水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

エルトゥールル号の奇蹟(6)

2015年12月18日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「エルトゥールル号の奇蹟(6)」

 到着後、二人はオスマン帝国皇帝のアブデュル・ハミト2世からトルコに留まることを求められた。陸軍学校で講師になってほしい、そして日本の近代化の様子を講義してほしいと請われたのだ。
 野田はその後2年間にわたり、現地の記事を日本に送りながら教鞭をとる。イスラム教に改宗し、日本人初のイスラム教徒となった人物である。
 その後を受け継いだ寅次郎を慕い、弟のようにつきまとっていた少年がいる。名はムスタファ・ケマル。後にトルコ共和国を建て、初代大統領となったムスタファ・ケマル・アタテュルクである。

 1986年(昭和61年)3月19日、午後3時過ぎ。待ちに待ったトルコ航空機が機体を輝かせて空港に降り立った。搭乗手続きを終えた日本人が駆け込むように乗り込む。爆撃に遭わないうちに早く飛び立ってほしい、誰もが願った。17時10分、トルコ航空機は離陸した。残り3時間20分。
 第一便が飛び立ったあと、陸路を目指すトルコ人達を、野村大使たちは見送っていた。ひとりひとりに声をかけ、肩をたたきありがとうと伝えた。そして深々と頭を下げた。全員がロビーからいなくなるまで、そのまま頭を下げ続けるつもりだった。
 だが、こらえららくなった。大使は、頭を下げたまま鳴咽した。
 涙がぼたぼたと床に落ちた。 大使館員たちもまたしゃがみ込むものもあり、顔を覆うものもあり、皆一様に鳴咽した。
 トルコ航空機は、雲をきって飛行していく。午後8時30分、機は国境の山を越えた。
 機長のオズミルクがマイクをとる。「ただいま、アララト山の上空を通過しました。日本人のみなさん、ようこそ、トルコへ!」機内は歓声に包まれ、多くの者が涙を流した。

 1999年(平成11年)8月17日。トルコ北西部に大地震が発生し、死者1万7千人を越える大惨事となった。日本政府はすぐに緊急援助を行った。仮設住宅を載せた海上自衛隊の輸送艦が横須賀基地からトルコに向かう。この時、輸送艦「おおすみ」の艦長は、居並ぶ乗組員にこう訓示している。


 ~ 「トルコ共和国は、イラン・イラク戦争のおり、危険もかえりみずに2機の航空機を派遣し、テヘランに在留していた邦人二百十五名を放出してくれた。日本は、いまこそ、トルコの恩に報いなければならない。トルコのひとびとの友情に、こたえなければならない。われわれは仮設住宅をトルコに届けるとともに、震災からの復輿を支援する。われわれがトルコに恩返しをすることによって、こののち百年、日本とトルコとは友愛によって結ばれてゆける。日本が苦しいときにはトルコが、トルコが苦しいときには日本が、どのような困難が待ち受けていても、先達が遺してくれた日本とトルコの絆を断ち切るようなことがあってはならない。さあ、すみやかに、トルコへ向けて出発しよう。トルコには、日本の支援を待ち焦がれているひとびとがいるのだ」 ~


 人と人とが紡いだ歴史が、新しい歴史と友情を築いていく。歴史は決して傑出したリーダーや偉大なヒーローがつくりあげるものではないのだ。
 紀伊大島の墓地公演には、今も大理石の弔魂碑が建っている。
 樫野の人々が世話をし、小学生たちが定期的に訪れる清掃活動を行っている。

 

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