絶望と微笑み、哀しみ・・・ピエロのような心情もあり得るのではないか
崇高なる作家というと宮沢賢治を思い出す。作品もそうだが、人格も優れていると思うからだ。
あるいは絶望の作家だとも言われる。これは正岡子規も同様であって、二人とも大病を患っていたからである。
しかし、宮沢賢治も正岡子規もユーモアを愛した。いつもいつも眉間に皺を寄せて深刻そうにしていたわけではなかった。
このことでもって救われるのである。ボキのような庶民がである。ボキは、ゼニもなければ、カミの毛もない。学歴もない。人がうらやましいと思うような要素がまったくない。だからと言ってそれでもって死んじまいたいと思うようなこともないけど(^_^)。
ドストエフスキーだって、まるっきりの絶望の作家ではなかった。
楽しいことだってあったのだ。
でないと生きられない。
あまりに深刻ぶっていると、その深刻さが伝染してしまう。こっちにである。
逆に軽薄と言われても良し、明るく明るく生きていれば、なんでも好転する。
絶望というのは、紙の裏表である。表に絶望と書いてあったら、裏は幸福なのである。
病気になっても絶望しなくて良いのである。紙の裏表なんだから、なにも心配する必要なんてないのだ。
すべては受け止め方次第である。許容することである。過去も、現在も、未来もである。
このことは諦めるといことにも通じる。もっとも諦めるということは、普通あまり良い言い方とはされていない。むしろ悪いこととして糾弾されることもある。
しかし、諦めるというのは仏教用語では、もっと積極的な意味を持って使われている。良く言われることだが、あきらむるということでモノの本質をつくことでもある。
ボキは、悪文書きを趣味としている。このブログもまたそうである。なにしろ年齢不詳である。若いんだが、年取っているのだかよくわからないと言われる。他人にである。
それにボキは遊び方を知らない。酒場にも行かない。賭け事はまったくやらない。麻雀すらできない。囲碁も将棋も素人以下である。道具だけは持っているけど。
カラオケも行かない。綺麗なジョセーにも声をかけない。そんなことをしたら、確実にセクハラになっちまうからだ。
結局石部金吉なのである。カタイ。考え方も、モノの言い方もすこぶるカタイのである。
ボキなんてぇ自称の言葉を使っているから、なにかおもしれぇジジイなのかもしれないと思われるだろう。誤解の誤解、猪八戒である。
ホントのボキは、カタイアタマにカタイ性格で生きているのじゃ。
それが、ピエロのように哀しい心情で生きているのじゃよ。裏には、哀しさがあるのだよん。
サトウハチロー氏の詩に「ピエロ」というのがある。微笑み、苦しみ・・・・・ナミダとかいう一節だったような気がする。ちょっと思い出せない。あれですな、あれ。
ピエロは笑われてナンボでしょうけど、笑顔の裏になにがあるのか。
それこそ天のみぞ知るである。
わははっはははっははっはははっはははっははは。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ