と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

「三蔵法師」知ってるつもり

2018年09月13日 22時21分35秒 | とーま君の流儀2018

敦煌研究がおもしろし。

これからのボキの課題なり。

 

 

「三蔵法師」知ってるつもり

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女子テニスの大坂なおみ選手がいい。笑顔がいい。謙虚な人柄がいい。喜ばれるキャラがいい。

2018年09月13日 14時04分39秒 | とーま君の流儀2018

大坂なおみ選手に学んだ。孫のような彼女におおいに教えてもらった。

 

 

女子テニスの大坂なおみ選手がいい。なにがいいか。優勝したからでもある。なかなかできないではないか。前人未踏の優勝である。たいしたもんである。

しかし、ボキは彼女の笑顔に引き込まれた。

なんという笑顔であろうか。

しかも優勝したのに、「ゴメンナサイ」であった。「ちょっと質問じゃないことを語ります。みんな彼女(S・ウィリアムズ)を応援していたのを知っている。こんな終わり方ですみません。ただ試合を見てくれてありがとうございます。本当にありがとう」というものであった。

人柄がにじみ出ているではないか。

しかも若干20歳である。ボキだって、これくらいの孫がいても不思議ではない。いっぺんでファンになってしまった。テニスにはあまり関心がなかったが、これでは応援したくなってしまうではないか。

笑顔だからである。

笑顔は人を引き付ける。

しかも謙虚である。

謙虚な人は人を引き付ける。

優勝したら、凡人は、オノレの力がいかに優れているかという視点からモノを見てしまうだろう。練習方法も凡人の及ばないレベルにあるのだろうし、努力も半端ではないのだろう。

しかし彼女はおくびにも出さない。世界一なのにである。自慢がない。どうだ!という押し付けもない。お辞儀もした。

うううううううううううううむである。

こんなことが言えるのかと思った。ボキにはできない。もっとも、ボキはあらゆる大会で優勝した経験がない。柔道然りである。だからよくわからないのであるが、大坂なおみ選手のすごさだけは理解できたのだ。

つまり彼女は、「喜ばれる存在」なのだ。優勝おめでとうと自然に言いたくなるキャラなのだ。応援したくなってしまうのだ。

そりゃ日本人だから応援したくなるというのとは、ちょっと違う。

喜ばれる存在だからだ。

 

そこでハタと気が付いた。

ボキはどうなのだという自問自答である。

ま、喜ばれる存在ではないとしても、これからの後半生を過ごすための目標にしてもいいではないかと思ったからである。

定年になっても、アルバイトをしているのは、そのためかもれない。ただ淡々と生きているのだけれども、それぞれのアルバイトではそれなりの意味があるのかもしれない。

先週からやっている某高校での5番目のアルバイトでもそうだ。感謝された。やってくれる人がいないからである。年度の途中からだし。それに楽しい。若い生徒に相手にされないことを一番心配したが、受け入れられた。若い人たちにである。しかもなにかと親切にしてくれる。こっちがジジイだからであろう。まさに孫的存在である。

ご縁である。ご縁。

しかも頼まれごとである。守銭奴のようにがつがつしていないから、そういうオファーがあるのだ。

ありがたいものである。

だから、昨日の夕方、居住地にある神社に歩いていって「ありがとうございます」と報告してきた。もっとも、ボキは神社ではお願いごとをしたことはないけど。そこまで欲の皮がつっぱっているわけではないので。(笑)

 

さ、これからそのアルバイトに出かける。千葉市にである。夜は塾がある。楽しい、楽しい。

 

(^^)/~~~

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9月12日(水)のつぶやき

2018年09月13日 06時25分03秒 | とーま君の流儀2018
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ボキは「マジにまだまだ若い」と思っているのである。事実身体も動く。実に健康である。

2018年09月12日 11時25分09秒 | とーま君の流儀2018

ボキは年齢不詳のまだまだ若い小僧っこであると思っている。そのほうが長生きできるんだそうだから(笑)

 

 

 

 

「ボキはまだまだ若い、小僧っこである」というのが、年齢を聞かれた時の口癖である。年齢を聞くのはご婦人方に多い。比較の対象だからであろう。

なぜそんなに年齢を気にするのかと思う。そして、正直にボキが答えると「なんだぁまだ若いんじゃん」とのたもう。(笑)

つまり、自分と他人を常時比較してものを考えているからそういう発言になっちまう。

ボキはあほかいなぁ~と思う。

ボキは「マジにまだまだ若い」と思っているのである。事実身体も動く。実に健康である。

それにまだ若いと思うのは、知識がないということである。覚えてもすぐ忘れてしまうから、10代のころと変わっていないのである。ある意味不完全であるからだ。

だから偉そうに人の上にたって威張らない。威張れるわけもない。内容がないからだ。空っぽなんだよん。空洞。筒抜け。情けないけど。

ラジオの英語講座をいくら聞いてもちっともマスターできない。

そもそもが、成果主義に立っていない。静かに淡々として生きているだけである。ギラギラとした欲望もない。モテたいとか、そういう邪念もないのだ。あっさりしたもんである。

友人に捨てられたらそれっきりである。捨てることはないが、捨てられたことは数多い。とりわけ、ボキは中学から高校に採用試験を受けなおして転身していったから、よけいそう思う。それまでの人間関係はなんだったのかと思ったからである。付き合いの濃かった何人かの方々は、ボキをさぁ~~~っと捨てたからだ。もちろん最初に勤めた同僚の5人の方々とは今でもお付き合いがある。しかし、すでに二人が亡くなってしまった。

だから人間関係は大事だと思っているのである。そうなのだ。相手が死んでしまうからである。今、この瞬間しかお付き合いできないと思うと実に時間がいとおしいではないか。

 

自分はまだまだと思っていると、なんだか長生きできそうな気がする。そういうことを書いている本も読んだ。どっちが年上で年下だとか思わないで、自然にまったく自然に生きていると長生きできるのだそうである。

むろんストレスも今はまったくない。現役の仕事人時代はかなりあった。ストレスがである。管理職であったから、組織をまとめ上げるのに苦労した。

さらに定年後に学位が欲しくて、無謀にも大学院博士課程に入学してしまった。そして一日13時間は論文書きにまい進した。これが一番体に良くなかった。

とうとう病気をしてしまった。

だから「淡々として生きる」のを至上命題にしているのである。そして「まだまだ若い」というのもオノレに言い聞かせているのだ。でないと若死にしてしまうからなぁ。

わははっははははっはははっはははっははははっはは。

 

オシマイ。

 

( ´Д`)ノ~バイバイ

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9月11日(火)のつぶやき

2018年09月12日 06時27分48秒 | とーま君の流儀2018
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世の中のおかーさんに物申し上げたい。大切なのはなんなのかということで。

2018年09月11日 22時52分29秒 | 精神のありかた

母心の大切さは、古来変わっていないのである。思いやりの心で子育てをすべきである。とりわけ男の子は、母親の存在がでかいと思うから。

 

 

母親が「思いやりの心」を持って子育てすることによって、いい子供が育つ。ということを何かの本で読んだが、然りである。まさにこのとおりである。

ともすると、母親というのは、子供を「自分の思うとおりにしたい」という欲求にかられる。それが母親としての愛情だと錯覚する。そりゃそうだろう。自分の腹を痛めて出産したからである。自分の所有物だと思っているだろう。だから、子供に対して要求度が上がる。厳しく接してしまう。

そして、途中で子供の反抗にあって挫折する。

一流大学に入れれば、我が子は生涯仕合せだろうと思う。それはそれで反面当たっているから一概に否定はできない。それもまた母親としてのありがたい側面でもあるからだ。

しかし、だからと言って無制限に厳しくしてもよいというものではないだろう。自分の人生が失敗したからせめて我が子には成功してほしいというのはよくわかる。でも、だからと言って我が価値観を押しつけるのはいかがなものか。

我が子をコントロールしたいという我欲の現れなのである。

子供にしてみればおおいに迷惑である。

母親からの独立が妨げられるというものである。いつまでもかまっていることはないのである。

ほっとけば子供は育つ。

特に女の子はとりわけ丈夫に育つ。このあたりは、女性陣特有のたくましさである。

我が孫たちを見ていても、女児はたくましい。生命力にあふれている。健康的でもある。弱弱しさがない。だから女は怖いのである。たくましいからである。

よく言われることで、女性は繊細で、風が吹けばなよなよとしているというのは、ありゃ嘘である。

後天的に学習した結果、生きるための方法・手段として女はそういう能力を得たのである。

つまり、男女差別があったから、女性は我が身を守るために弱いようなふりをしてきたのである。男は戦争、女は家庭にあるべしという文化があったからである。ある意味、生きていけないのであれば、そりゃ当然の行為であったろう。

しかし、女はたくましいのである。なんといっても、出産できるのだから。男は絶対耐えられないであろう。

生物学的にも女性優位である。男は、付け足しで生まれてきたようなものである。そもそもが不要なのである。動物界でもそうではないか。一人の雄がいれば事足りるのである。ライオンだって、雄が一頭いれば、群れは維持できるというではないか。選択権は雌のほうにある。選ばれなかった雄は、ずっと孤独のままである。

ある意味人間界と一緒である。否、人間のほうが、動物界から発展してきたのだから、女性上位は古来からの文化であったのだ。

 

今日も千葉市にいた。午後3時41分の電車で居住地まで帰ってきた。充実している。これまたアルバイトをやってきたのであるが、良いものである。選択権がこちらにあって、アルバイトを選んでいるからである。自主性と言い換えてもいいのかもしれない。

記事のアップが遅くなってしまったのは、そういう理由による。

さ、もう寝よう。

 

明日も生きて目が覚めることを願いつつ。

(笑)

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9月10日(月)のつぶやき

2018年09月11日 06時27分20秒 | とーま君の流儀2018
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自己嫌悪は天からのプレゼントであると思ってきたが、間違いはなかったような気がする。

2018年09月10日 08時11分00秒 | 精神のありかた

自己嫌悪も他人との比較の上で成り立っていることでしかない。なにも悩むことはない。オノレはオノレ。他のヒトのために生きているのではないからだ。

 

 

すべてのことを「受け入れる」というのが重要だと思ってきた。反対にすべてのことを拒否していると、なかなかこの世の中を生きていくのが辛くなってしまう。

仕事の面でもいろいろとあった。出世出来ないとか、上司の受けが悪いとか、重大な失敗をしたとか経験させていただいた。今となってはアリガタイものであった。

ボキは、本来自己嫌悪の強い人間である。今でも、時々自分が嫌になることがある。これまで生きてきた時間の中で、多くの方々に迷惑をおかけしてきた。慚愧の思いである。

だからである。

さらに能力もない。今でもない。英単語なんか次から次へと忘れてしまうし。

カミの毛もない。こっちは遺伝でもある。

わはははっはははっはははっはははっはははっはは。


だから独り言のように自分を自分でバカと言ってしまうのである。すこしおかしいのではないかと長女にも言われたことがある。

それほど、自己嫌悪が強いのだ。プライドなんかまったくない。世の中でボキほどつまらない人間はいないと思っているし。

そういう意味では、若い人でいろいろと悩んでいる人にアドバイスできるのかもしれない。

自己嫌悪が強いからである。そして、そこから立ち直ったからである。

その立ち直りのコツが、「受け入れる」であった。

そもそも自己嫌悪するのは、たとえ自分がつまらない人間であったとしてもそういう自己規定を受け入れられないからである。原因はそこにあるのだ。

自分で自分をつまらない人間であるとか、悪業三昧であるとか、そういう自己規定をしているからそれを嫌悪するわけである。

だったら、全部を「受け入れる」しかない。良い点も、悪い点もである。

しかも、「自己嫌悪は天からのプレゼント」だと思えばもっと気楽になる。

嫌悪しているタイプの人間にならないようにと天が注意してくれているのだ。そう思えば良いのである。

父母の期待に応えられなかったからと言って自殺するような大学受験生も多いと聞く。一流の高校に学ぶ受験生である。父母の期待が縛っているのである。

もっとある。W大学に入りたくて、浪人を10数年続けていた人を知っている。新聞販売店にいたのだ。もう30歳を過ぎていたのにどうしてもW大学でないとアカンと言っていた。彼も、生きていたら80代になっているだろう。

つまり、W大学に合格できないという自分を「受け入れられない」のである。

ダメなときはダメ。そういう人生もあるのだ。

ダメだったら、また別の道を歩むこともできるのだ。その道すら閉ざしてしまうようでは一生浮かばれない。

自己嫌悪も比較の上で成り立っているだけのことである。比べないことである。

そんなもんで一生を振り回されたくないではないか。

オノレはオノレ。

他人のために生きているのではない。たまにふれあいがあればそれで良しとしなくちゃならない。

ボキは、そんな風にして生きてきた。だからノイローゼにはならなかったのである。風が吹いてきたら、流されて生きてきた。

淡々として生きるというボキのモットーは、そういうことなのである。

 

今日は朝ウオーキングに行ったら、途中から雨が降ってきた。

(*_*) マイッタ。

5000歩(Metsで)しか歩いていない。ショッピングセンターでも行って歩いてくるつもりである。

雨が降ってきたのも「受け入れる」しかないからなぁ~~~。天気のことまで、オノレの思うとおりになるわけがないからだ。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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9月9日(日)のつぶやき

2018年09月10日 06時42分11秒 | とーま君の流儀2018
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気にしない、気にならないというのが淡々として生きるコツみたいなもんであります(^_^)

2018年09月09日 09時24分10秒 | 精神のありかた

「気にしない」「気にならない」というのが一番良い考え方ですなぁ。マジに。体験上。

 

 

指導と称して、学校や家庭でグチとか文句をつけているのと変わらないことを言っている人が多い。中には、暴力を振るうモノもいる。学校も家庭でもある。

こういう学校や家庭で育った人間は、うつになってしまう。教師や親は、良かれと思ってやっているけど、それは抜本的にアカン。

暴力以外に解決の方法がないと教わった子どもは、人生が・世の中が暗くなってしまう。

通信簿の成績が悪かったからといって、いちいち殴られていたらたまったもんじゃない。

ボキがその良い(悪しき)例であった。亡父は、軍人上がりで、しかもシベリア抑留体験までした人間である。徹底的に人間不信であった。戦友仲間を遠いシベリアの地で喪った体験は、今ならわかるような気がする。ともかく亡父は怖かったのである。

そして徹底的に殴られた。精神がぶったるんでいるといつも言っていた。確かにボキはぶったるんでいる見本である。やる気も本気も外面に出てこない。ひたすら、淡々として生きているだけであるからだ。

成果も目標もない。あるわけない。仕事がない。

わははははっはははっははっはははっははっはははは。

 

だから周囲に問題を抱えている方がおられたら、真剣に聞いてあげることも大事である。

大事であるが殴ったりしたらアカン。

そしてもっと大事なことがある。

それは、「気にしない」ことである。周囲の方々がである。特に、うつの人にはあらゆる励ましが逆効果になってしまう。ガンバレ、ガンバレはうつの人には、自己否定の言葉としか聞こえない。芝居で、演技でうつを演じているのだろうとか言っちゃいけない。かえって重症になるからだ。

周囲の人たちは、「気にしない」ことだ。むろん経過観察はしておきたい。ある一定レベルの症状を超えたら即ドクターに診てもらうしかない。だから、観察だけは怠ってはならない。

家族の間で「気にしない」「気にならない」という雰囲気を作ることも大事である。

いつも笑いの満ちた家庭でありたい。馬鹿笑いでも良し。笑いの絶えない家庭でありたい。

それをである。渋面作って、眉間に皺を寄せていたら子どもだって暗くなるではないか。

世の奥様方も、亭主に嫌味やグチ、文句ばかり言っていないことである。亭主なんかおだてれば良いだけだ。あ~たは素晴らしい、いつもさわやかに働きに行ってくださってありがとうねぇとでも言っていれば良いのである。オトコは、そういう女房ドノに弱いのである。そして一生懸命働いてくれるのである。

オトコなんて、母親からの賞讃がなければ生きていけないのである。褒められたくて頑張っているのだ。特に母親からである。それほどオトコは弱いのである。

なにかの本で読んだことがあるが、オトコは1000ccの血液を失ったら死んでしまうそうな。

オンナはそんなことはないそうである。そもそも毎月一回は血液を失っているし、丈夫なのである。戦車のようにである。

「気にしない」「気にならない」という家族の雰囲気を作っていれば、大丈夫である。

 

他人からどんな風に思われていても、同じである。「気にしない」「気にならない」というのが基本にあれば、強く生きていけるというもんじゃよん。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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9月8日(土)のつぶやき

2018年09月09日 06時35分54秒 | とーま君の流儀2018
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倒れても悔いなし。世間への恩返しであるのだから。マジに。

2018年09月08日 08時12分10秒 | 精神のありかた

他人に必要とされているうちが花である。淡々と頼まれごとをやっているしかない。その結果倒れても仕方なし。それきりの人生だったのだから。なにもすることがないというのが、諸悪の根源である。

 

 

今日も千葉市に出かける。千葉市民会館である。歴史の会がある。文化講座と古文書講座である。ボキは文化講座の方に登壇させていただく。「敦煌と鬼来迎 日中比較藝能史からの一仮説」という演題である。動画を使って話をさせていたく。午後1時からである。

歴史の会では、この5月の総会に間に合わないからということで、ボキは会長代行にさせられてしまった。でないと予算決算案が通らないからである。

こんなことになるとは夢にも思わなかった。元会長にお世話になったから、楽しみで行っていた歴史の会である。元会長というのは、ボキの勤めていた農業高校の校長で、ボキはそこで実に八面六臂の活躍をさせていただいた。なにしろ、教務主任なのに柔道着を着たまま明日の自習監督割を作っていたのである(^_^)。それから再度柔道場に行って生徒と一緒に稽古していたのだ。関東大会にも出場したから、それなりに思い出はあるのだ。

この歴史の会会長代行というのも頼まれごとである。入会させていただいた時は、まだ某大学大学院生であった。なにしろ定年後に入学させていただいたのだから、毛色の変わった院生であった。

おかげで勉強になった。大きな財産になった。自己満足だけど。

比較文化が某大学はウリであった。だから入学したのである。かなり有名な学者につくことができた。退学になったからもう実名をあげさせていただいても良いだろう。三木紀人教授(お茶の水女子大学名誉教授)であった。中世文学では日本を代表するような泰斗である。著書もかなりある。そして、それから3年間先生に教えていただいた。一対一の時もあったし、クラスメイトと言っても非常に少人数で教えていただいた。憧れの先生であった。

で、歴史の会でもって、さらに磨きをかけていただいた。学芸員の先生方とか、それこそ専門の先生方がたくさんおられた。古文書も相当なレベルにある。

わからないことだらけであった。否、今でもそうだ。能力不足は否めない。

大学院での勉強と同時進行であった。

これが効いた。かなり効いた。クスリがである。

だから尾畠春夫氏ではないが、「世間への恩返し」である。これまでお世話になった方々への。

 

現在、火曜日と木曜日と金曜日に某私立高校で授業をさせていただいている。古典と言語理解である。さらに、木曜日と金曜日には学習塾。前期だけだが、木曜日は某大学で授業である。水曜日は千葉市にある通信制高校。あとは、不定期で交通安全講話をやらせていただいている。微妙に実施時期が異なっているから、可能なのである(^_^)。

と、書くとかなり多忙に見えるかもしれない。しかし、時間数にするとそんなに多くはないのである。

頼まれごとを淡々とやっているだけである。その結果倒れても我が人生に悔いなし。どうせ永遠に生きているわけにはいかないのだから。

 

わはははっははっはっはっははっはははっはははっははははっはは。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ 

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9月7日(金)のつぶやき

2018年09月08日 06時42分19秒 | とーま君の流儀2018
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頼まれごとをしていながら、ひたすら流されていくのだ。目の前にある仕事を淡々と淡々とこなしていく。

2018年09月07日 18時20分44秒 | 精神のありかた

ただ淡々とひたすら淡々と頼まれごとをこなしているだけである。楽しい。実に楽しい。

 

 

頼まれごとを引き受ければ、おもしろい展開が待っている。今まで考えてもみなかったような人生が待っているからである。これは実感である。それをである。不遜にも断ってばかりいると相手にされなくなってしまう。

頼んだ方が、相手にされないとわかってしまうと、ナンダあいつ!となってしまう。声をかけたくても、かけにくくなる。当然だろう。

だからと言って言われたことを全部引き受けることもない。経済的に無理ならば断ってもいい。あるいは借金の申し込みは断るべきである。友人関係が破綻するからである。

これがボキの生き方の基本なのだ。

頼まれごとをしていながら、ひたすら流されていくのだ。目の前にある仕事を淡々と淡々とこなしていく。それでもって他人に感謝されたりしたら、こんな喜びはない。ありがたいものである。

今週はそういう頼まれごとを通して、実に充実した一週間を過ごしていた。第五番目のアルバイトである。千葉市まで出かけなくてはならないのがちょっとしょうもないが、これまた時間がたっぷりある。電車の中で過ごすことができるからである。往復3時間。中国語の勉強もしていた。帰りは寝てしまったけど(^_^)。

第五のアルバイトでよく話をする御仁もできた。専門が一緒だから、話に花が咲く。親切な御仁である。いろいろと教えてくださる。これが良いのである。

こっちが腰を低くして、教えを乞うとたいていの方は指導してくださる。事実、なんにもわからないから教えてくださいと願っているからである。こっちがである。

世の中は、そういう関係性でてきているのだ。

わからなければ聞けば良し。

メモでもとっていれば一大データベースになってしまう。だから、ありがたいのである。

それをである。

さも大物であるかのように振る舞い、威張っていたらアカン。所詮たいしたもんではないのである。ボキが特にそうだが、ボキは一介の庶民である。ゼニもなければ、カミの毛もないではないか。

わははははっはははははっはははっははははっはは。

強欲に生きていたらアカンでっせ。

世の中の全部のゼニを集めることなんかできないのだから。

たとえ集まったとしても、あの世まで持っていくことはできないではないか。

執着しないことである。

さわやかに生きていくことである。あのスーパーボランティアの尾畠春夫氏のようにさわやかに生きていくことである。尾畠氏だって、頼まれごとをしているだけであって、なんの執着もないではないか。

見習いたいことの筆頭である。

 

今日はこれから本日二つ目のアルバイトである塾に行く。

これまた楽しいものである。

タダひたすら流されているだけだから。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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9月6日(木)のつぶやき

2018年09月07日 06時46分10秒 | とーま君の流儀2018
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/