現役部員はオフだが、OBたちが練習にくるのでその送迎と、指揮のレッスン会場だったので電車で見える方の送迎をする。指揮を習うのも、OBたちに場所を貸すのも、すべて現役部員たちのためになることを考えればこそだ。あ、今日一番の仕事である、新人戦参加申し込みもできてよかった。
指揮レッスンで初めてお会いした新任の若い先生と少し話した。
どうやって練習していいかわからない、自分は合唱が専門なので、と。
それでも、顧問になったときに楽譜を読めるのだから、大昔の自分より何十倍もえらい。
少なくとも音楽大学で学んだなら、スコアに書いてある音符と実際になっている音とが楽器ごとに違うことなどは知っているにちがいない。おれなんか先日知ったくらいだから。
先生、練習にはずっとついてるんですか?
それは無理でしょ。会議とかもあるしね。
若いせいかもしれませんが、合奏だけみようとするとパート練習とかもちゃんと見てほしいと言われるんですよ。
練習の仕組みをつくるのが顧問の仕事なんだけど、それが難しいよね、ていうか経験ないとわかんないよね。
音楽の先生が、楽器の専門でなくても吹奏楽をもつのは良い方で、逆に吹奏楽しか知らない人が運動部の顧問になることもある。
その先生がちゃんと勉強するタイプの方ならいいが、「おれはわからないから好きにやれ」方式の方だと部員もかわいそうだ。
現実にそういう例は山ほどあり、一方で、やりすぎて(やらせすぎて)問題になる方もいる。
学校生活における部活動の比重がきわめて高いものであることは論を俟たないのに、研究者レベルでも、行政においても、組織的にその質をあげようという動きがまったくない(ようにしか見えない)のが、いまの教育の大きな問題の1つだ。
たとえばラーメン屋さんなら、おいしくなければ流行らない。
でも学校はつぶれもしないし、教員も不祥事で首になっても、技術不足ではならない。
えらそうなことを言えるほどの仕事はしてないが、もう少しだけでも市場原理がはたらくようなシステムが模索されてもいいのではないだろうか。
一人職員室で働いていると、古いOBが尋ねてくるた。名前をきくとかすかに記憶がうずくのだが、そんな顔だったっけ? とも思う。
頼まれて、その子の友人への結婚メッセージビデオに「おめでとう!」といれる。
別れたあとに記憶がもどってきて、「おまえFといつも一緒だったな」と言いに行こうと追いかけたけど、もう姿は見えなかった。
読んでないと思うけど、柴山君! 思い出したよ。
いちばん苦労したクラスのメンバーではないか(笑)。
当時の学級通信をひっぱりだしたら、彼の誕生日にこんな詩をおくっていた。
~ 存在 岡部明美
あなたが ただそばに「存在(いる)」だけで
心がやすらぐ人がいる
あなたが ただあなたで「存在(ある)」というだけで
誰かが癒やされている
あなたの「存在(ありかた)」そのものが
誰かに元気を与えている
自分の存在を証明するために
無理して頑張って生きていると
ふと忘れてしまうことがある
自分が「存在(いる)」というだけで
誰かの心をあたためていることや
誰かの生きる支えになっているということを
(岡部明美『もどっておいで私の元気!』善文社) ~