第58話「双壁14」の後です
空の青、水鏡に

secret talk11 建申月act.8―dead of night
透明な紺碧ひろがらす空に、雲が靡く。
雲を湧きおこす稜線は、夏の陽射しに白銀まばゆく蒼い翳を描きだす。
ゆるやかに草地を吹きぬける風は緑と花の香ひるがえり、岩根に寄りかかる頬を撫でていく。
涼やかな風の掌は優しくて、懐かしい人の俤を見つめながら仰ぐ銀嶺たちへテノールが隣から微笑んだ。
「アイガー、メンヒ、ユングフラウ。オーバーランド三山で、いちばんノッポなのはどれだっけね?」
「ユングフラウ、標高4,158m」
陽気な声の問いかけに答えて、英二は隣に微笑んだ。
笑いかけた先、のんびり紙コップに唇つける笑顔はいつもどおり明るくて、けれど含羞が初々しい。
昨夕までは無かった表情の色彩、その優しい美しさに昨夜の記憶を見つめて、そっと肩を寄せ笑いかけた。
「光一、ほんとに綺麗になったな、」
「うん?俺は元から別嬪だよ、」
からり笑って答えてくれる、飄々としたトーンも前と変わらない。
底抜けに明るい目も前と同じに朗らかで、けれど寄添いあった信頼と艶と、かすかな甘えが寛いだ嫋やかさになっている。
そして香るよう微かに映る哀しみに、今のひと時が稀少なのだと想いだされて胸が軋みだす。
その傷みに左手の時計へ俤を見つめて、そっと隠した声で謝った。
―周太、今は光一を見つめさせてくれる?周太を忘れるなんて出来ないけど、
共に登った北壁の山、それを仰いで過ごす時間の終わりは近い。
その終わりには上司と部下の肩書に分たれる時が姿を見せて、全てが対等でいる今と違っていく。
だから今この瞬間たちは、ふたり笑い合える時間を大切にしていたい。この時への愛惜に英二は綺麗に笑いかけた。
「元から別嬪だけどさ、昨夜からもっと綺麗になったよ。恋人同士のセックスってすごいな?」
「なに?宮田のクセに、お天道サマの下でもエロってんの?真面目堅物くんのクセに、」
ちょっと驚いたよう英二を見、けれど愉快に笑ってくれる。
相変わらずの飄々と軽やかな笑顔が嬉しい、嬉しくて英二は率直に答えた。
「真面目堅物だけどね、恋人にはエロトークもするよ?恥ずかしがってるとこ見るの、好きなんだ、」
「やっぱエスだね、おまえって、」
可笑しくて堪らないと笑って、紙コップを啜りこむ。
白い喉が夏の陽に逸らされ眩しい、雪焼けも殆どしない清やかな肌を見ながら英二は微笑んだ。
「うん、俺ってエスっ気があると思うよ。セックスも自分がする方が好きだし、」
答えながら最近クセになりそうな唯一「されたい」相手を想いだす。
けれど、あれだって実のところは「されるよう仕向けている」のが本当の所だろう。
結局自分は身勝手な性質だから、良い様にされることが嫌いなのだろうな?そんな考え廻らす隣から光一が困ったよう笑ってくれた。
「俺もずっと自分はエスって思ってたけどね、でも意外とそうでもないかもね?」
「昨夜、俺が目覚めさせちゃった?」
言ってくれた想いへと笑いかけながら、そっと瞳を覗きこむ。
見つめた先で困り顔のパートナーは温かに笑んで、優しいテノールが言ってくれた。
「おまえ以外にソンナこと出来るヤツいないね、でも英二も目覚めちゃってない?」
「何に?」
短く尋ねながら紙コップに唇つけて、あまい芳香がアルコールと喉にすべりこむ。
3日前にも楽しんだ酒の味に微笑んだ隣、光一も吐息にワイン香らせて躊躇いがちに笑った。
「おまえ、昨夜から俺にくっつきたがりだよね?前はソンナじゃなかったのに。やっぱ、俺がおまえの女になったって自覚から?」
「そうだな、」
さらり答えた隣、雪白の頬に薄紅が昇りだす。
エロオヤジだけれど本当は初心、そんな素顔は透けるような純真がまばゆい。
綺麗で見惚れながら今、こんなふうに自分たちがなったことが不思議で、けれど自然にも想える。
―憧れで夢だった、ずっと
最高の山ヤの魂を持つと言われる男、最高のクライマーになる素質まばゆい男。
そんな男をずっと憧れて追いかけて、追いつくことが自分の夢を叶えてくれると信じて努力してきた。
その努力はきっと生涯続くのだろうな?そんな想い見つめながら紙袋を開いて、パンにハムとチーズを載せると隣に手渡した。
「はい、光一、」
「ん、ありがとね、」
受けとってくれながら微笑んだ貌に綺麗な幸せほころんでくれる。
いつもの明るい笑顔、けれど昨日よりもずっと距離が近い。この変化の原因は誰にも真相は解からないだろう。
ふたり北壁の登攀記録を共に作った信頼感、そう周囲は思い疑問を持たない。
―でも周太は知ってる、
唯ひとり伴侶と想う、いま遥か東の祖国に待ってくれる人。あの人だけは自分の真実を知っている。
きっと何も言わなくても気がついて、純粋な心のまま幸せを祝福してくれる、そんな勁く清らかな優しい人が恋しい。
どこまでも優しい無垢な心が懐かしい、帰国したら逢いたい、けれど互いの仕事状況から暫く逢うことは難しいだろう。
そんな婚約者を想い、そしてもう1人、真実に気付くだろう人に考え廻らせながら英二は、自分のパンを口に運んだ。
「うん、うまいな、」
「だろ?」
嬉しそうにテノールが笑って、ミニトマトを白い指につまむ。
赤い実を口許に運びながら、光一は愉しげに教えてくれた。
「チーズとハムとパンとさ、組み合わせ次第で色んな味になるんだよね。で、コレが俺の好みだよ。外で食うと余計に旨いよね、」
「うん、こういう場所と合うな、」
答えてまた口にすると、まろやかなチーズとハムの燻した芳香がパンの甘みと合う。
シンプルなオープンサンドだけれど旨い、紙コップの白ワインとも相性良く互いに引き立てる。
吹きぬける草の香と太陽の光に摂る早めの昼食、その座っている時は穏かで昨日の冷厳との違いを想う。
いま見上げるアイガーは青空に明るく佇む、けれど今も北壁は冷たく凍れる蒼い翳に染められる。
ここで座って眺めて、昨日の全てへの想いが唇から呟いた。
「昨日のことが夢みたいに想えるな、」
涼やかな風が透明な池を渡り、緑をふくんで吹いていく。
ふる陽射しに座る草地は花が夏を織りなし、生命の息吹あふれている。
けれど白銀と青の世界は確かに今も存在して、冷厳の死はあの場所に壮麗なまま佇む。
こんなふうに生と死はすぐ間近に存在する、その現実が夢のようにすら想える隣から、透明な声が微笑んだ。
「夢に生きるのが俺たちの現実だね、山に登って世界を見下ろして、雪と氷と風と遊んでもらってさ、」
雪と氷と、風と遊ぶ。
本当にそんなふう光一は雪山を愛し、昨日もそうだった。
あの偉大な北壁を前にしても変わらない山っ子の愛を、アルプスの女王も死の壁も喜んだろう。
そんな想いにリッフェルホルンのフランス語を見つめて、英二は唯ひとりのアンザイレンパートナーに笑いかけた。
「やっぱり光一は山の恋人だな、」
笑いかけて見つめた貌は夏の陽に明るんで、雪白の肌に光が舞う。
艶やかな黒髪を風が梳く、透明な瞳に幸せほころばせて光一は笑ってくれた。
「ありがとね、で、おまえもそうだね?富士山の竜に愛される男だよ、」
笑って頬を小突いてくれる、その指がなめらかに白い。
この指で今朝は約束の曲を弾いてくれた、その旋律と声に愛しさ想い英二はねだった。
「光一、ホテルに戻ったらピアノ弾いてよ?今朝の2曲また聴きたい、」
「いいよ、ピアノが空いてたらね、」
素直に肯って光一は、白い手のオープンサンドを頬張った。
愉しげに動かす口許を見ながら自分も食事を再開し、肚に納める。
食べ終えて、コップのワインを口にしながら英二は、優美な横顔に笑いかけた。
「ピアノの後は部屋でのんびりしような、約束どおり抱え込むよ、」
言葉に、そっと長い睫が伏せられ夏の陽きらめかす。
あざやかな含羞が白い首筋をそめて、シャツの衿元を桜いろに変えていく。
ためらう恥らい初々しい貌は綺麗で見つめてしまう、その想いの真中で山の恋人は微笑んだ。
「その前にね、買物行くよ?約束のシャツ買って、夕飯のパンとかも欲しいね、」
「今夜は、部屋で食うんだ?」
答えながら紙袋と瓶を片づけて、笑いかける。
手際よくまとめ終えると、光一は羞んだよう明るく笑ってくれた。
「ふたりきりのがイイだろ?俺のこと独り占めしたいって、おまえ言ってたから、ね」
昨夜の時間の始まりに、ふたり告げあった言葉たち。
その記憶を呼ぶ恋人の言葉へと英二は、綺麗に笑いかけた。
「うん、独り占めさせて?光一、」
名前を呼んで、掌を雪白の頬よせて唇を近づかす。
そっと重ねた唇のはざま、こぼれる香はあまく清雅に愛おしい。
ふれあわすキス離れて、見つめ合った透明な瞳は微笑んで、あわい水の紗にゆれた。
「ほんと悪い男だね、おまえって。なんか俺、調子狂っちゃうね?…英二、」
漲らせた瞳に英二の顔を映して、名前を呼んでくれる。
眼差しに声に透明な想い、その心へと微笑んで唇はもう一たびと静かに重なった。
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