事故にあって死ぬのも寿命。
病気になって死ぬのも寿命。
老衰で死ぬのも寿命。
良寛がそんなことを言っていた。これである、これ。
「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」
まさにこのとおりである。シナリオどおりに人生が進んでいるのなら、まさに死ぬ時節がきたら死ぬしかないのである。長生きはしたいが、天がもういいじゃないかと言ったら死ぬしかない。長生きしたくてじたばたしても、死ぬときは死ぬ。
だからなんの心配も要らないのである。過去のことを悔やんで、あの時ああすれば良かったとか、ああああああ俺はなんちゅうアホだったのだと思う必要もないのだ。アホでもこうやって生きていられるのだ。ボキは自己嫌悪の激しい男だから、よけいにこの考え方をとっているのだけれども。
考えても無駄なことはやらないことである。誰でも死んでしまうのだけれども、あの世から帰ってきた人はいない。だから確かめようがない。亡父と亡母に聞いても答えてくれないだろうからなぁ(^▽^)。逆に叱られてしまうか。アホなことを言っていないで、働けとか。もうこっちは年金暮らしなのだが、それを知らないだろうから。
悔やむ必要もなし。一切なし。先のことを不安に思って悩む必要もなし。過去も未来 もシナリオどおりであるからだ。
災難には遠慮なく遭うがよろしい。良寛の言うとおりである。病気になりそうだったら、遠慮なく病気になるしかないのである。死ぬときは遠慮なく死ぬがよろしい。
もう一度言う。良寛の言うとおりである。
がんばる必要はない。すべてを天にゆだねて、淡々と生きるしかないではないか。焦ることもないのである。ただし、天変地異で災害に遭った方々にはこれは当てはまらないが。
だからただいま目の前にいる方々を大切にすることである。それだけである。
できることをただただ淡々とやっていけばいいのである。いろいろ高望みをしてもできないものはできないのだ。博士になろうとしたって、某大学大学院から去っていくしかなかったのである。自分には自分しかできないことがあったのだ。それを忘れていた。だからこうなったのである。
良い薬だった。
今日はこれから古文書講座に出かける。午前中である。終わったら、千葉市にある私立高校に打ち合わせに行ってくる。来月からアルバイトで講師をさせていただく。声がかかっただけでもありがたいものだとしみじみ思う。
これでまた海外に行ける。コンピュータも買える。
わははっははっはははっははっははっはははっははは。
ヾ(*´∀`*)ノ