穏やかな家庭。
これが一番ありがたい。
争いごとのない家庭。
ものごとの正誤を言い合って喧嘩ばかりしている家庭なんかロクなもんじゃねぇとずっと思ってきた。
なぜか。
それはボキの亡父と亡母が喧嘩ばかりしていたからである。特に亡父は、軍隊上がりでシベリア抑留までされてしまったある意味犠牲者であった。根性論ばかり言って亡母を殴るだけの方法論しかモタナイ人間であった。ボキと一緒で学歴もなかったから、かなりのコンプレックスもあった。シベリアから帰ってきて、東北の寒村で町役場の職員になった。それくらいの能力はあったのだろう。それにしてもシベリア抑留体験は、亡父に大きな暗い影を落としていた。何人もシベリアの極寒の地で亡くなっていった軍隊仲間のことを思っては、酒を呑むと泣いていた。ある意味虚無主義者でもあったと今になっては思う。わかるような気がする。そういう極限の体験をしてしまっては。
それでも、亡母には辛く当たった。婿養子だった。ところが亡母が家を出てしまった。亡母の実父(つまりボキの祖父)に後妻がきたからだった。そりゃ当然であろう。その後妻に子どもがいたからである。
子育ては、両方とも熱心であった。とりわけ、亡母は山形師範学校出身の小学校教諭であったから、熱心にボキを育ててくれた。
しかも、暴力的な亡父と闘った。今でも、亡母の方に理があった、正論であったと思っている。そうなのである。小学校の6年まで狭い借家であったから、ボキは全部夫婦喧嘩を聞いていたのである。一方的に殴っている亡父を止めに入ったこともある。
だからである。
だから、ボキは争いごとのない家庭に憧憬したのだ。
穏やかな空気を渇望する気持ち。
それが一番大事にしたいことであった。
どうやらそのもくろみは成功した。
家庭を持って37年。子どもたちも独立した。孫もできた。その孫たちが一昨日から帰省してきた。昨日は雨が降っていたが、成田空港まで遊びに行った。第三ターミナルというところに行ったことがなかったから、行ってみた。往復1キロはある。運動のためでもある。帰り、ソフトクリームを孫たちに買ってあげた。空港内のソフトクリームは高いけど、おいしいのだと長女が言っていた。ボキは舐めてもいないけど(^0^)。
外国人がたくさんいるから、そういう体験も良いだろうと思ったから連れていったのである。悪戯半分に、ソフトクリームを買うのに、英語でくっちゃべってしまったけど。店員の方は、日本人であったが。
わははっはははっはははっははははっはははははははっはははは。
こういうなんでもないことが、家庭を持つことの喜びになる。
穏やかな空気を持つと、こころも和む。
しかし、こうした道を与えてくれたのは亡父と亡母であった。ふと気がついたのである。昨日である。成田空港である。
全部今の境遇につながっているのだ。
喧嘩の絶えない亡父と亡母。家出同然に集団就職のようにして進学のために、東京に出てきたこと。新聞店に住み込んで苦学を始めたこと。親戚も誰もいない九十九里浜で定年まで一つの仕事をさせていただいたこと。子どもを授かり、孫までできたこと。
全部がつながっているのだ。人生というのは全部がつながっているのだ。一つも欠けることのない関係性の中で連鎖しているのだ。
ドラマにしたら全部削ることのできない部分である。どの要素もだ。全部が連鎖している。
つまり全部が必然であったのだ。
このことに気がついたのだ。成田空港で。
ヾ(@⌒ー⌒@)ノ