本物と偽物の差はどこにあるのだろう。
東京佼成ウインドオーケストラの演奏する「祈り」を聴きながら、そんなことを思う。
作曲は佐村河内守氏、つまり新垣隆氏によるもので、ふつうにいい曲なのだ(この「ふつう」は最近の若者の用法です)。
吹奏楽作品として、聴き映えがする。事件にならなければ、おそらく次のコンクールでいくつかの上手な学校さんがとりあげていたはずだ。埼玉県でもあの学校さんなら十分可能性あったろうななどと思う。
と同時に、疑念をもって耳を傾けるならば、パロディ感がただよっていると感じられるのもたしかだ。
ま、今だからそう言えるのだけれど。
人間の苦悩や罪を表現しているかのような前半部、一瞬光が見えたかと思うとまた遠ざかっていく展開、技術的に難しいパッセージをはさんで、希望へと導かれ、最後はわかりやすいメロディーで感動的にまとめる。
「吹奏楽って、こんな構成でできているから、それっぽくお願い」「合点承知!」という感覚でつくられているようにも聞こえる。
でも、最近人気の邦人の作品て、ぶっちゃけ全部同じと言えば同じだ。
ただし、新垣氏の「祈り」は、古くささは感じなかった。
かりにそれ風のを「つくってみた」作品であったにしても、新垣氏の才の非凡を感じるには十分だった。
何が本物で、何が偽物か。
本物と偽物という対比自体がおそらく違うのだろう。
じゃ本物の対義語は何? パロディ? ものまね?
ものまね性の全くない完全なオリジナルというものが、この世に存在するのだろうか。
神以外にそれがつくれるのか。
仮につくられたとしても、それを理解できる人はおそらくいない。
自分が知っている、理解できる範囲、次元で処理できて、かつちょっと違うものを見つけたときに、人はそれを独創性にあふれると評するだけだ。
自分と、自分を越えたものとの差が最もほどよい時に、すごい! と叫んでしまうのだろう。
その差の作り方が上手な方を、感動クリエーターともよべるし、詐欺師にもなる。
舞台に立って人に何らかの感動を与えうる存在とは、この2点を結ぶラインのどこかには立っている。
おそらく、きちっと線をひいて分けられるものではない。