北壁、頂点で見る夢
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/a6/48db38e9d7d7b1d2c097ff2ce1f0b11c.jpg)
第58話 双壁act.8―side story「陽はまた昇る」
Edward Whymper、エドワード・ウィンパー『アルプス登攀記』
この探検記録は、画家らしい客観的で科学的な視点に描かれている。
ウィンパーは1860年に英国山岳会の依頼を契機にアルプス山脈で登攀を始め、1865年7度目の挑戦でマッターホルンを初登頂した。
だが下山中にパーティー4人が遭難死し、この非難への回答と弁明を兼ねて1871年に出版されたのが『アルプス登攀記』になる。
この遭難は登頂成功後、山頂下の雪田で1人の転倒から3人が巻き込まれ、ザイルは切断され1,400mを滑落した。
こんなふうに遭難は、登頂後の緩みから誘発されることも多い。
「ほら、この雪田だよ。ハドウが転んじゃったのは、」
テノールの声に言われた雪田は、聴いていたように決して難しいポイントには見えない。
けれど一度の転倒が滑落死につながることを、日々の救助任務から思い知らされている。
その想いに降りて行く足下、体重を十分に乗せたアイゼンが氷雪に食いこむ感触が伝わらす。
慎重に腰を落し、堅実な歩行で下りながら山岳レスキューの想いが声になった。
「こういうポイントなんだよな、遭難って。山頂直下は気持ちが緩みやすい、」
「だね、」
踏みしめていく氷雪は、朝の陽光まばゆく目を射る。
サングラス越しに輝く白銀はただ無垢で、けれど冷厳の死はそこに蹲っていく。
標高4,000mを超える氷点下の世界、そこにある生と死を廻らす水の形は美しく、厳しい。
―これが山なんだ、
異郷の氷食尖峰に見つめる、山の現実。
それは過去も今も変わらない、峻厳のルールに充ちていく。
どこか敬虔な想いに蒼穹の雪を踏んで、丁寧で速い足取りに稜線を下る。
そしてフィックス・ロープ帯に辿り着くと、ここから懸垂下降の連続になった。
このヘンルリ稜ではビレイ器具は使わず、設置されたアンカー支点で半マスト方式に行っていく。
このポイントは登ってくる相手との交差が起きやすい、けれど午前6時半の今は誰もいない。
まだ無人の岩壁は遥かな地上を足元に見せ、この場所の高度への実感を迫らす。
―空が、俺の下にある
過ぎる想いに意識を細め、集中する。
いつもの訓練と同じに下降するザイルの感触は、奥多摩と変わらない。
世界に謳われる鋭鋒も、ふるさとの山も、どこも同じ「山」のルールに従ってただ登り、下りて行く。
慎重でも速い動きで下る視界、雪と氷が織りなすアルプスの山嶺はひろやかに空を抱いている。
白く蒼い氷河と雪峰、その永久凍土が創りだす世界の盟主として、氷食鋭鋒は聳え立つ。
マッターホルンは永遠の時を凍れる水が、セメントのよう岩を結んだ山。
その悠久の時を凍り続ける水は、今も岩石を堅く抱きしめ結合させて山を形成している。
そうして地上に留まり続ける水は、いつか融けだし雲となって、蒼穹に帰る日があるのだろうか?
―山の中心にある水の、氷の色はどんなだろう?
凍れる水の遥かな時を想い、アルプスの女王を謳われる道を英二は下りた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/6e/0d6f4897a89a54873c3647ed2d8a0a5a.jpg)
午後、ヘンルリ稜から雲が湧きだした。
マッターホルン東壁に当った風は空へ昇っていく。
上昇気流となった風は雲を生み、水蒸気の塊は噴煙のよう蒼穹へ昇りだす。
濛々と湧き起こっていく白とグレーの陰翳たち、その雄渾な水の還天に稜線の強風が思われる。
「やっぱり雲が湧いたね?午前で降りられて、俺たちは良かったけど、」
氷食鋭鋒を見上げる隣、紙袋を抱えて光一も山を仰ぐ。
見つめる透明な瞳は北壁に向いている、その想いに英二も頷いた。
「うん、高尾の2人が心配だな?」
今回の遠征訓練に参加した高尾署の2人から、まだ連絡がない。
いま14時、北壁の登攀開始から10時間が過ぎている。
眼前の山に見る気象変化が、状況を予想させてしまう。
「無線にも連絡、まだ無いね、」
白い手に持った無線機を、光一が示して見せる。
もう第七機動隊と五日市署のパーティ達とは互いに連絡が取れた、じきホテルに戻ってくるだろう。
けれどあと1つは山に残っている可能性が高い、その現実に英二は口を開いた。
「エアー・ツェルマットのヘリコプター、遭難救助の動きはまだ見せてないな?きっと遭難はしてない、高尾の2人も同じ救助隊だろ?
きっと北壁の途中でビバークしているか、ソルベイヒュッテの辺りにいるんじゃないかな?きっと落ち着いたらさ、ちゃんと連絡くれるよ、」
高尾署は警視庁山岳救助隊のうち、青梅署、五日市署に続いて3番目に創設された。
いま創設から6年目と他に比べて歴史は浅い、けれど救助隊員の精度は決して劣らない。
七機と3署の間は人事交流が当然あり、どこも厳しい訓練を積んで救助活動に従事している。
そういう「同朋」であり、英二にとっては誰もが先輩にあたる。その信頼に微笑んだ隣で透明な目が笑ってくれた。
「だね、緊急措置くらいキッチリ出来る人たちだしね?杞憂なんざ失礼ってモンだよね、」
「そうだな、」
笑って頷き歩いていく街は、まだ高い陽光に明るい。
いま7月のスイスは日没21時、だから暗さに迷わされる心配は無いだろう。
それでも眼前のヘンルリ稜には雲は起こっていく、あの中はきっと視界が鈍り、寒い。
―降雪も雷も可能性がある。きっと下山は、予定通りにはいかない
見上げる雲に「可能性」を見つめ覚悟の防御線を引く、この可能性は2つある。
まず1つめは遭難の可能性、それは山を行く者なら誰にも平等にある。
このマッターホルン北壁は高低差が1,000m以上、その登攀による疲労と冷気が怖い。
午後には岩壁の地熱が氷を溶かし、岩の結合を解いて落石を起こしだす。だからスピード勝負で午前以内の登攀が要求される。
そして2つめは、もう1つの北壁のアタックが不可能になる可能性。
こちらの可能性は高いだろう、それは光一にとっても「テスト」になることかもしれない。
―リーダーシップが試されるな、光一は
そして自分は「補佐」の力を試される。
この可能性を想いながら歩く町には、窓や植込みごと花が優しい。
赤や薄紅、黄色に白、青、彩ゆたかな花たちに懐かしい庭と、その主を想ってしまう。
―周太、寮の部屋に居るころだな、メール見てくれたかな、
下山してすぐ送信したメール、それにマッターホルンのスイス側山頂の写真を添付した。
あのときスイス時間で10時前、日本では18時頃の終業定時で周太は忙しい頃だったろう。
けれど送って4時間が過ぎた今、もう写真を見てメッセージを読んでくれたろうか?そんな想いに花を見る。
こうした町の光景も写真にしたら喜んでくれる?それとも話して聴かせる方が喜ぶだろうか?
そんな考え廻らせながら歩いてホテルに戻ると、明るい午後の光に日章旗の純白がまぶしい。
マッターホルン北壁登頂者へ敬意を示す国旗掲揚、その見なれた旗が面映ゆく素直に嬉しい。
この旗には第七機動隊と五日市署のパーティーも当然ふくまれる。
そのなかで最も表敬される男に、英二は笑いかけた。
「光一の旗だな、」
純白に深紅の太陽を象る旗。
ずっと見なれた母国のシンプルな旗が今、自分のパートナーに掲げられる。
そうして表されるパートナーの偉業が嬉しい、嬉しくて笑う英二の頬を白い指が小突いた。
「おまえの旗でもあるね?俺が登れたのは、おまえの支えあってこそだよ、」
いつものトーンにテノールが笑って、底抜けに明るい目が愉快に笑う。
世界記録への近似、そのタイムトライアルを果たしても光一は普段と変わらない。
こういう衒い無いアンザイレンパートナーに憧れ、愛おしい。そして「可能性」への想いが切ない。
―アイガーの北壁は、今回は登れないかもしれない
きっと無理だろう、この時間でも無線が入らないのなら。
きっと夜までには結論は付きつけられる、それに光一はどう想い動こうとする?
その心と体と動きへと思いめぐらせながら入ったエントランス、見知った顔が振向いた。
「国村さん、宮田くん。おめでとう、」
ぱっと気さくな笑顔が明るんで、頼もしい掌を握手に差し出してくれる。
第七機動隊山岳レンジャー第1小隊のコンビが、無事に戻ってきた。
また無事に再会できた、その幸運に山っ子が微笑んだ。
「加藤さんと村木さんも、おめでとうございます。前より記録を短縮したんですよね?」
「まあな、でも国村さん達の記録には敵わないよ、」
笑って光一と加藤は握手し合う、その雰囲気は温かい。
加藤の隣から村木が英二に笑いかけ、掌を差しだしてくれる。
その掌を素直にとった英二へと、快活な笑顔が笑いかけてくれた。
「おめでとう、宮田さん。すごい記録ですね、本当に山は1年なんですか?」
率直な賞賛が笑って英二を見つめてくれる。
憧憬とライバル心が交じり、けれど親しみの温い笑顔。
こういう笑顔を何度か見るのだろうな?そんな予想と英二は綺麗に笑いかけた。
「ありがとうござます、本当に1年足らずです。解からない事ばかりで、ご迷惑かけたらすみません、」
「迷惑だなんてありませんよ?2時間ってベテランでも出来ないのに、さすが国村さんのパートナーです、」
真直ぐで質朴な目が英二に笑いかけてくれる、その眼差しがどこか懐かしい。
いつも見ている青梅署の山岳救助隊メンバー、その笑顔と似ているのだろうか?
そんな想いと笑い合ってロビーで少し話すと、夕食の同席を約束して英二と光一は部屋に戻った。
ぱたん、
扉が閉まり、光一が紙袋をチェストの上に置く。
一昨日も見たワインボトルを1本出して、冷蔵庫へと仕舞いこむ。
それから英二は光一の目を真直ぐ見つめ、考えていたことを告げた。
「光一、アイガーの北壁は今回、見送ることも考えよう、」
言葉に、底抜けに明るい目が大きくなる。
信じられないことを聴いた、そんな眼差しのままテノールが笑った。
「なに言ってんだよ、おまえ?明後日は天気もイイはずだね?」
「そうだな、明後日は晴れだろうな?」
笑いかけ頷きながら、窓ガラスの向こうを見上げる。
ガラス越しのベランダからは氷食鋭鋒がそびえ、白く蒼く水蒸気の塊を噴き上げる。
あの影の向こうで仲間は今、下界を想っているだろう。その想いへの切なさに英二は微笑んだ。
「でも光一、きっと、明日の午前中にツェルマットを発つことは出来ない。高尾署の人たちを置いていけない、」
仲間を置いて、先には進めない。
その想いに告げた言葉へと、雪白の貌は硬く笑った。
「嫌だね、」
たった一言、けれど重たく意味は幾層にも響かす。
この層を成す想いに、透明な目は真直ぐ英二を見て透明な声が言った。
「アイガーの北壁は、明後日を逃したら今回のアタックは無理だね。きっと風がヤバくなる、明日アイスメーアに行くよ、」
「だめだ、」
即答に切り捨て、英二は自分のアンザイレンパートナーを見た。
その視界の真中、途惑いと怒りと哀しみが透明な目に現われだす。
こんな貌をさせたくない、けれど英二は自分に与えられた義務と立場に口を開いた。
「光一、俺たちは警視庁山岳会の遠征訓練でココに来たんだろ?だったら山ヤの警察官のルールを護らないといけない。
いつもの俺と光一だけのプライベートの訓練とは違う、今回は山ヤの警察官として、訓練の任務で北壁に登りに来ているんだ。
チームで登っているんだ、だからチーム全員の安否を確保してから次の山に進むべきだ。同じメンバーとして高尾署の帰りを待とう、」
言っていて、惨いことを押し付けるのだと解っている。
たぶん光一はアイガー北壁の踏破も雅樹と約束したのだろう、その想いが透明な眼差しに見える。
きっと光一は雅樹に代るパートナーを見つけることを信じ、その「いつか」のために懸けてきた。
ずっと想い続けた時間への誇りと意地、その全てを映しこんだ瞳で英二を見つめて光一は言った。
「そんなこと今はどうでもいい、俺は1人の山ヤとして、俺のアンザイレンパートナーと北壁を駆けあがりに来たんだ、」
告げる透明な瞳が、真直ぐな意志を映して魅せる。
どこまでも真直ぐな「山」への想い、その無垢が英二へと率直に口を開いた。
「今日、一発目が無事に終わったね、この運に乗っかって明後日も終わらせる。北壁は運がなきゃ登れないんだからね、
あの壁で風が吹かないなんて保証はチッともありゃしない、でも明後日は吹かない筈だね?こんな運は滅多に無いんだよ。
ここで手を引っ込めて、次に登れるなんて思ったら間違いだね。そしたらもう、おまえは二度とアタック出来ないかもしれない、」
アイガー北壁は急勾配の断崖に構成され、壁面からの岩石落下も頻発する。
そして周囲では天気が酷くない時でも、あの北にある巨壁は違う風が吹いてしまう。
高度1,800mの懐は風を抱きこみ、バックネットのよう凶暴な嵐を捕え、突然の豪風を巻き起こす。
この突発的な気象変化がアイガー北壁を難攻にしている、だから光一の言う通り「運」が無かったら登攀は不可能だろう。
「そうだな、光一の言う通りだ。アイガーの北壁は運が無かったら登れない、その運はマッターホルン以上かもしれないな、」
その通りなのだと、自分だって解っている。
その理解のまま微笑んだ英二を真直ぐ見つめて、山っ子は言った。
「そういう運は与えらえたら、キッチリ掴まないと次は解からない。それに山ヤなんざ自助が原則だ、おまえもさっき言ったよね?
高尾のヤツらだって俺たちと同じ、山のレスキューのプロなんだ。自分でなんとかする技術とプライドは、存分に持っているはずだね。
だったら信じて任せて、俺たちは自分のヤるべきことしてりゃイイ。俺たちは北壁を二発同時に抜くために来たんだ、明日は行くよ、」
信じて任せて、それぞれの領分に務める。
それも1つの道だと解っている、その選択肢を自分だって考えた。
けれど光一が警察官の道を選んだ立場と責任を、忘れる事なんて出来るわけがない。
その立場と責任を支えるために自分は、光一のアンザイレンパートナーに選ばれた。この誇りと責任に英二は口を開いた。
「あと数日で光一は七機に異動だ、そうしたら光一は小隊長になる。光一はリーダーとして自分のチーム全員を護る責任を負うんだ。
そういう立場で見られることは、異動が決まった瞬間から始まっているよ?きっと今回のメンバー全員がそういう目で光一を見てる。
もし高尾署の下山を見届けなかったら、リーダーとしての誇りを捨てたことになる。それは警視庁山岳会の次のトップから降りることだ、」
告げる言葉に、山っ子の瞳が見つめてくれる。
ただ真直ぐに「山」を想う眼差しが英二を見る、その瞳は光一の本音を映して揺るがない。
真直ぐな山ヤの目が英二を見る、その想いへと英二も本音のままに微笑んだ。
「光一、周太のお父さんのこと忘れないでほしい。もし警視庁山岳会の力が強ければ、お父さんは死なずに済んだかもしれない。
そうしたら周太だって、こんなことにならなかったんだ。夢を見つめて好きな植物学を勉強して、今頃はもう樹医の卵になれたんだ。
でも現実は違う、こういう現実を俺は終わらせたいんだ。そのために俺は今、光一にお願いしているんだよ?光一にしか出来ないから、」
光一の他には誰も出来ない、山ヤの警察官として出来ること。
その願いに祈るよう英二は、最高の山ヤの魂へと綺麗に笑いかけた。
「山ヤの世界は仲間意識が強いよな、だから山ヤの警察官で最高の立場に立てば、警察組織で光一は強い発言力を持てるはずだ。
そうしたら、あの男にも対抗出来るだけの力を手に入れられる。あの男に勝つには、警察庁に対しても発言出来る力が必要になんだ。
それには山ヤとしての成功だけじゃ足りないんだ、警察組織のリーダーとしても成功しないと出来ない。だから明日は高尾署を待ってくれ、」
きっと当然のように、「あの男」は警察庁から他の省庁内部にも喰いこんでいる。
だから内山は国家公務員一種の試験に落ちた、合格を自他ともに認められた筈なのに。
あの男が手駒にするため選ばれて、不合格にされて警視庁受験に誘導されるまま周太の同期にされた。
この推論ごと笑いかける想いの真中で、美しい透明な眼差しは真直ぐ射るよう英二を見つめ返す。
拒絶も寛容も無くただ見つめる、その眼差しへ正直なまま英二は想う全てを告げた。
「光一、警視庁山岳会の強いリーダーになってくれ。そして日本の警察すべての山ヤのリーダーになってほしいんだ。
そうすれば光一の補佐として俺は力を掴んで、あの男を追い詰められる。こんなこと身勝手だって解ってる、それでも頼みたい。
こんなこと光一は本当は望んでないって解ってる、こんなお願いを俺がするのは勝手過ぎる、分を超えてるって事も解かってるんだ。
でも、俺だけでは出来ないんだ、天才の光一が一緒じゃなかったら無理だ、だからお願いしてるんだ。だから明日は高尾署を待ってくれ、」
なんて自分は惨酷で、身勝手なのだろう?
最高のクライマーが輝くべき場所に、明後日は立つことが出来る。
それを遮ってでも自分が望む目的の為に光一を利用したい、そう自分は言っている。
こんな自分は身勝手過ぎる、こんな自分は山ヤとして失格なのだと自責が軋んでいく。
―今日、北壁で見つめた想いはただ、光一を支えたかっただけなのに…なのに俺は、
あのとき北壁を登っていく想いはただ、山っ子と「山」への純粋な想いだけだった。
あのとき雅樹も共に登り、英二を援けて光一をビレイし支えてくれたと信じている。
あの無垢な祈りは今、この瞬間にも自分に有ると言えるだろうか?
「ひとつ教えろ、」
低くテノールが言って、透明な目が英二を見た。
真直ぐ見つめ返して静かに頷く、その貌を山っ子が見つめてくる。
ただ真直ぐに見つめて、そして透明な声は問いかけた。
「今日、北壁を登っているとき、おまえは何を考えていた?」
正直に言え、そう声も視線も宣言する。
その宣言へと英二は、正直なままに応えた。
「絶対に光一の夢を叶えてあげたい、俺が光一のアンザイレンパートナーでいたい、ただ光一の信頼に応えたい。それだけだった、」
本当に、それだけ考えて登っていた。
あのとき自分は単なる山ヤでただの男だった、その単純が幸せだった。
いまから8時間ほど前の瞬間たちは、どこまでも危険で、そして幸福だった。
「おまえ、今言っていたことと違うじゃないか?」
「うん、違ってる。あのときは本当に他は全て、どうでも良かったんだ、」
思うことをそのまま告げて、唯ひとりのザイルパートナーを見つめる。
真直ぐ自分を見つめる長身の向こうには、白い雲を吐く尖峰が銀と黒に輝いていく。
ゆるやかに傾いていく太陽、その光きらめくアルプスの女王が見おろす部屋で、英二は綺麗に笑った。
「俺はね、光一しか見えてなかった。他は全部忘れてたんだ、ただの山ヤで男として、光一だけを見つめて追いかけて、登ったんだ、」
ただ純粋な想いだけが、あの瞬間にあった。
あの北壁にザイルで繋がれ合い、互いの呼吸と鼓動をザイルに伝え合った瞬間たち。
それは強い紐帯になって結ばれあい、言葉は無くても深い、共鳴の想いが世界の全てだった。
あのとき心に響き続けた想いの瞬間、それは岩を凍らせ山の姿を造る氷のように自分たちを繋いでいた。
「なぜ今は他のこと、そんなに拘る?」
低いテノールが追及するよう短く訊く。
その問いかけに正直なまま本音は、言葉になった。
「周太のこと護りたいから。俺は帰る場所を失いたくない、」
告げた本音は、残酷だ。
さっき告げたばかりの言葉は、英二には光一が世界の全てだと言った。
それなのに、帰りたい場所は周太の元だと告げて、護るために光一を利用すると自分は言っている。
こんな身勝手は赦されなくて仕方ない、けれど2人共を追いかけたがる自分がいる。
「ごめん、光一。俺は本当に勝手で狡いよ、でも本当の気持ちなんだ。北壁で俺は光一だけを見つめて想ってた、他は何も無い、」
いま目の前に佇んだ最高のクライマー、その背後に開く窓の向こうに氷の山は睥睨する。
あの山が悠久の時に融けない氷で岩を結んでいるように、自分たちも永遠にザイルを繋ぎあい登りたいと願う。
けれどもう、今、自分が告げた本音は8時間前の瞬間を、自分の山ヤの誇りもパートナーの想いも裏切ったかもしれない。
―北壁の瞬間がきっと、俺の永遠なんだ
ふっと、心ふかい底から想い微笑んで、熱が頬伝っておちた。
「…あ、」
頬の感触に声がこぼれ、指で触れる。
もう泣かないと自分は決めて、最後の涙は警察学校に眠らせた。
もう始った周太を捕える「50年の束縛」との戦い、その終わる瞬間まで泣く暇はない。
だから涙を自分に禁じた、あれから1ヶ月も経っていない、それなのに今、自分は泣いている?
―情けない、こんなのは…涙を止めることすら俺は、自分でも出来ない
悔しい、その想いと一緒に手の甲で涙を拭う。
拭った視界のまんなか、雪白の貌がこちらを見つめている。
その誇り高く真直ぐな眼差しに、ずっと想っていた本音が声になって、英二は綺麗に微笑んだ。
「ずっと憧れて見てきたよ、おまえのこと。だから解かるんだ、天才の光一には俺なんか釣り合わない、俺は大した才能も無い。
ごめん、本当は俺は光一のパートナーに相応しくない。自分だけじゃ何も出来ない癖に高望みばかりする、そういう狡いヤツなんだ。
それどころか俺は、光一の才能を利用しようとしてる。自分勝手で狡いのが俺なんだ、こんな俺は光一のパートナーには相応しくない、」
こんなこと、自分がいちばん解っていた。
もうずっと解っている、だから今回のアタックも危ぶまれて仕方ないと思っていた。
それでも信頼に応えたくて、共に夢を見たくて、今日も必死で後を追いかけ登った。
「でも憧れてる、光一は俺が生きたい世界の全てだ。俺が憧れる山ヤはおまえだよ、だからパートナーとして登れることが本当に幸せだった、」
本音を告げて、涙の底から真直ぐに英二は、憧れ続ける最高のクライマーを見た。
その透明な瞳が英二を見つめてくれる、その薄紅の唇が言いたげに披きかける。
けれど今、なにも聴きたくなくて英二は、本音の涙と微笑んだ。
「光一は俺の夢だ、」
短い言葉、けれど出逢ってからの瞬間すべての想い籠らせ、そのまま踵返すと英二は扉を開き、出ていった。
(to be continued)
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第58話 双壁act.8―side story「陽はまた昇る」
Edward Whymper、エドワード・ウィンパー『アルプス登攀記』
この探検記録は、画家らしい客観的で科学的な視点に描かれている。
ウィンパーは1860年に英国山岳会の依頼を契機にアルプス山脈で登攀を始め、1865年7度目の挑戦でマッターホルンを初登頂した。
だが下山中にパーティー4人が遭難死し、この非難への回答と弁明を兼ねて1871年に出版されたのが『アルプス登攀記』になる。
この遭難は登頂成功後、山頂下の雪田で1人の転倒から3人が巻き込まれ、ザイルは切断され1,400mを滑落した。
こんなふうに遭難は、登頂後の緩みから誘発されることも多い。
「ほら、この雪田だよ。ハドウが転んじゃったのは、」
テノールの声に言われた雪田は、聴いていたように決して難しいポイントには見えない。
けれど一度の転倒が滑落死につながることを、日々の救助任務から思い知らされている。
その想いに降りて行く足下、体重を十分に乗せたアイゼンが氷雪に食いこむ感触が伝わらす。
慎重に腰を落し、堅実な歩行で下りながら山岳レスキューの想いが声になった。
「こういうポイントなんだよな、遭難って。山頂直下は気持ちが緩みやすい、」
「だね、」
踏みしめていく氷雪は、朝の陽光まばゆく目を射る。
サングラス越しに輝く白銀はただ無垢で、けれど冷厳の死はそこに蹲っていく。
標高4,000mを超える氷点下の世界、そこにある生と死を廻らす水の形は美しく、厳しい。
―これが山なんだ、
異郷の氷食尖峰に見つめる、山の現実。
それは過去も今も変わらない、峻厳のルールに充ちていく。
どこか敬虔な想いに蒼穹の雪を踏んで、丁寧で速い足取りに稜線を下る。
そしてフィックス・ロープ帯に辿り着くと、ここから懸垂下降の連続になった。
このヘンルリ稜ではビレイ器具は使わず、設置されたアンカー支点で半マスト方式に行っていく。
このポイントは登ってくる相手との交差が起きやすい、けれど午前6時半の今は誰もいない。
まだ無人の岩壁は遥かな地上を足元に見せ、この場所の高度への実感を迫らす。
―空が、俺の下にある
過ぎる想いに意識を細め、集中する。
いつもの訓練と同じに下降するザイルの感触は、奥多摩と変わらない。
世界に謳われる鋭鋒も、ふるさとの山も、どこも同じ「山」のルールに従ってただ登り、下りて行く。
慎重でも速い動きで下る視界、雪と氷が織りなすアルプスの山嶺はひろやかに空を抱いている。
白く蒼い氷河と雪峰、その永久凍土が創りだす世界の盟主として、氷食鋭鋒は聳え立つ。
マッターホルンは永遠の時を凍れる水が、セメントのよう岩を結んだ山。
その悠久の時を凍り続ける水は、今も岩石を堅く抱きしめ結合させて山を形成している。
そうして地上に留まり続ける水は、いつか融けだし雲となって、蒼穹に帰る日があるのだろうか?
―山の中心にある水の、氷の色はどんなだろう?
凍れる水の遥かな時を想い、アルプスの女王を謳われる道を英二は下りた。
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午後、ヘンルリ稜から雲が湧きだした。
マッターホルン東壁に当った風は空へ昇っていく。
上昇気流となった風は雲を生み、水蒸気の塊は噴煙のよう蒼穹へ昇りだす。
濛々と湧き起こっていく白とグレーの陰翳たち、その雄渾な水の還天に稜線の強風が思われる。
「やっぱり雲が湧いたね?午前で降りられて、俺たちは良かったけど、」
氷食鋭鋒を見上げる隣、紙袋を抱えて光一も山を仰ぐ。
見つめる透明な瞳は北壁に向いている、その想いに英二も頷いた。
「うん、高尾の2人が心配だな?」
今回の遠征訓練に参加した高尾署の2人から、まだ連絡がない。
いま14時、北壁の登攀開始から10時間が過ぎている。
眼前の山に見る気象変化が、状況を予想させてしまう。
「無線にも連絡、まだ無いね、」
白い手に持った無線機を、光一が示して見せる。
もう第七機動隊と五日市署のパーティ達とは互いに連絡が取れた、じきホテルに戻ってくるだろう。
けれどあと1つは山に残っている可能性が高い、その現実に英二は口を開いた。
「エアー・ツェルマットのヘリコプター、遭難救助の動きはまだ見せてないな?きっと遭難はしてない、高尾の2人も同じ救助隊だろ?
きっと北壁の途中でビバークしているか、ソルベイヒュッテの辺りにいるんじゃないかな?きっと落ち着いたらさ、ちゃんと連絡くれるよ、」
高尾署は警視庁山岳救助隊のうち、青梅署、五日市署に続いて3番目に創設された。
いま創設から6年目と他に比べて歴史は浅い、けれど救助隊員の精度は決して劣らない。
七機と3署の間は人事交流が当然あり、どこも厳しい訓練を積んで救助活動に従事している。
そういう「同朋」であり、英二にとっては誰もが先輩にあたる。その信頼に微笑んだ隣で透明な目が笑ってくれた。
「だね、緊急措置くらいキッチリ出来る人たちだしね?杞憂なんざ失礼ってモンだよね、」
「そうだな、」
笑って頷き歩いていく街は、まだ高い陽光に明るい。
いま7月のスイスは日没21時、だから暗さに迷わされる心配は無いだろう。
それでも眼前のヘンルリ稜には雲は起こっていく、あの中はきっと視界が鈍り、寒い。
―降雪も雷も可能性がある。きっと下山は、予定通りにはいかない
見上げる雲に「可能性」を見つめ覚悟の防御線を引く、この可能性は2つある。
まず1つめは遭難の可能性、それは山を行く者なら誰にも平等にある。
このマッターホルン北壁は高低差が1,000m以上、その登攀による疲労と冷気が怖い。
午後には岩壁の地熱が氷を溶かし、岩の結合を解いて落石を起こしだす。だからスピード勝負で午前以内の登攀が要求される。
そして2つめは、もう1つの北壁のアタックが不可能になる可能性。
こちらの可能性は高いだろう、それは光一にとっても「テスト」になることかもしれない。
―リーダーシップが試されるな、光一は
そして自分は「補佐」の力を試される。
この可能性を想いながら歩く町には、窓や植込みごと花が優しい。
赤や薄紅、黄色に白、青、彩ゆたかな花たちに懐かしい庭と、その主を想ってしまう。
―周太、寮の部屋に居るころだな、メール見てくれたかな、
下山してすぐ送信したメール、それにマッターホルンのスイス側山頂の写真を添付した。
あのときスイス時間で10時前、日本では18時頃の終業定時で周太は忙しい頃だったろう。
けれど送って4時間が過ぎた今、もう写真を見てメッセージを読んでくれたろうか?そんな想いに花を見る。
こうした町の光景も写真にしたら喜んでくれる?それとも話して聴かせる方が喜ぶだろうか?
そんな考え廻らせながら歩いてホテルに戻ると、明るい午後の光に日章旗の純白がまぶしい。
マッターホルン北壁登頂者へ敬意を示す国旗掲揚、その見なれた旗が面映ゆく素直に嬉しい。
この旗には第七機動隊と五日市署のパーティーも当然ふくまれる。
そのなかで最も表敬される男に、英二は笑いかけた。
「光一の旗だな、」
純白に深紅の太陽を象る旗。
ずっと見なれた母国のシンプルな旗が今、自分のパートナーに掲げられる。
そうして表されるパートナーの偉業が嬉しい、嬉しくて笑う英二の頬を白い指が小突いた。
「おまえの旗でもあるね?俺が登れたのは、おまえの支えあってこそだよ、」
いつものトーンにテノールが笑って、底抜けに明るい目が愉快に笑う。
世界記録への近似、そのタイムトライアルを果たしても光一は普段と変わらない。
こういう衒い無いアンザイレンパートナーに憧れ、愛おしい。そして「可能性」への想いが切ない。
―アイガーの北壁は、今回は登れないかもしれない
きっと無理だろう、この時間でも無線が入らないのなら。
きっと夜までには結論は付きつけられる、それに光一はどう想い動こうとする?
その心と体と動きへと思いめぐらせながら入ったエントランス、見知った顔が振向いた。
「国村さん、宮田くん。おめでとう、」
ぱっと気さくな笑顔が明るんで、頼もしい掌を握手に差し出してくれる。
第七機動隊山岳レンジャー第1小隊のコンビが、無事に戻ってきた。
また無事に再会できた、その幸運に山っ子が微笑んだ。
「加藤さんと村木さんも、おめでとうございます。前より記録を短縮したんですよね?」
「まあな、でも国村さん達の記録には敵わないよ、」
笑って光一と加藤は握手し合う、その雰囲気は温かい。
加藤の隣から村木が英二に笑いかけ、掌を差しだしてくれる。
その掌を素直にとった英二へと、快活な笑顔が笑いかけてくれた。
「おめでとう、宮田さん。すごい記録ですね、本当に山は1年なんですか?」
率直な賞賛が笑って英二を見つめてくれる。
憧憬とライバル心が交じり、けれど親しみの温い笑顔。
こういう笑顔を何度か見るのだろうな?そんな予想と英二は綺麗に笑いかけた。
「ありがとうござます、本当に1年足らずです。解からない事ばかりで、ご迷惑かけたらすみません、」
「迷惑だなんてありませんよ?2時間ってベテランでも出来ないのに、さすが国村さんのパートナーです、」
真直ぐで質朴な目が英二に笑いかけてくれる、その眼差しがどこか懐かしい。
いつも見ている青梅署の山岳救助隊メンバー、その笑顔と似ているのだろうか?
そんな想いと笑い合ってロビーで少し話すと、夕食の同席を約束して英二と光一は部屋に戻った。
ぱたん、
扉が閉まり、光一が紙袋をチェストの上に置く。
一昨日も見たワインボトルを1本出して、冷蔵庫へと仕舞いこむ。
それから英二は光一の目を真直ぐ見つめ、考えていたことを告げた。
「光一、アイガーの北壁は今回、見送ることも考えよう、」
言葉に、底抜けに明るい目が大きくなる。
信じられないことを聴いた、そんな眼差しのままテノールが笑った。
「なに言ってんだよ、おまえ?明後日は天気もイイはずだね?」
「そうだな、明後日は晴れだろうな?」
笑いかけ頷きながら、窓ガラスの向こうを見上げる。
ガラス越しのベランダからは氷食鋭鋒がそびえ、白く蒼く水蒸気の塊を噴き上げる。
あの影の向こうで仲間は今、下界を想っているだろう。その想いへの切なさに英二は微笑んだ。
「でも光一、きっと、明日の午前中にツェルマットを発つことは出来ない。高尾署の人たちを置いていけない、」
仲間を置いて、先には進めない。
その想いに告げた言葉へと、雪白の貌は硬く笑った。
「嫌だね、」
たった一言、けれど重たく意味は幾層にも響かす。
この層を成す想いに、透明な目は真直ぐ英二を見て透明な声が言った。
「アイガーの北壁は、明後日を逃したら今回のアタックは無理だね。きっと風がヤバくなる、明日アイスメーアに行くよ、」
「だめだ、」
即答に切り捨て、英二は自分のアンザイレンパートナーを見た。
その視界の真中、途惑いと怒りと哀しみが透明な目に現われだす。
こんな貌をさせたくない、けれど英二は自分に与えられた義務と立場に口を開いた。
「光一、俺たちは警視庁山岳会の遠征訓練でココに来たんだろ?だったら山ヤの警察官のルールを護らないといけない。
いつもの俺と光一だけのプライベートの訓練とは違う、今回は山ヤの警察官として、訓練の任務で北壁に登りに来ているんだ。
チームで登っているんだ、だからチーム全員の安否を確保してから次の山に進むべきだ。同じメンバーとして高尾署の帰りを待とう、」
言っていて、惨いことを押し付けるのだと解っている。
たぶん光一はアイガー北壁の踏破も雅樹と約束したのだろう、その想いが透明な眼差しに見える。
きっと光一は雅樹に代るパートナーを見つけることを信じ、その「いつか」のために懸けてきた。
ずっと想い続けた時間への誇りと意地、その全てを映しこんだ瞳で英二を見つめて光一は言った。
「そんなこと今はどうでもいい、俺は1人の山ヤとして、俺のアンザイレンパートナーと北壁を駆けあがりに来たんだ、」
告げる透明な瞳が、真直ぐな意志を映して魅せる。
どこまでも真直ぐな「山」への想い、その無垢が英二へと率直に口を開いた。
「今日、一発目が無事に終わったね、この運に乗っかって明後日も終わらせる。北壁は運がなきゃ登れないんだからね、
あの壁で風が吹かないなんて保証はチッともありゃしない、でも明後日は吹かない筈だね?こんな運は滅多に無いんだよ。
ここで手を引っ込めて、次に登れるなんて思ったら間違いだね。そしたらもう、おまえは二度とアタック出来ないかもしれない、」
アイガー北壁は急勾配の断崖に構成され、壁面からの岩石落下も頻発する。
そして周囲では天気が酷くない時でも、あの北にある巨壁は違う風が吹いてしまう。
高度1,800mの懐は風を抱きこみ、バックネットのよう凶暴な嵐を捕え、突然の豪風を巻き起こす。
この突発的な気象変化がアイガー北壁を難攻にしている、だから光一の言う通り「運」が無かったら登攀は不可能だろう。
「そうだな、光一の言う通りだ。アイガーの北壁は運が無かったら登れない、その運はマッターホルン以上かもしれないな、」
その通りなのだと、自分だって解っている。
その理解のまま微笑んだ英二を真直ぐ見つめて、山っ子は言った。
「そういう運は与えらえたら、キッチリ掴まないと次は解からない。それに山ヤなんざ自助が原則だ、おまえもさっき言ったよね?
高尾のヤツらだって俺たちと同じ、山のレスキューのプロなんだ。自分でなんとかする技術とプライドは、存分に持っているはずだね。
だったら信じて任せて、俺たちは自分のヤるべきことしてりゃイイ。俺たちは北壁を二発同時に抜くために来たんだ、明日は行くよ、」
信じて任せて、それぞれの領分に務める。
それも1つの道だと解っている、その選択肢を自分だって考えた。
けれど光一が警察官の道を選んだ立場と責任を、忘れる事なんて出来るわけがない。
その立場と責任を支えるために自分は、光一のアンザイレンパートナーに選ばれた。この誇りと責任に英二は口を開いた。
「あと数日で光一は七機に異動だ、そうしたら光一は小隊長になる。光一はリーダーとして自分のチーム全員を護る責任を負うんだ。
そういう立場で見られることは、異動が決まった瞬間から始まっているよ?きっと今回のメンバー全員がそういう目で光一を見てる。
もし高尾署の下山を見届けなかったら、リーダーとしての誇りを捨てたことになる。それは警視庁山岳会の次のトップから降りることだ、」
告げる言葉に、山っ子の瞳が見つめてくれる。
ただ真直ぐに「山」を想う眼差しが英二を見る、その瞳は光一の本音を映して揺るがない。
真直ぐな山ヤの目が英二を見る、その想いへと英二も本音のままに微笑んだ。
「光一、周太のお父さんのこと忘れないでほしい。もし警視庁山岳会の力が強ければ、お父さんは死なずに済んだかもしれない。
そうしたら周太だって、こんなことにならなかったんだ。夢を見つめて好きな植物学を勉強して、今頃はもう樹医の卵になれたんだ。
でも現実は違う、こういう現実を俺は終わらせたいんだ。そのために俺は今、光一にお願いしているんだよ?光一にしか出来ないから、」
光一の他には誰も出来ない、山ヤの警察官として出来ること。
その願いに祈るよう英二は、最高の山ヤの魂へと綺麗に笑いかけた。
「山ヤの世界は仲間意識が強いよな、だから山ヤの警察官で最高の立場に立てば、警察組織で光一は強い発言力を持てるはずだ。
そうしたら、あの男にも対抗出来るだけの力を手に入れられる。あの男に勝つには、警察庁に対しても発言出来る力が必要になんだ。
それには山ヤとしての成功だけじゃ足りないんだ、警察組織のリーダーとしても成功しないと出来ない。だから明日は高尾署を待ってくれ、」
きっと当然のように、「あの男」は警察庁から他の省庁内部にも喰いこんでいる。
だから内山は国家公務員一種の試験に落ちた、合格を自他ともに認められた筈なのに。
あの男が手駒にするため選ばれて、不合格にされて警視庁受験に誘導されるまま周太の同期にされた。
この推論ごと笑いかける想いの真中で、美しい透明な眼差しは真直ぐ射るよう英二を見つめ返す。
拒絶も寛容も無くただ見つめる、その眼差しへ正直なまま英二は想う全てを告げた。
「光一、警視庁山岳会の強いリーダーになってくれ。そして日本の警察すべての山ヤのリーダーになってほしいんだ。
そうすれば光一の補佐として俺は力を掴んで、あの男を追い詰められる。こんなこと身勝手だって解ってる、それでも頼みたい。
こんなこと光一は本当は望んでないって解ってる、こんなお願いを俺がするのは勝手過ぎる、分を超えてるって事も解かってるんだ。
でも、俺だけでは出来ないんだ、天才の光一が一緒じゃなかったら無理だ、だからお願いしてるんだ。だから明日は高尾署を待ってくれ、」
なんて自分は惨酷で、身勝手なのだろう?
最高のクライマーが輝くべき場所に、明後日は立つことが出来る。
それを遮ってでも自分が望む目的の為に光一を利用したい、そう自分は言っている。
こんな自分は身勝手過ぎる、こんな自分は山ヤとして失格なのだと自責が軋んでいく。
―今日、北壁で見つめた想いはただ、光一を支えたかっただけなのに…なのに俺は、
あのとき北壁を登っていく想いはただ、山っ子と「山」への純粋な想いだけだった。
あのとき雅樹も共に登り、英二を援けて光一をビレイし支えてくれたと信じている。
あの無垢な祈りは今、この瞬間にも自分に有ると言えるだろうか?
「ひとつ教えろ、」
低くテノールが言って、透明な目が英二を見た。
真直ぐ見つめ返して静かに頷く、その貌を山っ子が見つめてくる。
ただ真直ぐに見つめて、そして透明な声は問いかけた。
「今日、北壁を登っているとき、おまえは何を考えていた?」
正直に言え、そう声も視線も宣言する。
その宣言へと英二は、正直なままに応えた。
「絶対に光一の夢を叶えてあげたい、俺が光一のアンザイレンパートナーでいたい、ただ光一の信頼に応えたい。それだけだった、」
本当に、それだけ考えて登っていた。
あのとき自分は単なる山ヤでただの男だった、その単純が幸せだった。
いまから8時間ほど前の瞬間たちは、どこまでも危険で、そして幸福だった。
「おまえ、今言っていたことと違うじゃないか?」
「うん、違ってる。あのときは本当に他は全て、どうでも良かったんだ、」
思うことをそのまま告げて、唯ひとりのザイルパートナーを見つめる。
真直ぐ自分を見つめる長身の向こうには、白い雲を吐く尖峰が銀と黒に輝いていく。
ゆるやかに傾いていく太陽、その光きらめくアルプスの女王が見おろす部屋で、英二は綺麗に笑った。
「俺はね、光一しか見えてなかった。他は全部忘れてたんだ、ただの山ヤで男として、光一だけを見つめて追いかけて、登ったんだ、」
ただ純粋な想いだけが、あの瞬間にあった。
あの北壁にザイルで繋がれ合い、互いの呼吸と鼓動をザイルに伝え合った瞬間たち。
それは強い紐帯になって結ばれあい、言葉は無くても深い、共鳴の想いが世界の全てだった。
あのとき心に響き続けた想いの瞬間、それは岩を凍らせ山の姿を造る氷のように自分たちを繋いでいた。
「なぜ今は他のこと、そんなに拘る?」
低いテノールが追及するよう短く訊く。
その問いかけに正直なまま本音は、言葉になった。
「周太のこと護りたいから。俺は帰る場所を失いたくない、」
告げた本音は、残酷だ。
さっき告げたばかりの言葉は、英二には光一が世界の全てだと言った。
それなのに、帰りたい場所は周太の元だと告げて、護るために光一を利用すると自分は言っている。
こんな身勝手は赦されなくて仕方ない、けれど2人共を追いかけたがる自分がいる。
「ごめん、光一。俺は本当に勝手で狡いよ、でも本当の気持ちなんだ。北壁で俺は光一だけを見つめて想ってた、他は何も無い、」
いま目の前に佇んだ最高のクライマー、その背後に開く窓の向こうに氷の山は睥睨する。
あの山が悠久の時に融けない氷で岩を結んでいるように、自分たちも永遠にザイルを繋ぎあい登りたいと願う。
けれどもう、今、自分が告げた本音は8時間前の瞬間を、自分の山ヤの誇りもパートナーの想いも裏切ったかもしれない。
―北壁の瞬間がきっと、俺の永遠なんだ
ふっと、心ふかい底から想い微笑んで、熱が頬伝っておちた。
「…あ、」
頬の感触に声がこぼれ、指で触れる。
もう泣かないと自分は決めて、最後の涙は警察学校に眠らせた。
もう始った周太を捕える「50年の束縛」との戦い、その終わる瞬間まで泣く暇はない。
だから涙を自分に禁じた、あれから1ヶ月も経っていない、それなのに今、自分は泣いている?
―情けない、こんなのは…涙を止めることすら俺は、自分でも出来ない
悔しい、その想いと一緒に手の甲で涙を拭う。
拭った視界のまんなか、雪白の貌がこちらを見つめている。
その誇り高く真直ぐな眼差しに、ずっと想っていた本音が声になって、英二は綺麗に微笑んだ。
「ずっと憧れて見てきたよ、おまえのこと。だから解かるんだ、天才の光一には俺なんか釣り合わない、俺は大した才能も無い。
ごめん、本当は俺は光一のパートナーに相応しくない。自分だけじゃ何も出来ない癖に高望みばかりする、そういう狡いヤツなんだ。
それどころか俺は、光一の才能を利用しようとしてる。自分勝手で狡いのが俺なんだ、こんな俺は光一のパートナーには相応しくない、」
こんなこと、自分がいちばん解っていた。
もうずっと解っている、だから今回のアタックも危ぶまれて仕方ないと思っていた。
それでも信頼に応えたくて、共に夢を見たくて、今日も必死で後を追いかけ登った。
「でも憧れてる、光一は俺が生きたい世界の全てだ。俺が憧れる山ヤはおまえだよ、だからパートナーとして登れることが本当に幸せだった、」
本音を告げて、涙の底から真直ぐに英二は、憧れ続ける最高のクライマーを見た。
その透明な瞳が英二を見つめてくれる、その薄紅の唇が言いたげに披きかける。
けれど今、なにも聴きたくなくて英二は、本音の涙と微笑んだ。
「光一は俺の夢だ、」
短い言葉、けれど出逢ってからの瞬間すべての想い籠らせ、そのまま踵返すと英二は扉を開き、出ていった。
(to be continued)
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