耐えることである。現象はゼロなんだから。絶望も不安もない。なにも焦って生きている必要もない。ひたすら淡々として過ごすことである。
いちいち一喜一憂していたらアカン。身が持たない。世の中はそれほど動きが激しいのだ。
トラブルがあったら、ただじっと耐えるしかない。
悪口を普段から言っていたら、そのお返しがくる。偉そうに生きていたらアカン。偉そうにやっていた仕事を失ったら逆に今度は相手にされなくなる。あたりめぇだ。
世の中なんてそんなもんじゃよ。
だから何も考えずに、淡々として受け入れるのだ。
やっちゃいけねぇことは、他にもある。不平不満・愚痴・悪口・文句・泣き言等々じゃ。
愚痴の専門家になってもアカン。愚痴はグチグチ言っているとほんとにそうなっちまう。そんなもん誰も聞いちゃいないのだ。他人に愚痴を言ってどうなるというのだ。自分の奥さんに愚痴を言って聞かせても、かえって軽蔑されるだけである。そういう長年の積み重ねが、夫婦関係を破綻させるんだよん。夫婦だってもとは他人である。たまたま偶然の結果、結婚しただけであって、天の思し召しでもって結婚しただけである。
それをである。朝からしつこく愚痴を言われて心穏やかに過ごせるわけがない。
似たようなもんが不平不満である。仕事があるだけ良いではないか。本来なら誰にも相手にされないで、収入もなく、漫然と毎日過ごさなければならなかったかもしれないのに仕事があるだけシアワセではないか。
上役の悪口を言って自分だけ高見の見物をしていたって、そんなもんは糞の役にも立たないではないか。不平不満は、自分も偉そうにしたいという心理の反作用である。偉ぶったらアカン。ある組織の中で、たとえ管理職であったとしても、そんなもん仲間内だけに通用する話である。世間一般に通用する話じゃなかろうに。
要するに、地位や名誉なんて仲間内の話だけなのである。勘違いしちゃいけない。たとえ博士になったとしても、今は***博士と書いてそのあとにどの大学で取得したかを書くことになっている。カッコ書きである。取得した大学でもって価値が異なるのであろうか。そんなことは知らないけど。ボキは、学位取得に失敗したからだ。
泣き言もそうだ。これもまた、自分の側だけの論理でもって構成されている。泣き言をする方々というのは、要するに自分の思う通りにならないから泣き言を言うのである。
視点が自分側にある。相手にはない。悪口だって、相手のことを言っているようで実は違っている。自分の思う通りにならないから、悪口を言うのである。不平不満もそうだ。他人からの評価が低かったりすると不平不満が出る。あたりまえである。自分の思う通りにならないからなのだ。
耐えることである。
耐えることはつらくない。
損得勘定で考えれば、耐えることもまた楽しみになる。普通、損得勘定はよくないこととされるが、これもあって良いとボキは思っている。
なぜなら、ボキは起こっていること、世の中のすべてのことは「ゼロ」だと考えているからである。現象すべてである。
だからこだわることはないのである。
そもそもがゼロなら、これから起こること、あらゆるトラブルなんぞ、全部プラスになるだけだからだ。
ゼロならば、マイナスにはならない。
要するに、気楽に生きていきましょうということなのである。
九十九里浜の波を見ているとしみじみそう感じる。
海の波は、全部違っている。一つとして、同じ波は来ない。朝からじっとして波を見ていると現象はゼロであるとマジに思ってしまうのだ。
今度一緒に九十九里浜の海でも見に行きませんか(^▽^)。そんな人はいねぇだろうけど。
わはははっはははっははははははははっははははははははっははは。
(^.^)/~~~