が、雪陵には棲んでいる。
そんなことを思うのはお伽話かもしれない、けれど自分は半分以上信じている。
あの冬富士で遭った雪崩の咆哮、あれは最高峰が生んだ巨大な獣の吼え声だった。
迫る白魔の息吹は大きく強く、全身を雪面に踏ん張りピッケル1本に命を支えるしかない。
叩きつける氷雪の粒子、押しよせる冷気の塊、そして全身をふるわす雪面奔りぬける轟の荘厳。
そんな瞬間を自分は知っている、その証も頬に細く深く遺されて今、きっと山行の熱気に浮びあがっている。
―英二、竜の爪痕だね?…山の神さまがくれた御守だね、
ふっと、懐かしい声が心に響く。
いま遥かなる東の涯にいる恋人、けれど記憶から笑ってくれる。
いま高度四千を超えた場所、それでも4,000mを心は超えて俤を追ってしまう。
―周太、この四千メートルからも俺は、周太を想ってしまうよ?
想い微笑んで、右の掌は左胸のポケットをそっと掴む。
ここに今も赤い守袋は入っている、そして首からは合鍵が提げられている。
この守袋に祈りこめて縫ってくれた人、その人が待つ家に自分は必ず帰って合鍵で玄関を開く。
―周太、きっと帰るよ?俺の帰る場所はもう、本当に周太の隣しかないんだ
もう、実家には帰れない。
いま母の心は周太の温もりに癒され始めている。
2週間前に帰ったとき、母の空気は前と違って穏やかだった。
そして母は英二に「あのひとは元気?」と訊いてきた、その貌は初めて見る微笑みがあった。
きっと母は直に周太に会いたいと言い出すだろう、実家にも一緒に連れて帰るよう言ってくれる、そんな日はきっと近い。
けれどもう、自分は実家を「帰る場所」には出来ない。
―もう俺は帰れない、俺のせいで父さん…母さん、ごめん
本当はもう自分には、母に会わせる顔が無い。
それでも希望を捨てたくなくて、今も剱岳の祈りを抱いて登っていく。
両親はまだ手遅れでは無いと信じていたい。そんな祈り見つめる想いに、数日前の新宿の夜が記憶をよぎった。
―…恋愛と結婚は別かなとも想ってたけど、宮田の大学受験の話を聴かせて貰ってさ。結婚は夫婦だけの問題じゃないって思った
そうやって結婚と恋愛をイコールって考えると、国村さんのこと幾ら好きになっても無駄だって、よく解かるんだ
数日前、同期の内山と呑んだ席での言葉たち。
あの言葉は英二の両親に見た姿から生まれた、それだけ自分の両親は「夫婦の問題」が多い。
その問題を内山も哀しいと想ってくれた、それを自分事として向きあって内山は考えてくれた。
―…男同士で同じ警察官でさ?何をするんでもリスクが高すぎて、たぶん俺には無理だろうって自覚してるし、何も出来ない。
告白したって俺も国村さんも良いことなんか1つも無い、どうせ国村さんからは好きになって貰えない、迷惑なだけだって解かってる
そうやって解ってるんだ、だけど夢にまで見るのとか自分でもどうしようもなくて…こんなふうに誰かのこと、思うのって初めてで…
真直ぐに内山が話してくれた、光一への想いたち。
それは憧憬が強くて、けれど恋愛の意識が深層心理から食いこんでいた。
その恋愛がたとえ「テスト」として誘導された結果であっても、今の内山には真実からの想い。
この想いを内山は今、この時も東の彼方で見つめている。けれど光一は今、4,000mを超える頂点しか見ていない。
この2人の立つ距離は現実も心も遠く隔たっている、それが切なくて、そして安堵と自責を見つめだす。
―ごめん、内山。おまえは全部を話してくれたけど、俺は結局なにも話していないんだ
祖父のこと、大学受験のこと、母のこと。
それだけを自分は話し、それでも内山は英二を信頼できるライバルだと笑ってくれた。
けれど本当はいちばん話すべきことを何も話していない、この秘匿は仕方ない事だと解っている。
それでも心の端は傷み、それでも後悔は出来ない。そんな想いに見つめる前の背中から、テノールの声が朗らかに飛んだ。
「ここからスノーブリッジだよ、両側がクレバスだけど、落っこちないでね?」
「ああ、落ちないよ、」
笑って答えながら意識を足元に戻し、精神を集中へと細くする。
鋭利な意識のなかスノーブリッジを通っていく、その足元は水平な所が無い上に左右ともクレバスへと切れ落ちこむ。
無事に通過してピッチをあげ迂回路を登りあげ、稜線をなす頂へとアイゼンを踏みあげた。
「ほら、頂上だよ?」
テノールの声が笑って、アンザイレンザイルを手繰り寄せてくれる。
底抜けに明るい笑顔が咲いて、グローブの右掌を差しだし英二の右掌を掴んだ。
そして見渡した山頂は横長に狭く、そのライン伸びやかな白銀に朝陽が輝いた。
Breithornブライトホルン、標高4,165m。
スイス、イタリア国境のヴァリスアルプスに聳える4,000m峰。
蒼穹に抱かれた氷雪の世界は遥かへと連なり、360度の視界へと高峰は波をなす。
日本に無い標高を誇らす銀嶺は光をまとう、その純白まばゆい煌きに英二は綺麗に笑った。
「きれいだ、すごい世界だな?」
「だろ?あれがモンテローザ、リスカム、で、マッターホルンの東壁だよ、」
グローブの指が示す先に、写真で見つめた高峰が現実にある。
ずっと夢だと思っていた世界に今、自分は立って見渡していく。
「俺、自分がここに来れるって思ってなかった、光一に逢うまで、」
本音のまま微笑んで、英二は隣を見た。
見つめる想いの真中、グローブの手はサングラスを外しポケットに仕舞う。
そして底抜けに明るい目は綺麗に微笑んで、透明なテノールが言ってくれた。
「きっとね、最初から決ってたよ、おまえがココに立つことはね。そして明後日には北壁を登って、あそこに立っているよ、」
言葉と一緒に見上げた先、氷食鋭鋒の頂点が蒼穹を指す。
警察学校の資料、書店で見つけた雑誌、そして光一の写真にも見つめた山、マッターホルン。
あの場所に本当に立てるのだろうか?どこか非現実にも思える今に英二は笑いかけた。
「明日、ガイドからテストを受けて合格したら登れるな、」
明日はリッフェルホルンのロッククライミングでマッターホルンのテストを受ける。
これに専門ガイドからの合格が貰えなければ、北壁どころか登山する資格もないだろう。
この関門の壁を想う隣から、最高の山ヤの魂を持つ男は軽やかに笑ってくれた。
「大丈夫だね、おまえなら」
三大北壁の一峰マッターホルン、その頂点は今、眼前にある。
T o :湯原周太
subject :四千メートルから
添付ファイル:ブライトンホルンからのマッターホルン東壁
本 文 :おはよう、周太。
いま午前10時、無事に下山しました。標高4,165mの世界を見てきたよ。
全てが青と白の世界だった、日本で見るより高い場所は空気も光もまぶしい。
富士山よりも300メートル高い場所だよ、あの瞬間は日本にいる誰より高い所に俺は居たんだ。
標高四千の境界線を越えたとき周太のことを想ってた、山頂でも想ったよ。
四千メートルの世界からも俺は、君を愛している。
(to be continued)
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