昭和11年。舞台は北陸のある農村。凜(蒼井憂)は父の決めた縁談に納得できず、婚礼の当日家を飛び出してしまう。
田圃の中を走る凜。その背景の田園風景は、なぜかせつないほどの懐かしさを覚える古き日本の風景といったおもむきだ。
ちなみに、映画の途中で「西花堂」という架空の駅名が現れる。
その田舎具合と、雪の情景から、福井の「花堂」「越前花堂」らへんを想定しているのだろうなとわかったが、後で調べたらそのとおりだった。
冒頭、ピアノのコンサートで譜めくり役の鈴木京香が登場するのは、所沢ミューズ。
微妙にゆかりのある作品だ。
Flの先生にそんな話をしたら、竹内結子さんのシーンは、うちの近くで撮ってたんですよ、と調布在住の先生がおっしゃっていた。
凜は、三人の娘に恵まれる。
凜の娘、田中麗奈、仲間由紀恵、竹内結子を描くのは、昭和30年~40年代のお話。
このパーツも、当時の風俗がうまく伝わり、自分が幼いころ吸っていた空気が思い出された。
当時の車って、こんなボロかったかなと思ったりするのだが、父が免許をとってはじめて購入した車の三角窓を思い出したら、まさしくあんなだった。
画面に映ってない部分までちゃんと高度成長期にしようとしてる感が伝わってくる。
出版社に勤務する田中麗奈は、男女が差別されるのはおかしい、性別に関係なく自分はいい仕事をしたいと願いながら働いている。
でもある時、つきあっている彼氏(次長課長の河本)からは、「結婚してほしい、幸せにしたい、家庭に入ってほしいと言われ」、キレてしまうのだ。なんで私が「結婚したら女は家に入るべき」という価値観の人と結婚しなくちゃならないの と。
「でも好きなんでしょ、その人」と姉の竹内結子に言われて泣き出すところの麗奈ちゃん、かわいかったなあ、ほんとに。
平成22年。鈴木京香、広末涼子。仲間由紀恵の娘、つまり凜の孫にあたる。
広末涼子の、無邪気なほどの明るさ。ほんとは内面にはいろんな思いもあるのだろうけど、そんなのをぜんぶ呑み込んで笑顔に変えておきました! 的な笑顔を見せさせたら、いくつになってもこの人の右に出る人はいない。いまだに、彼女に対してMajiでKoiする5秒前状態のおやじはたくさんいると思う。
自分の身代わりに死んだ母の分まで生きようとしている彼女は、姉に「けいちゃんはいつも楽しそうね」と言われて「あたし、生きてるだけで楽しい」という。
楽しまなきゃ母に悪いという思いがあるのだ。
二人の母のヤンクミは、次女を産むとき、こんどは母体が危険な状態だ、あきらめた方がいいのではないかと医者に言われ、夫(いのっち)にも言われが、そんなことできないと譲らない。
結果、広末涼子をこの世に送り出すために、自らの命を譲り渡することになった。
結婚とは何か、夫婦とは何か、などというたいそうな問題を、この映画で述べる必要はまったくない。
太古から現在にいたるまで、人は命をつないできた。それでいいのだ。
ミミズもオケラもアメンボも同じだ。
たまたま人間は大脳をむだに発達させてしまった関係上、やたらいろんな意味づけを必要とすることになってしまっただけだ。
自分が何者であるのかは、文脈が規定する。
最近の現代文でくりかえし勉強している。
自分がどんな存在なのか、何者なのか、それはいくら自分を見つめていてもわからない。
夢や目標を達成してみたところで、それがほんとに自分というものなのか確信はもてないのではないか。
まして、ピアニストへの道をあきらめ、年下の彼氏とは別れ、妊娠していることに気づいた鈴木京香が、これからどうしようかと悩んでしまうのは当然だ。
そんな彼女も、出産を決意し、母の娘であることを感じ、自分がまたその命をつないでいく存在でいくことを実感したとき、自分の存在そのものを愛しく思えるようになる。
この心情の変化をそれとなく表現する顔つきがまた絶妙だった。
映画は、最後に再び白黒の場面にもどる。
家を飛び出した蒼井優が、神社にお参りにきた親子を見て、幼いころの自分を思い出す。
「やっぱりこここでしたね」とかけつける凜の母(真野響子)。
自分は母の娘であることを悟った凜が悟った瞬間、全てはそこからはじまることが、最後に明らかになる。
6人の女性の命が繋がった瞬間。
見事な構成だ。
そういえば竹内結子に幸せ感が足りないのは亡くなった夫への思いに対する比重が重すぎるからだ。
そうか、男は女の人生のささえにはなれないのか。
たしかに男女の結びつきは、親子のそれにくらべたらホントにささいなものだから。
ちなみに井筒監督の作品て、カタルシスが得られない。ご本人の書かれた映画評論を読むとどんだけすごい監督さんかとも思うだけど、自らの作品についてはどうなのでしょう、「ゲロッパ」も「ヒーローショー」も何か稚拙なものに感じたのは、根本的にこういう構成感の不足が原因ではないだろうか。
婚礼の当日、はじめて自分の相手の顔を見るなんてのは、昔の日本では普通だった。
どんなお嫁さんがきてくれるのだろうと思い待ってて、よろしくおねがいしますといって顔をあげた新婦が蒼井優ちゃんだったら、どうすればいいの。歓喜のあまりフラ踊っちゃうかもしれない。
凜の父親は、封建主義のかたまりのように描かれ、自分の決めた結婚に不服そうにしていた凜を何度もしかりつけていた。
そんな父に、白無垢の凜が、三つ指をついて頭を下げる。
「長い間、お世話になりました」
父親は、娘を見ていられなくなり、涙をこらえて万歳三唱する。
いやあ、泣けますわ。
映画評論といえば、「人生とは人を愛し人に愛されて初めて豊かになれると教えてくれる」と福本次郎氏が書いてらした。ここまで読解力がなく映画評論をやっていけるのだという不思議な思いにあふれる。
そんなこと全然いってないですよ。
そんな功利的な「豊かさ」をこえたところに、われわれの人生はある。
だから生きていけるのです。幸せな作品だった。
田圃の中を走る凜。その背景の田園風景は、なぜかせつないほどの懐かしさを覚える古き日本の風景といったおもむきだ。
ちなみに、映画の途中で「西花堂」という架空の駅名が現れる。
その田舎具合と、雪の情景から、福井の「花堂」「越前花堂」らへんを想定しているのだろうなとわかったが、後で調べたらそのとおりだった。
冒頭、ピアノのコンサートで譜めくり役の鈴木京香が登場するのは、所沢ミューズ。
微妙にゆかりのある作品だ。
Flの先生にそんな話をしたら、竹内結子さんのシーンは、うちの近くで撮ってたんですよ、と調布在住の先生がおっしゃっていた。
凜は、三人の娘に恵まれる。
凜の娘、田中麗奈、仲間由紀恵、竹内結子を描くのは、昭和30年~40年代のお話。
このパーツも、当時の風俗がうまく伝わり、自分が幼いころ吸っていた空気が思い出された。
当時の車って、こんなボロかったかなと思ったりするのだが、父が免許をとってはじめて購入した車の三角窓を思い出したら、まさしくあんなだった。
画面に映ってない部分までちゃんと高度成長期にしようとしてる感が伝わってくる。
出版社に勤務する田中麗奈は、男女が差別されるのはおかしい、性別に関係なく自分はいい仕事をしたいと願いながら働いている。
でもある時、つきあっている彼氏(次長課長の河本)からは、「結婚してほしい、幸せにしたい、家庭に入ってほしいと言われ」、キレてしまうのだ。なんで私が「結婚したら女は家に入るべき」という価値観の人と結婚しなくちゃならないの と。
「でも好きなんでしょ、その人」と姉の竹内結子に言われて泣き出すところの麗奈ちゃん、かわいかったなあ、ほんとに。
平成22年。鈴木京香、広末涼子。仲間由紀恵の娘、つまり凜の孫にあたる。
広末涼子の、無邪気なほどの明るさ。ほんとは内面にはいろんな思いもあるのだろうけど、そんなのをぜんぶ呑み込んで笑顔に変えておきました! 的な笑顔を見せさせたら、いくつになってもこの人の右に出る人はいない。いまだに、彼女に対してMajiでKoiする5秒前状態のおやじはたくさんいると思う。
自分の身代わりに死んだ母の分まで生きようとしている彼女は、姉に「けいちゃんはいつも楽しそうね」と言われて「あたし、生きてるだけで楽しい」という。
楽しまなきゃ母に悪いという思いがあるのだ。
二人の母のヤンクミは、次女を産むとき、こんどは母体が危険な状態だ、あきらめた方がいいのではないかと医者に言われ、夫(いのっち)にも言われが、そんなことできないと譲らない。
結果、広末涼子をこの世に送り出すために、自らの命を譲り渡することになった。
結婚とは何か、夫婦とは何か、などというたいそうな問題を、この映画で述べる必要はまったくない。
太古から現在にいたるまで、人は命をつないできた。それでいいのだ。
ミミズもオケラもアメンボも同じだ。
たまたま人間は大脳をむだに発達させてしまった関係上、やたらいろんな意味づけを必要とすることになってしまっただけだ。
自分が何者であるのかは、文脈が規定する。
最近の現代文でくりかえし勉強している。
自分がどんな存在なのか、何者なのか、それはいくら自分を見つめていてもわからない。
夢や目標を達成してみたところで、それがほんとに自分というものなのか確信はもてないのではないか。
まして、ピアニストへの道をあきらめ、年下の彼氏とは別れ、妊娠していることに気づいた鈴木京香が、これからどうしようかと悩んでしまうのは当然だ。
そんな彼女も、出産を決意し、母の娘であることを感じ、自分がまたその命をつないでいく存在でいくことを実感したとき、自分の存在そのものを愛しく思えるようになる。
この心情の変化をそれとなく表現する顔つきがまた絶妙だった。
映画は、最後に再び白黒の場面にもどる。
家を飛び出した蒼井優が、神社にお参りにきた親子を見て、幼いころの自分を思い出す。
「やっぱりこここでしたね」とかけつける凜の母(真野響子)。
自分は母の娘であることを悟った凜が悟った瞬間、全てはそこからはじまることが、最後に明らかになる。
6人の女性の命が繋がった瞬間。
見事な構成だ。
そういえば竹内結子に幸せ感が足りないのは亡くなった夫への思いに対する比重が重すぎるからだ。
そうか、男は女の人生のささえにはなれないのか。
たしかに男女の結びつきは、親子のそれにくらべたらホントにささいなものだから。
ちなみに井筒監督の作品て、カタルシスが得られない。ご本人の書かれた映画評論を読むとどんだけすごい監督さんかとも思うだけど、自らの作品についてはどうなのでしょう、「ゲロッパ」も「ヒーローショー」も何か稚拙なものに感じたのは、根本的にこういう構成感の不足が原因ではないだろうか。
婚礼の当日、はじめて自分の相手の顔を見るなんてのは、昔の日本では普通だった。
どんなお嫁さんがきてくれるのだろうと思い待ってて、よろしくおねがいしますといって顔をあげた新婦が蒼井優ちゃんだったら、どうすればいいの。歓喜のあまりフラ踊っちゃうかもしれない。
凜の父親は、封建主義のかたまりのように描かれ、自分の決めた結婚に不服そうにしていた凜を何度もしかりつけていた。
そんな父に、白無垢の凜が、三つ指をついて頭を下げる。
「長い間、お世話になりました」
父親は、娘を見ていられなくなり、涙をこらえて万歳三唱する。
いやあ、泣けますわ。
映画評論といえば、「人生とは人を愛し人に愛されて初めて豊かになれると教えてくれる」と福本次郎氏が書いてらした。ここまで読解力がなく映画評論をやっていけるのだという不思議な思いにあふれる。
そんなこと全然いってないですよ。
そんな功利的な「豊かさ」をこえたところに、われわれの人生はある。
だから生きていけるのです。幸せな作品だった。