【⑥いにしえの街道(歴史国道)③】(馬洗い場~竹橋)
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
◎2024年10月15日編集 石川県にて 写真35枚
馬洗い場跡、竜ヶ峰城址、道番人屋敷跡、一騎討跡、前坂、竹橋口、竹橋、参考・平知度首塚
いにしえの街道(歴史国道)・・・富山県小矢部市桜町~石川県津幡町竹橋までの約12.8kmが建設省(現・国土交通省)の「歴史国道」に選定されています。
★大きい道路(天田峠よりの)の分岐点・・・左に入れば歴史国道は龍ヶ峰城址公園の方に入っていきます。
★馬洗い場跡・・・歴史国道「北陸道」沿いにある山森集落には、藩政期に作られたと思われる「馬洗い場跡」が残っています。馬の水飲み場や馬を洗う場所として利用していました。
★竜ヶ峰城址・・・標高194メートルの龍ヶ峰(通称「城ヶ峰」)に築かれた龍ヶ峰城は、加越国境の倶利伽羅峠を通る歴史国道「北陸道」沿いにありました。
城跡はがけ崩れで行くことが出来ません。
倶利伽羅三十三観音(5体)
道番人屋敷跡・・・「道番人(みちばんにん)屋敷跡」が残っています。現在は屋敷跡は龍ヶ峰城址公園の駐車場となっています。
★一騎討跡・・・左手が急傾斜の深い谷であるこの場所は、敵の大軍が一気に攻め込めないように、騎馬1頭しか通れない加賀藩の戦略上の要所であったといわれています。
地名の由来になった一騎しか通れない道は、明治初期にその幅が広げられたそうです。
片側は山、反対側は深い谷
(地理院地図より)
ここも車では難しいかも?(ポイント②の出口)
舗装された道を少し昇り、左側の前坂(竹橋)の方の道に入ります。(ポイント②)
ポイント②の場所・・・舗装された道路から左側の前坂(竹橋)側に入ります。(車では行けません)
急勾配の「前坂(竹橋)」側に出ます。大勢の兵士が身を隠せる急勾配の地形は、戦略攻防の要所となりました。坂を上るのに時間がかかることから、別名「蝸牛(かたつむり)坂」と呼ばれていました。・・・ポイント①の場所
★前坂・・・くりから越えいにしえの街道の標識がありました。
標識の近くに石仏・・・御堂の中に釈迦如来立像など4体の仏像が安置されていました。
前坂(竹橋)の道から少し進むと下中から竹橋に向かう道との合流点に出会います。そこにある案内板。
★道標(倶利伽羅村・道路元標)・・・七野屋は近世後期より酒造、醤油業、金融業を営み、竹橋宿全体を統括する伝馬肝煎(でんまきもいり)と算用聞(さんようぎき)も兼ねていましたが、1883(明治16)年の大火で焼失し、屋敷跡には道標だけが建っています。
★竹橋宿・・・ 歴史国道「北陸道」の出発点である竹橋村は、1615(慶長20)年に加賀藩から交通と物資運搬の拠点に指定された宿場として栄えました。倶利伽羅峠への中継宿として格付けされた竹橋宿には、本陣や旅籠を始め、物資を輸送する伝馬問屋などがありました。
★竹橋口・・・いにしえの街道(歴史国道)の津幡町側のスタート地点です。
津幡町の道の駅(倶利伽羅源平の郷)~県境の倶利伽羅峠までの歴史国道をたどってみました。
★樋口次郎兼光隊進軍の地・・・倶利伽羅の合戦の際、平家軍を後ろから攻めました。
★平知度の首塚・・・河北郡津幡町
平知度(たいらのとものり)は平清盛の七男。俱利伽羅峠合戦にて甥の維盛やいとこの通盛、経正たちと出陣しましたが、最後は知度は逃れがたきを知り自害しました。
平家の蝶紋が彫られていました。
平知度は叔父の忠度たちと志保山で源行家(みなもとのゆきいえ)軍と戦っており、(志保山(志雄山)合戦とも呼ばれます)維盛軍に勝利した木曽義仲軍は苦戦していた源行家軍の加勢に行き、平家を打ち破りました。そのため下の絵ように知度と義仲が戦っている絵になっているかと思われます。
★平清盛松・・・首塚の側には源平800年を記念して平清盛が厳島神社参拝のおり、お手植えされた松の苗木を広島県音戸町教育委員会より寄贈されたので平知度の霊を慰めるべくここに植樹されました。
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