学年だより「エルトゥールル号の奇蹟(5)」
「トルコがチャーター便を飛ばしてくれるそうだ!」
テヘランの日本大使館に連絡が入ったとき、野村大使たちは胸をなでおろした。
トルコ政府は、トルコ人と日本人を救うために、2機のDC10を飛ばすことを決めた。
ただ、イランにいるトルコ人と日本人の数を合計すると、2機で運ぶことはできない。
他の国々と同じように、トルコも自国民を優先するにちがいない、すると200人強の日本人のうち半数はやはり取り残されることになるのではないか … 。
しかし、心配しても事態は変わらない。大使館の職員たちは、テヘラン市内の日本人を手分けして空港へと運んだ。空港と市内をピストン輸送する間にも、市内へのミサイル攻撃は激しくなっていく。一刻の猶予もないと言っていい状況だ。
空港に集まった日本人達は、同じく空港に集まっているトルコ人の多さに驚いていた。本当に自分たちは乗せてもらえるのだろうか。
その人々の群れをかきわけて先頭に立ち、話をはじめたトルコ人がいる。
騒然とした人々が黙り始める。いったい何を語っているのだろう … 。
「われわれは、誇り高きオスマンの民だ。 … 今こそエルトゥールル号の恩をかえすべきではない のか。」ビルセルは続ける。
「最後の飛行機は、日本人のために突入してくる。しかし、テヘランに残留している日本人を救出 するという、ただそれだけのために突入するのではない。日本という国に対して、百年の恩返し をするために、オスマンの誇りにかけて突入するのだ。日本とトルコのこれまでの百年を胸に、 次の百年の礎を築くために突入するのだ。どうか、二機やってくるうちの一機を、ここにいる日 本人のために使わせてほしい」
「話はわかったが、じゃ残されたわれわれはどうなる … 」一人が声を発する。
「歩けばいいじゃないか!」ある若者が叫ぶ。
「そうだな、元気なものは歩けばいい。トラックもある。年寄りや怪我をしてる者、女、子どもを 乗せよう。おれたちは、陸地をゆけば間違いなくトルコに帰れるんだ」
「そうだ陸路を行こう!」「日本人を乗せてやれ!」
声をあげると、日本人が集まっている方に目をむけた。表情からとげとげしさがなくなっていた。「無事に日本に帰ってくれ!」誰もがそう言っているように見えた。
明治23年(1890年)10月5日、エルトゥールル号が遭難してから20日足らずのうちに、軍艦「比叡」「金剛」が品川を出港し、トルコ人生存者を乗せるため神戸に向かった。
オスマン帝国の首都イスタンブールに両艦が到着したのは、翌年1月2日である。
オスマンの国民は、傷ついた同胞をはるばる送り届けてくれた日本からの一行を熱狂で迎えた。
このとき「金剛」「比叡」には、民間人も乗り込んでいた。
義捐金を集める中心となった新聞記者の野田正太郎、実業家の山田寅次郎である。