なにをやってもド素人である。ということは、まだまだ成長過程にあるってぇことだろう。しかし、時間がない。死ぬまであと何年か知らないが、多くはないことだけは確実である。焦るですなぁ。
9月に千葉市民会館で「敦煌と鬼来迎」というタイトルで二時間ほど話をさせていただく。ありがたいものである。こんなボキでも相手にしてくださるからだ。
実は西夏文字と敦煌、そして目連救母経と日中比較藝能というのが関心事であるからなのだが、まだまだ探求途上である。
だから他人の前で話をすることができるほど、勉強していないというのが実感である。日々改善、日々工夫である。さらに各種資料(史料)を集めては読む。この繰り返しである。
しかし、残念ながら時間がない。つまり、のんびりやっていたら死んじゃうではないか。ボキの方がである。余生を楽しむなんてぇことは、ボキにはできないのだ。
まだまだ追求しなくてはならないことが山ほどあるのだ。これはたまらない。たまらないが、楽しみでもある。なにしろシルクロードそのものが、興味関心のある対象なのだから時間はいくらあっても足りない。
したがって、完成したという思いがまったくない。
いつまでたっても、途上である。
よって、上から目線で他人に指導するなんてぇことはできない。できないし、そんなことは不可能である。教えていただくために、話をするというのが当たっている。そこらへんは、いかにボキでも謙虚に考えている。
太極拳を学び始めて、しみじみ感じたことが「指導」なのである。とてもじゃないが、太極拳指導なんてできやしない。中国古典の医学書も読み込んでからでないと、太極拳指導は不可能である。「黄帝内経」もそうだ。太極拳を学び始めたから知った本である。こんなことすら知らないのである。
柔道をやって50年以上過ぎた。しかし、その柔道すらボキはなんにもわかっていなかった。嘉納治五郎全集も買って読んでみた。でも、それだけだった。嘉納治五郎先生の深遠なる哲学もなんもわかっていなかったのである。
笑ってしまう。
なにをやってもド素人であった。あったではない。今でもド素人である。なんでもだ。
慚愧の思いである。
ボキに柔道を指導された側から見たら、ボキなんか犯罪者である。立ち技勝負が嫌いで、変則柔道の寝技勝負でやっていたし。今でいうブラジリアン柔術みたいなものもずいぶん研究したっけ。
つまり、変則なのである。正式ではないのである。奥に哲理がない。技もマニュアルどおりである。
こういうのを工夫改善がないというのである。情けない。
そういうことが太極拳でわかってきた。
インチキであったのだ。ボキの柔道は。
否、すべてがである。
うううううううううううううううううううううううううううむ。
これだと隠遁していなくちゃアカンですなぁ
あらゆる関係性を拒否して。
(_ _ )/ハンセイ