主人公のポーラは、フランスの片田舎に住む女子高生。家は酪農を営んでいる。
日本だとどの辺にあたるかな。パリに出るには決心がいるくらいの距離感だが、都会的文化から隔絶されているわけではない。群馬県のなんとか牧場ぐらいの感覚だろうか。
ポーラが普通のJKとちがう部分があるとするなら、両親と弟が聴覚障害者である点だ。
ひとり耳の聞こえるポーラは、家族と社会の橋渡し役を担っている。
たとえば、家でつくったバターやチーズを納品するときには、相手業者さんとの交渉を彼女が担当するという具合に。
冒頭、家族の朝食シーンが描かれる。
ごく普通の家族の食卓なのだが、フライパンをコンロに乗せる音や、食器をテーブルに置く音がやたら大きい。ふつう皿をガチャっと置かれると、「怒ってるの?」となるところだが、家族にはそんな雰囲気がない。これって、ひょっとして音が気にならない人なの? と思わせるのだ。
先日見た「レインツリーの国」は、あからさまに「耳が不自由だとこんなことがありますよ」的シーンが多かったが、こういうちょっとした描写で説明なく進んでいくのが、実にセンスがいい。
それは障害そのものの捉え方の違いと同じではないか。
両親は、陰部に何か腫れ物ができて医者にいき、娘に通訳させるのだが、夫婦の性生活のようすをあけすけに語ってしまったりするし、耳が聞こえないこと以外は、普通に明るくわがままな大人だ。
ポーラの弟にいたっては、障害を利用して女の子を口説き落としたりしてるし。
障害ゆえの苦悩、葛藤、それを乗り越えて涙させる … みたいな展開はないし、思いやりを持ちましょう的なお仕着せ感も、「障害がある人=心美しき人」というありがちな幻想もない。
「障害は不便だけど、不幸ではない」と言ったのは乙武さんだが、この人たちは「不便」とさえ感じてないのかもしれない。
両親の耳が聞こえないことは、ポーラにとっては自分の人生の大きな要素ではあるが、両親にとっては娘の人生に比べればたいした問題ではないのだ。
ポーラは学校で合唱の練習をするうち、音楽教師から歌の才能を見いだされる。
片田舎でうもれさせるにはもったいない、パリに出て専門の教育を受けるべきだと、その教師は勧める。
ポーラもそうしたかった。しかし自分がいなくなったら、家族の生活はどうなるのか。
それを思うと踏み出せない面と、しかし自分の中でもこのまま人生を終えたくないという思いがあった。
父も母も反対した。それは耳の役割がいなくことよりも、娘を都会に出すことへの心配だったのだ。
でも、親子はいつかは離れなければならない。
一般論としても、たとえば病気や老いで自分一人では生活できない状況になったとき、それを子どもになんとかしてもらおうと考えるのは、親としてまちがっている … 、ていうか親ならそうは考えないだろう。自分がどんなに弱っていてさえ、我が子が元気でいるかと心配するものだから。
聴覚障害を題材にしてはいるが、描かれているのは、どの家族にも必ず訪れる子どもの独立と、それを機に家族が成長していく姿だ。
とはいえ、パリに出ることを決心したポーラが、父親に歌を聴かせる(感じさせる)シーンや、家族をよんで聴かせる学校での発表は、涙を禁じ得なかった。
こういう作品を「佳い映画」と言うのだろうとしみじみ思う。
洋画はあまり見なかったけど、「あと1㎝の恋」「バードマン」「エール!」を今年のベスト3に認定したい。