萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第58話 双壁act.13―side story「陽はまた昇る」

2012-11-21 23:49:42 | 陽はまた昇るside story
叶い、潰え、そして明日に見る夢



第58話 双壁act.13―side story「陽はまた昇る」

標高3,970mに黄昏が輝きだす。
遥かな1,800mからアイガーの光はガラスを透かし、絨毯に窓枠模様を描く。
ゆっくり薄暮の訪れる部屋、太陽の光芒に雪白の頬をさらして光一が問いかけた。

「おやじさんが周太のおふくろさんを、か。会ったのは3月の時だけだろ?」
「ああ、川崎に姉ちゃんと挨拶に来てくれた、あのときだけだ、」

春3月、雪崩に遭った直後の静養をする川崎に、父は姉と訪れた。
あのとき父は初めて周太と美幸に会い、2時間ほどの訪問で親しんだ。
あの日と先日に見た父の表情を記憶に見つめて、英二は噤んできた口を開いた。

「3月の時、父さんはお母さんに言ったんだ。素敵な人だ、あなたも家も周太くんも心から居心地が良い、同じ男として息子が羨ましい。
居心地のいい愛する伴侶と居場所を自分で選び手に入れる、これは男の幸せです。そう言ってくれて、あのときは俺、単純に嬉しかった。
でも、このあいだ久しぶりに実家に寄ったとき、別れ際に父さんは言ったんだ…俺がお母さんに花を贈るって話した時、言われたんだよ、」

夏の木洩陽ゆれる実家の庭で見た、沁みるよう優しい父の表情。
あんな貌を父がすることを知らなかった、あの瞬間の想いに英二は静かに微笑んだ。

「あの方を大切にしているんだな、おまえも。そう父さんは言ったんだよ、おまえも、って…あんな優しい貌の父さん、初めて見たんだ」

静かに告げる言葉の頬を、微笑と涙が過ぎっていく。
いま軟膏を塗ってもらった頬も濡らしながら、溜めていた言葉を声に変えた。

「俺にも、姉ちゃんにも、あんな貌はしたことない。いつも父さんは優しいけれど、いつも微笑んでるけど、でもそういう笑顔じゃない。
周太が俺を見てくれる目と雰囲気が似てたんだ、恋してるって、憧れてるって、そういう目だったんだ…それで俺、すぐに解かったんだよ。
父さんは周太のお母さんに、美幸さんに恋してる。たった一度しか会っていなくても恋したんだ、俺が周太に一目惚れしたのと、同じだ」

笑った頬を涙は伝い、顎から膝へと落ちていく。
なぜ父が長男を手離すことに肯えたのか?その理由のひとつが恋ゆえだと解かってしまう。
この恋は父にとって家族より愛おしい?姉が知ったら、母が知ったら、どうなってしまうのだろう?
すでに分籍して捨てると覚悟した実家、去って悔いなど欠片も無い家、それでも涙こぼれていく。
いまスラックスに広がる濡れた温もりに英二は、静かな声のまま続けた。

「俺と父さんは性格が似てる、だから父さんの考えは解かるんだ、父さんは決めたら何があっても変えない、一目惚れでも本気なんだよ。
たぶん父さん、初めてまともに恋したんだ…ずっと法律ばっかりの仕事人間で、遊びも本を読むしかない堅物で真面目だけど、本当は情熱的だ。
そういうとこ俺と似てるんだ、いっぺん本気になったら動かない、恋愛もくそ真面目になって想い通す…だからもう無理だ、上っ面だけだ、」

もう無理だ、そう自分で言って抉られる。
抉った傷が広がるのを見つめながら英二は、この6年間抱いていた想いを吐きだした。

「両親は見合い結婚でさ、それでも父さんが良いって言って結婚したんだ。でも心が通った事なんて無い、恋愛なんて欠片も無い。
そういう父さんが寂しくて母さん、俺を縛りつけたんだよ?俺さ、本当は京都大学に行きたかったんだ、でも母さんは俺が家から離れるの嫌で。
それで勝手に内部進学決めてさ…きっと、父さんに言えば受験出来たよ?でも母さんの無理強いがばれたら、余計に父さんの気持ち離れるだろ?
だから俺、黙ってその大学行ったんだよ、俺が我慢したら両親が仲良くなる可能性は残る、そう思ってさ…でも結局は無駄だった、俺は馬鹿だよ、」

あのとき踏み躙られた信頼と誇り、ふたつ共が今ようやく泣ける。
この6年間の傷み零れだす涙、その頬を拭うことなく英二は綺麗に笑って、泣いた。

「俺の祖父母って仲良い夫婦でさ、そんなふうに両親にもなって欲しかったんだ、それで本当の我儘を自由に言わせて欲しかった。
でも、もう無理だ。父さんのことだから美幸さんへの恋は隠し続けるよ、でも止めない…だからもう、母さんには恋してくれないんだ。
母さんは確かに自分勝手で酷い、正直憎んでもいる、でも俺を生んだ母親は世界で1人なんだ、だから幸せになって欲しいけど、もう無理だ、」

もう願いは叶わない、ずっと自分が想っていたことは。
ふたつの岩壁を登り、また次の夢への想い充たされる幸福感。
それを掴んだ今日、明日から駈ける夢と引き換えのよう英二は、大切だった夢の終わりに微笑んだ。

「父さんと母さんに恋愛してほしかった、それで俺は想いたかったんだ、両親の愛情の結晶として自分は必要とされてるって。
こんなの子供っぽいけどさ、俺はそういうの憧れてたんだ。だから周太のお母さん、美幸さんは俺の理想の母親なんだ。俺の夢の人だよ?
そういう人を父さんが好きになっても仕方ないって想う、だって俺と父さんは似てるから。もう両親が恋愛しないって、納得するしかない、」

終った、子どもとして見つめた夢は。

もう父と母の恋愛は目覚めない、自分の意志と進路を枉げても望んだ夢は、もう叶わない。
ほろ苦い想いが胸を抉らせ傷は痛みだす、こんな想いを誰にも言えなくて今日まで抱いていた。
本当なら周太に話して泣いて、抱きしめてほしい。けれど、どうして周太にこの話を出来るのだろう?
そうして抱え込んできた想いに涙と微笑んで、唯ひとりのアンザイレンパートナーに英二は願った。

「光一、このこと誰にも言わないでくれ、周太にも言わないでほしい、絶対に…きっと周太、また自分を責めて俺と逢ったことも哀しむ、」
「言うわけないね、」

短く答えて、静かに透明な瞳が笑いかけてくれる。
静かに温かな笑顔で白い掌を頬ふれさせ、そっと撫で涙を拭っていく。
その掌に自分の掌を重ねて、信頼するパートナーへと英二は綺麗に笑いかけた。

「ずっと俺は想ってたんだ、誰かに必要とされたい、愛されたいって。無理しないでも、ありのままの俺を必要とされて、愛されたかった。
だから夜遊びに嵌ったんだ、セックスすると愛されてるって錯覚出来るだろ?錯覚でも嘘でも良い、一瞬でも愛されてるって想いたかった。
でもそういうの虚しくて、するだけ苦しくて余計に母親を恨むようになった。そういうの全部、周太と美幸さんが受けとめてくれたんだ。
ただ隣に居てくれるだけで楽になる、言葉が無くても解かってくれる、このまんま俺を受容れてくれる、それが嬉しくて恋したよ。だから、」

だから、そう言いかけて涙ひとつ零れだす。
重ねたふたつの掌に涙ふり絡め落ちていく、その温もりに英二は泣いた。

「俺を救ってくれたのが周太と、美幸さんなんだ。ふたりは俺にとって救いで、天使みたいだよ?そういう2人を馨さんから俺、預ってる。
なのに俺の父さんが美幸さんのこと、恋してさ?そういうの馨さんに悪いだろ?美幸さんと馨さんの恋愛を邪魔するみたいで、嫌なんだよ、」

どうして父が美幸に恋するのか?
そんなこと本当は解かりきっている、自分と父は性格が似ているから。
だから父の気持ちは十分すぎるほど理解できる、それでも悔しい気持ちは込みあげてしまう。
このままだと父すら恨みそうになる自分がいる、苦しくて吐かれた溜息へと優しい瞳が明るく笑ってくれた。

「湯原のおやじさんからしたら、光栄なんじゃない?」

言われた意外に英二は目をひとつ瞬いた。
どういう意味だろう?そう見つめた先、テノールは朗らかに言ってくれた。

「自分の恋人が今もモテるくらい魅力的ってコトは、嬉しいよね?おやじさん達ってハトコ同士だし、好みが被るのもあるんじゃない?」

確かに父と馨は母親同士が従姉妹だから、はとこの血縁関係がある。
だから似ている部分があっても不思議はないだろう、実際に目許は馨と自分たち親子は似ている。
けれど馨に申し訳ない気持ちも強くて、そんな想い正直に英二は光一へと問いかけた。

「そうかもしれない、でも考えるんだよ。俺と周太が籍を入れたら、父さんと美幸さんは親戚になる。そうしたら会う機会も増えるだろ?
会えば気持って強くなるだろ、そうしたら母さんも美幸さんも傷つくことになる。きっと周太が一番に傷つくよ、それが怖くて…解からなくなる」

そんなことになったら、どうして良いのか解らない。
自分が周太に恋をして愛した、それが両親と美幸をこんな形に変えていくなんて?
結局、自分は周太を泣かせるのだろうか?この迷い抱え込んで沈みかける、そんな額を白い指が弾いた。

ばちん、

勢いよく音がして、じわり額に熱の傷みが広がらす。
滲んでいく痛覚に顔しかめた向かいから、底抜けに明るい目が呆れたよう笑ってくれた。

「ほんと馬鹿だね、おまえはさ?恋愛なんざ結局のトコ、本人同士が解決するモンだね。それも相手は立派な大人のひと達だろうが?
色ボケ変態のおまえなんかよりね、おやじさん達の方がキッチリ考えて動けるはずだよ?そこらへんは信用してやんなよ、子供としてさ。
で、万が一に間違えそうになった時に止めてやればイイ。そん時に考えれば良いのにね、余計なコトで悩んで頭使ってんじゃないよ、」

笑って光一は立ち上がると、長い腕を英二の肩に回してくれる。
そのまま懐に抱きよせて、やわらかなテノールが微笑んだ。

「ほら、胸を貸してやるよ。好きなだけ泣きな、そんで元気になってよね。朝になったら散歩に行くからさ、笑って歩きたいだろ?
だから今夜のうちに泣いて、スッキリしちまいな。言いたいコト全部わめきながら泣けばイイ、俺が抱きしめてるから安心して泣きな、」

言ってくれる言葉もシャツを透かす胸も温かい。
その温もりに頬よせた英二へと、透明な声は笑いかけてくれた。

「それからね、えっちで愛を錯覚するとか嘘でも良いとか、もう二度と言うんじゃないよ?おまえには周太がいるんだからね、」
「うん、ありがと…、も、言わないよ」

素直に答えた声に、ずっと溜まりこんだ想いは解けて静かに涙と流れだす。
ただ黙って涙あふれて、頬ふれるシャツへと浸みこんで想いごと受け留められていく。
やさしい頼もしい懐に頬よせるまま腕をシャツの背中に回す、細身の強靭な肢体が掌ふれる。
いつもの清々しい甘い花の香が体温ごとくるんでくれる、その温もりから透明なテノールが、そっと微笑んだ。

「俺だっているんだよ、英二?おまえと愛し合いたいのは周太だけじゃない…ね、」

告げられた言葉に、英二は顔を上げた。
見上げた先で雪白の貌は微笑んで、透明な瞳が見つめてくれる。
その眼差しに問いかけたくて、引き寄せて膝に光一を座らせると、静かに瞳を覗きこんだ。

「光一、ストレートに聴くけどセックスの経験って、どのくらいある?」

ちゃんと訊いてみたいと思っていた。
悪ふざけの頃は光一から英二に触ってきた、けれど今は違う。
その違いに思っていたことを確かめたい、そんな想いと見つめた無垢な瞳はすこし羞んだ。

「うん…女との初体験はね、好奇心もあって遊びで済ませたよ。でもその女とは、キスはしていない、」
「なぜ?」

どうしてキスはしなかったのだろう?
そう目でも訊いた英二に、光一は正直に答えてくれた。

「雅樹さんとのキスを大切にしたかったんだ。だからキスは、本当に恋した相手とだけしようって決めてた、」

本当に恋した相手とだけ。
その相手が誰なのか解かる、それを英二は率直に口にした。

「周太とはキス、何回した?」

質問に、透明な瞳がすこし大きくなる。
かすかな強張り、けれど光一は素直に微笑んだ。

「唇は一度だけだよ、あれが最初で最後だ。だからね、吉村先生の病院でおまえにキスしたのが、俺の3回目だよ、」

告げてくれる瞳は羞んでも真直ぐで、何も隠さない。
どこまでも信じ応えてくれる、その想い見つめて英二は最後の質問をした。

「光一はセックス、何回したことある?」

問いかけた言葉を光一が見つめる、なめらかな頬が微かに赤らみだす。
困ったよう微笑んで、端正な薄紅の唇は静かに答えてくれた。

「一度だけだよ、初体験で一回して、そのあとご無沙汰しちゃってるね、」

やっぱりそうだった。
思っていた疑問の答えに微笑んで、けれど英二は確認した。

「その割には光一、キスが巧いよな?1月のとき強姦のフリで触られた時も巧かったしさ、経験豊富に思えるけど?」
「でも本当に俺、一回しか現場の経験は無いんだよね、」

すこしだけ拗ねたような困り顔になって、光一は見つめてくれる。
その裏付けをするようにテノールの声は、明確に教えてくれた。

「高校の時は山と畑と射撃部でさ、そのあとは山と畑と警察だ。ずっと忙しいから暇も無いしね、何より、ヤるなら好きな人がいい。
周りは俺を遊び人って思ってるけどね、しょっちゅう山でビバークして朝帰りしてたのと、寄合でエロオヤジになった所為なんだよね、」

山のビバークで朝帰りは光一らしい、そんな「らしさ」が楽しくなる。
けれど知らない単語の登場に、英二は素直に訊いてみた。

「よりあい、って何?」
「町の人で話し合う集会みたいなのだね、月一くらいで田舎だとあるんだよ。俺のとこは町のと青年団のとある、」

明瞭な説明に教えてくれる内容は、よく光一が出る会合のことだろう。
それが「エロオヤジ」になる経緯を明朗な声は教えてくれた。

「でさ、オヤジが亡くなった時から俺は、青年団のに出てるんだよ。町のにも祖父さんの代わりに出る時もあるから、月二回とかある。
で、話し合いが終わると宴会なんだけどね、酒が入ればオッサンたち、話題はエロが豊富になっちゃうだろ?それで俺は耳年増になったね、」

教えられたことに、今までの全てに納得が出来る。
これで光一の態度への疑問が解けた、理解に英二は恋人へと笑いかけた。

「良かったよ、光一が経験豊富じゃなくってさ。エロオヤジでも初心な光一が好きだよ?」
「なに、経験豊富ならダメだったワケ?」

気恥ずかしげに赤らめた貌で、けれど明るく笑ってくれる。
いつもの底抜けに明るい目が嬉しくて、英二は綺麗に笑いかけた。

「俺は嫉妬深いからさ、光一の相手を全員嫉妬するよ?でも、雅樹さんと周太は仕方ないって思うけど、」

言った言葉に透明な瞳がすこし大きくなって、英二の目を見つめてくれる。
その眼差しに微笑みかけた先、雪白の貌が和んで透明なテノールが言ってくれた。

「ソンナに俺を独占したいって、想ってくれるんならね?ちゃんと大切にしてよ、俺、ほんと初心みたいで…されるのは勇気がいる、」

率直な言葉と綺麗な笑顔が、真直ぐ英二を見つめてくれる。
その貌が綺麗で見惚れてしまう、そんな想いの真中で微笑んだ唇がそっと披かれた。

「おまえが負荷試験受けに新宿行った次の日、俺も新宿に行ったんだ。周太に異動のコト話してきた、」

その日は英二の週休と光一の通常勤務を交換している。
あのとき周太に逢いに行ったんだ?そう目で訊くと静かな笑顔は話してくれた。

「8月に異動したら英二とは上司と部下の関係になる、その前に抱かれたいって言った。秘密にするべきなのにね、狡いけど泣きついてきた。
秘密を背負わせるの嫌だって思ったけど、隠してバレるより先に聴きたかった、許してくれるのか。あのひとは俺にとって『山』と同じだから、ね」

『山への恋と、人間への恋ってコト。周太は俺にとって、山と同じだよ』

一昨日の夜、マッターホルン北壁を終えた光一が話してくれた想い。
山へ抱く敬愛と想いのまま光一は、ただ正直に周太の許を尋ねたのだろう。
そういう光一を周太は真直ぐ受けとめている、そんな信頼に英二は山の恋人へ笑いかけた。

「周太、一緒に秘密を背負う方が良いって、許すって言ったろ?」
「うん、喜んでくれた。幸せだよって、」

微笑んで小さな溜息こぼし、静かな笑顔で頷いてくれる。
そして英二の瞳を真直ぐ見つめて、光一は話してくれた。

「本当に大好きな人と愛し合うのは、幸せだよ。だから光一も英二と愛し合って、幸せになってほしい。そう言ってくれた。
英二には何も言わなくて良いっても言われたよ、だけど俺、いま言ってるね。おまえにも隠したくなくて…ごめんね、俺は我儘なんだ、」

どこまでも無垢で真直ぐな眼差し見つめて、穏やかな貌が微笑んでくれる。
いま黄昏の光きらめく貌は静かな勇気に気高い、その表情に伴侶の俤が重なってしまう。
もう10ヶ月前に見つめた「初めての夜」切なくても幸せだった瞬間の、周太の涙と笑顔が懐かしい。
そして一昨日に架けてくれた電話の声が、そっと記憶から微笑んだ。

―…光一の気持ちを素直に受けとめて、心も体も全部…俺に何も言わなくて良いからね?ふたりが幸せだったら、それで良いから
  本当の気持ちで向きあって、ふたりで夢を追いかけて?そう約束して英二、俺のお願いを聴いて?

あの電話の言葉たちは、光一が話してくれた「ゆるし」のことを言っていた。
そんな理解から尚更に恋い慕う想いは熱をあげて、いますぐ逢いたいと心が泣きだしかけていく。
あの初めての夜から今も、周太への想いは色褪せることなく深まってただ愛しい、そして跪いている。

―周太、どうしてそんなに優しい?そんなに純粋に人を愛せる?ただ幸せを心から祈って、

どうして周太はいつも、そうなのだろう?
いつも相手のことを結局は想って、それを本当に幸せだと喜んでしまえる。
そういう周太だから自分も光一も慕って、互いに見つめ合っても周太への許しを乞うてしまう。
いま遠く故郷で待ってくれる伴侶を想いながら、目の前に抱きしめている最高峰の恋人に英二は微笑んだ。

「言ってくれて嬉しいよ、ありがとう、」

笑いかけキスをする、その唇に高雅な香あまやかで蕩かされる。
見つめる静謐の貌は透けるよう佇んで微かな緊張に座りこむ、その緊張を恥らうようテノールの声が笑った。

「周太、今日は土曜で大学の公開講座だよね?下山したときメールしてたけどさ、返事って来た?」
「昼飯の前にメールくれたよ、光一が風呂入ってるとき、」

笑いかけて応えた先、透明な瞳が笑ってくれる。
いま周太を話題にした光一の想いを見つめながら、英二はメールの内容を口にした。

「おめでとうと、ご飯ちゃんと食べてねって心配してくれてた。あと大学の友達と先生と、美代さんと呑みに行くって書いてあったよ、」

数時間前に送られた文面を想い、微笑んでしまう。
周太には友達が出来た、その友達は英二と無関係の世界で出会っている。
そのことが何だか寂しくて、けれど嬉しくて笑った英二に光一も笑ってくれた。

「その友達、手塚ってヤツじゃない?美代が言ってたよ、長野の木曽で林業やってる家の子で、真面目だけど明るい良いヤツってさ。
メアドとか周太とも交換してたって言うし、今日の講義でノート借りるって言ってたんだよね。そいつと先生と4人で呑んでるんじゃない?」

たぶん光一の言う通り、彼の事だろう。
スイスに発つ前に逢ったとき、いつものベンチで周太は彼の事を楽しそうに話してくれた。
周太が本当に好きな世界を共に夢みる友人、それも美代と違って英二を通さず周太が独力で出会った友人。
どうか大切な良い友人になってほしい、そんな庇護者の願いに微笑んで英二は頷いた。

「うん、手塚くんだって書いてあった。学部の3年生で青木先生のゼミ生らしい、でも周太と美代さんを年下って思ってるかもな?」
「だね、美代もソレ言ってたよ。高卒で社会人2年目って勘違いされてるっぽいって笑ってた、ふたりとも童顔だしね、」

愉しげに答えてくれる笑顔、けれど緊張が羞んでいる。
たぶん光一は今夜をずっと覚悟して考えていた、それが周太に逢いに行ったことからも解かる。
それでも初心な心に体もすこし強張っている、この緊張すら愛しくて、ずっと憧れていた存在に英二は笑かけた。

「光一、もし周太に俺とセックスするの嫌だって言われたら、どうするつもりだった?」
「うん…諦めるつもりだったね、あのときは、」

告げて、透明な瞳が英二の目を視線に結ぶ。
ただ見つめ合ったまま、透明なテノールは想いを言葉に伝えてくれた。

「だけど今日、頂上雪田で英二が風に攫われかけたとき。本当に怖かった、失うのが怖くて嫌で、一瞬で冷静になってザイルを操ってた。
それで英二の顔みた瞬間、気付いたんだ。諦める事なんて本当は出来ないって…周太に嫌だって言われても、もう諦められない。だから、」

透明な瞳に黄昏が映りこみ、そっと頬へと零れていく。
きらめき流れていく想いの軌跡が白い頬を濡らす、その想いが愛しく見つめてしまう。
初めて写真に見た青い背中に憧れて、ずっと追いかけて今この膝に抱きあげている山の恋人は、真直ぐ綺麗に笑ってくれた。

「夕飯のミーティングでさ、俺のこと明日は一日じゅう抱え込むしかない、って言ったよね?そうしてよ、今から…明日は休みだし、ね」

言ってくれる言葉の意味が、透明な瞳に伝わらす。
ミーティングで言った「抱え込む」とは違う意味、そう告げてくれる唇にキスをして英二は微笑んだ。

「今夜は最後までしないよ、光一。初めて受身をするとき負担が大きいから、体を馴らさないとダメなんだ。それに準備もしてないだろ?
周太との初めての時、俺は準備も無いのに無理して周太を傷つけたんだ。あんな想いは光一にまでさせられない、もう後悔したくないんだ」

あの翌朝に見た、シーツの白に散らされた血痕の花。
暁の光に見つめた赤い色の悔恨は、ずっと心で泣き続けている。
大切なひとの体を愛することで傷つけた、そんな過ちを繰り返したくない。
そんな想いに見つめた光一は、そっと英二の膝から降りるとクロゼットへと歩み寄った。
その扉を開き光一のトランクを引き出し蓋を開く、そこから取り出した物を、ポンと英二へ投げ渡した。

「これ、どうして?光一、」

受けとったボトルを見て、驚いていまう。
いつも周太とのベッドで使う潤滑剤、それと同じものが今この掌にある。
これを一体どうして光一が持っているのだろう?問いかけて見た先で、困ったよう光一は微笑んだ。

「逢いに行ったときにね、周太が教えてくれたんだよ、薬局に連れて行ってくれて。これも、ね」

答えながらベッドのサイドテーブルに、白い手は箱を置く。
ことん、と鳴った箱も見慣れている。それを見とめて英二は椅子から立ち上がった。
デスクの前で止まり、首に提げた革紐を手繰り合鍵を外す。そして左手首からクライマーウォッチを外し、見つめた。

―周太、言ってくれた言葉を信じるよ?

そっと心つぶやいて、デスクに合鍵とクライマーウォッチを置く。
馨が遣っていた家の鍵と周太が贈ってくれた腕時計、この2つの宝物に微笑んで踵を返した。
そのまま光一の隣に行き箱の隣にボトルを置く、そして同じ高さの眼差しへと英二は綺麗に笑いかけた。

「こんなふうに気を遣って周太、本当に光一を大切にしてるんだな?光一が幸せになるようにって、本気で想ってるよ、」

どうして君は、こんなに優しくて勁い?
そう心で遥か遠い東へと呼びかけて、切なく温かい。
その温もりは、隣に佇んだ無垢の瞳から涙に変って、白い頬を伝いおちた。

「うん、だね?…俺って幸せだよね、あのひとにこんなにされて俺、ね…」
「幸せだよ、光一は、」

綺麗に笑いかけてキスをした、その唇のはざま涙は甘く温かい。
ふれる花の香と温もりに、北壁の上に見た冷厳支配する壮麗な青と白が蘇える。
あの場所に共に立って交わしたキスの温度が今、この瞬間ゆっくり熱く全身へと廻りだす。
ふれあわす唇から交わされる熱に抱き寄せて、そっとキス離れると英二は恋人へ綺麗に笑いかけた。

「おいで、光一、」

名前を呼んで抱き上げて、踵を返すとバスルームの前に英二は立った。
そして、その扉を開いた。






(to be continued)

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secret talk11 建申月act.7―dead of night

2012-11-21 06:42:07 | dead of night 陽はまた昇る
第58話「双壁」10と11の幕間、短編「secret talk11建申月6」の後です

山行、その想い出まつわる



secret talk11 建申月act.7―dead of night

見上げる巨大な壁の向こう、紺碧の空に星は降る。
銀いろの光は一面を輝かせ、澄みわたる夜の静謐に煌めいている。
紺碧と銀の覆う天穹のもと漆黒の闇は大きな腕を拡げ、右の際へ最後の太陽は沈んでゆく。
透明な朱赤の落日、たなびく金色の雲と中天から降る紺碧の夜。この瞬間に天空と山の織りなす一日の終わり。
その大らかな光の色彩たちへ、馴染んだ詩の一節が映りこんだ。

The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.

  沈みゆく陽をかこむ雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
  時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
  生きるにおける、人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
  慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる

nordwand北壁、そして一字違いでmordwand殺人岩壁
いま見上げる蒼黒に沈む闇の壁は、人を死すべき運命に惹きこんでいく。
数多の才能あるクライマーたちの生命を抱きこんだ岩壁、そんな場所を自分は数時間後に登っている。

「That hath kept watch o’er man’s mortality…」

人の死すべき運命、そう独り言こぼれた言葉にクライマーの因果を想う。
普通に考えたのなら生命の危険を冒すことは、愚かだろう。
それでも登りたいと願う自分がいる。

―あの壁を登ったら、世界はどんなふうに見えるだろう

わずかな気象変化にも豪風を呼び、己に這い上る者を落していくアイガー北壁。
それは許された者だけを登頂させる意志を感じさす、その意志に自分が叶うのだろうか?
自分より遥かに長く深い経験を持つクライマーでも「失敗」という名の死に捕まった、そんな場所に自分は登れる?

「英二、なに考えてる?」

テノールに笑いかけられて、英二は隣を振向いた。
振向いた先で雪白の貌は機嫌よくカップに口付け、熱い湯気を啜りこむ。
その無垢で底抜けに明るい瞳へと、英二は正直に想いを吐露した。

「ここってさ、有名なクライマーが沢山登ってるだろ?みんな俺よりずっと経験も才能もあって、でも中止したり亡くなったりしてる。
そういう場所に俺が登っても良いのかな?って考えてた。まだ1年も山の経験が無い、そういう俺が登るのは烏滸がましい気がしてさ、」

自分がまともに山に登ったのは、警察学校の山岳訓練が初めてだった。
あのとき初めて山の警察官という存在を周太に教えられ、それが周太を救う可能性に繋がる道と気がついた。
そうして外泊日の日曜午前中はクライミング施設があるジムに通い、登攀の基礎だけは何とか身につけて教本も読んだ。
けれど本チャンと呼ばれる山でのアルパインクライミングは、卒業配置された青梅署山岳救助隊の訓練が初めてだった。
まだ1年どころか10ヶ月、そんな短期の経験しかない自分ではアイガー北壁に挑むなど「愚か」と言われて仕方ない。
それでも後藤副隊長と蒔田地域部長は、英二の能力を信じて実績を積ませようと参加を決定してくれた。
その期待に自分は応えられるのか?そんなプレッシャーにも正直に英二はザイルパートナーへと笑いかけた。

「本当はさ、今回の訓練に俺が参加することは、反対意見の方が多かったんだろ?青梅署以外では。それでも副隊長たちは信じてくれた。
それは俺にとって本当に嬉しいんだ、だから余計に今、ちょっとプレッシャーって言うのかな?失敗できないって肩に力が入ってるんだ、」

期待とその反対意見、信頼と不安の眼差し、自分に必要とされる実績は容易ではない現実。
様々な利害と意図が自分を取巻いている今の現実を、去年の今ごろは想像も出来なかった。
その全ての始まりになる人は、底抜けに明るい目で英二に笑いかけた。

「そりゃ無理ないかもね?どれ、」

気軽にテノールが笑い、白い顎をあげてカップを飲み干した。
黄昏の闇にも映える白い手が草地にカップを置く、そして長身は立ち上がると英二の背後に回った。

「ほら、カップこぼさないように気を付けてね、いくよ、」
「え?」

なんだろう?そう見上げた紺碧の空に、雪白の貌は大らかに明るい。
その白い手を英二の両肩に置くと、なめらかな指がゆっくり揉み解しはじめた。

「うん?ちょっと凝っちゃってるね、下山の後と昨夜と、ちゃんとマッサージした?」
「したけど巧くないんだろな?ありがとな、」

笑って前を向いたまま礼を言うと、背後で微笑んだ気配が温かい。
その温もりのまま透明なテノールは、楽しげに言ってくれた。

「前にも俺は言ったよね?確かに山は卒配からで10ヶ月だ、でも毎日この俺がヤる訓練に付きあえるの、おまえくらいだね。
正直に言うとさ、おまえが付いて来れるなんて最初は思っちゃいなかったよ。でも、おまえは一度も弱音を吐かずに付いてきた。
いっつも笑って、山でも寮でも俺のペースに合わせてくれる。それで昨日も予定時間通りに登ってくれた、英二にしか出来ないね、」

話しながら揉み解される肩が心地いい、素人にしては随分と巧い方だろう。
ほぐれだす寛ぎと言ってくれる言葉に英二は、素直に笑いかけた。

「ありがとう、俺のこと信じてくれて、」
「だよ?ホント俺には、おまえしか居ないんだからね。自信持ちな、絶対に明日も完登出来ちゃうね、」

朗らかに笑いながら丁寧に白い手は揉んでくれる、その手つきが慣れている。
いつも光一は高難度の登山後には自分でマッサージをする、それを誰かにすることは見たことが無い。
それでも何人かにはしてきたのだろうな?そんな予想に英二は前を向いたまま微笑んだ。

「光一、お祖父さんとお祖母さんにマッサージするんだ?」
「まあね、二人共ぼちぼちイイ歳だしさ。おやじとおふくろにもしてたね、」

気軽に教えてくれながら、肩から首筋、背中と揉んでくれる。
解されるにつれて心も寛いでいく、安らぐまま英二は穏かに訊いてみた。

「あと田中さんと、雅樹さんもだろ?」
「うん、山の時はよくしてたね、」

素直に答えてくれながら左腕をほぐし、今度は右腕を揉んでくれる。
丁寧で程よい力の解し方がありがたい、させてばかりで悪いなと英二はザイルパートナーに笑いかけた。

「光一、終ったら交替しよう?そんなに俺は巧くないかもしれないけど、ちょっとでもお返しさせて?」

笑いかけた先、透明な瞳が英二を見つめた。
雪白の貌の向こう今日最後の陽光がきらめき眠りにつく、その光の欠片が山っ子の瞳に宿り微笑んだ。

「なに、おまえ?雅樹さんと同じ言い方して、」
「あ、そうなんだ?」

雅樹の性格なら、してもらうばかりでは気が引けるだろうな?
そんな納得に笑いかけた右隣、底抜けに明るい目は幸せに笑んで、そのまま英二に抱きついた。

「そうだよ?ホントおまえって、不思議なヤツだね…なんでいつも、」

ふわり高雅な花の香を昇らせ、白い頬がよせられる。
肩から腕を首に回し、洗練された細身の肢体はそっと英二に凭れこむ。
ただ無邪気に抱きついてくれる温もりは、なんだか幼い子のようで英二は大切に抱きしめた。
そうして見上げるアイガー北壁は、紺碧ふる静謐に穏やかな貌をして眠りについていく。




【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」XI】



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