叶い、潰え、そして明日に見る夢

第58話 双壁act.13―side story「陽はまた昇る」
標高3,970mに黄昏が輝きだす。
遥かな1,800mからアイガーの光はガラスを透かし、絨毯に窓枠模様を描く。
ゆっくり薄暮の訪れる部屋、太陽の光芒に雪白の頬をさらして光一が問いかけた。
「おやじさんが周太のおふくろさんを、か。会ったのは3月の時だけだろ?」
「ああ、川崎に姉ちゃんと挨拶に来てくれた、あのときだけだ、」
春3月、雪崩に遭った直後の静養をする川崎に、父は姉と訪れた。
あのとき父は初めて周太と美幸に会い、2時間ほどの訪問で親しんだ。
あの日と先日に見た父の表情を記憶に見つめて、英二は噤んできた口を開いた。
「3月の時、父さんはお母さんに言ったんだ。素敵な人だ、あなたも家も周太くんも心から居心地が良い、同じ男として息子が羨ましい。
居心地のいい愛する伴侶と居場所を自分で選び手に入れる、これは男の幸せです。そう言ってくれて、あのときは俺、単純に嬉しかった。
でも、このあいだ久しぶりに実家に寄ったとき、別れ際に父さんは言ったんだ…俺がお母さんに花を贈るって話した時、言われたんだよ、」
夏の木洩陽ゆれる実家の庭で見た、沁みるよう優しい父の表情。
あんな貌を父がすることを知らなかった、あの瞬間の想いに英二は静かに微笑んだ。
「あの方を大切にしているんだな、おまえも。そう父さんは言ったんだよ、おまえも、って…あんな優しい貌の父さん、初めて見たんだ」
静かに告げる言葉の頬を、微笑と涙が過ぎっていく。
いま軟膏を塗ってもらった頬も濡らしながら、溜めていた言葉を声に変えた。
「俺にも、姉ちゃんにも、あんな貌はしたことない。いつも父さんは優しいけれど、いつも微笑んでるけど、でもそういう笑顔じゃない。
周太が俺を見てくれる目と雰囲気が似てたんだ、恋してるって、憧れてるって、そういう目だったんだ…それで俺、すぐに解かったんだよ。
父さんは周太のお母さんに、美幸さんに恋してる。たった一度しか会っていなくても恋したんだ、俺が周太に一目惚れしたのと、同じだ」
笑った頬を涙は伝い、顎から膝へと落ちていく。
なぜ父が長男を手離すことに肯えたのか?その理由のひとつが恋ゆえだと解かってしまう。
この恋は父にとって家族より愛おしい?姉が知ったら、母が知ったら、どうなってしまうのだろう?
すでに分籍して捨てると覚悟した実家、去って悔いなど欠片も無い家、それでも涙こぼれていく。
いまスラックスに広がる濡れた温もりに英二は、静かな声のまま続けた。
「俺と父さんは性格が似てる、だから父さんの考えは解かるんだ、父さんは決めたら何があっても変えない、一目惚れでも本気なんだよ。
たぶん父さん、初めてまともに恋したんだ…ずっと法律ばっかりの仕事人間で、遊びも本を読むしかない堅物で真面目だけど、本当は情熱的だ。
そういうとこ俺と似てるんだ、いっぺん本気になったら動かない、恋愛もくそ真面目になって想い通す…だからもう無理だ、上っ面だけだ、」
もう無理だ、そう自分で言って抉られる。
抉った傷が広がるのを見つめながら英二は、この6年間抱いていた想いを吐きだした。
「両親は見合い結婚でさ、それでも父さんが良いって言って結婚したんだ。でも心が通った事なんて無い、恋愛なんて欠片も無い。
そういう父さんが寂しくて母さん、俺を縛りつけたんだよ?俺さ、本当は京都大学に行きたかったんだ、でも母さんは俺が家から離れるの嫌で。
それで勝手に内部進学決めてさ…きっと、父さんに言えば受験出来たよ?でも母さんの無理強いがばれたら、余計に父さんの気持ち離れるだろ?
だから俺、黙ってその大学行ったんだよ、俺が我慢したら両親が仲良くなる可能性は残る、そう思ってさ…でも結局は無駄だった、俺は馬鹿だよ、」
あのとき踏み躙られた信頼と誇り、ふたつ共が今ようやく泣ける。
この6年間の傷み零れだす涙、その頬を拭うことなく英二は綺麗に笑って、泣いた。
「俺の祖父母って仲良い夫婦でさ、そんなふうに両親にもなって欲しかったんだ、それで本当の我儘を自由に言わせて欲しかった。
でも、もう無理だ。父さんのことだから美幸さんへの恋は隠し続けるよ、でも止めない…だからもう、母さんには恋してくれないんだ。
母さんは確かに自分勝手で酷い、正直憎んでもいる、でも俺を生んだ母親は世界で1人なんだ、だから幸せになって欲しいけど、もう無理だ、」
もう願いは叶わない、ずっと自分が想っていたことは。
ふたつの岩壁を登り、また次の夢への想い充たされる幸福感。
それを掴んだ今日、明日から駈ける夢と引き換えのよう英二は、大切だった夢の終わりに微笑んだ。
「父さんと母さんに恋愛してほしかった、それで俺は想いたかったんだ、両親の愛情の結晶として自分は必要とされてるって。
こんなの子供っぽいけどさ、俺はそういうの憧れてたんだ。だから周太のお母さん、美幸さんは俺の理想の母親なんだ。俺の夢の人だよ?
そういう人を父さんが好きになっても仕方ないって想う、だって俺と父さんは似てるから。もう両親が恋愛しないって、納得するしかない、」
終った、子どもとして見つめた夢は。
もう父と母の恋愛は目覚めない、自分の意志と進路を枉げても望んだ夢は、もう叶わない。
ほろ苦い想いが胸を抉らせ傷は痛みだす、こんな想いを誰にも言えなくて今日まで抱いていた。
本当なら周太に話して泣いて、抱きしめてほしい。けれど、どうして周太にこの話を出来るのだろう?
そうして抱え込んできた想いに涙と微笑んで、唯ひとりのアンザイレンパートナーに英二は願った。
「光一、このこと誰にも言わないでくれ、周太にも言わないでほしい、絶対に…きっと周太、また自分を責めて俺と逢ったことも哀しむ、」
「言うわけないね、」
短く答えて、静かに透明な瞳が笑いかけてくれる。
静かに温かな笑顔で白い掌を頬ふれさせ、そっと撫で涙を拭っていく。
その掌に自分の掌を重ねて、信頼するパートナーへと英二は綺麗に笑いかけた。
「ずっと俺は想ってたんだ、誰かに必要とされたい、愛されたいって。無理しないでも、ありのままの俺を必要とされて、愛されたかった。
だから夜遊びに嵌ったんだ、セックスすると愛されてるって錯覚出来るだろ?錯覚でも嘘でも良い、一瞬でも愛されてるって想いたかった。
でもそういうの虚しくて、するだけ苦しくて余計に母親を恨むようになった。そういうの全部、周太と美幸さんが受けとめてくれたんだ。
ただ隣に居てくれるだけで楽になる、言葉が無くても解かってくれる、このまんま俺を受容れてくれる、それが嬉しくて恋したよ。だから、」
だから、そう言いかけて涙ひとつ零れだす。
重ねたふたつの掌に涙ふり絡め落ちていく、その温もりに英二は泣いた。
「俺を救ってくれたのが周太と、美幸さんなんだ。ふたりは俺にとって救いで、天使みたいだよ?そういう2人を馨さんから俺、預ってる。
なのに俺の父さんが美幸さんのこと、恋してさ?そういうの馨さんに悪いだろ?美幸さんと馨さんの恋愛を邪魔するみたいで、嫌なんだよ、」
どうして父が美幸に恋するのか?
そんなこと本当は解かりきっている、自分と父は性格が似ているから。
だから父の気持ちは十分すぎるほど理解できる、それでも悔しい気持ちは込みあげてしまう。
このままだと父すら恨みそうになる自分がいる、苦しくて吐かれた溜息へと優しい瞳が明るく笑ってくれた。
「湯原のおやじさんからしたら、光栄なんじゃない?」
言われた意外に英二は目をひとつ瞬いた。
どういう意味だろう?そう見つめた先、テノールは朗らかに言ってくれた。
「自分の恋人が今もモテるくらい魅力的ってコトは、嬉しいよね?おやじさん達ってハトコ同士だし、好みが被るのもあるんじゃない?」
確かに父と馨は母親同士が従姉妹だから、はとこの血縁関係がある。
だから似ている部分があっても不思議はないだろう、実際に目許は馨と自分たち親子は似ている。
けれど馨に申し訳ない気持ちも強くて、そんな想い正直に英二は光一へと問いかけた。
「そうかもしれない、でも考えるんだよ。俺と周太が籍を入れたら、父さんと美幸さんは親戚になる。そうしたら会う機会も増えるだろ?
会えば気持って強くなるだろ、そうしたら母さんも美幸さんも傷つくことになる。きっと周太が一番に傷つくよ、それが怖くて…解からなくなる」
そんなことになったら、どうして良いのか解らない。
自分が周太に恋をして愛した、それが両親と美幸をこんな形に変えていくなんて?
結局、自分は周太を泣かせるのだろうか?この迷い抱え込んで沈みかける、そんな額を白い指が弾いた。
ばちん、
勢いよく音がして、じわり額に熱の傷みが広がらす。
滲んでいく痛覚に顔しかめた向かいから、底抜けに明るい目が呆れたよう笑ってくれた。
「ほんと馬鹿だね、おまえはさ?恋愛なんざ結局のトコ、本人同士が解決するモンだね。それも相手は立派な大人のひと達だろうが?
色ボケ変態のおまえなんかよりね、おやじさん達の方がキッチリ考えて動けるはずだよ?そこらへんは信用してやんなよ、子供としてさ。
で、万が一に間違えそうになった時に止めてやればイイ。そん時に考えれば良いのにね、余計なコトで悩んで頭使ってんじゃないよ、」
笑って光一は立ち上がると、長い腕を英二の肩に回してくれる。
そのまま懐に抱きよせて、やわらかなテノールが微笑んだ。
「ほら、胸を貸してやるよ。好きなだけ泣きな、そんで元気になってよね。朝になったら散歩に行くからさ、笑って歩きたいだろ?
だから今夜のうちに泣いて、スッキリしちまいな。言いたいコト全部わめきながら泣けばイイ、俺が抱きしめてるから安心して泣きな、」
言ってくれる言葉もシャツを透かす胸も温かい。
その温もりに頬よせた英二へと、透明な声は笑いかけてくれた。
「それからね、えっちで愛を錯覚するとか嘘でも良いとか、もう二度と言うんじゃないよ?おまえには周太がいるんだからね、」
「うん、ありがと…、も、言わないよ」
素直に答えた声に、ずっと溜まりこんだ想いは解けて静かに涙と流れだす。
ただ黙って涙あふれて、頬ふれるシャツへと浸みこんで想いごと受け留められていく。
やさしい頼もしい懐に頬よせるまま腕をシャツの背中に回す、細身の強靭な肢体が掌ふれる。
いつもの清々しい甘い花の香が体温ごとくるんでくれる、その温もりから透明なテノールが、そっと微笑んだ。
「俺だっているんだよ、英二?おまえと愛し合いたいのは周太だけじゃない…ね、」
告げられた言葉に、英二は顔を上げた。
見上げた先で雪白の貌は微笑んで、透明な瞳が見つめてくれる。
その眼差しに問いかけたくて、引き寄せて膝に光一を座らせると、静かに瞳を覗きこんだ。
「光一、ストレートに聴くけどセックスの経験って、どのくらいある?」
ちゃんと訊いてみたいと思っていた。
悪ふざけの頃は光一から英二に触ってきた、けれど今は違う。
その違いに思っていたことを確かめたい、そんな想いと見つめた無垢な瞳はすこし羞んだ。
「うん…女との初体験はね、好奇心もあって遊びで済ませたよ。でもその女とは、キスはしていない、」
「なぜ?」
どうしてキスはしなかったのだろう?
そう目でも訊いた英二に、光一は正直に答えてくれた。
「雅樹さんとのキスを大切にしたかったんだ。だからキスは、本当に恋した相手とだけしようって決めてた、」
本当に恋した相手とだけ。
その相手が誰なのか解かる、それを英二は率直に口にした。
「周太とはキス、何回した?」
質問に、透明な瞳がすこし大きくなる。
かすかな強張り、けれど光一は素直に微笑んだ。
「唇は一度だけだよ、あれが最初で最後だ。だからね、吉村先生の病院でおまえにキスしたのが、俺の3回目だよ、」
告げてくれる瞳は羞んでも真直ぐで、何も隠さない。
どこまでも信じ応えてくれる、その想い見つめて英二は最後の質問をした。
「光一はセックス、何回したことある?」
問いかけた言葉を光一が見つめる、なめらかな頬が微かに赤らみだす。
困ったよう微笑んで、端正な薄紅の唇は静かに答えてくれた。
「一度だけだよ、初体験で一回して、そのあとご無沙汰しちゃってるね、」
やっぱりそうだった。
思っていた疑問の答えに微笑んで、けれど英二は確認した。
「その割には光一、キスが巧いよな?1月のとき強姦のフリで触られた時も巧かったしさ、経験豊富に思えるけど?」
「でも本当に俺、一回しか現場の経験は無いんだよね、」
すこしだけ拗ねたような困り顔になって、光一は見つめてくれる。
その裏付けをするようにテノールの声は、明確に教えてくれた。
「高校の時は山と畑と射撃部でさ、そのあとは山と畑と警察だ。ずっと忙しいから暇も無いしね、何より、ヤるなら好きな人がいい。
周りは俺を遊び人って思ってるけどね、しょっちゅう山でビバークして朝帰りしてたのと、寄合でエロオヤジになった所為なんだよね、」
山のビバークで朝帰りは光一らしい、そんな「らしさ」が楽しくなる。
けれど知らない単語の登場に、英二は素直に訊いてみた。
「よりあい、って何?」
「町の人で話し合う集会みたいなのだね、月一くらいで田舎だとあるんだよ。俺のとこは町のと青年団のとある、」
明瞭な説明に教えてくれる内容は、よく光一が出る会合のことだろう。
それが「エロオヤジ」になる経緯を明朗な声は教えてくれた。
「でさ、オヤジが亡くなった時から俺は、青年団のに出てるんだよ。町のにも祖父さんの代わりに出る時もあるから、月二回とかある。
で、話し合いが終わると宴会なんだけどね、酒が入ればオッサンたち、話題はエロが豊富になっちゃうだろ?それで俺は耳年増になったね、」
教えられたことに、今までの全てに納得が出来る。
これで光一の態度への疑問が解けた、理解に英二は恋人へと笑いかけた。
「良かったよ、光一が経験豊富じゃなくってさ。エロオヤジでも初心な光一が好きだよ?」
「なに、経験豊富ならダメだったワケ?」
気恥ずかしげに赤らめた貌で、けれど明るく笑ってくれる。
いつもの底抜けに明るい目が嬉しくて、英二は綺麗に笑いかけた。
「俺は嫉妬深いからさ、光一の相手を全員嫉妬するよ?でも、雅樹さんと周太は仕方ないって思うけど、」
言った言葉に透明な瞳がすこし大きくなって、英二の目を見つめてくれる。
その眼差しに微笑みかけた先、雪白の貌が和んで透明なテノールが言ってくれた。
「ソンナに俺を独占したいって、想ってくれるんならね?ちゃんと大切にしてよ、俺、ほんと初心みたいで…されるのは勇気がいる、」
率直な言葉と綺麗な笑顔が、真直ぐ英二を見つめてくれる。
その貌が綺麗で見惚れてしまう、そんな想いの真中で微笑んだ唇がそっと披かれた。
「おまえが負荷試験受けに新宿行った次の日、俺も新宿に行ったんだ。周太に異動のコト話してきた、」
その日は英二の週休と光一の通常勤務を交換している。
あのとき周太に逢いに行ったんだ?そう目で訊くと静かな笑顔は話してくれた。
「8月に異動したら英二とは上司と部下の関係になる、その前に抱かれたいって言った。秘密にするべきなのにね、狡いけど泣きついてきた。
秘密を背負わせるの嫌だって思ったけど、隠してバレるより先に聴きたかった、許してくれるのか。あのひとは俺にとって『山』と同じだから、ね」
『山への恋と、人間への恋ってコト。周太は俺にとって、山と同じだよ』
一昨日の夜、マッターホルン北壁を終えた光一が話してくれた想い。
山へ抱く敬愛と想いのまま光一は、ただ正直に周太の許を尋ねたのだろう。
そういう光一を周太は真直ぐ受けとめている、そんな信頼に英二は山の恋人へ笑いかけた。
「周太、一緒に秘密を背負う方が良いって、許すって言ったろ?」
「うん、喜んでくれた。幸せだよって、」
微笑んで小さな溜息こぼし、静かな笑顔で頷いてくれる。
そして英二の瞳を真直ぐ見つめて、光一は話してくれた。
「本当に大好きな人と愛し合うのは、幸せだよ。だから光一も英二と愛し合って、幸せになってほしい。そう言ってくれた。
英二には何も言わなくて良いっても言われたよ、だけど俺、いま言ってるね。おまえにも隠したくなくて…ごめんね、俺は我儘なんだ、」
どこまでも無垢で真直ぐな眼差し見つめて、穏やかな貌が微笑んでくれる。
いま黄昏の光きらめく貌は静かな勇気に気高い、その表情に伴侶の俤が重なってしまう。
もう10ヶ月前に見つめた「初めての夜」切なくても幸せだった瞬間の、周太の涙と笑顔が懐かしい。
そして一昨日に架けてくれた電話の声が、そっと記憶から微笑んだ。
―…光一の気持ちを素直に受けとめて、心も体も全部…俺に何も言わなくて良いからね?ふたりが幸せだったら、それで良いから
本当の気持ちで向きあって、ふたりで夢を追いかけて?そう約束して英二、俺のお願いを聴いて?
あの電話の言葉たちは、光一が話してくれた「ゆるし」のことを言っていた。
そんな理解から尚更に恋い慕う想いは熱をあげて、いますぐ逢いたいと心が泣きだしかけていく。
あの初めての夜から今も、周太への想いは色褪せることなく深まってただ愛しい、そして跪いている。
―周太、どうしてそんなに優しい?そんなに純粋に人を愛せる?ただ幸せを心から祈って、
どうして周太はいつも、そうなのだろう?
いつも相手のことを結局は想って、それを本当に幸せだと喜んでしまえる。
そういう周太だから自分も光一も慕って、互いに見つめ合っても周太への許しを乞うてしまう。
いま遠く故郷で待ってくれる伴侶を想いながら、目の前に抱きしめている最高峰の恋人に英二は微笑んだ。
「言ってくれて嬉しいよ、ありがとう、」
笑いかけキスをする、その唇に高雅な香あまやかで蕩かされる。
見つめる静謐の貌は透けるよう佇んで微かな緊張に座りこむ、その緊張を恥らうようテノールの声が笑った。
「周太、今日は土曜で大学の公開講座だよね?下山したときメールしてたけどさ、返事って来た?」
「昼飯の前にメールくれたよ、光一が風呂入ってるとき、」
笑いかけて応えた先、透明な瞳が笑ってくれる。
いま周太を話題にした光一の想いを見つめながら、英二はメールの内容を口にした。
「おめでとうと、ご飯ちゃんと食べてねって心配してくれてた。あと大学の友達と先生と、美代さんと呑みに行くって書いてあったよ、」
数時間前に送られた文面を想い、微笑んでしまう。
周太には友達が出来た、その友達は英二と無関係の世界で出会っている。
そのことが何だか寂しくて、けれど嬉しくて笑った英二に光一も笑ってくれた。
「その友達、手塚ってヤツじゃない?美代が言ってたよ、長野の木曽で林業やってる家の子で、真面目だけど明るい良いヤツってさ。
メアドとか周太とも交換してたって言うし、今日の講義でノート借りるって言ってたんだよね。そいつと先生と4人で呑んでるんじゃない?」
たぶん光一の言う通り、彼の事だろう。
スイスに発つ前に逢ったとき、いつものベンチで周太は彼の事を楽しそうに話してくれた。
周太が本当に好きな世界を共に夢みる友人、それも美代と違って英二を通さず周太が独力で出会った友人。
どうか大切な良い友人になってほしい、そんな庇護者の願いに微笑んで英二は頷いた。
「うん、手塚くんだって書いてあった。学部の3年生で青木先生のゼミ生らしい、でも周太と美代さんを年下って思ってるかもな?」
「だね、美代もソレ言ってたよ。高卒で社会人2年目って勘違いされてるっぽいって笑ってた、ふたりとも童顔だしね、」
愉しげに答えてくれる笑顔、けれど緊張が羞んでいる。
たぶん光一は今夜をずっと覚悟して考えていた、それが周太に逢いに行ったことからも解かる。
それでも初心な心に体もすこし強張っている、この緊張すら愛しくて、ずっと憧れていた存在に英二は笑かけた。
「光一、もし周太に俺とセックスするの嫌だって言われたら、どうするつもりだった?」
「うん…諦めるつもりだったね、あのときは、」
告げて、透明な瞳が英二の目を視線に結ぶ。
ただ見つめ合ったまま、透明なテノールは想いを言葉に伝えてくれた。
「だけど今日、頂上雪田で英二が風に攫われかけたとき。本当に怖かった、失うのが怖くて嫌で、一瞬で冷静になってザイルを操ってた。
それで英二の顔みた瞬間、気付いたんだ。諦める事なんて本当は出来ないって…周太に嫌だって言われても、もう諦められない。だから、」
透明な瞳に黄昏が映りこみ、そっと頬へと零れていく。
きらめき流れていく想いの軌跡が白い頬を濡らす、その想いが愛しく見つめてしまう。
初めて写真に見た青い背中に憧れて、ずっと追いかけて今この膝に抱きあげている山の恋人は、真直ぐ綺麗に笑ってくれた。
「夕飯のミーティングでさ、俺のこと明日は一日じゅう抱え込むしかない、って言ったよね?そうしてよ、今から…明日は休みだし、ね」
言ってくれる言葉の意味が、透明な瞳に伝わらす。
ミーティングで言った「抱え込む」とは違う意味、そう告げてくれる唇にキスをして英二は微笑んだ。
「今夜は最後までしないよ、光一。初めて受身をするとき負担が大きいから、体を馴らさないとダメなんだ。それに準備もしてないだろ?
周太との初めての時、俺は準備も無いのに無理して周太を傷つけたんだ。あんな想いは光一にまでさせられない、もう後悔したくないんだ」
あの翌朝に見た、シーツの白に散らされた血痕の花。
暁の光に見つめた赤い色の悔恨は、ずっと心で泣き続けている。
大切なひとの体を愛することで傷つけた、そんな過ちを繰り返したくない。
そんな想いに見つめた光一は、そっと英二の膝から降りるとクロゼットへと歩み寄った。
その扉を開き光一のトランクを引き出し蓋を開く、そこから取り出した物を、ポンと英二へ投げ渡した。
「これ、どうして?光一、」
受けとったボトルを見て、驚いていまう。
いつも周太とのベッドで使う潤滑剤、それと同じものが今この掌にある。
これを一体どうして光一が持っているのだろう?問いかけて見た先で、困ったよう光一は微笑んだ。
「逢いに行ったときにね、周太が教えてくれたんだよ、薬局に連れて行ってくれて。これも、ね」
答えながらベッドのサイドテーブルに、白い手は箱を置く。
ことん、と鳴った箱も見慣れている。それを見とめて英二は椅子から立ち上がった。
デスクの前で止まり、首に提げた革紐を手繰り合鍵を外す。そして左手首からクライマーウォッチを外し、見つめた。
―周太、言ってくれた言葉を信じるよ?
そっと心つぶやいて、デスクに合鍵とクライマーウォッチを置く。
馨が遣っていた家の鍵と周太が贈ってくれた腕時計、この2つの宝物に微笑んで踵を返した。
そのまま光一の隣に行き箱の隣にボトルを置く、そして同じ高さの眼差しへと英二は綺麗に笑いかけた。
「こんなふうに気を遣って周太、本当に光一を大切にしてるんだな?光一が幸せになるようにって、本気で想ってるよ、」
どうして君は、こんなに優しくて勁い?
そう心で遥か遠い東へと呼びかけて、切なく温かい。
その温もりは、隣に佇んだ無垢の瞳から涙に変って、白い頬を伝いおちた。
「うん、だね?…俺って幸せだよね、あのひとにこんなにされて俺、ね…」
「幸せだよ、光一は、」
綺麗に笑いかけてキスをした、その唇のはざま涙は甘く温かい。
ふれる花の香と温もりに、北壁の上に見た冷厳支配する壮麗な青と白が蘇える。
あの場所に共に立って交わしたキスの温度が今、この瞬間ゆっくり熱く全身へと廻りだす。
ふれあわす唇から交わされる熱に抱き寄せて、そっとキス離れると英二は恋人へ綺麗に笑いかけた。
「おいで、光一、」
名前を呼んで抱き上げて、踵を返すとバスルームの前に英二は立った。
そして、その扉を開いた。

(to be continued)
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第58話 双壁act.13―side story「陽はまた昇る」
標高3,970mに黄昏が輝きだす。
遥かな1,800mからアイガーの光はガラスを透かし、絨毯に窓枠模様を描く。
ゆっくり薄暮の訪れる部屋、太陽の光芒に雪白の頬をさらして光一が問いかけた。
「おやじさんが周太のおふくろさんを、か。会ったのは3月の時だけだろ?」
「ああ、川崎に姉ちゃんと挨拶に来てくれた、あのときだけだ、」
春3月、雪崩に遭った直後の静養をする川崎に、父は姉と訪れた。
あのとき父は初めて周太と美幸に会い、2時間ほどの訪問で親しんだ。
あの日と先日に見た父の表情を記憶に見つめて、英二は噤んできた口を開いた。
「3月の時、父さんはお母さんに言ったんだ。素敵な人だ、あなたも家も周太くんも心から居心地が良い、同じ男として息子が羨ましい。
居心地のいい愛する伴侶と居場所を自分で選び手に入れる、これは男の幸せです。そう言ってくれて、あのときは俺、単純に嬉しかった。
でも、このあいだ久しぶりに実家に寄ったとき、別れ際に父さんは言ったんだ…俺がお母さんに花を贈るって話した時、言われたんだよ、」
夏の木洩陽ゆれる実家の庭で見た、沁みるよう優しい父の表情。
あんな貌を父がすることを知らなかった、あの瞬間の想いに英二は静かに微笑んだ。
「あの方を大切にしているんだな、おまえも。そう父さんは言ったんだよ、おまえも、って…あんな優しい貌の父さん、初めて見たんだ」
静かに告げる言葉の頬を、微笑と涙が過ぎっていく。
いま軟膏を塗ってもらった頬も濡らしながら、溜めていた言葉を声に変えた。
「俺にも、姉ちゃんにも、あんな貌はしたことない。いつも父さんは優しいけれど、いつも微笑んでるけど、でもそういう笑顔じゃない。
周太が俺を見てくれる目と雰囲気が似てたんだ、恋してるって、憧れてるって、そういう目だったんだ…それで俺、すぐに解かったんだよ。
父さんは周太のお母さんに、美幸さんに恋してる。たった一度しか会っていなくても恋したんだ、俺が周太に一目惚れしたのと、同じだ」
笑った頬を涙は伝い、顎から膝へと落ちていく。
なぜ父が長男を手離すことに肯えたのか?その理由のひとつが恋ゆえだと解かってしまう。
この恋は父にとって家族より愛おしい?姉が知ったら、母が知ったら、どうなってしまうのだろう?
すでに分籍して捨てると覚悟した実家、去って悔いなど欠片も無い家、それでも涙こぼれていく。
いまスラックスに広がる濡れた温もりに英二は、静かな声のまま続けた。
「俺と父さんは性格が似てる、だから父さんの考えは解かるんだ、父さんは決めたら何があっても変えない、一目惚れでも本気なんだよ。
たぶん父さん、初めてまともに恋したんだ…ずっと法律ばっかりの仕事人間で、遊びも本を読むしかない堅物で真面目だけど、本当は情熱的だ。
そういうとこ俺と似てるんだ、いっぺん本気になったら動かない、恋愛もくそ真面目になって想い通す…だからもう無理だ、上っ面だけだ、」
もう無理だ、そう自分で言って抉られる。
抉った傷が広がるのを見つめながら英二は、この6年間抱いていた想いを吐きだした。
「両親は見合い結婚でさ、それでも父さんが良いって言って結婚したんだ。でも心が通った事なんて無い、恋愛なんて欠片も無い。
そういう父さんが寂しくて母さん、俺を縛りつけたんだよ?俺さ、本当は京都大学に行きたかったんだ、でも母さんは俺が家から離れるの嫌で。
それで勝手に内部進学決めてさ…きっと、父さんに言えば受験出来たよ?でも母さんの無理強いがばれたら、余計に父さんの気持ち離れるだろ?
だから俺、黙ってその大学行ったんだよ、俺が我慢したら両親が仲良くなる可能性は残る、そう思ってさ…でも結局は無駄だった、俺は馬鹿だよ、」
あのとき踏み躙られた信頼と誇り、ふたつ共が今ようやく泣ける。
この6年間の傷み零れだす涙、その頬を拭うことなく英二は綺麗に笑って、泣いた。
「俺の祖父母って仲良い夫婦でさ、そんなふうに両親にもなって欲しかったんだ、それで本当の我儘を自由に言わせて欲しかった。
でも、もう無理だ。父さんのことだから美幸さんへの恋は隠し続けるよ、でも止めない…だからもう、母さんには恋してくれないんだ。
母さんは確かに自分勝手で酷い、正直憎んでもいる、でも俺を生んだ母親は世界で1人なんだ、だから幸せになって欲しいけど、もう無理だ、」
もう願いは叶わない、ずっと自分が想っていたことは。
ふたつの岩壁を登り、また次の夢への想い充たされる幸福感。
それを掴んだ今日、明日から駈ける夢と引き換えのよう英二は、大切だった夢の終わりに微笑んだ。
「父さんと母さんに恋愛してほしかった、それで俺は想いたかったんだ、両親の愛情の結晶として自分は必要とされてるって。
こんなの子供っぽいけどさ、俺はそういうの憧れてたんだ。だから周太のお母さん、美幸さんは俺の理想の母親なんだ。俺の夢の人だよ?
そういう人を父さんが好きになっても仕方ないって想う、だって俺と父さんは似てるから。もう両親が恋愛しないって、納得するしかない、」
終った、子どもとして見つめた夢は。
もう父と母の恋愛は目覚めない、自分の意志と進路を枉げても望んだ夢は、もう叶わない。
ほろ苦い想いが胸を抉らせ傷は痛みだす、こんな想いを誰にも言えなくて今日まで抱いていた。
本当なら周太に話して泣いて、抱きしめてほしい。けれど、どうして周太にこの話を出来るのだろう?
そうして抱え込んできた想いに涙と微笑んで、唯ひとりのアンザイレンパートナーに英二は願った。
「光一、このこと誰にも言わないでくれ、周太にも言わないでほしい、絶対に…きっと周太、また自分を責めて俺と逢ったことも哀しむ、」
「言うわけないね、」
短く答えて、静かに透明な瞳が笑いかけてくれる。
静かに温かな笑顔で白い掌を頬ふれさせ、そっと撫で涙を拭っていく。
その掌に自分の掌を重ねて、信頼するパートナーへと英二は綺麗に笑いかけた。
「ずっと俺は想ってたんだ、誰かに必要とされたい、愛されたいって。無理しないでも、ありのままの俺を必要とされて、愛されたかった。
だから夜遊びに嵌ったんだ、セックスすると愛されてるって錯覚出来るだろ?錯覚でも嘘でも良い、一瞬でも愛されてるって想いたかった。
でもそういうの虚しくて、するだけ苦しくて余計に母親を恨むようになった。そういうの全部、周太と美幸さんが受けとめてくれたんだ。
ただ隣に居てくれるだけで楽になる、言葉が無くても解かってくれる、このまんま俺を受容れてくれる、それが嬉しくて恋したよ。だから、」
だから、そう言いかけて涙ひとつ零れだす。
重ねたふたつの掌に涙ふり絡め落ちていく、その温もりに英二は泣いた。
「俺を救ってくれたのが周太と、美幸さんなんだ。ふたりは俺にとって救いで、天使みたいだよ?そういう2人を馨さんから俺、預ってる。
なのに俺の父さんが美幸さんのこと、恋してさ?そういうの馨さんに悪いだろ?美幸さんと馨さんの恋愛を邪魔するみたいで、嫌なんだよ、」
どうして父が美幸に恋するのか?
そんなこと本当は解かりきっている、自分と父は性格が似ているから。
だから父の気持ちは十分すぎるほど理解できる、それでも悔しい気持ちは込みあげてしまう。
このままだと父すら恨みそうになる自分がいる、苦しくて吐かれた溜息へと優しい瞳が明るく笑ってくれた。
「湯原のおやじさんからしたら、光栄なんじゃない?」
言われた意外に英二は目をひとつ瞬いた。
どういう意味だろう?そう見つめた先、テノールは朗らかに言ってくれた。
「自分の恋人が今もモテるくらい魅力的ってコトは、嬉しいよね?おやじさん達ってハトコ同士だし、好みが被るのもあるんじゃない?」
確かに父と馨は母親同士が従姉妹だから、はとこの血縁関係がある。
だから似ている部分があっても不思議はないだろう、実際に目許は馨と自分たち親子は似ている。
けれど馨に申し訳ない気持ちも強くて、そんな想い正直に英二は光一へと問いかけた。
「そうかもしれない、でも考えるんだよ。俺と周太が籍を入れたら、父さんと美幸さんは親戚になる。そうしたら会う機会も増えるだろ?
会えば気持って強くなるだろ、そうしたら母さんも美幸さんも傷つくことになる。きっと周太が一番に傷つくよ、それが怖くて…解からなくなる」
そんなことになったら、どうして良いのか解らない。
自分が周太に恋をして愛した、それが両親と美幸をこんな形に変えていくなんて?
結局、自分は周太を泣かせるのだろうか?この迷い抱え込んで沈みかける、そんな額を白い指が弾いた。
ばちん、
勢いよく音がして、じわり額に熱の傷みが広がらす。
滲んでいく痛覚に顔しかめた向かいから、底抜けに明るい目が呆れたよう笑ってくれた。
「ほんと馬鹿だね、おまえはさ?恋愛なんざ結局のトコ、本人同士が解決するモンだね。それも相手は立派な大人のひと達だろうが?
色ボケ変態のおまえなんかよりね、おやじさん達の方がキッチリ考えて動けるはずだよ?そこらへんは信用してやんなよ、子供としてさ。
で、万が一に間違えそうになった時に止めてやればイイ。そん時に考えれば良いのにね、余計なコトで悩んで頭使ってんじゃないよ、」
笑って光一は立ち上がると、長い腕を英二の肩に回してくれる。
そのまま懐に抱きよせて、やわらかなテノールが微笑んだ。
「ほら、胸を貸してやるよ。好きなだけ泣きな、そんで元気になってよね。朝になったら散歩に行くからさ、笑って歩きたいだろ?
だから今夜のうちに泣いて、スッキリしちまいな。言いたいコト全部わめきながら泣けばイイ、俺が抱きしめてるから安心して泣きな、」
言ってくれる言葉もシャツを透かす胸も温かい。
その温もりに頬よせた英二へと、透明な声は笑いかけてくれた。
「それからね、えっちで愛を錯覚するとか嘘でも良いとか、もう二度と言うんじゃないよ?おまえには周太がいるんだからね、」
「うん、ありがと…、も、言わないよ」
素直に答えた声に、ずっと溜まりこんだ想いは解けて静かに涙と流れだす。
ただ黙って涙あふれて、頬ふれるシャツへと浸みこんで想いごと受け留められていく。
やさしい頼もしい懐に頬よせるまま腕をシャツの背中に回す、細身の強靭な肢体が掌ふれる。
いつもの清々しい甘い花の香が体温ごとくるんでくれる、その温もりから透明なテノールが、そっと微笑んだ。
「俺だっているんだよ、英二?おまえと愛し合いたいのは周太だけじゃない…ね、」
告げられた言葉に、英二は顔を上げた。
見上げた先で雪白の貌は微笑んで、透明な瞳が見つめてくれる。
その眼差しに問いかけたくて、引き寄せて膝に光一を座らせると、静かに瞳を覗きこんだ。
「光一、ストレートに聴くけどセックスの経験って、どのくらいある?」
ちゃんと訊いてみたいと思っていた。
悪ふざけの頃は光一から英二に触ってきた、けれど今は違う。
その違いに思っていたことを確かめたい、そんな想いと見つめた無垢な瞳はすこし羞んだ。
「うん…女との初体験はね、好奇心もあって遊びで済ませたよ。でもその女とは、キスはしていない、」
「なぜ?」
どうしてキスはしなかったのだろう?
そう目でも訊いた英二に、光一は正直に答えてくれた。
「雅樹さんとのキスを大切にしたかったんだ。だからキスは、本当に恋した相手とだけしようって決めてた、」
本当に恋した相手とだけ。
その相手が誰なのか解かる、それを英二は率直に口にした。
「周太とはキス、何回した?」
質問に、透明な瞳がすこし大きくなる。
かすかな強張り、けれど光一は素直に微笑んだ。
「唇は一度だけだよ、あれが最初で最後だ。だからね、吉村先生の病院でおまえにキスしたのが、俺の3回目だよ、」
告げてくれる瞳は羞んでも真直ぐで、何も隠さない。
どこまでも信じ応えてくれる、その想い見つめて英二は最後の質問をした。
「光一はセックス、何回したことある?」
問いかけた言葉を光一が見つめる、なめらかな頬が微かに赤らみだす。
困ったよう微笑んで、端正な薄紅の唇は静かに答えてくれた。
「一度だけだよ、初体験で一回して、そのあとご無沙汰しちゃってるね、」
やっぱりそうだった。
思っていた疑問の答えに微笑んで、けれど英二は確認した。
「その割には光一、キスが巧いよな?1月のとき強姦のフリで触られた時も巧かったしさ、経験豊富に思えるけど?」
「でも本当に俺、一回しか現場の経験は無いんだよね、」
すこしだけ拗ねたような困り顔になって、光一は見つめてくれる。
その裏付けをするようにテノールの声は、明確に教えてくれた。
「高校の時は山と畑と射撃部でさ、そのあとは山と畑と警察だ。ずっと忙しいから暇も無いしね、何より、ヤるなら好きな人がいい。
周りは俺を遊び人って思ってるけどね、しょっちゅう山でビバークして朝帰りしてたのと、寄合でエロオヤジになった所為なんだよね、」
山のビバークで朝帰りは光一らしい、そんな「らしさ」が楽しくなる。
けれど知らない単語の登場に、英二は素直に訊いてみた。
「よりあい、って何?」
「町の人で話し合う集会みたいなのだね、月一くらいで田舎だとあるんだよ。俺のとこは町のと青年団のとある、」
明瞭な説明に教えてくれる内容は、よく光一が出る会合のことだろう。
それが「エロオヤジ」になる経緯を明朗な声は教えてくれた。
「でさ、オヤジが亡くなった時から俺は、青年団のに出てるんだよ。町のにも祖父さんの代わりに出る時もあるから、月二回とかある。
で、話し合いが終わると宴会なんだけどね、酒が入ればオッサンたち、話題はエロが豊富になっちゃうだろ?それで俺は耳年増になったね、」
教えられたことに、今までの全てに納得が出来る。
これで光一の態度への疑問が解けた、理解に英二は恋人へと笑いかけた。
「良かったよ、光一が経験豊富じゃなくってさ。エロオヤジでも初心な光一が好きだよ?」
「なに、経験豊富ならダメだったワケ?」
気恥ずかしげに赤らめた貌で、けれど明るく笑ってくれる。
いつもの底抜けに明るい目が嬉しくて、英二は綺麗に笑いかけた。
「俺は嫉妬深いからさ、光一の相手を全員嫉妬するよ?でも、雅樹さんと周太は仕方ないって思うけど、」
言った言葉に透明な瞳がすこし大きくなって、英二の目を見つめてくれる。
その眼差しに微笑みかけた先、雪白の貌が和んで透明なテノールが言ってくれた。
「ソンナに俺を独占したいって、想ってくれるんならね?ちゃんと大切にしてよ、俺、ほんと初心みたいで…されるのは勇気がいる、」
率直な言葉と綺麗な笑顔が、真直ぐ英二を見つめてくれる。
その貌が綺麗で見惚れてしまう、そんな想いの真中で微笑んだ唇がそっと披かれた。
「おまえが負荷試験受けに新宿行った次の日、俺も新宿に行ったんだ。周太に異動のコト話してきた、」
その日は英二の週休と光一の通常勤務を交換している。
あのとき周太に逢いに行ったんだ?そう目で訊くと静かな笑顔は話してくれた。
「8月に異動したら英二とは上司と部下の関係になる、その前に抱かれたいって言った。秘密にするべきなのにね、狡いけど泣きついてきた。
秘密を背負わせるの嫌だって思ったけど、隠してバレるより先に聴きたかった、許してくれるのか。あのひとは俺にとって『山』と同じだから、ね」
『山への恋と、人間への恋ってコト。周太は俺にとって、山と同じだよ』
一昨日の夜、マッターホルン北壁を終えた光一が話してくれた想い。
山へ抱く敬愛と想いのまま光一は、ただ正直に周太の許を尋ねたのだろう。
そういう光一を周太は真直ぐ受けとめている、そんな信頼に英二は山の恋人へ笑いかけた。
「周太、一緒に秘密を背負う方が良いって、許すって言ったろ?」
「うん、喜んでくれた。幸せだよって、」
微笑んで小さな溜息こぼし、静かな笑顔で頷いてくれる。
そして英二の瞳を真直ぐ見つめて、光一は話してくれた。
「本当に大好きな人と愛し合うのは、幸せだよ。だから光一も英二と愛し合って、幸せになってほしい。そう言ってくれた。
英二には何も言わなくて良いっても言われたよ、だけど俺、いま言ってるね。おまえにも隠したくなくて…ごめんね、俺は我儘なんだ、」
どこまでも無垢で真直ぐな眼差し見つめて、穏やかな貌が微笑んでくれる。
いま黄昏の光きらめく貌は静かな勇気に気高い、その表情に伴侶の俤が重なってしまう。
もう10ヶ月前に見つめた「初めての夜」切なくても幸せだった瞬間の、周太の涙と笑顔が懐かしい。
そして一昨日に架けてくれた電話の声が、そっと記憶から微笑んだ。
―…光一の気持ちを素直に受けとめて、心も体も全部…俺に何も言わなくて良いからね?ふたりが幸せだったら、それで良いから
本当の気持ちで向きあって、ふたりで夢を追いかけて?そう約束して英二、俺のお願いを聴いて?
あの電話の言葉たちは、光一が話してくれた「ゆるし」のことを言っていた。
そんな理解から尚更に恋い慕う想いは熱をあげて、いますぐ逢いたいと心が泣きだしかけていく。
あの初めての夜から今も、周太への想いは色褪せることなく深まってただ愛しい、そして跪いている。
―周太、どうしてそんなに優しい?そんなに純粋に人を愛せる?ただ幸せを心から祈って、
どうして周太はいつも、そうなのだろう?
いつも相手のことを結局は想って、それを本当に幸せだと喜んでしまえる。
そういう周太だから自分も光一も慕って、互いに見つめ合っても周太への許しを乞うてしまう。
いま遠く故郷で待ってくれる伴侶を想いながら、目の前に抱きしめている最高峰の恋人に英二は微笑んだ。
「言ってくれて嬉しいよ、ありがとう、」
笑いかけキスをする、その唇に高雅な香あまやかで蕩かされる。
見つめる静謐の貌は透けるよう佇んで微かな緊張に座りこむ、その緊張を恥らうようテノールの声が笑った。
「周太、今日は土曜で大学の公開講座だよね?下山したときメールしてたけどさ、返事って来た?」
「昼飯の前にメールくれたよ、光一が風呂入ってるとき、」
笑いかけて応えた先、透明な瞳が笑ってくれる。
いま周太を話題にした光一の想いを見つめながら、英二はメールの内容を口にした。
「おめでとうと、ご飯ちゃんと食べてねって心配してくれてた。あと大学の友達と先生と、美代さんと呑みに行くって書いてあったよ、」
数時間前に送られた文面を想い、微笑んでしまう。
周太には友達が出来た、その友達は英二と無関係の世界で出会っている。
そのことが何だか寂しくて、けれど嬉しくて笑った英二に光一も笑ってくれた。
「その友達、手塚ってヤツじゃない?美代が言ってたよ、長野の木曽で林業やってる家の子で、真面目だけど明るい良いヤツってさ。
メアドとか周太とも交換してたって言うし、今日の講義でノート借りるって言ってたんだよね。そいつと先生と4人で呑んでるんじゃない?」
たぶん光一の言う通り、彼の事だろう。
スイスに発つ前に逢ったとき、いつものベンチで周太は彼の事を楽しそうに話してくれた。
周太が本当に好きな世界を共に夢みる友人、それも美代と違って英二を通さず周太が独力で出会った友人。
どうか大切な良い友人になってほしい、そんな庇護者の願いに微笑んで英二は頷いた。
「うん、手塚くんだって書いてあった。学部の3年生で青木先生のゼミ生らしい、でも周太と美代さんを年下って思ってるかもな?」
「だね、美代もソレ言ってたよ。高卒で社会人2年目って勘違いされてるっぽいって笑ってた、ふたりとも童顔だしね、」
愉しげに答えてくれる笑顔、けれど緊張が羞んでいる。
たぶん光一は今夜をずっと覚悟して考えていた、それが周太に逢いに行ったことからも解かる。
それでも初心な心に体もすこし強張っている、この緊張すら愛しくて、ずっと憧れていた存在に英二は笑かけた。
「光一、もし周太に俺とセックスするの嫌だって言われたら、どうするつもりだった?」
「うん…諦めるつもりだったね、あのときは、」
告げて、透明な瞳が英二の目を視線に結ぶ。
ただ見つめ合ったまま、透明なテノールは想いを言葉に伝えてくれた。
「だけど今日、頂上雪田で英二が風に攫われかけたとき。本当に怖かった、失うのが怖くて嫌で、一瞬で冷静になってザイルを操ってた。
それで英二の顔みた瞬間、気付いたんだ。諦める事なんて本当は出来ないって…周太に嫌だって言われても、もう諦められない。だから、」
透明な瞳に黄昏が映りこみ、そっと頬へと零れていく。
きらめき流れていく想いの軌跡が白い頬を濡らす、その想いが愛しく見つめてしまう。
初めて写真に見た青い背中に憧れて、ずっと追いかけて今この膝に抱きあげている山の恋人は、真直ぐ綺麗に笑ってくれた。
「夕飯のミーティングでさ、俺のこと明日は一日じゅう抱え込むしかない、って言ったよね?そうしてよ、今から…明日は休みだし、ね」
言ってくれる言葉の意味が、透明な瞳に伝わらす。
ミーティングで言った「抱え込む」とは違う意味、そう告げてくれる唇にキスをして英二は微笑んだ。
「今夜は最後までしないよ、光一。初めて受身をするとき負担が大きいから、体を馴らさないとダメなんだ。それに準備もしてないだろ?
周太との初めての時、俺は準備も無いのに無理して周太を傷つけたんだ。あんな想いは光一にまでさせられない、もう後悔したくないんだ」
あの翌朝に見た、シーツの白に散らされた血痕の花。
暁の光に見つめた赤い色の悔恨は、ずっと心で泣き続けている。
大切なひとの体を愛することで傷つけた、そんな過ちを繰り返したくない。
そんな想いに見つめた光一は、そっと英二の膝から降りるとクロゼットへと歩み寄った。
その扉を開き光一のトランクを引き出し蓋を開く、そこから取り出した物を、ポンと英二へ投げ渡した。
「これ、どうして?光一、」
受けとったボトルを見て、驚いていまう。
いつも周太とのベッドで使う潤滑剤、それと同じものが今この掌にある。
これを一体どうして光一が持っているのだろう?問いかけて見た先で、困ったよう光一は微笑んだ。
「逢いに行ったときにね、周太が教えてくれたんだよ、薬局に連れて行ってくれて。これも、ね」
答えながらベッドのサイドテーブルに、白い手は箱を置く。
ことん、と鳴った箱も見慣れている。それを見とめて英二は椅子から立ち上がった。
デスクの前で止まり、首に提げた革紐を手繰り合鍵を外す。そして左手首からクライマーウォッチを外し、見つめた。
―周太、言ってくれた言葉を信じるよ?
そっと心つぶやいて、デスクに合鍵とクライマーウォッチを置く。
馨が遣っていた家の鍵と周太が贈ってくれた腕時計、この2つの宝物に微笑んで踵を返した。
そのまま光一の隣に行き箱の隣にボトルを置く、そして同じ高さの眼差しへと英二は綺麗に笑いかけた。
「こんなふうに気を遣って周太、本当に光一を大切にしてるんだな?光一が幸せになるようにって、本気で想ってるよ、」
どうして君は、こんなに優しくて勁い?
そう心で遥か遠い東へと呼びかけて、切なく温かい。
その温もりは、隣に佇んだ無垢の瞳から涙に変って、白い頬を伝いおちた。
「うん、だね?…俺って幸せだよね、あのひとにこんなにされて俺、ね…」
「幸せだよ、光一は、」
綺麗に笑いかけてキスをした、その唇のはざま涙は甘く温かい。
ふれる花の香と温もりに、北壁の上に見た冷厳支配する壮麗な青と白が蘇える。
あの場所に共に立って交わしたキスの温度が今、この瞬間ゆっくり熱く全身へと廻りだす。
ふれあわす唇から交わされる熱に抱き寄せて、そっとキス離れると英二は恋人へ綺麗に笑いかけた。
「おいで、光一、」
名前を呼んで抱き上げて、踵を返すとバスルームの前に英二は立った。
そして、その扉を開いた。

(to be continued)
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