冒頭の場面。
雨上がりの夕暮れ時、釣りから帰る勘一(主人公)、妹、父の三人が武士とすれ違う。
その着物の色から、上士であることがわかる。
勘一の父は下士であり、上士とすれ違う時は道の端に跪かなければならない。
妹はこの日、母に作ってもらった晴れ着を身につけていた。
父は土下座し、勘一もそれにならった。晴れ着が汚れることをためらった妹を見て、父は手ぬぐいを敷く。 武士にそれをとがめられ、敷物をとると、その武士はわざと泥水をはねあげて、その晴れ着を汚したのだった。
勘一は「それでも侍か、恥を知れ」と叫んでしまう。
逆上して勘一を斬ろうとする武士に父は刀を抜く。
上士の腕を斬り落としたものの、ぬかるみに足をとられたところを、その上士の中間(奉公人)の槍に衝かれて命を落とすこととなった。
父の遺体の前で泣き崩れる勘一に、「まことの武士なら、泣くな!」といさめるのが、彦四郎であった。
この調子で紹介していくより、読んでいただいた方がはやいですね。
講談社のサイトではこう紹介されています。
~ 生涯の契りを誓った二人の少年。一人は異例の出世を果たし、一人は貧困のなかで朽ち果てた。
光があるから影ができるのか。影があるから光が生まれるのか。ここに、時代小説でなければ、書けない男たちがいる。
父の遺骸を前にして泣く自分に「武士の子なら泣くなっ」と怒鳴った幼い少年の姿。
作法も知らぬまま、ただ刀を合わせて刎頚の契りを交わした十四の秋。それから――竹馬の友・磯貝彦四郎の不遇の死を知った国家老・名倉彰蔵(注:成人後改名した)は、その死の真相を追う。
おまえに何が起きた。おまえは何をした。おれに何ができたのか。 ~
幼き日の事件で出会った彦三郎と勘一が、六年後、道場で再会する。
お互い切磋琢磨していくなかで友情をふかめ、刎頸の契りを結ぶ。
漢文で勉強する「刎頸の契り」。お互いのために頸(くび)を刎ねられることも辞さないという固い誓いだ。
ある年、勘一は百姓一揆に遭遇する。多くの人が命を落とすのを見て、なんとか豊かな国をつくれないものかと青雲の志を抱きながら、一方で下士の身分には過ぎた思いだとわが身を顧みる。
「いや、おまえならいつかはやれる」と励ます彦四郎。
彼等をとりまく若者達の悩みと成長。
美しい娘との出会い。
否が応でも藤沢周平「蝉しぐれ」を思い出させるが、次から次へといろんな場面が描かれ、小気味よく物語が展開していく様は、さすが『ボックス』『モンスター』の百田さんだ。
それにしても江戸の若者達に自我はない、なんて言ってしまってもうしわけなかった。
で、いろいろあって(なんちゅうまとめや)、名倉彰蔵の人生には、そのポイントポイントに彦四郎がいてくれたことがわかる。まさに刎頸の交わりであった。
しかし、最後まで読んで、やっとタイトルの「影法師」の意味がわかったおれは鈍すぎた。
人はここまで誰かのために生きることができるものだろうかと茫然とする。
友情と一言では片付けられないほどの思い。
それは生き方だ。
誰かのためにではなく、その生き方そのものが自分なのだから、ためらう必要はない。
何度も泣かせられるのは、そんな生き方へのあこがれがあるからかもしれない。
雨上がりの夕暮れ時、釣りから帰る勘一(主人公)、妹、父の三人が武士とすれ違う。
その着物の色から、上士であることがわかる。
勘一の父は下士であり、上士とすれ違う時は道の端に跪かなければならない。
妹はこの日、母に作ってもらった晴れ着を身につけていた。
父は土下座し、勘一もそれにならった。晴れ着が汚れることをためらった妹を見て、父は手ぬぐいを敷く。 武士にそれをとがめられ、敷物をとると、その武士はわざと泥水をはねあげて、その晴れ着を汚したのだった。
勘一は「それでも侍か、恥を知れ」と叫んでしまう。
逆上して勘一を斬ろうとする武士に父は刀を抜く。
上士の腕を斬り落としたものの、ぬかるみに足をとられたところを、その上士の中間(奉公人)の槍に衝かれて命を落とすこととなった。
父の遺体の前で泣き崩れる勘一に、「まことの武士なら、泣くな!」といさめるのが、彦四郎であった。
この調子で紹介していくより、読んでいただいた方がはやいですね。
講談社のサイトではこう紹介されています。
~ 生涯の契りを誓った二人の少年。一人は異例の出世を果たし、一人は貧困のなかで朽ち果てた。
光があるから影ができるのか。影があるから光が生まれるのか。ここに、時代小説でなければ、書けない男たちがいる。
父の遺骸を前にして泣く自分に「武士の子なら泣くなっ」と怒鳴った幼い少年の姿。
作法も知らぬまま、ただ刀を合わせて刎頚の契りを交わした十四の秋。それから――竹馬の友・磯貝彦四郎の不遇の死を知った国家老・名倉彰蔵(注:成人後改名した)は、その死の真相を追う。
おまえに何が起きた。おまえは何をした。おれに何ができたのか。 ~
幼き日の事件で出会った彦三郎と勘一が、六年後、道場で再会する。
お互い切磋琢磨していくなかで友情をふかめ、刎頸の契りを結ぶ。
漢文で勉強する「刎頸の契り」。お互いのために頸(くび)を刎ねられることも辞さないという固い誓いだ。
ある年、勘一は百姓一揆に遭遇する。多くの人が命を落とすのを見て、なんとか豊かな国をつくれないものかと青雲の志を抱きながら、一方で下士の身分には過ぎた思いだとわが身を顧みる。
「いや、おまえならいつかはやれる」と励ます彦四郎。
彼等をとりまく若者達の悩みと成長。
美しい娘との出会い。
否が応でも藤沢周平「蝉しぐれ」を思い出させるが、次から次へといろんな場面が描かれ、小気味よく物語が展開していく様は、さすが『ボックス』『モンスター』の百田さんだ。
それにしても江戸の若者達に自我はない、なんて言ってしまってもうしわけなかった。
で、いろいろあって(なんちゅうまとめや)、名倉彰蔵の人生には、そのポイントポイントに彦四郎がいてくれたことがわかる。まさに刎頸の交わりであった。
しかし、最後まで読んで、やっとタイトルの「影法師」の意味がわかったおれは鈍すぎた。
人はここまで誰かのために生きることができるものだろうかと茫然とする。
友情と一言では片付けられないほどの思い。
それは生き方だ。
誰かのためにではなく、その生き方そのものが自分なのだから、ためらう必要はない。
何度も泣かせられるのは、そんな生き方へのあこがれがあるからかもしれない。