水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

幼児化

2010年06月24日 | 日々のあれこれ
 内田樹先生のブログ「幼児化する男たち」が面白かった。

~ 日本の男性は急速に幼児化している。
 これは動かしがたい事実である。
 男子を成熟に導く「通過儀礼」的な人類学的装置が根こそぎ失われたためである。
 30年ほど前までは左翼の政治運動というものがあり、これがいわば本邦における最後の大衆規模での「通過儀礼」であったかに思う。 ~

 30年前か。たしかに大学に入ったとき、すでに左翼の運動は終結していた。
 もちろん組織も残っていたし、積極的に関わろうとする友人もいたし、寮生活だったからオルグもされたが(もう死語ですね)、空気としては終わっていた。
 でも、ほんとうにあったのか? という疑問もある。
 内田先生は「大衆の」とおっしゃられるが、実際には「東京のごく一部の」ではなかったのだろうか、左翼の政治運動が「通過儀礼」と言えるほどの機能を有していたのは。

 橋爪大三郎先生は、「日本では受験が一つの通過儀礼である」とおっしゃられていたが、こちらの方が、納得できる。
 高校受験での選別は、その後の人生設計にかなり大きな影響を与えることに、多くの中学生は気づく。もちろん気づいていること自体に気づかない子も多いだろうが、意識には組み込まれるだろう。
 だから、受験を経ることで人生の不条理さも、自分のおかれた現実も意識せざるをえなくなる。大学受験では、それをさらに実感として受け入れることになる。
 でも、受験というしばりも、やはりゆるくなってきているだろう。
 人は通過儀礼を経験し大人になるという命題が真ならば、たしかに日本の男子は年々幼児化してるのだろうと思う。
 就職し、職場の価値観の前に自分の小ささを相対化できた者は、一歩大人に近づける。
 なので、働きはじめることは、受験を経ない子にとって通過儀礼になりえたかもしれない。
 でも、ちゃんと組織に属するという形の就職をする(できる)人の比率もさがってきている。

 ~ ところが現代では、うっかりすると「小学生時代の価値観」をキープしたまま中高年に達するものさえいる。
 日本の男子が血肉化してる「小学生時代の価値観」とは「競争において相対優位に立つことが人生の目的である」というものである。
 これまでも繰り返し説いてきたことだが、「同学齢集団のコンペティションでの相対優位」が意味をもつのは、「ルールがあり、レフェリーのいる、アリーナ」においてだけである。
 例外的に豊かで安全な社会においては、「競争に勝つ」ことが主要な関心事になることができる。
 しかし、人類史のほとんどの時期、人類は「それほど豊かでも安全でもない社会」を生き延びねばならなかった。
 そういった状況においては「競争において相対優位をかちとる能力」よりも、「生き残る能力」の方が優先する。
 「競争に勝つこと」よりも「生き残る」ことの方がたいせつだということを学び知るのが「成熟」の意味である。 ~

 「生き残る」力を身につけさせるのが、われわれの仕事だという言い方ができるかもしれない。
 じゃ、どうすればいいのか。
「安全でも豊かでもない社会」をもとめて、みんなで出かけていき、そこで鍛えることなのか。
 それが可能なら、ひとつの方法だろう。
 でも、現実的ではない。
 さしあたって、学校という安全な空間のなかで、思い切り「競争」することではないかと思うのだ。
 思い切り「戦って」、いさぎよく「散る」経験をしてもらうことが大事なのかなと考えるのだが。
 おれ自身は、けっこう負けてきたので、だいぶ大人っぽくなれた気がしている。
 
コメント
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