それなりに期待して読み始めた、百田尚樹『影法師』は、電車の中だったのに途中で眠くならなかったどころか、息があらくなったり泣きそうになったりで、高校生のチューなど全く気にならないほど、読み出したらやめられない作品だった。
「自我」とか「自己同一性」という概念は、近代になって生まれたものです。
「おれは他の誰でもないおれだ、という意識」のことです。
じゃあ前近代に生きる人はそういう考えをもっていなかったのか、と思うかもしれないが、そうです。
もってなかったのです、もつ必要がなかったから。
「自分はだれなんだろ」と悩む必要はなかったのです。
たとえば江戸時代に生まれた若者は、将来何になろう? などと悩む必要はなかったんだよ。武士の子は武士、農民は農民。
寺子屋でやる気のないそぶりをしてた時に先生から、「おまえ、やる気あんのか! 自分の夢はなんだ。将来何になりたいんだ、それを見つけないからだめなんだ!」と叱られることはない。
好きな人を見つけたいと願う必要もなかった。素敵な出会いが必ずあるとも思わなかった。
結婚なんて自分の意志で決められるものではなかったから。
まして自分の人生は素晴らしいとか、無限の可能性があるなんて思うこともなかった。
楽だよね、考えてみると。
今さかんに「夢にむかってがんばれ」とか「頑張ればすばらしい人生が誰にも訪れる」なって言葉がとびかっている。
でも、それが本当のところはウソであることも多くの人がうすうす気づいている。
勿論デーハーな人生をすごせる人もいる。
有名になったり、お金持ちになったりする人もいる。
でも、それはあくまでも一握りの人であり、みんながみんな華やかな人生を送るなんてことはない。
ていうか、それでは娑婆は成り立たない。
そういう意味で、人は平等でないことは、みんなわかっているのだ。
それでも、他のだれでもない自分でありたい、自分独自の人生を過ごしたいなんて我々は思ってしまうから人は悩む、その悩む近代人を描写するために小説というシステムが必要になってくるのです。
なんて話を、小説を扱うときには必ずする。
先日も「山月記」の主人公は、自分という存在について悩んでるから、近代小説の主人公たり得るのだ、と話をしたばかりだ。
では、前近代から近代にかけて自我の存在がゼロから100になったのかというと、もちろんそんなことはない。
それは明治以降に産業が一気に近代化できたのは、江戸時代にマニュファクチュアまでしっかり準備ができていたからであるのと同じだ。
鎖国に疑問をもち、幕藩体制に疑問をもつ若者たちが飽和状態に達してきたからこそ、「このままではいかんぜよ」ということになったのだ。
しかし、人々の暮らしは前近代的な制度のうえに成り立っている。
身分制度は厳然としてある。
もしも、そういうものに疑問をもってしまった場合、現代に生きる我々とは比べもののにならないくらい、その不条理さにうちひしがれるはずだ。
そうか、時代小説というのは、主人公に科すことのできる苦難が、きわめてわかりやすく設定できるものなのだ。
百田さんに時代小説に書きたいと思わしめたのは、そういうものかもしれないと、勝手に想像する。
百田さんは、時代小説という枠組みを用いて、人間の情を描きたかったのではないか。
ていうか、とにかく面白い小説、人の心を打つ作品を描こうとしたとき、たまたまそこに時代小説という一つの手段があったのではないかな。
「自我」とか「自己同一性」という概念は、近代になって生まれたものです。
「おれは他の誰でもないおれだ、という意識」のことです。
じゃあ前近代に生きる人はそういう考えをもっていなかったのか、と思うかもしれないが、そうです。
もってなかったのです、もつ必要がなかったから。
「自分はだれなんだろ」と悩む必要はなかったのです。
たとえば江戸時代に生まれた若者は、将来何になろう? などと悩む必要はなかったんだよ。武士の子は武士、農民は農民。
寺子屋でやる気のないそぶりをしてた時に先生から、「おまえ、やる気あんのか! 自分の夢はなんだ。将来何になりたいんだ、それを見つけないからだめなんだ!」と叱られることはない。
好きな人を見つけたいと願う必要もなかった。素敵な出会いが必ずあるとも思わなかった。
結婚なんて自分の意志で決められるものではなかったから。
まして自分の人生は素晴らしいとか、無限の可能性があるなんて思うこともなかった。
楽だよね、考えてみると。
今さかんに「夢にむかってがんばれ」とか「頑張ればすばらしい人生が誰にも訪れる」なって言葉がとびかっている。
でも、それが本当のところはウソであることも多くの人がうすうす気づいている。
勿論デーハーな人生をすごせる人もいる。
有名になったり、お金持ちになったりする人もいる。
でも、それはあくまでも一握りの人であり、みんながみんな華やかな人生を送るなんてことはない。
ていうか、それでは娑婆は成り立たない。
そういう意味で、人は平等でないことは、みんなわかっているのだ。
それでも、他のだれでもない自分でありたい、自分独自の人生を過ごしたいなんて我々は思ってしまうから人は悩む、その悩む近代人を描写するために小説というシステムが必要になってくるのです。
なんて話を、小説を扱うときには必ずする。
先日も「山月記」の主人公は、自分という存在について悩んでるから、近代小説の主人公たり得るのだ、と話をしたばかりだ。
では、前近代から近代にかけて自我の存在がゼロから100になったのかというと、もちろんそんなことはない。
それは明治以降に産業が一気に近代化できたのは、江戸時代にマニュファクチュアまでしっかり準備ができていたからであるのと同じだ。
鎖国に疑問をもち、幕藩体制に疑問をもつ若者たちが飽和状態に達してきたからこそ、「このままではいかんぜよ」ということになったのだ。
しかし、人々の暮らしは前近代的な制度のうえに成り立っている。
身分制度は厳然としてある。
もしも、そういうものに疑問をもってしまった場合、現代に生きる我々とは比べもののにならないくらい、その不条理さにうちひしがれるはずだ。
そうか、時代小説というのは、主人公に科すことのできる苦難が、きわめてわかりやすく設定できるものなのだ。
百田さんに時代小説に書きたいと思わしめたのは、そういうものかもしれないと、勝手に想像する。
百田さんは、時代小説という枠組みを用いて、人間の情を描きたかったのではないか。
ていうか、とにかく面白い小説、人の心を打つ作品を描こうとしたとき、たまたまそこに時代小説という一つの手段があったのではないかな。