水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

3月17日

2014年03月17日 | 学年だよりなど

  学年だより「仕事」

 「こんな勉強をやって何の意味があるのだ」「いまやっている勉強は将来の役に立たないのではないか」などと、いまだに言ってる(考えている)人がいるような気がする。
 言っている(考えている)本人もわかっているはずだ。
 けっして本当に勉強の意味を知りたくて叫んだのではなく、なかなか勉強できない自分を慰めるため(言い訳する)ために口にしただけであることを。
 とにかく、やりましょう。
 今与えられているくらいの課題がこなせないようでは、大人になってもいい仕事はできない。
 まして、自分のやりたいことなど、実現できるわけがない。


 ~ 仕事を仕事として成立させる二つの要素は「依頼」と「締め切り」です。依頼より次元が低いものに「宿題」と「試験」があります。いま次元が低い、と言ったのは、宿題や試験は新たなものを何も生産はせず、机上の採点対象でしかないからです。
 しかし、仕事の前段階として宿題や試験がある、という事実をここでしっかり確認しておきましょう。宿題には「締め切り」があり、試験は「一定範囲の課題をインプットして特定期日にアウトプットして評価を受ける」という、ほとんど「仕事」の一歩手前の内実をもっているのです。
 学生時代の試験を莫迦にしてはいけない理由も、ここにあります。試験突破力は、総じて仕事能力の基礎になるからです。
 ただし、高校までの教科がよく理解できている、というものはそのまま仕事能力の高さには直結しません。そこらへんにいる東大卒の困った君たちを見れば、そんなことは一目瞭然でしょう。
 現代社会は、「表現する力」と「約束を守りあう」によって成り立っています。 … 小論文は、一定の「約束」のもとで「表現する力」を磨く基礎になります。
 そして、さらにここが最も肝心なのですが、そのアウトプットを評価するのは、自分や親や教師ではなく、相手(大学側、採用側)であるという事実です。
 この一見あたりまえなことを、あたりまえなこととして心底理解させるのが、まさに教育の本義なのです。教育とは、自分という存在を歴史的かつ環境的に客観視する能力を身につける営み、と言えます。 (日垣隆「なぜ試験体験と表現力が肝要なのか」ガッキィファイター) ~


 試験では他人による評価が行われる。ときに、自分の評価と他人の評価が大きく異なることがある。たとえば、実技科目だと、そういうことがよりおこりやすいかもしれない。
 しかし現実には、自分が自分に下した評価が的確で、他人による評価がそれよりも的確ではないということはほとんどないと言っていい。それほど、人は自分にはアマい生き物なのだ。
 模試の結果や定期テストの結果は、これはもう、まぎれもなく現在の自分の姿だ。
 現実から目をそらしてはいけない。
 自分の現実をどのように捉えるか。
 自分で思い込んでいる「自分」ではなく、他人に見えている「自分」をどう捉えることができるのか。それができてはじめてスタート地点に立てると言える。

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