水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

告白

2010年06月23日 | 演奏会・映画など
 冒頭、ある中学校の一教室。担任の教師が話しているが、てんでに好きなことをしている中学生たち。友人と悪ふざけをする生徒、自分の世界に入っている生徒、携帯でメールを送っている生徒、ただおしゃべりする生徒。もちろん担任の話をただ聞いている生徒もいる。先生の話をほとんどが聞いていないようで、それなりに意識はしていて、たとえば先生が自分たちに不利益になりそうなことを言ったりすれば、いっせいに反発の声はあがるはずだ。そんな雰囲気のなかで、生徒が聞いていようがいまいが関係なく、いや騒がしいながらある程度は聞いているであろうことは意識しながら、自分のペースで話し続ける教師。
 教室の生徒達の様子の描き方があまりにバランスがよくて、リアルすぎる。
 そんな生徒たちに対し、一見無力に見てもしまう教師の姿もふくめ、リアルすぎて中学校の先生は見るのがつらいかも … と思ってしまうくらい力のあるシーンだった。
 たんたんと話し続ける松たか子の目に宿る狂気の光。
 何年か前にお芝居で彼女を観たことがある。
 ただのかわいいお嬢さん風で、気がつくと「この娘、ちょっとやばいよね」と思わせる境界線の演技が絶妙で感嘆した記憶がある。なんの芝居だっけ。新潟の「りゅうとぴあ」で観たのだが。

 今週の「週刊現代」に、井筒監督の「告白」評が載っていた。こんなふうに書いてある。

 ~ 冒頭から、松たか子のおネエ様が、あり得ないような中学校の作りモノの教室であり得ないような担任教師の語り方で、多分、原作の小説にしかあり得ないような「告白」をあり得ないほどスラスラ云い始めた。~

 ええっ? むちゃくちゃあり得るのに。ていうか知らないのかな、いまの学校の様子を。
 また、松たか子の告白がえんえんと続くことに対して、「一回もかまないのはおかしい」という。
「映画リアリズムなどお構いなし」と批判する。
 井筒監督の言うリアリズムって何だろ?
 そんなこと言ったら、松たか子みたいなビジュアルの先生がいること自体、問題あることになってしまう … は、失言かな。
 井筒監督の言うリアリズムに従ったら、映画はみんなノンフィクションにならないといけなくなる。

~ この松たか子の教師はあり得ない。ちっとも狂ってらっしゃいませんでした。たか子嬢はお育ちも良いし性悪役は土台無理。~

 レッテルで人を見ると、何も見えなくなってしまう典型的な例だ。

~ CM上がりの監督って何でこんな薄っぺらいカットしか撮れないのか? ~

 こういう差別的な … 、とか書こうと思ったけど、ひょっとすると、井筒監督は今みんなから相手にしてもらってないのかもしれない。
 そう思うと、ちょっとかわいそうになってきた。
 今回の試験範囲の中にこんな文章がある。

 ~ 現実的な観察と個性的な描写という近代芸術の手法は、私たちを不安にさせる。それは対象と私たちとのあいだに長いあいだに出来あがっていた型――それが心に平和をもたらすのだが――を対象から引き剥いで、それを全く新しいイメージとして改めて突きつけてくるからである。(中村真一郎)~

 「現実的な観察と個性的な描写」って、芸術の本質を実に簡潔に言い表した言葉ではないだろうか。
 「ヒーローショー」に欠けていて、「告白」にあるものが見えてくる。
 いまの中学生とそれをとりまく大人たちの姿の観察。
 映画だからこそできる方法で原作を構成し直す技法。
 「孤高のメス」のように命を大切にすることで命の大切さを表現する正攻法ではなく、命を失わせることで、その重さを表してみたこと。
 さすが「嫌われ松子」の中島監督だと感心する作品だ。
コメント (1)
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