昨日のレッスンでおちこんでいた3年生のひとりが、今日の合奏でいい音を出していた。
つかんだのだろうか。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
自覚があるかどうかわからないが、いい音だった。
自分でこれかなと気づいたとき、それをくりかえせるように、自分のものにできるようにするのが練習というものなのだろう。
午前中、指揮法のレッスンの際に、ちょっとつかんだと思える瞬間があった。
「pのとき小さくする」という開眼だ。
何をそれ? と思われた方もいるであろう。
そんなのレッスン受けなくてもみんな知っいるでしょ、というように。
そうなのである。でもなぜか腑に落ちた瞬間があった。
その昔、出口汪先生の『入試評論文超読解法』を読んでて、「現代文とは現代を論じた文章である」という一行に、目からうろこが28枚落ちたときの感覚に似ていた。
その一瞬のつかみがあっただけで、はるばる幸手高校にでかけたかいがあった。
つかむときというのは、一瞬だ。
練習してて、なんかうまくいかないなあというもどかしい思いがあって、それでレッスンの先生にみてもらったとき、「これか!」というのがあると、そのあと変われる。
昨日おちこんで相談にきた3年生も、その落ち込みがあるなら、きっとつかめる。
レッスンというのは30分何千円とかの単位でとりあえずおこなわれるけれど、つかむのは一瞬だから、60分5000円も、3分5万円も、じつはそんなにちがわないのだ。
つかんだのだろうか。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
自覚があるかどうかわからないが、いい音だった。
自分でこれかなと気づいたとき、それをくりかえせるように、自分のものにできるようにするのが練習というものなのだろう。
午前中、指揮法のレッスンの際に、ちょっとつかんだと思える瞬間があった。
「pのとき小さくする」という開眼だ。
何をそれ? と思われた方もいるであろう。
そんなのレッスン受けなくてもみんな知っいるでしょ、というように。
そうなのである。でもなぜか腑に落ちた瞬間があった。
その昔、出口汪先生の『入試評論文超読解法』を読んでて、「現代文とは現代を論じた文章である」という一行に、目からうろこが28枚落ちたときの感覚に似ていた。
その一瞬のつかみがあっただけで、はるばる幸手高校にでかけたかいがあった。
つかむときというのは、一瞬だ。
練習してて、なんかうまくいかないなあというもどかしい思いがあって、それでレッスンの先生にみてもらったとき、「これか!」というのがあると、そのあと変われる。
昨日おちこんで相談にきた3年生も、その落ち込みがあるなら、きっとつかめる。
レッスンというのは30分何千円とかの単位でとりあえずおこなわれるけれど、つかむのは一瞬だから、60分5000円も、3分5万円も、じつはそんなにちがわないのだ。