2年生の河合模試。
朝国語の問題がまわってきたので、ぱらぱら見てみる。
古文の文学史で「発心集」の作者が書いた作品として「方丈記」を選ばせる問題があった。
おお、今週授業で教えたばっかじゃないか。
みんなできてるかなと思ったが、そうでもないか … 。
漢文で「適」の読みがでている。
なんだっけ? 「まさに?」ちがうな、つながらない。
「たまたま」かな? 解答集で確認できたが、この読み方は一度も教えてない。
今後教える予定の単語一覧を確認しても載せてなかった。
いいや、こんなの知らなくても。
漢検準1級(ぐらいのレベルかな)に受かることや、平成教育委員会でガッツポーズすることが目標じゃないから、気にしない。
漢文を読む際に、つまり古代中国語を日本語として読むという知的作業を行う際に、知っておいた方が効率のいい単語は、丸暗記でいいから脳にぶち込むべきだ。
そして、それを知っているかどうかは、テストで調べるべきだ。
日本語から、または文脈からの類推で訓読する能力を調べるのもテストとしては必要。
このどちらでもないマニアックな読みは、読み仮名を付けてあげるべきで、そんなところにストレスをかけるべきでない。
よけいなストレスは除いたうえで、読解力を調べればいいのに、と思う。
このへんに問題作りのセンスがうかがえる。
もちろん、大学入試にも、無意味にマニアックな問題はあるから、そういうものへの耐性をつくる意味はあるかもしれないが。
模試の監督中は、実はもっとも頭がはたらく。
なので、次の教材のプリントとか、課題曲のスコアとかをもって教室に向かったのだが、前日の夜更かしと、あまりにも心地よい気温のせいで、ずっとぼおっとしたままだった。
もったいない。
一日がけっこう無為に過ぎていった感があり、夜更かしはやめようと、生まれてから6万回目の決意をする。
放課後気を取り直して、ClとHrのパートを見る。
やればできんじゃん。合奏でやってくれよとと思いつつ、やっぱパートはしつこく見ることにしないといけないなと、6回目ぐらいの決意をする。
朝国語の問題がまわってきたので、ぱらぱら見てみる。
古文の文学史で「発心集」の作者が書いた作品として「方丈記」を選ばせる問題があった。
おお、今週授業で教えたばっかじゃないか。
みんなできてるかなと思ったが、そうでもないか … 。
漢文で「適」の読みがでている。
なんだっけ? 「まさに?」ちがうな、つながらない。
「たまたま」かな? 解答集で確認できたが、この読み方は一度も教えてない。
今後教える予定の単語一覧を確認しても載せてなかった。
いいや、こんなの知らなくても。
漢検準1級(ぐらいのレベルかな)に受かることや、平成教育委員会でガッツポーズすることが目標じゃないから、気にしない。
漢文を読む際に、つまり古代中国語を日本語として読むという知的作業を行う際に、知っておいた方が効率のいい単語は、丸暗記でいいから脳にぶち込むべきだ。
そして、それを知っているかどうかは、テストで調べるべきだ。
日本語から、または文脈からの類推で訓読する能力を調べるのもテストとしては必要。
このどちらでもないマニアックな読みは、読み仮名を付けてあげるべきで、そんなところにストレスをかけるべきでない。
よけいなストレスは除いたうえで、読解力を調べればいいのに、と思う。
このへんに問題作りのセンスがうかがえる。
もちろん、大学入試にも、無意味にマニアックな問題はあるから、そういうものへの耐性をつくる意味はあるかもしれないが。
模試の監督中は、実はもっとも頭がはたらく。
なので、次の教材のプリントとか、課題曲のスコアとかをもって教室に向かったのだが、前日の夜更かしと、あまりにも心地よい気温のせいで、ずっとぼおっとしたままだった。
もったいない。
一日がけっこう無為に過ぎていった感があり、夜更かしはやめようと、生まれてから6万回目の決意をする。
放課後気を取り直して、ClとHrのパートを見る。
やればできんじゃん。合奏でやってくれよとと思いつつ、やっぱパートはしつこく見ることにしないといけないなと、6回目ぐらいの決意をする。